なんとなくそんな気配がして、おシゲは足を止めた。首を回すようにして辺りを見渡せば、ちょうど不破 雷蔵(ふわ らいぞう)が塀をひょっこりと乗り越えてくるところだった。

「あ……」

 彼もすぐさまおシゲの姿を認め、気まずそうに眉を下げて笑った。いつもそうだ。こうしてやってくる時、彼はいつも申し訳なさそうな顔をする。毎度毎度のことなのだから、そろそろ慣れてもいいと思うのだけれど、おそらく彼の性分的にそんなことはできないのであろう。まあ、頼ってくる側の人間が偉そうにふんぞり返っていても、それはそれで不愉快な気持ちになるので、殊勝な分にはかまわないとも言える。


 雷蔵は塀の上に上半身を乗り出したまま、窺うような様子でこちらを見ている。おそるおそるというか、恐々としたようなそれに、おシゲは表情を変えぬままため息を零した。

「不破先輩」

 そのまますっと手を上げて、こっちにおいでと目で語りかける。これもいつものことだ。おシゲに手を差し出されなければ、彼は傍に寄ってくることすらできないのだ。だからいつも、その泣きそうに頼りない先輩を促してやるのは、おシゲの役目なのだった。

 彼はまるで叱られた子どものように唇を噛み、しかしながらとても身軽な動作で塀を飛び越えた。地面にスタリと着地する姿はやっぱり上級生だなと思うのに、今にも涙を零さんばかりに駆け寄ってくるその様は、どう贔屓目に見ても年上には見えなかった。しんべヱと大差ない。

 目の前でガクリと膝を折った雷蔵は、そのまま倒れ込むような勢いでおシゲに抱きついた。“抱き締めた”とは言えない。“抱きついた”のだ。“しがみついた”と言ってもいいかもしれない。彼がこうして膝から崩れるようになるのは、なにも力尽きたからというだけではない。背丈の小さいおシゲに抱きつくために、一番手っ取り早い方法を取ると、自然とこういうことになるのだ。それは、早く彼女から労いの手を差し伸べられたいという、雷蔵の無意識の性急さなのだった。

 小刻みに震える、自分より一回りも二回りも大きな体に抱かれて、おシゲは目を伏せた。垂れ下がった両腕を、ゆっくり雷蔵の背中に回す。片手は背中に。片手は、ふわふわとした癖っ毛に。そして呟く。

「不破先輩。ここは人目に付きすぎましゅ」


      ・


「触ってもいいかい?」

 はじめ、不破 雷蔵にそう問われた時、おシゲはなんと答えればいいかとっさにはわからなかった。「急に何を言い出すんだ」という困惑と、「なぜ自分にそんなことを」という疑問と、「あの不破先輩がそんなことを」という驚きからだった。とりあえずパチクリと一度瞬きをして、おシゲはとりあえず「はい」と答えた。まさか日中、学園の庭で卑猥な行為に及ぶわけもないと思ったし、雷蔵が相手なら悪いことはされないだろう、とも思っていた。それから、彼はとても真面目な顔をしていて、事実真面目な人なので、なんとなく無碍に断るのは忍びなかった。だから、おとなしく両手を後ろで組んで、おシゲは「どうぞ」と首を傾げて見せた。

 彼女の反応に雷蔵は少しばかり驚いたようだったが、「ありがとう」と力なく笑った後、その手を彼女に伸ばした。躊躇いがちに、頬に指が触れる。瞬間、ビクリと震えたのは、雷蔵の方だった。まるで、そこにおシゲの肌があるとは思っていなかったように。だが、それが消えると、途端に彼は安心しきったように相好を崩した。湯船に浸かった時のようなほっとした表情に、今度はおシゲの方が目を見張った。そのまま、引き寄せるように腕の中に抱え込まれる。男の人なのに、いやらしさや下心をまったく感じなかったから、おシゲはやはりその手を振り払わなかった。壊れ物に触るように、雷蔵の腕があんまりにも優しかったのも、理由の一つかもしれない。だが一番の理由は、耳の後ろに行ってしまった彼の口から、押し殺すような嗚咽が聞こえてきたからだと思う。

 そんなふうにすがりつかれては、おシゲには慰める道しか残っていなかった。わけを訊くのも失礼な気がして、口を閉ざした。これで彼が少しでも楽になるならいいか、という心持ちで、彼女はひたすらにその背中を撫で続けた。


       ・


 あの時と同じように、おシゲは雷蔵の背中を撫でさする。震えていて、あたたかくて、大きかった。「人目に付きすぎる」という忠告は、聞こえなかったのかはたまた無視されたのか、相変わらずおシゲは庭の真ん中で抱きすくめられていた。

 あれ以来、彼はこうして時々おシゲに会いに来る。──いや、会いに来る、というよりは、頼りに来る、という言い方の方がふさわしいかもしれない。彼はいつも何を話すでもなく、こうやっておシゲに触れるだけだ。それ以上を求めることもない。

 「ぷにぷにしていて気持ちいい」だとか「小さくてかわいい」という理由で、くのたまの子たちから抱き締められることはよくあるが、これはそういうのとは違ったものなのだろう。彼がおシゲにすがる時、あんまりにも何も言わないから、彼女はその理由を考えているくらいしか時間の潰し方を見つけられなかった。


 雷蔵は優しいのだ。優しくて、優柔不断で、我を張ったりしないから、たぶん疲れるのだと思う。疲れて、けれど疲れたことを周囲の人間には言えない。同級生には気を遣い(ましてや、彼に絶対的執着を見せる鉢屋 三郎がそんなことを聞けば、たちまち大騒ぎしてしまうだろうから)、下級生には良い先輩として振る舞い、上級生にはできた後輩として接し、教師にはしっかりとした優等生をして見せる。どこにも、彼の苦しみの捌(は)け口はないのだ。

 考えている以上に、不破 雷蔵という人は気難しいのかもしれない。いろんなことを悩むということは、他人が考えないくだらないことにまで気を回すということ。他人の分の痛みにまで反応して、自分を追い詰めてしまうということ。ましてや、それを人にさらけ出せないとなれば、そりゃあストレスも溜まるだろう。


 わからないのは、そんな彼の心の寄りどころとして、自分が選ばれたということだ。特別仲がいいというわけでもない、ただの後輩の自分に。

 あの時、「触ってもいいか」と雷蔵に訊かれた時、「嫌だ」と言っていれば、きっと今こんなことにはなっていない。だが、もしあの時、雷蔵の心が一番辛くて崩れそうになっていて、誰でもいいから助けてくれと願っていたのだとしたら、やはりおシゲの判断は間違っていなかったと言える。

 言ってしまえば、なつかれたということなのだろうか。雷蔵は、おシゲに頼ることに、言い方は悪いが味をしめた。おシゲに甘えることが心地よくて、一度味わったそれから抜け出せなくなってしまったのだ。おシゲも嫌だとは言わないし、また、無理に理由を聞き出したりはしない。何も言わずにただ受け止めてもらえるというのは、弱っている人間には案外尊いことだったりする。そういうことを全部ひっくるめて、雷蔵はおシゲの傍を心地よく思っているのかもしれなかった。


 困ったなぁ、と青い空を見上げながら、おシゲは思う。けれど、その「困ったなぁ」は「秘密にしているのに、こんなところくのたまのみんなに見られたらどうしよう」ということと、「しんべヱしゃまが知ったらヤキモチ妬いちゃいましゅ」ということに対する「困ったなぁ」なのだから、おシゲもたいがい難儀なものである。




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