「雷蔵に一杯盛ったね」

 その声に実のところかなり驚いて、ユキは足を止めた。くノ一長屋の廊下を一人で歩いていた途中、角を曲がったところでその声は聞こえた。なんの心構えもなかっただけに、心臓がギクリと飛び上がった。しかし、驚愕が大きすぎたせいで逆になんのリアクションも取れなかったため、傍目には普通に足を止めただけのように見えた。

 ユキは硬直したまま、ちらりと視線のみで声の主を探した。さすがは五年生というべきか、気配のけの字さえ感じさせない登場を披露した相手は、壁に背中を預けてこちらを見ていた。

「鉢屋……先輩?」

 よもや不破 雷蔵自身が自分の名を出して問いかけてくるはずはないと思ったが、ユキの言葉は自然と疑問形になった。なにぶん、鉢屋 三郎(はちや さぶろう)による不破 雷蔵の変装は、素人目には識別が困難なほど完璧なのだ。彼らとそれほど多くの関わりを持たないユキが、とっさに首を傾げてしまうのも致し方ないことだった。


「ご名答。私は鉢屋 三郎の方だよ、ユキちゃん」

 不破の顔をした鉢屋は、唇の端をニイッと伸ばすように笑った。無気力そうに細められた目は、特になんの色も宿さずにユキを見ている。どことなく、キツネの面と似た顔だと思った。

「不破先輩に下剤入りの饅頭を食べさせたから、文句を付けに来たんですか?」

 彼がわざわざくのたま長屋に忍び込んで自分を訪ねる理由など、それしか考えられない。ユキは昼間の記憶を遡りながら言った。鉢屋の貼り付けたような笑みが崩れないので、やはり「それ以外ないだろう」ということらしい。面倒くさいのが来た、と内心渋面を作りながら、ユキは右手をひらりと振った。

「不破先輩には悪かったと思ってます。でもこっちにも課題がありますからね」

「下剤入り饅頭を忍たまに食べさせる、という課題?」

「ええ、くノ一教室で新しく出されたんです。不破先輩は優しいから、裏があるとわかってても食べてくれましたよ」

「それを見越して、雷蔵を狙ったのかい?」

「いいえ、違います。だって私、正直なところ不破先輩と鉢屋先輩の区別つきませんもの。適当に呼び止めたら、それが不破先輩の方だったというわけです」

 これは事実だ。ユキには不破と鉢屋の見分けがつかない。ただ、忍たま長屋に乗り込んで一番最初に発見したのが不破だった。だからターゲットにした。それだけの話だ。「あの、すいません」と声をかけ、「ん? なんだい?」と振り向かれたところで「これ、私が作ったんですけど、よかったら食べてもらえませんか?」と饅頭を差し出した。その瞬間、「えっ」と小さく声を漏らして固まった相手は、おそらく「食べるか、食べないか」についての脳内会議を行っていたのだろう。腕を組んでうんうん悩みだした。くのたまの作る食べ物には必ず裏がある、けれど断ったら相手に申し訳ない、だが──と。

 そこでようやく、ユキは目の前の相手が不破 雷蔵だと悟ったのだ。不破には悩み癖があり、鉢屋にはない。一応その程度のことは知っていたため、眉間に皺を寄せて延々と考え込んでいる相手が不破 雷蔵だと知れた。それくらい、目の前の相手が誰であるかは、ユキにとって取るに足らないことだった。

 別に、呼び止めた相手が不破 雷蔵だろうが鉢屋 三郎だろうが、どちらでもよかった。不破と鉢屋は確かに別の人間で、別の肉体を有する別個体だが、なんとなく大きなくくりの中の二つ、という印象が拭えない。たとえ二つあろうとも、饅頭はどちらも同じ饅頭に見えてしまうのと同じ原理だ。ユキは密かに、もし声をかけた相手が三郎であっても、彼女が「不破先輩」と声をかければ、彼は不破として申し分なく振る舞うのではないかと思っている。


「じゃあ、もしそこにいたのが私だったら、君は私に饅頭を渡していたってこと?」

「そうだと思いますよ」

 特になんの感情も持たずに答えると、鉢屋の笑顔がわずか歪んだ。それは、もしかしたら自分に降りかかっていたかもしれない災難に対してではなく、その災難に運悪くみまわれてしまった不破に対しての同情かなにかなのだろう。もしくは、ユキに対する憤りか。

「かわいそうに、雷蔵の奴、すっかり腹を下して保健室で唸ってるんだ」

 いかにも「嘆かわしい」と言わんばかりに、芝居がかった動作で鉢屋は首を振った。鉢屋 三郎が不破 雷蔵に対してかなり深い愛着を持っているというのは有名な話だ。これはユキだって知っている。現にこうして日常生活を不破の姿で過ごしていたり、「不破 雷蔵ある所、鉢屋 三郎あり」などという台詞を声高々と言い放ったり、不破の怪我や病気にかなり過保護であったりする。まったく、面倒くさいことになった。


「できるなら、私が代わってあげたいくらいだよ」

「素晴らしい友情ですね」

「ははは、そこまで気持ちがこもってないと、いっそすがすがしいなぁ」

 食えない笑顔で、鉢屋はユキの方に身を乗り出した。ユキより背の高い鉢屋が立ち塞がったため、彼女の体は鉢屋の影にすっぽり包まれる。朧気な月の光さえ彼の背後に隠されてしまって、急に心もとない気分に襲われた。しかし、引いたら負けだと思ったので、ユキはグッとその場で足を踏ん張る。

「今、私に許されている台詞は、それしかないと思いますけど」

「……どういう意味?」

 逆光に照らされた表情は変わらないものの、その裏側の雰囲気が少し変化したことに、ユキは気付いた。ほんの些細な変化だが、無意識に顎が引ける。まるで仮面の向こうの本心が、じわじわと漏れ出しているようだ。ほの暗いそれは、ユキの周囲を取り巻いて、妙な圧力と息苦しさを生み出した。それを払拭するように、彼女は毅然とした態度で彼を見返す。


「『鉢屋先輩は本当に不破先輩のことがお好きなんですね。そしてそれは、友情という垣根を越えた感情ではありませんか?』──なんて、そんなことを私に言わせたいのですか?」

 言うが早いか、鉢屋の肩がフルフルと震えだした。喉元からクックッと声が漏れて、その頬が愉快そうに緩んでいく。今までのよりよっぽど本物らしい笑みに、ユキは心底ヒヤリとした。

「おもしろいことを言うねぇ、ユキちゃん」

 ゆらりと目線を上げた鉢屋は、おさまりきらない笑いをそのままに、言った。一瞬、背中をくすぐるような風が吹いて、鉢屋とユキの髪がかすかに揺れた。──そういえば、似ている。彼の髪色と己の髪色を照らし合わせて、ユキは思った。場違いなことを考えるのは、その茶けた髪のすぐそばにある瞳が、彼の背後にある月のように、不穏な色をしていたからだろうか。今宵の月は、妙に赤い色をしていた。

 自分の放った言葉に、確信たるものを持っているわけではない。ただ、目の端に映る程度の彼の普段を見ていると、どことなく知ってはいけないものを垣間見るような、そんな気分になったりするのだ。そのくらい、鉢屋はいつも不破にベッタリだった。ろくな交流もない自分すらそうなのに、他の者は彼らを見てそんな風に感じないのだろうか。──それとも、察していながら知らないふりをしているのか。「仲のいいことだ」と、ゆるやかに目を逸らして、おざなりに流してしまっているのか。

 彼ら自身を心から好いているのなら、それも可能かもしれない。余計な波風を立てて友情を壊したくないからと、あやふやなまま笑っていられるかもしれない。だが、ユキは鉢屋に対して友情だとか好意だとか、そういった感情を持ち合わせていなかった。先輩に対する一般的な尊敬の念などはそれなりに持っているが、それ以上の個人的な感情は皆無だ。それは鉢屋とてそうだろう。むしろ、後輩としてかわいく思ったこともないに違いない。だからユキは、鉢屋が自分の名前を知っていたことをとても意外に思ったりしたのだ。


「気分を害されました?」

「いや、別に」

 薄気味悪い笑みを崩さない彼は、事実、不機嫌なのか上機嫌なのか判断できない。そのどちらにも見えた。

「面と向かってそんな台詞を吐かれたのは初めてだよ」

 絡みついてくるような視線から逃げるように、ユキは目を伏せた。なんとなく、次に言われる言葉がどんなものか察知していたからだ。

「では、私も言わせてもらおう」

 ――ああ、やっぱり。ばれている。

 なにしろ、


「君はトモミちゃんのことをとても好きだよね。そしてそれは、友情という垣根を越えた感情ではないかい?」

 ユキと鉢屋は似た者同士なのだ。




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