しんしんと降る雪のなか、ナオミは息を吐いた。温かな呼気は肌を刺す寒気に触れ、白い靄となって空中に溶けた。
くのたま長屋の縁側に腰かけ、ナオミはなんとはなしに灰色の空を見上げていた。肩にかけたちゃんちゃんこの前を合わせて大きく息を吐く。今度のそれは吐息ではなく、あからさまな溜息だ。重い心持ちを吐露するようにそれは連続して出た。
長屋に人の気配はない。いつもはかしましくあちこちを動き回っている少女たちも、今は姿が見えない。それもそのはず、今日は元旦なのだ。学園はすでに冬休みへと突入していて、生徒たちは皆すでに実家へと帰省してしまっている。――実家が学園から近い場所にあるゆえに余裕をぶっこき、出発日の朝に寝坊をかまして雪の中帰れなくなったナオミを除いては――
ナオミは再び大きな溜息を吐いた。二日前からの急な冷え込みは歩くにはちょっと厳しいぐらいの雪を積もらせ、なおもやむ気配がない。このぶんだと、今日も学園で一人お泊まりと洒落こむことになりそうだ。
――何故みんなと同じように早いうちに帰っておかなかったのだろう。今さらすぎる後悔に、ナオミの溜息の数が増える。
(寂しいなぁ……)
普段賑やかな環境にいると、こうした時ひどく心細くなる。こんな日はいつも他のくのたまたちと「寒い寒い」と騒ぎ、身を寄せあってじゃれているはずなのだ。寒さが一層身にしみて、ナオミは自分の腕をさすった。
「はあ……、誰でもいいから一緒にいてくんないかな」
「私がいてやろうか」
誰もいない空間に突然気配が湧いた。ナオミはそれこそ飛び上がる勢いで驚いた。悲鳴を上げながら振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずの縁側に、自分以外の者が立っていた。
「ゲッ! た、立花 仙蔵先輩……何故こんなところに……」
六年生で作法委員会委員長の立花 仙蔵であった。長い黒髪を美しくなびかせ、この寒さをもろともせず凛と立っている。
「ゲッとはなんだ、ゲッとは。私がいるのがそんなに不都合か」
仙蔵の美しい眉が寄る。無意識に、ナオミは彼から距離をとった。
「いっ、いえいえ、まさか、そんな、とんでもなぁい。純粋に、立花先輩がまだ学園にいらしたことに驚いただけですよぉ」
浮かべる笑顔はどう見てもひきつっている。それに気付かないほど愚かでない仙蔵は、うろんげに彼女を見下ろした。しかし、そんな目をしたいのはナオミのほうである。目の前の青年はまるで当然のような顔をしているが、ここは男子禁制、くのたま長屋。幾千の罠を張り巡らせて守られた乙女の花園。いくら最上級生といえど、気安く足を踏み入れてよい空間ではないのだ。なのに彼はなんの躊躇もなくここにいる。警戒するのは致し方ない。
「忍たまたちも、とっくに実家に帰省している頃だと思ってましたから……」
「二週間ほど前からかかっていた任務型の課題が長引いてな。昨日ようやく帰ってきたんだが、この雪で身動きもとれん。体のほうも疲れているし、まあ少しばかり休んでからにしようと思ってな。ナオミはどうした」
「えっ」と、ナオミは固まった。忍者らしいまっとうな理由で足止めをくらっている仙蔵と違い、自分のなんと間抜けなことか。後ろめたさのせいで「のんびり帰ろうと思ってたら、雪で帰れなくなっちゃって……」と説明する声はとても小さくなった。
「なるほど」
仙蔵が笑ったので、ナオミはふてくされたようにそっぽを向いた。
「まあ、そのおかげでこうしてナオミに会えたのだから、お前ののんびり屋も私にとっては有り難いな。もしかしたらと期待してよかった」
小馬鹿にしているのか。ナオミはギンと睨みを利かせたが、仙蔵の表情があまりにも自然でうれしそうだったので、噛みつく機会を逃してしまった。
――やめてほしい。
自分は慣れていないのだ。見目麗しい男子と接することも、微笑みかけられることも、会えてよかったと囁かれることも。
「な、なんですか。もしかして私に会いにここまできたんですか? 任務明けの疲れた体を引きずって? あの罠をかいくぐりながら?」
「そうだが?」
照れ隠しの嫌みをさらりとかわされて、いよいよナオミは言葉をなくした。パッと赤面した彼女を見て、仙蔵は満足そうな顔をしている。
「よく、降ります、ね」
話を変えるため、ナオミは空を見上げた。仙蔵は深く突っ込みはせずに「ああ、まったくだな」と、同じように視線を曇天の空に移した。
「――ところで、ナオミよ。何故そんなに距離を取ろうとする?」
ギクッ――。
何故見ていないのにわかったのだろう。いまだ縁側に座ったままのナオミが、ずりずりと彼から離れていっていることに。
「べ、別に意味は……」
「ならもっと近寄れ。それ以上離れられたら話もろくにできんぞ。それとも、私とは一緒にいたくないか?」
ビクリと肩が揺れた。
「そ、そんなんじゃないですっ」
――そう、そんなわけではないのだ。ナオミは彼を嫌っているわけではないし、一緒にいることを苦痛だと思っているわけでもない。しかし……
言葉に詰まっていると、空を見ていた仙蔵が一歩横にずれるようにして、ナオミに近寄った。意図せず、再びナオミは飛び上がった。
「私から近付いてみた」
フッと、仙蔵は笑った。
「横に立って世間話をするだけだ。そう気負うな。同級生たちもたいがい出払っていて暇なのだ。話相手くらいしてくれ」
「は、はあ……」
嘘だ。きっと、一人で寂しい思いをしている自分を宥めるために、彼は今ここにいるのだ。立花 仙蔵という人は案外面倒見がよくて優しい先輩だから、ひとりぼっちで心細い彼女のために、わざわざ横に立って話をしてくれているのだ。――わかっている。わかっているから、なんだかもどかしい。
「あの、ここじゃ寒くないですか?」
いつもの忍装束姿の彼を見る。ちゃんちゃんこを羽織って足袋を重ね履きしている自分と違って、とても外気防御力の低い格好だ。ちっとも寒そうに見えないのは、訓練の度合いが違うからだろう。しかし、それとこれとは話が別で、仮にも自分を心配してここにとどまってくれている相手にこんな寒空の下で立っていろというのは、なかなか薄情なのではないか。
「私の部屋に来ます? なにかあったかいものでも用意しますよ。残念ながら、お餅はないんですけど」
「え」
瞬間、仙蔵の動きが止まった。口を「え」の形に開いたまま、呆けたようにナオミを見つめている。「ん?」とナオミは首を傾げた。
「どうせもうくのたま長屋には侵入してるんだから同じことでしょう。いまさら咎めて怒って追い出したりしませんよ」
「いや……そうではなく」
めずらしく仙蔵が途方に暮れたような顔をした。その理由を考えて、ナオミはポンと手を打った。
「もしかして同室の子に気を遣ってるんですか?」
たまにぶれることはあるが、基本的に女性には紳士でしっかり者の先輩な立花 仙蔵だ。女子の領域を乱すことを躊躇っているのかもしれない。まあ、それならまず長屋に侵入することをやめなさいと言いたいところだが、今回ばかりは目をつぶることにしよう。
「それなら、すでに彼女は帰省してますから、ご心配は無用ですよ」
「いや、私はかまわないが……いいのか?」
ナオミは安心させるように笑顔を作ったが、いまだ仙蔵の表情は冴えない。なんだかんだ真面目なんだからと思いながら、いたずらを企てるように彼女は舌を出した。
「山本シナ先生には内緒ですからね。それさえ気をつければ大丈夫でしょ」
「あのな、ナオミ……」
晴れない面持ちのまま、仙蔵は呟いた。言葉の先を考えるように口をつぐむ。まばたきを二つする間、仙蔵はナオミの顔を見つめていた。
しかし、やがてひとつの溜め息と共に視線を逸らすと、
「いや、なんでもない。そうだな、有り難い申し出だ。私もそろそろ室内に入りたかった。遠慮なくお邪魔するとしよう」
言葉の途中で、仙蔵はフルフルと頭を振った。顔を上げる頃にはいつもの涼やかな笑みを装備して、彼は誘いを受けた。
「じゃあ、どうぞ。あっ、見つからないように気を付けてくださいよ!」
「わかっている」
小声で注意喚起しながら、ナオミは仙蔵を自室へと招き入れた。
・
「はい、どうぞ。粗茶ですが」
部屋の真ん中に構えた文机に、熱茶の入った湯呑みを置く。ホカホカと立ち上る湯気を見ながら、ナオミはお盆を胸の前に引っ込めて微笑んだ。
「ああ、すまない。ありがとう」
朗らかに礼を言うと、仙蔵は湯呑みを持ち上げて茶を啜った。
その横顔の、なんと美しいことか。忍術学園一の美形は伊達ではない。ナオミは改めて仙蔵の顔面偏差値の高さを実感していた。
ーーうーん、絵になる人だわ。湯呑みで茶を飲んでいるだけで感嘆の溜め息が漏れる人なんて、他にはそうそういないわよね。ほんと、なんでこんな人が私みたいなのにかまってるんだか……。
ナオミと仙蔵に接点は少ない。学舎は違うし、委員会も違うし、あえて言うなら属性も違うだろう。ただの一度、口を利いたことがあっただけだ。それ以来、この勝ち組の青年はなにかとナオミを気にかけている。
ふいに仙蔵の目がナオミに向いた。一瞬、ギクリともドキリともつかぬ感覚が彼女を支配する。何故と言われてもわからない。彼の瞳がナオミをそうさせた。不自然に喉で呼吸が詰まる感覚は、プレッシャーとでも呼ぶのかもしれない。
「た、立花先輩、寒くないですか? 火鉢出してるんで、火ぃ入れますね」
空気に耐えかねたナオミは、ごまかすようにかたわらの火鉢を引き寄せた。寒さからか緊張からか、指先がかすかに震えていた。
仙蔵は身動ぎもせずに、
「ヒーターはないのか?」
「時代錯誤なこと言わないでください」
彼なりにボケた。
それで直前の空気はうやむやになった。ナオミはほっとして火鉢に火を入れ始める。ジリジリとした熱が部屋を温め、お茶とお菓子で一息吐く頃にはそんなことはすっかり忘れてしまっていた。
「ナオミ」
部屋が暖まり、小腹も満たされ、世間話もぼちぼち花咲いたところで、ふと仙蔵がナオミを呼んだ。
「え?」
疑問を持つ間もなく、仙蔵の手が伸びてくる。まっすぐ、ナオミの顔めがけて。ナオミはぎょっとした。
仙蔵の指が前髪に触れる。ツゥッとすくように髪の間に指が通され、おでこを彼の肌がかすめた。カッと顔が赤くなる。バクンバクンと心臓が脈打ち、息がうまいこと吸えない。
……立花先輩ーー?
声は出せないまま、仙蔵の動きを目で追う。しかし、予告なく触れてきた指先は、予告なくじきに離れていった。
仙蔵がナオミを見る。そして、困ったように笑った。きっとナオミの顔がリンゴのように真っ赤だったからだろう。
「すまん。ほこりがついていたので、とろうと思って」
示すように親指と人差し指でつまんだほこりを見せる。それを見て、ナオミの顔は先ほどよりも火を吹いた。
(はっ、恥ずかしい……! 私ったらなに勘違いしてるの!)
目の前の端麗な青年から、クククッと笑う声がする。
「……な、なに笑ってるんですか」
「いや、かわいらしいと思ってな?」
「かっ……!」
流れるようによこされた言葉にナオミは凍りついた。
ナオミは仙蔵が得意ではないが、嫌いでもない。むしろ尊敬しているし、すごい人だと思っているし、そのかっこよさに憧れを抱いてもいる。
それでも彼女が彼を前にするたびどぎまぎしてしまうのは、仙蔵が時に思いもよらぬことをするからだ。しかも、ウブな少女をからかうような戯れを。それがストレートで、かつなんの恥ずかしげもないので、ナオミは自分の感性が遅れているのではないかとすら思う。
でも、そうではないと信じたい。だっておかしいじゃないか。彼女でもない女子にこんな言葉を囁くなんてーー!
「かっ、からかうのはやめてください」
「からかってなどいない。私は素直だからな。かわいいと思ったからそう言った。駄目なのか?」
「う……」
なんともあっけらかんとしている。年頃の男子らしい照れや躊躇いはないのか。
「そんなこと誰にでも言ってると誤解されちゃいますよ。ただでさえ立花先輩は顔面偏差値高いんだから」
悔しさから、ナオミはプイッとそっぽを向いた。
「顔面偏差値って……」
またも仙蔵がおかしそうに笑う。
「事実ですから。私のような畑から掘り出した十把一からげは、先輩みたいな方を前にすると萎縮してしまうんです」
「それはそれは。しかしまあ、あれだ。私はなにもお世辞や社交辞令で言っているわけではないんだがなぁ」
「またそんなーー、じゃあなんでっ……」
そこで、ナオミの動きは止まった。高ぶった感情のままに振り返ると、目と鼻の先、本当に鼻頭がぶつかりそうな距離に仙蔵の顔があったからだ。
「私はお前を気に入ってるぞ」
至近距離で低い声が囁く。吐息さえ感じられるその距離に、ナオミのほうは息が止まってしまいそうだった。
「お前を気に入っているんだ。でなければ構わないだろう」
「どこを……」
頭の中は大混乱で、体は瞬きひとつ自由にならなかったが、意外にもするりとそう言えた。これだけは訊かねばなるまいと、脳が告げていたのかもしれない。
ナオミの問いに、仙蔵は呆れたように目を細めた。
「そういうのはわざわざ要素を上げなければならないものか? 私がお前を好ましく思っているのだ。それだけじゃ不満か?」
ドスッと心にときめきの矢が刺さった。本当に彼はストレートにものを言う。よけいな装飾をしないから、それはひどく胸に響いた。
「……私のことが嫌いか?」
「きっ、嫌いなんかじゃありません! 嫌いなんかじゃ……」
「なら、お前は何故私を敬遠するんだ?」
切れ長の瞳がまっすぐにナオミを射抜く。その目は真剣そのもので、隠し事や嘘でごまかそうとしてもすぐに見抜かれてしまうだろう。
逃げられないーー。本能でそう悟った。
「だ、だってすぐ意地悪言うし」
「反応がおもしろいからな」
おずおずと口を開くと、間髪いれずに失礼な答えが返ってきた。ムッとして、ナオミの顔は少し険しくなる。
「優秀すぎて壁を感じるし」
「そんなもの感じてたのか」
「感じますよ。私なんか取り柄もないし、勉強も苦手だし」
「私にも苦手なものくらいあるぞ」
「ほんとにぃ? あっ、でもしんべヱ・喜三太と一緒にいる時は確かにちょっとおもしろ――」
「なにか言ったか?」
「いえ、なんでもアリマセン……」
仙蔵が途端に般若の形相になったので、ナオミは急いで言いかけた言葉を切った。彼にこの話は禁物なのである。
ーーこうして上げてみると、それほど毛嫌いする理由もないように思える。
……いや、ナオミは別に仙蔵を嫌っているわけではない。ただ、
「き、緊張するんですもん」
仙蔵がパチリと大きな瞬きをひとつした。
「先輩だし、綺麗だし、優秀だし、委員長だし、たまにちょっかいかけてくるから心構えが必要だし――そのくせ面倒見てくれたり、優しかったりするからよくわからなくて……。私のこと気に入ってるとか言うのもどこまで本当なのかなって……。考え出したらグルグルして、答えがわかんなくて――だから、立花先輩に会うとどうしても萎縮しちゃうんですよ」
正直、期待をしてしまう自分がいるのだ。立花先輩は、私のことを女として好いていて、だからかまってくるのではないかと。けれど、そんな期待をすること自体恥ずかしいと、意地っ張りの自分が水をさす。こんな人が私なんかを選ぶわけがないでしょう、勘違いよ。いちいち反応をするから、おもしろがられているだけよ。
そうして気持ちを保っていた。バリケードを張っていた。だって、そうしないとーー
「ナオミ、一つ教えてやろう」
真面目くさった顔で、仙蔵は言った。
「人はそれを恋と呼ぶんだぞ」
「は……はあ!? ななな、なに言ってんですか、そんなんじゃないです!」
動揺をあらわにするナオミの手が、仙蔵の手によって包まれた。そのまま、ただでさえ近い距離をさらに詰めてくる。
「ちょっ、ちょっとちょっと! なに近寄ってんですか、なに手握ってんですか!」
必死に後ろにのけぞりながら、ナオミは叫んだ。気を抜くと背中から床に倒れてしまいそうで、必死に踏ん張る。なだれてしまったらやばいと、彼女の頭が警告していた。
「脈ありということがわかったからな。後は押しきるだけだ。さいわいここには私とお前の二人っきりだしな」
「なにそれ! み、脈なんかないですから! 追い出しますよ!?」
「招き入れたのはお前だ。第一、自分しかいない部屋に男を呼ぶなど――先ほどは『棚からぼた餅』と思って言わなかったが、お前は危機管理能力が足りん。そのへんもきちんと教えていかないとな」
「あんたがそんなケダモノの牙を剥くとわかってたら呼びませんでしたよ! 信じらんない、これでも尊敬してたのにぃ!」
半泣きになりながら仙蔵を押しのける。だが、屈強な肉体は女の力ではびくともしない。細っこいのにやたらと立派な体幹だ。広がらない、むしろさらに近付いてきた距離に、ナオミはとうとう悪態すら吐けなくなった。
グイッと、やや強引に、彼の腕の中に押し込められる。ひきつった声がナオミの喉から漏れたが、真っ赤に染まった顔とあいまり、誰の目にもそれは拒絶には写らなかった。仙蔵もそうだろう。
「お前が好きだ、ナオミ」
耳元で囁かれると、もう駄目だった。
ビクンと肩が跳ね、体は震えて彼の服にしがみつく。せめて顔は見ないでほしい。きっと、情けない顔をしているに違いないから。
「体は正直だな」
まるでどこかのエロ代官のような台詞を吐く仙蔵の手が、ナオミの背中を優しく撫でた。
悔しい、悔しい、くやしい!
やっぱりこの人は苦手だ。そう思っているのに、腑抜けた体は仙蔵にしがみついたまま離れられなかった。
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