パカリ。バサバサ。そんな効果音を付けて、何気なく開けた下駄箱から小包みが雨のように降ってきた。神童 拓人は一度沈黙し、ゆっくりと視線を足元に移す。そこに散らばる多種多様なかわいらしいラッピングの贈り物たち、おそらくすべてチョコレートの類だろう。

 なにせ今日は、バレンタインデーなのだ。


 知らず小さな溜め息が漏れて、神童は慌てて口を引き結んだ。どこで誰が見ているやも知れない。もしかしたら、遠巻きに神童の様子を窺っている女子たちがいるかもしれない。彼女たちに、自分が贈ったチョコレートを見て溜め息を吐いているところなど見られては失礼極まりない――と、一度その無意識で女子にいわれなき糾弾を受けた経験のある神童 拓人は気を引き締めた。彼は気取られない程度に、そっと周囲を見回す。……本当にいた。下駄箱の影から、3・4人で集まってこちらをチラチラ窺っている。神童はさっと顔を逸らした。何事もなかったようにその場に屈み込み、下駄箱から雪崩れ落ちた箱たちを手に取る。先ほどの女子グループがいた方向から、キャーッと黄色い声が上がった。隠れているのかいないのか。神童は眉が下がる思いだった。

 彼は事前に用意していた紙袋を取り出すと、散らばるチョコレートを一つずつそこに入れていく。キャラメル包みにされた箱に、かわいらしいオレンジのリボンが斜めがけされたもの。柔らかな紙素材の袋の口を、花のビニタイで縛ったもの。透明の袋にシールを飾ったもの。愛らしい小瓶に、小さなチョコがたくさんおさめられているもの。いろいろな種類のものがあり、思わず感心してしまう。背後を通った男子生徒が、「おっ、神童、今年も大変そうだな」と笑い混じりに言った。

 ――そう、これは毎年のことであるのだ。


「えー? いいじゃん、そんなにモテるのってオレだったらめっちゃうれしいけど」

 軽い調子で言うのは浜野である。彼は神童の机に頬杖を付き、屈託のない笑みを浮かべた。

「気持ちは、有り難いと思うんだが……応える気がないのに、こんなにもたくさん受け取る権利が俺にあるのか――と思ってしまって」

「真面目だねぇ、神童は。そういうのは贈る側が『あげたい!』って思ってするもんっしょ? もらう側がそこまで気にすることないと思うけど」

 そうなのかもしれない。しかし、生真面目で堅物な神童 拓人には、それがなかなかうまく割り切れずにいた。いくら渡したいから渡すのだと言っても、そこには少なからずの想いが存在する。行為と好意に対する期待が混在する。ありったけの勇気を出して、今日この日、このチョコレートを愛の告白がわりにしている女の子だっているのだ。女友達の多くない彼が、こんなにたくさんのチョコレートをバレンタインデーにもらう――これがすべて義理チョコではないことくらい、さすがの神童でもわかっていた。想いを向けられて、それに応えずに受け流すことのなんと心苦しいことか。今頃、どこかの教室で不安と期待に胸を詰まらせている女子がいるかもしれないと思うと、こちらの胸まで痛くなってくる。今度は机の中のチョコレートたちを袋に入れながら、神童は誰の目も憚らずに溜め息を漏らした。

「モテるってのも大変なんだねぇ。今日はまだ始まったばっかだし、これから先も気苦労絶えないな、神童」

「それを言うな」

 神童はとうとう机に突っ伏した。いつもきちんと背筋を伸ばして、毅然と前を向いている彼だが、意外と精神的に脆い部分もある。これから先に来るであろうさらなるチョコレートの贈り物に、添えられる手紙や口での告白、そして一番気の重いそれらへの“お断り”。

「まーまー。オレもチョコの消費活動くらいなら手伝うから」

 ポンポンと、浜野が神童の肩を叩く。気の軽い彼なりの慰めに、神童はようやく笑って見せた。

「あ、シン様」

 ふいに聞こえた高い声に、神童と浜野は振り向いた。開け放たれた教室の扉の向こう、山菜 茜が廊下からこちらを見ていた。隣から覗き込むようにして、瀬戸 水鳥も立っている。

「オーッス」

「おはよう」

 元気よく腕を振る浜野に続いて、神童もあいさつする。

「チーッス」

 あいさつを返しながら、水鳥が教室へ入ってきた。その後ろを、茜がニコニコしながらついてくる。

「ゲッ、神童なんだそれ。全部チョコレートかぁ?」

 神童の抱えた紙袋を見て、水鳥が顔をしかめる。

「あ、あぁ、まあ……」何故かバツが悪そうに、神童は紙袋に視線を落とした。

「アンタほんとにモテんだな。この時点でそれってなによ。少女漫画か」うろんげな顔で水鳥は言った。

「そう言う瀬戸は錦にチョコやったの?」

 けろりとした顔で浜野が尋ねる。ギクリと強張った水鳥の顔が、瞬時に赤くなった。

「は、はぁ!? なんであたしがアイツにチョコなんか作らなきゃなんねーんだよ! アホか!」

「水鳥ちゃん、昨日がんばったのよ」

「茜ぇ!」

 はたでニコニコしていた茜が、思い出したようによけいな一言を添える。「へー」と、浜野は言質を取ったような笑みだ。

「でも、錦くんだけじゃなくて、サッカー部のみんなにもあるの。マネージャーからのチョコ」

 おっとりと茜が笑うと、「マジでー!」と浜野は万歳の格好で喜んだ。

「やりぃ! さすがマネージャー、気が利くねぇ」

「現金な奴め」水鳥が腰に手を当てて嘆息した。

「葵ちゃんと水鳥ちゃんと私で作ったの。部活の時に渡すから、楽しみにしててね」

 茜の言葉に、浜野はうんうんと頷く。じゃあね、と手を振り、水鳥と茜は自身のクラスに帰っていった。

 とたん、チラリ、と浜野が神童を見た。

「ん?」神童は首を傾げる。

「う――――ん?」

 浜野も同じように首を傾げる。なんだなんだと、神童は逆の方向に首を捻った。

「なんかさぁ、山菜って不思議だよな」

 唐突な切り出しだった。神童の首の斜度が5度から10度くらいになる。

「そうか?」

「そうじゃね? だって普段あんなに神童のこと追っかけてんのに、このチョコの山見ても平気な顔してたし。ヤキモチとか妬いたりしそうなもんなのにな」

 はて、そうだろうか。口に出さずに、神童は眉間に皺を寄せる。確かに、山菜 茜はサッカー部のマネージャーである以前に、神童 拓人の一ファンだ。サッカー部に入部する前から、茜は神童の追っかけをしていた。いつも持っている愛用のカメラを構えて、しきりにシャッターをきりながら、うっとりと頬を染めていた。今は部員とマネージャーという関係になり、仲間としての意識は芽生えたが、二人の仲はそれまでとあまり変わらない。茜のカメラに写る被写体が“神童 拓人”という一個人から“サッカー部のみんな”というたくさんの仲間たちに変わり、茜も水鳥以外の友人を作り、明るく過ごしている。だが、神童と茜はあいかわらずだった。いまだに、茜は神童が走るたびに彼の姿をカメラで追い、シュートを決めるたびにうっとりと頬に手を当て、隣ではない距離からニコニコと彼を見ている。神童は神童で、その行動にコメントをすることもなければ、手を振ることもない。

 山菜茜は神童 拓人のファンなのであった。ひたむきで、たまに積極的で、とても楽しそうに彼を追う。茜の目はキラキラと光のように輝き、唇は幸せそうに笑みを浮かべる。でも、それは恋のあれやこれやとは別の話ではないのか。茜が神童を追いかけ回すのは、さながら芸能人に憧れるような気持ちで、恋ではない。だから、ささやかな幸せに満足していられるし、それ以上を望まない。そういうものだと思っていた。だから神童は、茜に反応を返したことはない。それでいいのだろうと考えているし、事実、茜はなにも要求してこなかった。

 楽ではあった。このチョコレートたちのように、肩にのしかかるような申し訳なさはなかった。憧れというのは、神童の中では気軽な部類に属されていた。慕ってくれるのは照れくさいが悪い気はしない。誰も傷付かないし、かわいらしいママゴトのようだ。甘くて気楽な、限りなく恋に近いなにか。

「山菜はそんな心の狭い女子じゃないんじゃないか?」

 神童がめずらしくジョークを飛ばしたが、浜野は笑わなかった。口元をモニョモニョさせ、眉をしかめて、なにやら複雑な顔をした。

「そんなことないんじゃないかなぁ」

 神童は「ハハハ」と浮かべていた微笑みを引っ込めながら、微妙な居心地の悪さを感じていた。


        ・


「皆さん、ハッピーバレンタインデー! 私たちマネージャーからチョコレートのプレゼントです」

 空野 葵が高らかに声を上げる。キラキラした彼女の笑顔と同様、もしくはそれ以上にキラキラした目をして、雷門中学サッカー部内に歓喜の声が上がった。

 部活が始まる前、全員が集合した場で、マネージャーの3人は大きな袋を持って現れた。中身はサッカーボールに見立てられたチョコレートだった。義理チョコであれ、バレンタインにチョコをもらうというのは男子にとっては一大事件だ。喜びたくもなる。三国は頬を染めながら「あ、ありがとう」とはにかんでいるし、浜野は朝のとおりに万歳している。反応としてはだいたいみんなそのどちらかで、あとは神童のように「ありがとう」とスマートに笑うかんじだ。

 マネージャーたちが、それぞれにチョコを手渡していく。「ほらよ」と水鳥に渡されたチョコに、神童は礼を述べた。ふと、水鳥の向こう、山菜 茜の姿があった。浜野にチョコを差し出しながら笑っている。

 微笑ましい光景だ。厳しい練習の合間に、こういった触れ合いがあるのはいいことである。そう、微笑ましい光景だ。

 パンッと、神童は手を叩いた。

「各自チョコは行き渡ったか? マネージャーたちにきちんとお礼を言ったら、そろそろ練習を始めるぞ」

 きびきびとしたキャプテンの言葉に、みんなが了解の声を上げる。

 こうして、学生らしいあまやかな戯れの時間は終わり、また今日もハードな練習が始まる。大きく、神童はグラウンドへの一歩を踏み出した。


        ・


 部活はすでに終わりの時刻となっていた。他の部員はすでにグラウンドを去った後だ。空にはすっかり闇が広がり、薄い月がぼんやり浮かんでいる。そんな中、神童と茜は薄暗いグラウンドにポツンと二人立っていた。

 ――茜、帰らねーのか?

 瀬戸 水鳥の呼びかける声が聞こえた。今から20分ほど前、実際に水鳥が茜にかけた言葉だ。部員たちがみっちりとした練習の疲れに足を引きずり、汗にまみれたユニフォームから制服へと着替えて更衣室を出てきた時だった。葵と水鳥と並んで更衣室から出てきた茜は、一人だけ輪から外れてどこかへ向かおうとしていた。水鳥の声にそっと振り向いたものの、「今日はこれから行くところがあるから。先に帰ってて」と微笑むだけだった。

「行くところってどこだ? ついてってやるよ」

「そうですよ。もう暗いんだから危ないです」

「ううん、いいの。一人で行かせて」

 水鳥と葵の申し出にも、茜はふるりと首を振る。付き合いの長さからか、水鳥は茜の態度に食い下がったりはしなかった。その様子が、頑として譲らない時のものだったのだろうか。あいにく、盗み聞いていただけの神童にはわからなかった。水鳥のほうは、渋々ながらも「わかったよ」と頷いた。

「でもあんまり遅くなんなよ? いざとなったらあたしが迎えに来てやるから」

「水鳥ちゃんだって女の子なんだから危ないでしょ、ダメだよ」

 クスクスと、茜が笑う。

「本当に大丈夫ですか、茜さん?」

「すぐに終わるから大丈夫。心配しないで」

 眉をひそめる葵に、まるで語りかけるように柔らかに茜は囁いた。ひそやかな声音だが、確かにそこには確固とした意志がこもっていた。葵と水鳥が顔を見合わせて渋々と頷くくらいには、茜の瞳は決断を示していた。

 神童はそこで彼女らから視線を外した。まとまって部室を出た男子サッカー部員たちの塊が、帰途に着くためぞろぞろと動き出したからだ。その場に居座る必要のない神童も、当然その流れに身を任せることになる。

 ――キャプテンとして、「遅くなるな」の一言くらい言うべきだったろうか。

 そう思いはしたが、言葉にはできなかった。何故だか神童にはそんな簡単なことが言えなかった。


       ・


 他の部員たちと別れ、一人自宅への帰途を歩んでいた神童は、ふと立ち止まった。

「しまった……」

 街頭の下、薄暗い道で神童は独り言ちる。サッカー部の部室に、今日の練習内容や部員たちの調子などを書いた日誌を忘れてきてしまったのだ。神童が個人的に付けているもので、その日に気が付いたことや、練習で改善すべき点、各選手たちのよく決まっていた技、うまくいかずに悩んでいたこと、いろいろなことを毎日欠かさず書いている。それを忘れてきてしまった。

 確か、鞄の中から一度出して、ロッカーに入れたはずだ。そこから鞄に戻した記憶がないのだから、おそらくまだロッカーの中で眠っているのだろう。

 神童は嘆息する。息が白い靄になった。

 また明日でもかまわない。明日、登校した際に回収し、今日の分もまとめて書き記せばいい。だが――

 神童はもう一つ、今度は意を決した溜め息を吐いた。くるりと踵を返し、来た道を戻る。

 神童 拓人はきっちりとした男だ。時に融通が利かないと揶揄されるほどに、真面目で几帳面な男だ。だから、今日するべきことは今日しておきたい性分である。今日起きたこと、反省したこと、うまくいったこと、その日でなければわからない細かでクリアな感じ方をその日のうちにまとめてしまいたい。だから彼は引き返す。それが理由の一つである。

 あとは、帰り際に用事があるから残ると言っていた山菜 茜のことが気にかかっていた。部活が終了した時点で遅い時間だったのだ。いまだ帰り着いていないのならとても危ない。茜はひとたびカメラを持てば、いっそパワフルなほどに動き回ったり飛び回ったりするアグレッシブさを持つが、基本的にはか弱い女の子なのである。夜道の一人歩きは危険だ。まだ学校にいるのなら送って帰ろう。それから先ほど言いそびれた「危ないから遅くなるな」の一言を言おう。それも理由の一つ。

 もう一つは――

「はあ……」今度は溜め息ではなく、神童は自ら「はあ」を声に出した。自分への呆れを体外に吐き出したかったからである。

 日誌を忘れた原因を、神童だけは知っていた。だが、些細なことに動揺し、決まったサイクルを乱したという事実を、彼は認めたくはなかった。ゆえに、その物的証拠である薄いB5サイズのノートを取り返しに行くのだ。それを回収し、すべてをいつもどおりに戻せば、このうっかりミスはなかったことになる。いや、なかったことに“する”。

 それがもう一つ、彼の足を引き止めた理由であった。



 引き返した学校のグラウンドに山菜 茜が佇んでいたことは、神童にとっては予想外でもあったし、予想どおりでもあった。まさかまだいるだろうか、いやいやまさか、という半々の気持ちだったのだ。茜はサッカー部のグラウンドの隅で、ひっそりと立っていた。グラウンドの脇を突っ切っていた神童は、それを見つけてギョッと足を止めた。茜はこちらに背を向けて、広いフィールドを見つめている。薄暗い闇夜の中では、その姿はまるで幽霊のようだった。

「山菜」

 神童は声をかけた。それほど遠い距離ではなかったが、茜には届かなかったようで、その背は振り返らなかった。まさか本当に幽霊じゃ……いや、でもあの後ろ姿は山菜だろう。そんなことを思いながら、再びこわごわと口を開きかけた。その時だった。

 茜はふと俯いた。ただ俯いたのではない。頭を下に向けるその短い間に、なにか散ったものがあった。小さく透明な、玉のような液体。

 泣いている――、神童は瞬時にそう判断した。

 そのまま茜はギュウと縮こまり、小柄な体をさらに小さくした。後ろからでは見えないが、どうやら胸になにか抱え込んでいるようだ……と気付いた時には、神童はすでに彼女の背後にいた。泣いているのだと思った瞬間に、神童の足は茜の元へ動いていた。

 衝動のまま、神童は茜の肩をつかんだ。その肩はビクリと盛大に飛び上がり、彼女は勢いよく振り向いた。

「シン様……」

 ポロリと、茜の頬を涙の粒がつたった。

「どうした、なにがあった」

 神童は問いかける。いや、問い詰めているような口調だった。神童自身、何故こんなに焦っているのかわからないくらい、彼は焦っていた。

 茜は神童の剣幕に圧されるように「えっ、あ」と不明瞭な声を漏らした。次いで、視線を彼の顔から自分の腕の中に抱いているものに移し、グッと唇を噛む。

「なにも……」

「なにもってことはないだろう。泣いてるじゃないか」

「だ、大丈夫。目にゴミが入っただけ」

「嘘を吐くな。それに、なんでこんな時間まで残ってるんだ」

 そこで初めて、神童は茜が抱き締めているものを見た。神童の手のひらくらいの四角い箱。落ち着いた茶色をしたその箱には、深い赤のリボンがかけられている。綺麗にラッピングされたその箱が今日という日に結びつき、彼は口を開いた。

「もしかして、そのチョコレートを誰かに渡すつもりだったのか?」

 茜は答えない。

「受け取ってもらえなかったのか?」

 返答はない。

「それで、こんな所で泣いていたのか?」

 やはり返事はない。ただ、茜の顔はどんどん下を向き、今やすっかり表情を見ることもできなくなった。神童はそれを肯定とみなした。

 無意識に、神童はその箱をつかんでいた。茜はハッと彼を見上げるが、すでに手の中のものは奪い取られた後だった。

 神童がそれを高く頭上に掲げたとたん、茜は弾かれたように手を伸ばした。神童の手から包みを取り返そうと、必死に腕を伸ばし、つま先を立てている。

「か、返して、シン様……」

 今にも泣きそうな顔をしている。普段おっとりと微笑んでいるその顔が、焦燥を混ぜた悲しみを浮かべている。それは、この包みを渡すことができなかったからか、神童に包みを奪われたからか、はたまた自分の気持ちを第三者に暴かれたからか。いずれにせよ、今の茜のこの悲痛な面持ちは、すべてその相手のために作られたものである。そう思った瞬間、神童は腹の中がカッと熱くなるのを感じた。

「どこの誰なんだ」

「え……」

「せっかく山菜が思いを込めたものを無碍にしたのは、どこの誰なんだ」

 語気が荒くなり、もはや怒っているといっても過言ではない。自分に怒る要素はないし、資格もない。けれど、神童には我慢ならなかった。茜がこんな夜遅くに一人でいることも、本命チョコを渡す相手がいることも、腹立たしくてたまらなかった。なにより“俺にはチョコをくれなかったのに”という感情が多数を占めていた。そんなお門違いなことに苛立っているのも悔しかった。

「俺が言ってやる。山菜の気持ちを踏みにじるなんて最低だと」

「シン様」

「山菜がこんな思いをしているのに、ひどい奴だと。断るのはきちんと受け止めてからでもいいはずだと。このチョコを受け取らせてやる」

「シン様!」

 茜が声を荒げた。そこでようやく、神童は我に返った。チョコレートに伸ばされていた茜の手は、いつしか神童の上着を握っていた。

「ちがうの……受け取ってもらえなかったんじゃないの」

「え?」

 囁くように、茜は言った。

「渡せなかったの。勇気がなくて。断られた時、お話できなくなるのが怖くて。傍にいることもできなくなるのが怖くて。拒絶されたくなくて。渡せなかった」

 茜は俯く。

「だから、もう諦めようと思ってここにいたの。一人で忘れたかったの。水鳥ちゃんたちの前で泣くのは嫌だった。きっと水鳥ちゃんも葵ちゃんも心配するから。ちょっとだけ泣いて、気持ちの整理をして、それから帰ろうと思ってた。そしたらシン様が来て……」

 そのまま声は小さくなり、最後に吐き出されたのは彼女の白い息だけだった。

「そうだったのか……」

 それしか、神童には言えなかった。小刻みに震える茜の肩がか弱くて、寒そうで、かわいそうで、けれど引き寄せる勇気は湧かなかった。

 山菜 茜は神童 拓人のファンである。それは周知の事実で、神童も心得ていた。その好意を“恋ではないもの”と決めて疑わなかった。だから、茜が他の人間に“恋であるもの”を向けていてもなにも気にしないと思っていた。

 だが、彼女が部員に義理チョコを配っているのを見ただけでムッとしたし、そのムカムカに気を取られて大切な日誌を忘れたりした。みんなと帰らずに残ると言えば心配でならなかった。他の男のことで泣いていると思うと、強引にでも拭い去ってやりたかった。

 自分でも気付かないうちに、神童の中で茜の存在は特別なものになっていた。茜のあけすけな好意を心地よく思い、応援されることにパワーをもらっていた。誰だって慕われるのはうれしい。それにほだされたのだと言えばそこまでだが、多くなった関わりの中で、神童は彼女のいいところをたくさん知った。追いかけられていた時には知らなかったかわいらしさをたくさん知った。気にかかったら最後、恋とはそういうものなのだろう。“ほだされた”のではなく、“落ちた”のだ。

「山菜、このチョコレート、俺にくれないか」

 静かに神童は言った。

 茜はどこか呆然と顔を上げた。涙の跡がまだ頬に残っている。

「でもシン様、チョコならたくさんもらったでしょう?」

「そう、かな。うん、まあ、そうなんだが……いや、そうじゃなく」

 おおっぴらに数を自慢したいわけでもない。しどろもどろになりつつ、神童は瞳に力を込めた。

「これが、ほしいんだ」

 それしか言えなかった。茜の本気が誰かに渡るのが嫌だとか、それなら形ばかりでも自分が欲しいとか、好きだとか。思い付く気の利いた言葉ならいくつもあるのに、ゴチャゴチャとこんがらがってそれ以上はなにも言えなかった。

 茜は困ったように神童を見上げていた。ひとしきり逡巡し、しかし、彼に引く気配がないことを悟ったのか、ちらりとチョコレートに目をやると、コクリと頷いた。

「うん、じゃあ……よかったらもらって」

「ああ」

 ほしかった言葉を引き出せて、ようやく神童はほっとした。奪ったままだったチョコレートを胸の前に掲げる。

「ありがとう」

「お礼、言わなきゃいけないのは私……ありがとう。気を遣わせてごめんなさい」

「俺がほしいと言ったんだ。謝る必要なんてない」

 そう言って神童が苦笑すると、茜はようやく少し笑った。神童の胸が小さくキュッと鳴る。寒さではない。突如として飛来した、淡い恋心のせいだ。

「帰ろう、山菜。あんまり遅くなると親御さんも心配するだろう」

 スッと差し出した手を、茜は不思議そうに見つめた。それから神童の顔を見て、おずおずと自らの手をそれに重ねた。柔らかく、寒さで赤くなった彼女の指先。握る神童の指は震えていた。寒さのせいだと思ってくれていればいい。

「ありがとう、シン様。優しいシン様、とっても素敵」

 神童に手を引かれながら、茜は呟いた。いつものうっとりとした甘さではなく、どこか寂しそうな、くすぐったそうな、なにかをこらえているような、そんな声だった。

「そんなことはない」

 キャプテンなのだから当然だ、昨日までの自分ならそう言ったかもしれない。だが、今の彼には違った。これは下心と独占欲と、純度100%の愛おしさからだ。人は愛する者にこそ優しくなれるのだと、当たり前のようなことを神童は思った。

 今はまだ、親切なチームメイトからの慰めだと思っていればいい。そのかわり、その裏側に気付いた時には、容赦はしない。




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