要が日紗子を性的な目や異性的な目で見ないのは、子どもの頃からの知り合いで、ずっと身内のように過ごしてきたからだ。しかし、姉の静奈には、要はそういう目を向けていた。本人が憧れだというそれは、なるほど確かに恋ともおぼつかない、儚いそれだった。それでも、彼が静奈を特別に思っていたことは事実だ。古くからの幼なじみという立場は同じなのに、要から向けられる感情には差異がある。うらやましくないと言ったら嘘だった。けれど、日紗子は要を想うのと同時に、姉の静奈のことも大切に思っているのだ。だから、姉を羨むことはあっても憎むことはありえなかったし、とられたくないという気持ちは双方にあった。一番おぼつかないのは、日紗子自身の足元だった。


 インターホンも押さずに、隣家のドアを開ける。「こんにちはー」と声をかけると、「勝手に上がれー」というなんとも不用心な台詞が返ってきた。やれやれ、と思うが、今さら自分たちにかしこまったやりとりはいらない。そんな関係だ。だから日紗子は玄関で靴を脱ぎ、要がいるらしきリビングの扉を開けた。案の定、要はそこにおり、ソファに腰かけて本を読んでいた。こちらをチラリと見て、「おー」とだけよこす。その後、視線は再び手元の活字に移ってしまい、ずいぶんぞんざいなことだと日紗子は肩を竦めた。

「おばさんは?」

「買い物行ってる」

「そう」

「お前なにしに来たの」

「味醂足りなくなったから借りてきてほしい、って頼まれて」

「あー……、すぐいる?」

「さあ? 別におばさん帰ってきてからでもいいよ」

 本当は、もう少し長くいたいから、ゆっくりの方がよかった。だが、夕食を作る片手間に慌ただしく頼んできた母の姿を思うと、おそらくは急いだ方がよいのであろう。それでも、ささやかな願望は隠しきれず、日紗子の返答は自然と煮え切らないものになった。


「ちょっと待てよ。味醂……味醂ってどこだー」

 それなのに、こういう時の気の利かせ方ばかり優秀な塚原 要は、読んでいた本を閉じると、キッチンの方へ足を向けた。残念に思いながら、日紗子は「悪いわね」と言ってソファに腰かける。普段、台所になんてほとんど立たないせいだろう。要はいろんな引き出しや棚を開けては閉めて、開けては閉めてを繰り返していた。その背に向かって、日紗子はなんとはなしに声をかける。

「ダメよー、要。最近じゃ、料理もできない男はモテないんだから」

「余計なお世話だよ。お前だって人のこと言えないくせに」

「あたしはいいのよ。もう少ししたら花嫁修行始めるから。お姉ちゃんみたいに」

「そういうことは貰い手が決まってから言えよな」

 わざとらしく姉の話題を付け加えてみたが、要の反応はいたって普通だった。以前なら、ほんのわずかに動揺の色を見せていたはずなのに。姉の結婚が決まった際に、吹っ切れたのだろうか。わざわざ日紗子がつくってやった告白の機会をふいにして、自分の気持ちを伝えはしなかったと聞いたが。何があったのかは、要と静奈しか知らない。そこには、日紗子には知ることのできないやりとりがある。もしかしたら、なにかしらがあったのかもしれない。姉にも幼なじみにも、それを問い詰めることはしないけれど。

 要が静奈に向けるような気持ちで、日紗子が要を見だしたのはいつだったろうか。おそらく要が静奈を想うようになった頃と同時期か、少し遅いくらいだったろうと推測する。どんなに素敵で魅力的な男の子を見ても、“要ならああする”、“要ならこうする”といった先入観が抜けなかったのだ。わりあい長い片思いである。頭脳明晰で聡い塚原 要は、そういうことに関してはとんと鈍かった。よくも気付かないまま数年を過ごしてこれたものだと、日紗子は自分事ながら嘆息せずにいられない。そしてそれは、今現在に対しても言えることであった。


「要はあたしに彼氏ができたらどうする?」

 滑るように言葉が落ちた。疑問詞まで吐露したところで「なにを言ってるんだ」という自問に至ったが、その時には手遅れだった。言葉はしっかりと要の耳に届いて、彼からは「あ?」という不可解そうな声が返ってきた。

「なんだそれ」

「いや別に、なんとなく」

 妙なことを言ってしまった気まずさが、日紗子の語調を速くした。語尾をゴニョゴニョと濁しながら、明後日の方角を向く。姉のことならいざ知らず、日紗子の交際関係を要が気にするはずはなかった。彼は彼女を異性としては見ていない。


『別にいいんじゃねぇ?』

『祝いの言葉くらいはやるよ』

『俺には関係ないことだし』

 想像する返答のどれもこれもが事実で、胸がギュッと痛んだ。要が自分をただの幼なじみとしてしか見ていないことは重々承知している。しかし、それを突き付けられるのは辛かった。わかっているからこそ、それ以上の刃で切り刻まれるのは嫌だと思った。


「それはちょっと気に食わねぇな」

 意外な台詞が聞こえたような気がして、日紗子は顔を上げた。「あったあった」と呟くその背に、「え……?」と零す。

「なんで?」

「ん?」

 要は振り向くと、味醂の容器を持ったまま、腰に手を当てた。

「だってお前、そんなことになったらぜってー自慢してくんだろ」

「彼女のいない塚原 要くんに?」

「うっせーな! まあとにかく、そういうのがなんかムカつくから、お前に先に彼氏ができんのは嫌だ」

 するりと全身を撫でるような感覚が彼女の体を包み、なんらかのあたたかなもので満たした。薄いベールを一枚羽織ったような感覚。ふわりとしていて、柔らかで優しくて、日紗子の心は淡く火照った。

 要の言うことの根底に、特別な感情などはない。その言葉のままに、彼はただ日紗子に先を越されるのが悔しいだけなのだ。もしくは、それによって自分が馬鹿にされるのが我慢ならないか。だが、それでもよかった。想定する返しのどれよりも、要の言葉は日紗子に優しかった。これより素晴らしい答えは、今の要からは期待できない。日紗子は今すぐにでも飛び上がってしまいたかった。

「あたしは要に彼女ができたら、ちゃんとお祝いしてあげるけど?」

 いたずらっぽく笑うと、「余計なお世話」という声と鬱陶しげな表情。そして、目の前に突き出される味醂のボトル。


「ねえ、要」

 そっと両手で受け取り、日紗子は口を開いた。

「いつかお祝いできるといいね」

 願わくば、それが二人の初めてのお祝いになるといい。





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