とある昼下がり。まどろんだ午後の穏やかさとは似つかわしくない形相をして、新山 仁子は膝を抱えていた。ソファの上で体育座りをして、頬をめいっぱい膨らませて、負のオーラを頭からトゲトゲと発していた。

 その姿を、日染 芳春がいつもどおりのふにゃんとした顔で眺めている。仁子が膝を抱えるL字ソファに仁子と同じように体育座りをして、彼女の様子を窺っている。

「どうしたの、仁子さん。ほっぺたがハリセンボンみたいになってるよ?」

 状況にそぐわないほがらかな笑みを浮かべて、日染は仁子に問いかけた。彼はいつもだいたい緊張感がない。シリアスが逃げていく類の人間なのだ。

 そしてそれは仁子にしても同じで、不機嫌なオーラは出しつつも、膨らんだ頬は間抜けだし、プイッと顔を背ける仕草も子どもじみていて、いまいち剣呑としきれない。

 しかし、仁子が話したくないというのなら、日染も無理に問い詰めたりはしない。フッと笑みを深くして、あたたかく彼女を見守るだけだ。日染 芳春は、その異常なまでの被虐趣味――つまるところ、インモラルのドM――さえなければ、比較的落ち着いた穏やかな青年なのである。

 ふと、日染は話を変えるように視線を天井に移した。

「そういえば今日は千鳥さんは来ないのかな」

 この部屋によく集まるメンバーの一人の名を出すと、仁子の肩がビクッと大袈裟に跳ねた。さらに唇を尖らせたぶすくれ顔になり、

「千鳥は天河くんと出かけてくるって」と、ボソボソと呟いた。

「ああ……」

 この部屋によく集まるメンバーのもう一人の名が出たことで、日染は納得したように頷いた。

「それでご機嫌ナナメだったんだねぇ」

 日染はフフッとたおやかに笑った。

 元キズナイーバーのメンバーの二人、天河 一と高城 千鳥は、最近なにかと二人でいることが多くなってきている。失恋した千鳥と、その千鳥に失恋したかたちの天河だが、その関係はゆるやかに、あるいは急速に、友達以外のなにかへと姿を変えつつある。

 だが、仁子だって、間違いなく本気で天河のことを好きなはずなのに――。

「仁子さんって、やっぱり結構大人だよねぇ。天河くんのこと諦めてないのに、邪魔しなかったんだ」

「だって最近、二人一緒にいるとすっごく楽しそうなんだもん! 仁子、オジャマ虫なんだもんー!」

 ジタバタと暴れながら仁子は叫んだ。顔文字でたとえるなら、“大なり記号”と“小なり記号”を合わせたあの表情だ。

「友達だもん……。二人が幸せそうにしてると、仁子も幸せなの」

 普段の賑やかさを潜めて、仁子の囁きはそっと溶けた。仁子は元キズナイーバーの中でも特に“友達”というものにこだわっている。それは、仁子に友達がいない(まあ、千鳥以外は皆一様に友人と呼べる相手はいなかったのだが)からだが、そうでなくとも彼女はとても友達思いなのだ。自分のことより他人のことを優先してしまいがちなのは少し心配だが、それが仁子の長所と言える。

「夕日の海辺で、天河くんを賭けて千鳥さんと殴り合いはしたの?」

「してない! でもでもっ、いつか絶対するんだから! そしたら……」

 仁子の瞳が宙を見上げた。

「そしたら仁子も、泣いて怒って……笑顔でスッパリ、天河くんのこと諦められる気がするの」

 日染はハッとしたように目を見張った。仁子は「でもまだ負けてないもんね」と再び頬をハリセンボンにする。考えるみたいにジッと彼女の顔を見ていた日染は、いつものように柔らかく微笑んだ。

「ほっぺが風船みたい」

 仁子の丸く膨らんだ頬にそっと日染の指が滑る。ふいに触れたその冷たい指先に押されて、仁子の口からプッと空気が漏れる。わりと行動を共にすることの多い二人だが、日染がこんなふうに触れてくることは滅多にない。いや、滅多にじゃなくて全然ない。これが初めてだ。こんな、男女のような接触は。おまけに、斜め前にいたはずの日染がいつのまにか真横に移動している。それも、とても近くに。

 包帯がグルグル巻かれた彼の左手が、そっと仁子の右手を包んだ。ギョッとして、仁子は日染を見上げる。見上げて、見上げたことを後悔した。ビックリするくらい、息が止まるくらい、近かったのだ。拳一つ分ほどの距離に、日染 芳春の整いまくった天然イケメンフェイスがある。ヒィッと固まっているうちに、日染はもう片方の手で仁子の左手を握った。そうして彼の体がグイッと乗り出してくると、仁子は正面から両手を握られて覆い被されるかたちになる。

「ひっ、ひそひそひそ、日染くんっ?」

 テンパった仁子が名前を呼ぶも、彼の体が離れる気配はない。吐息がかかる距離とはまさにこのこと。お昼ごはんニンニクじゃなくてよかったぁと、場違いなことを仁子は思った。

 日染はなにも言わない。いつもの笑みを浮かべている。彼の長い前髪が仁子のおでこにかかる。これ以上近付いたら、日染の口元のピアスが当たってしまいそうだ。それは痛い。でもそれより、そんなことより、それ以前に、

 ――キスされてしまうのかもしれないと、仁子は直感的に思った。

「あの……」

 そこへ、第三者の抑揚のない声が響いた。抑揚のないなりに、遠慮と困惑が内包された声だった。この家の主、阿形 勝平が立っていた。

「そういうのは、できればウチ以外でやってほしいっていうか……」

 ソファの二人を見下ろしながら、勝平は言った。「にょわー!」と叫びながら、仁子は日染を突き飛ばす。「アァッ」突然の衝撃に、日染が恍惚じみた声を上げた。突き飛ばされたのにうっとりと笑っている。

「なにするの! 日染くんのアホアホアホアホ」

「あぁっ、仁子さんもっとぉ……!」

「アホアホアホアホ」

 ポカポカと日染を殴る仁子。けれど、変態ドMにしてみればその程度の殴打はなんの罰にもならず、むしろご褒美と言うにも刺激が足りない生殺しになる。「もっと強くぅ!」と、何故かさらに要求してくる始末だ。

「えっと……」

 蚊帳の外になってしまった勝平が、躊躇いがちに呟く。

「そういうの、止めるつもりとかはないけど。せめて場所は考えたほうがいい、と思う」

 自分の髪を指先でいじりつつ、そっと視線を逸らす。感情の機微に乏しい彼だが、それなりに気まずさを感じているようだ。

「ちがうよ、勝平くん! 仁子と日染くんはそんなんじゃないからー!」

 あいかわらずワーワーと日染を叩きながら、仁子は涙ながらに勝平に訴えた。

 勝平は仁子の言葉に納得したのか、それともどうでもよくなったのか、気を取り直したように顔を上げた。

「飲み物……なくなったから、買いに行ってこようかと」

「あ、仁子も行く行くー!」

 シュバッと、仁子の挙手がそびえ立った。

「え、いいよ別に、俺一人でも……」

「ダーメ、一緒に行くの! 友達はトイレにだって一緒に行かなきゃいけないんだから」

「俺と仁子さんが一緒にトイレはまずいと思うけど……」

「それに、仁子たちお邪魔させてもらってるんだからお手伝いしないと。ね! 日染くん」

 勝平のまっとうなツッコミをスルーしつつ、仁子は日染を振り返った。

「うんうん、そうだねぇ」

 日染も、すっかり元ののんびりな調子に戻って同意する。

「……じゃ、お願いします」

 二人からの申し出に、勝平は頷いた。普段どおりの薄い表情だが、まんざらでもなさそうだ。彼も友達というものを彼なりに大事にしていて、憧れて、実行しようとしている。

「じゃあ行こっかー!」

 仁子が元気よく立ち上がり、日染ものそっと腰を上げた。勝平も同意するように玄関に足を向ける。

 ――と、歩きだした仁子の肩に、そっと日染の手が回された。えっ、と思う間もなく、耳元に彼の気配を感じ、

「続きはまた今度ね」

 そんな囁きが、彼女の耳に吹き込まれた。

 ドカンと仁子の頭が爆発する。実際に爆発したわけではないが、そう比喩するしかないほど、瞬間的に思考も落ち着きも吹き飛んだ。振り向くと、日染はフフッと妖艶に笑っている。微笑みの種類に見覚えがないことも、また仁子の動揺を煽った。ピーッとやかんが沸騰するみたいに、彼女の顔に熱が集まっていく。

「ひっ、日染くんのバカバカバカバカ!」

 再び仁子のポカポカ攻撃が炸裂した。あいかわらず「アッ」と喘ぎながら、日染はうれしそうにそれを受け止めた。そこには先ほどまでの色っぽさはなく、騒がしさに振り返った勝平も(またやってる)と思う程度だった。

 だが、ほのぼのとした二人の間に突如現れたその色気は、決して夢ではなかった。何故なら今しがたの日染の微笑みも、ドキドキする仁子の胸も、さっきのってどこまで本気だったんだろと仁子が見上げた時の彼の瞳の熱も、すべて幻ではなかったのだから。





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