すっかり夜も更けた真夜中のこと。草木も眠る丑三つ時。低学年のよい子たちはとうの昔に布団へもぐり、のんきに涎を垂らしながら夢の世界を旅している、そんな頃。

 忍術学園、くのいち教室在住の一人、ナオミは、ふいにむくりと起き上がった。すっかり寝入っていた意識すら覚醒させる、突然の尿意だった。

 ――川で水浴びする夢を見たからかな。

 布団に座ったまま、ぼんやりとした頭で、ぼんやりと薄れていく夢を反芻する。確か、そんな夢を見ていたようだった。暑い夏の日、くのいち教室で実習をしていた。あまりの暑さに、何人かが涼を求めて山奥へと足を踏み入れた。そこで、奇跡のような素晴らしい泉を発見したのだ。これはしめた! と、くのたまたちはこぞってその泉へ水を浴びに出かけた。しかし、最終的には腹掛け姿でだらしなく涼を貪るところを山本 シナ先生に発見され、キツーいお叱りと補習授業と課題を出される。そこで、その夢は終わったのだが――

(ん? よくよく考えればこれってついこないだあったことじゃない?)

 夢の内容をなぞっていると、それがつい数ヶ月前の暑いさなか、実際に起きた出来事だとナオミは思い出した。自分は、あの時のことを夢で再現しただけだったのだと。

 なるほどなるほど、と一人納得しながら、ナオミは布団から出た。とたん、冷たい気温が肌を刺す。布団であたたまっていた体が、ブルリと震えあがった。今は、水浴びなどしようものなら、間違いなく寒中水泳となる冬の盛りだ。

 チラリと隣を見れば、同室のミカが健やかな寝息を立てている。起こさないようにと抜き足差し足で枕元を回り、障子をそっと開けて、ナオミは廊下に出た。

「寒い!」

 室内よりもさらに極寒な板張りの廊下は、寝間着に裸足といういでたちの彼女を震え上がらせた。

 両手で体を抱きながら、厠に向かって小走りに進む。早く用を足して迅速に布団に戻りたい。タタタ、とやや辺りに響く足音をさせていると、

 ――ガサッ……

 ハッと、ナオミの眼光がきらめいた。

「だれ!?」

 足を止め、バッと臨戦態勢をとる。懐に忍ばせていたクナイを素早く手にかまえ、ナオミは何者かの気配を感じた茂みを睨み付けた。寝間着姿の際でも用心は怠らない。教えがまさに今役に立ち、彼女は怪しい気配と対峙することができている。山本 シナ先生の言うことは正しかったわ! と、心の中で呟きながら。

 ジリジリとした緊迫感に、嫌な汗がこめかみをつたった。ゴクリと唾を飲み込んだ直後、

「すまない。驚かせてしまったか」

 落ち着いた低い声が、茂みの向こうからハッキリと響いた。同時に、声の主がひょいと姿を見せる。ナオミはクナイを降ろしながら、キョトンと目を瞬いた。

「六年い組の立花 仙蔵先輩」

 いかにも、というように、仙蔵は目顔で頷いた。

「なにしてるんですか? こんな時間に。それにここ、くのたま長屋ですけど」

「うむ。それが、いろいろあってな」

 こちらに足を進めながら、仙蔵はすこし言いにくそうに目を閉じた。クナイを懐に戻しながら、ナオミは首を傾げる。

 仙蔵は縁側廊下のすぐ傍まで来ると、嘆息しながら腕を組んだ。

「私は深夜の鍛錬をしようと、校庭の端で準備を始めていたのだ」

「へぇーっ」

 さすが六年生、とナオミは感嘆の声を上げる。

「しかし――」

 そこで仙蔵は閉じていた目を開き、声のトーンをグッと低くした。キリリと上がった彼の目尻が、緊迫した雰囲気を漂わせる。ナオミはつい「しかし……?」と身を乗り出した。

「軽く体をほぐしていると、ふと妙な気配を感じてな」

 秘密事か怪談でも語るように、仙蔵の口調はなにかよからぬものを感じさせる。不穏なBGMが背後でかかっている。ゴクリと音をさせて、ナオミは唾を飲み込んだ。

「目をこらして見てみると、何者かが屋根の上や塀を動き回っているのが見えたのだ」

 ひいぃ、とナオミは飛び上がった。先程のように、己を守るように両手で身を抱く。けれど今は、けして寒いからではなかった。

 仙蔵はそんなナオミに目顔で「まあ落ち着け」と諭すと、再び目を閉じた。

「それを発見し、即座に私は後を追跡したのだが」

「ほ、ほお……」

「庭に出てみると、二つの人影が応戦しているようなのだ」

「えぇっ……!」

 ついに彼女は、驚嘆と畏怖と好奇心の混ざった声をこぼし、おののいた。

 仙蔵は右手の人差し指を立て、

「小松田さんが入門票を片手に、賊らしい侵入者を追いかけているところだった」

 ナオミは盛大にこけた。お約束とばかりに、画面からフレームアウトして、足だけを覗かせるかたちで転んだ。

「こ、小松田さん……?」

 ヨロヨロと起き上がりながら訊くと、仙蔵も複雑な面持ちで「ああ」と呟いた。

「賊が侵入したことは確かだったようだが、いやはや無断でこの忍術学園に忍び込むなど、とんだ命知らずだ」

「まあ、『入りますよ』と声をかける賊はいませんよね。それじゃ“侵入”にならないし」

 バツが悪そうに、仙蔵は喉の奥で唸った。理由はなんとなく想像がつく。おそらく彼も、小松田さんの「サインしてください」攻撃に仕留められた経験をお持ちなのだろう。むしろ、忍術学園の生徒ならば、だれしも彼の追跡を振り切れなかった過去を持つ。賊だろうがドクタケ城だろうがタソガレドキ城だろうがお構いなしだ。

 小松田 秀作は、忍者に憧れる一人の青年である。しかし、そののんびり屋ともとろくさいとも鈍くさいとも言えるセンスのなさで、ことごとく忍者となる機会を逃している、忍術学園の事務員である。

 そんな忍者としての技術はからっきしの小松田さんだが、彼の本領はひとえに入門・出門表を手にしてから発揮される。学園へ足を踏み入れる者、学園から外へ出る者、誰一人として小松田さんの追跡からは逃れられない。彼の言葉どおり「地獄の底まで」追いかけられるのだ。学園へ忍び込んだという賊も、どこからともなく現れた小松田さんに「入門表にサインをお願いしまーす!」と追いかけ回されたに違いない。そりゃあ、侵入早々に見つかったばかりか、謎の理由で追ってこられては、賊とて驚くだろう。ああいう時の小松田さんの身のこなしを見ていると、「あの人ほんとに忍者としての素質ないのかしら」と首を傾げてしまう。

「なるほど。小松田さんなら仕方ありませんね」

「ああ……離れたところで、会計委員長の潮江 文次郎が私と同じような顔をして呆けていた」

 その光景を想像すると、つい吹き出し笑いを禁じえなかった。忍者学園一ギンギンに忍者している地獄の会計委員長・潮江 文次郎と、忍術学園一冷静で優秀な作法委員長・立花 仙蔵が、どうしたものかと肩を落としながら賊を追う小松田さんを見送っていたなどと、想像するだけで笑いがこみ上げてしまう。隠しきれないナオミの笑い口をじろりと睨んで、仙蔵はハアッと息を吐いた。彼のトレードマークである美しいサラサラストレートヘアが、ふわりと揺れた。

「まあ、そんなわけで、鍛錬に勤しむ気分でもなくなり、行き場のないこの微妙な敗北感を抱えてブラブラと散歩をしていたら、うっかりくのたま長屋まで来てしまったのだ。そして、『まずい』と踵を返したところを、お前に見つかった」

「そうだったんですね」

 いまだ零れる笑いを微笑みのようにごまかして、ナオミは相槌を打った。

「すまなかったな。寝間着姿の女子をこんな寒空の下で呼び止めて」

 眉を下げて笑う仙蔵に、ナオミはハッと自身の格好を省みた。おろした髪に白い寝間着一枚で、はしたないことこの上ない。いまさら慌てて前をかき合わせる。仙蔵は少し困ったように苦笑した。

 そして、彼が「では私は退散するとしよう」と背を向けた瞬間、

「へっくしゅん!」

 静かな夜半に、くしゃみの音が響く。仙蔵がキョトンと振り返った。ナオミはズッと鼻を啜る。

 確かに、この寒い中、薄着で外気に身を晒しすぎた。寒さで耳や指先がキンキンと痛む。鼻からはたらたらと鼻水が垂れ、まるでしんべヱのような顔だ。ぶるりと震える体はすっかり冷えきって、カタカタと小さな震えを起こした。こんな綺麗な人の前でみっともない、とナオミの女の部分は言うが、なんといっても寒かった。

 そっ、とほのかな暖かみが体を覆った。顔を上げると、仙蔵の顔がすぐ近くにある。ナオミはあやうく舌を喉に詰めそうになった。装束姿であったはずの仙蔵が、いつの間にやら黒の腹掛け一枚になっていた。鍛えられた二の腕の造りにまたギョッとする。さらにギョッとすることに、その脱がれた仙蔵の装束が、ナオミの肩に引っかかっているではないか。なんということだ。

「たっ、立花先輩! いいですよ、そんな」

「せめてもの詫びだ。女子は体を冷やしてはならんというだろう。心配するな、私なら予備がある」

「そういう問題……?」

 もう受け取らないぞと言わんばかりに、仙蔵はナオミの胸元できっちりと襟を閉じた。予想以上にサイズが大きい。これが普段、立花 仙蔵が着ている装束なのか。ナオミはこっぱずかしさのあまり、顔面を真っ赤に染めた。

「寒かったろう、鼻が真っ赤だ。それだけではやはり心許ない。早く部屋に戻ったほうがいい」

「ありがとうございます……」

「気にするな。元より鍛錬のために出てきたのだ。こういう鍛え方だと思えば苦ではない。あの鍛錬バカのようですこし気は引けるが、まあ可憐な少女を前に格好を付けれたのなら、むしろ釣りが来よう」

 さらりと歯の浮くような甘い台詞を吐かれて、ナオミはとうとう声をなくした。その間に、仙蔵はひらりと塀の上へ飛び乗った。チラリとこちらを振り返る。深い夜と、月明かり。松の木の影に佇むシルエット。長い髪が風にたなびき、彼はその美しい容貌に艶やかな微笑を浮かべた。

「おやすみ」

 シュッと影が塀の向こうへ消える。あんな格好だというのに、ちっとも寒そうには見えなかった。これが上級生というものか。

 ナオミはと言えば、腰が抜けて立ち上がれなくなっているところだった。冷たい廊下に尻餅をついて、仙蔵が消えていった方向を呆然と見つめている。これではせっかく彼にもらった気遣いが台無しだと、彼女は壁に手を付いてフラフラと立ち上がった。反動で装束が肩から滑り落ちそうになるのをとっさに押さえる。そして、その濃緑を掌でそっと撫でた。

 厠へ行く気力はすでに失せていた。今、彼女の脳内を占めるのは、これをどうやって仙蔵本人に返しに行くべきかということと、間近に触れた彼の体温だけである。





▽一周年記念小説。仙蔵とナオミ




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