簡素なベッドの真っ白なシーツに、陽に焼けた健康的な肌の少女が横たわっている。四肢を適当に投げ出し、ぼんやりと中空を眺めている少女は、名を浦部 リカという。

 リカは、シンプルながら品のよい仕立てのワンピースを着ていた。しかし、皺やシミを気にかけず、裾がめくれることにも頓着されないそれは、残念ながら元の愛らしさを主張できていない。言わば彼女の寝間着程度のものだった。

 彼女にこのワンピースを贈ったのは、エドガー・バルチナスというイギリス人の少年である。――いや、“元”少年というべきだろうか。エドガーが初めてリカと出会い、こうして英国の空の下、同じ部屋で日々を過ごすようになってから、すでに幾ばくかの時が過ぎた。彼はいまや青年と呼ぶしかない年齢になっているし、リカも同様に少女から女性へと成長した。その間に起こったあれこれを、エドガーはいとも簡単になぞることができる。なにも起こっていないからだ。ただ、大きな失恋をして傷付いたリカを、エドガーが半ば連れ去るようにして母国へと呼んだ。ただそれだけである。

「エドガー」

 誰かが自分の名を呼んだ。誰かもなにも、この部屋にいるのはエドガーをのぞけば一人しかいないので、声の主はわかっている。聞き違えるようになるのは、彼女の声が元の溌剌とした明るさを含んでいないからだろう。静かに、吐息を空気に溶かすような喋り方は、出会ったばかりの彼女では想像もできなかった。そんなことを深く悲しんでいる己に驚きながら、エドガーは顔を上げた。

「なんですか? リカ」

 柔和な微笑を装備することには慣れている。だが、こんな仮面を付けたところで、リカが昔のように「だれにもかれにも愛想振りまいて、なんや信用でけへんな」などと揶揄ることはない。「レディ」というエドガーの女性に対する呼称を「むず痒い。やめてぇなそんなん、リカでえいわ」と笑ったはずの彼女は、いつからかエドガーが自分を名前で呼んでいたことすら、もしかしたら知らないのかもしれない。

「なんや、難しい顔しとった。元気ないの?」

「そんなことはありませんよ。今日はよい風が入ってきますね」

 まるで彼女の言葉を気にかけていないように、エドガーはコロリと話を変えた。けれど、リカがそれに憤慨して声を荒げることはない。エドガーがすいと見やった窓の外を見、そこに広がる青空にわずかに目を細め、優しく吹き込む涼やかな風に「ほんまや」と頷くだけだ。

 強引な話題転換は、もはや防衛のようなものであった。二人とも、会話は好んで弾ませるタイプの人間だったのに、いまやこんな噛み合わなさがデフォルトとなっている。エドガーはリカのこういう、あらゆることに無気力になったところや、少しばかり俗世からずれ始めた感覚たちが恐ろしくて、話を逸らした。ふとした時に現れると、胸がギクリと痛むからだ。常にずれていれば、まだ心の準備もできる。

「さあ、そんな格好をしていないで。風邪をひいてしまいますよ」

 子どもに言い聞かせる母親のように、エドガーはリカに布団をかけた。リカはおとなしくその中におさまり、またぼんやりと自分の爪に焦点を当てた。

 エドガーがリカに好意を持った頃、その時点ですでに彼女には心に決めた相手がいた。しかし、その彼にもまた他に好いた相手がおり、リカの大きな大きなハートマークは、結局一度も受け取られぬまま、粉々に砕けた。それは、心身共に“ダーリン”に惚れ込んでいた彼女をも、粉々に砕いた。あんなに勝ち気で明るかった面影が、もう立ち上がれないほどに弱々しくなったのは、間違いなくあの一ノ瀬 一哉のせいだ。リカは周囲が思っていた以上に、あの恋に命を懸けていた。

「エドガー……」

「なんですか? リカ」

「ん、いや……なんでもない」

 こんなふうに、言いよどむことが多くなった。以前は、言いたいことはなんでも口に出す性分であったのに。

 リカがいつも途中で止める言葉の続きを、エドガーは知っている気がした。だから、言わせたくなかった。これはエドガーが自分のためにやっていることで、彼のエゴだ。勝手なまねを咎められるならまだしも、感謝されることも謝罪されることも、心苦しいことこのうえない。こうして、二人の間に見えない言葉たちが降り積もっていく。

「あの恋を忘れられへんねん」

 出会った頃、リカはエドガーにそう言った。エドガーはただ微笑んで、「では待ちます」と言った。待てると思ったのだ。あたたかな愛情で包んで甘やかして優しくすれば、きっといつか自分を見てくれると、彼は信じていた。

 自惚れていたのだなと思う。転落するように、リカは抜け殻になっていった。あんなに好きだったメイクも、お好み焼きも、友達も、サッカーも、全部に心を揺るがされなくなった。まるで「一ノ瀬 一哉」という存在が、リカからなにもかもを奪い去ってしまったように、彼女にはなにも残っていなかった。涙と、いつまでもくすぶる恋心くらいが、リカに残されていたすべてだった。

 ベッドのふちに腰かけて、エドガーはリカの空色の髪を梳いた。柔らかで、手触りがいい。けれど、もうそろそろ風呂に入らせなければなるまい。いくら日がな一日家にいると言っても、三日も四日も風呂に入らないというのは、衛生的によろしくない。

「好きですよ、リカ」

 いつものように優しく、エドガーは囁いた。ほんのわずか、リカが身じろぎする。

 リカが傷付いたのと同じように、エドガーもたくさん傷付いた。でも、受け入れて待つと決めたからには、辛抱強く待つ他ない。どこの馬の骨とも知らない男に、まっすぐ目を見て打ち明けたエドガーに、「娘を頼む」と肩を叩いてくれた彼女の母のためにも。突然目の前から友人が消え、勝手に連れて行かれたのだと知っても、「しっかりね」という内容の手紙を送ってくれる彼女の元チームメイトのためにも。エドガーはリカを救わねばならないのだ。

 リカは黙ったまま、シルクのシーツを強く握った。つややかな光沢を放ちながら、シーツはくしゃりと歪んだ。

「エドガー、あたしな、やっぱりあの恋を忘れられへんねん」

 久しぶりにリカは表情を表した。もはや、リカが表情を作るのは、辛いだの苦しいだのといった、こういう表情だけだ。

 エドガーは「ええ」と頷くと、腰を屈めて、リカのまぶたに軽くキスをした。プラトニックなキスに、リカはおとなしく目を閉じた。欧米では、このくらい挨拶がわりだ。しかし、忘れてはならないのは、リカはけっして欧米の育ちではないということ。エドガーがキスをするのは、今ではもう彼女をおいて他にいないということ。労りと優しさと欲望と、繋ぎ止めている確認をするために、彼も踏みとどまっているということ。

「わかっていますよ」

 微笑むエドガーに、リカはちょっと表情を曇らせると、目を逸らすように体を縮こまらせた。

「もう見捨ててもええんやで。いつまでもこんな女の面倒見るん、嫌やろ?」

「なにを言うんです。たとえ明日もしあなたが壊れても、私はここから逃げ出しませんよ」

「……きっともう壊れとるよ」

「それなら、私も共に悲しみの海を彷徨いましょう」

「なんで……」

「私はあなたを愛して初めて知ったんです、失う怖さというものを。いままで数多の女性を口説いてきた、このエドガー・バルチナスがですよ」

 最後にふふっと笑いを零すと、リカも口元に形ばかりの笑みと、目元に苦笑を浮かべた。

「報われんやっちゃなー」

「いいえ。今のあなたの笑顔で、私はだいぶ報われた心地ですよ」

 だから早く、昔のようにもっとたくさん笑ってください。

 そんな願いを心の中だけで呟きながら、エドガーはリカの頭を撫でた。その手に導かれるように、リカは大きな目を伏せる。こうやっておとなしくしているのも悪くはないけれど、エドガーはやはり、太陽の下で腹を出したユニフォームを着て活発に動き回る、あの頃のリカを忘れることができない。

 あの恋を忘れられないというリカの顔が、本心を隠したものであることをエドガーは知っていた。ひょっとしたら、自分にもまだ望みがあるのではないかと、ささやかながら彼は喜んでいる。たとえそれが、「明日もし君が壊れても、ここから逃げ出さない」なんて真顔で言ってしまうエドガーに、同情と憐れみと申し訳なさからほだされたのだとしても。

 いつか彼女が寝間着のワンピースを脱いで、晴れ渡った空の下、自分好みの洋服を買うためにエドガーを強引に連れ回す未来を、いまだに彼は夢見ている。




▽明日もし君が壊れても/WANDS



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