いまだに思い出すことがある。

 初めて天馬の手を振り払ったあの日のこと、あの時の天馬の顔。



 きっと、その時葵が欲しかったものは、とても大切で、とてもちっぽけで、とてもありふれたものだった。

“あなたがほしい”

 ――それは、恋をした人類が皆抱くのではないかという願い。空野 葵が松風 天馬を欲するということは、つまり葵が天馬に恋をしているということと同義であった。事実、葵は天馬に恋をしていた。小さな頃から隣にいて、すくすくと成長していく一番身近な“男の子”に淡いときめきを覚えたのは、だいぶ前の話になる。葵と天馬の関係が“幼なじみ”という名称でカテゴライズされるようになったのは、さらに前の話になる。

 言ってしまえば、それが葵にとっての最大の障壁だった。一度定着してしまった距離感は容易に崩れることはなく、近いのに遠いというもどかしさを持て余したまま、二人は今日も肩を並べて歩いていた。

「でねー、今日キャプテンがさー」

 楽しそうに部活のことを語る天馬の話は、残念ながら葵の記憶には残らない。それよりも今の葵は、少しだけ見上げるようになったその面影を覚えるだけで精一杯だった。

 じっと見つめる彼女の視線を妙に思うこともなく、天馬の唇はあいかわらず淀みなく動く。いまさら「サッカーが天馬を奪った」なんて思うことはない。天馬がサッカーに魅入られているのは昔からだ。こうやって葵にサッカーの話を聞かせるのも、もうかなり前からだ。天馬は変わらない。変わったのは葵の方だ。昔は天馬のサッカー話に、わからないながらも「うんうん」と真剣に耳を傾けた。天馬が楽しそうなら、葵も楽しかった。こんなふうに、天馬の心の大半を占めるものに、興味をなくしていったのはいつからだろう。同じ喜びを、同じ熱さを、同じ感動を、共有できなくなったのはいつからだろう。

「そういえば葵、覚えてる? 昔、母さんに内緒で二人でサッカー見に行ったこと」

 ふいに聴覚が言葉をとらえたのは、まことに単純ながら、自分の名前が呼ばれたからだろう。乖離した思考と感覚が直結し、葵は瞬時に頭を回転させる。「うん、覚えてるよ」まるで聴いていなかった素振りを示さず、彼女は答えた。微笑みまで添えたその回答はひどく完璧で、天馬は自分の話が聞き流されていたなどと思うはずもなく、「あの時見た試合すごかったよなー」と笑う。再び葵から心を逸らした天馬から、葵もまた目を逸らす。

 こうやって閉じた思い出の日記をこじ開けて、幼なじみという歴史をなぞる天馬を、葵は苦々しく思う。二人の間柄を曖昧で明確なものにするのは天馬の悪い癖だ。また、それが無意識下で行われているのだから余計にタチが悪い。おそらく天馬のこうした無意識の防御は、心地よい関係を崩したくないがための自己保身なのだ。男というのは、いつも肝心な場面で怖じ気づいてしまうものだから、天馬はいつも葵の感情的な視線を見て見ぬふりした。

 勘は悪くないということだろう。第六感に似たなにかで、葵の胸中のどす黒いものを感じ取っている。恋を知らない彼は、それがなんだかわからないから尻込みし、目を逸らし、“幼なじみ”というバリアを張って、警戒線を濃くするのだ。

 この少年がそこまで読んで言動しているわけでないのは、彼と付き合いの長い葵にはわかっていることだった。だからこそ、葵は蔑むような自嘲で唇を噛んだ。

 幼い頃、たった二人で手を繋いで押し入れに籠もっていた、あの日々が懐かしくてならなかった。できることなら、天馬をあの日のあの部屋へ閉じ込めて、お互いに成長することもなく、クスクスと腕をつついて遊んでいたかった。それが叶わぬなら、彼の飼い猫にでもなって、その不器用でとびきり優しい掌に撫でられながら死にたかった。どうすることもできないまま、葵の呼吸は今にも止まってしまいそうに喘いでいる。

「ねえ、天馬」

 葵は自分から声をかけた。天馬は喋っていた口を間抜けに開けたまま押し黙った。

「天馬、恋をしているでしょう」

 彼と付き合いの長い葵だから知っていた。恋も愛も知らずに、家族と友人とサッカーだけを愛していたこの少年が、いつの間にか無垢な皮をかぶっただけの男になっていたことを。天馬がかの男勝りな先輩女子に向ける目は、葵が天馬に向ける目と一致している。

 葵は知っていた。天馬がそれに気付きたくないと思っていたことも、そう思うことで自覚していたことも。ならば気付かないふりをし続けたかった。このまま可能なかぎり傍にいて、形ばかりでも“恋人同士のような二人”と周りに思われていたかった。だが、入ってしまった亀裂を元に戻すことはできない。それを補強するだけの接着剤もコンクリートも、葵の手にはなかった。彼女の手にあったのは、“幼なじみ”という有効期限のある切符だけだった。思えば、葵がこの切符を手離した時から、亀裂は入り始めていたのかもしれない。なぜなら、これは片道切符だったのだ。

 立ち止まる天馬は顔を真っ赤にして、それを見つめる葵の心は真っ黒に冷えた。

 ドン、と葵は天馬の体を押した。目を見開く天馬の体が、勢いに押されて後ろへ傾く。助けを求めるように宙を舞う手を、葵はけっしてつかまなかった。妙に、世界のすべてがスローモーションのように見えた。

 天馬の行く末を見届けぬまま、葵は踵を返して走り出した。振り返ることはなく、夕焼けに向かって走るように、全速力で風を切る。あのままいけば、天馬はたぶん尻餅を付いてしまうだろう。付けばいいのだ。自分が受けた痛みに比べれば、その程度は痛みのうちにも入らない。これは罰なのだ。葵が勝手に科せた天馬への罰。

 息が上がって、泣いているのだと知った。もっと鍛えておくべきだったと、運動部のマネージャーなのにと、脈絡のない思考でごまかした。

 多くを望むから失敗するのだ。“幼なじみ”なら、きっとずっと一緒にいられたのに。たとえ一番でなくとも、近くにいることはできたのに。一番近くで一番愛してほしいと願ったから、“幼なじみ”でなく“女の子”になりたいと思ったから、離れるしか道がなくなるのだ。手離すことでしか大切にできないだなんて、なんて馬鹿げた話だろう。

 鼻からも口からも息が出ない。とうとう嗚咽すら上げ始めた。それでも足はぐんぐんと前に進んだ。まるで逃げているようだと思った。

 肺の中がひどく冷たくて、心も体も凍っていく気がする。どうにもならないと思いながら、どうにかしたかったと嘆く。どうしてこうなってしまったのと、もう一人の自分が後悔する。

 これ以上、走れないと思った。それでも、走らないと辛かった。振り切ることができなくとも、葵は走り続けるしかなかった。



 いまだにあの日のことを思い出す。こうして、幼なじみの男が、以前の先輩と誓いのキスを交わしているのを見ても。

 純白に身を包んだ二人は、幸せそうに鼻頭を合わせて微笑んだ。盛大な拍手は、まるで耳鳴りのように鼓膜を打つ。その中に自分のものが混ざっているにも関わらずだ。それは細波のように、葵の胸の内でざわざわと小さくさざめく。

「よかったのか」

 かけられた声は、隣に座る男から発されたものだ。鋭い目つきは平素と変わらずクールだが、その手が奏でる拍手はひときわ高い。中学時代から葵や天馬を知っている男は、初めて会った頃には想像もしていなかった気遣いを、こうして彼女に寄越してくる。

「よかったのよ」

 葵は笑った。もう、“裏切り者! 絶対に許さない!”なんて言うような子どもではない。こうして失望する心中を微笑みで隠せるくらいには大人になった。しかし、それを「大人になった」と言うならば、大人とはなんてドライで、物悲しいものだろう。

 スーツを着込んだ背の高い男は、葵の答えにますます心配そうに目配せをした。その瞳に籠もるものは、あの日の天馬に対する葵の目とよく似ていた。

 見過ごして都合よく振り回すのがどれほど酷なことか、葵は身を持って知っている。だから、ここらで長い初恋にも終止符を打とう。だって、世界で一番大好きだった人は、今日こうして違う相手に一番を渡した。それなら葵も動き出さなければ。いつまでも、若かりし頃の甘酸っぱさに、足止めをくらっているわけにはいかないのだ。

「ありがとう、剣城くん」

 相手の男を見ないまま、葵は言った。この大喝采のなか、言葉が正しく伝わったのか、それはわからない。

 タキシードに身を包んだ天馬は、よく知っている人なのに、まるで見知らぬ誰かのようだった。

「あの時あたしが欲しかったのは、間違いなくあなたでした」

 零したとたん頬をつたった涙に、ようやくあの日が終わるのだと思った。長く、永久にさえ感じられた足枷は解き放たれ、彼女は自由になった。それを少し惜しいと思うのは、葵の中にくすぶる行き場のない痛み故か。

 仕方のないことかもしれない。何故ならあの時、間違いなく彼女は恋をしていたのだ。




▽ジレンマ/speena



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