竹くく←亜



 見つめているだけでいいのだ――そんな幼い恋ならよかった。


 板張りの廊下は、午後の日差しを受けて白く輝いた。毎日きっちりと雑巾がけのなされている板の足滑りはよく、足袋を履いた足はするすると前に進んだ。だというのに、亜子は立ち止まる。

 胸元に抱いた教科書も、目を伏せた表情もそのまま、彼女は庭先へと降りた。石壁で丸く象られた池が、そこにはある。澄んだ水を湛えた池には、鯉が一匹優雅に泳いでいた。傍まで寄り、覗き込むと、風に揺れる水面(みなも)には、いつもと変わらない自分の顔があった。

 ふう、と吐息を吐く。どうして、恋をしているのにこんな憂鬱な気分になるのか。周りの恋する少女たちは、皆ときめきに身を焦がし、胸を高鳴らせ、愛らしい頬を紅色に染めて恥じらっているのに。ごくたまに例外はいるが、“恋する乙女”というのはだいたいそんなものだ。亜子だって、少し前まで恋はそういったキラキラばかりで構成されていると思っていた。なのに、あれほどまでに羨んだ“恋する乙女”は、こんなにも辛い。今はただ、くすんだ灰が水面を漂っている。

 久々知 兵助というお人が好きだ。あの真面目さ、責任感の強さ、それに相反するような神経の細さと繊細さ、さらにその上をいく優しさ。そんなものすべてが好きだ。けれど、けっして自分に向けられることのない、そんなものたちが嫌いだ。

 恋というのは非常に面倒が多い。急に胸をつかまれたように恋しくなることもあれば、彼の視線の先に嫉妬することもある。そういうのも恋の醍醐味だ、と片付けることすら、亜子にはできない。状況を都合よく彩るには、亜子の状況はかなり難しいものがあった。

 久々知には、亜子より他に、愛をあげたい人がいるのだ。亜子が久々知を想うように、久々知も違うだれかを想っている。亜子との相違を上げるとすれば、久々知の想いが相手と通じ合っているところか。穏やかに微笑み合い、手を繋ぎ、身を寄せる権利を、久々知と竹谷 八左ヱ門は持っている。

 その場にしゃがみ込み、水との距離を近くする。ちゃぷりちゃぷりと密やかに打ち合う水たち。亜子は抱きしめるように、教科書を持つ手に力を入れた。

 きっとこの恋は、口に出すこともなく、伝わることもなく、叶うこともなく、終わることもない。報われることがないとわかっていても、亜子の心は今日も久々知 兵助を求め、気持ちを実感させた。小さな光として灯る熱は、この胸の温度を一向に下げようとしない。

 けれど、だからこそ輝いて見えるのだ。手に入らないとわかっているからこそ、よけいにあの柔らかな面影が欲しくなるのだ。竹谷との仲を引き裂いてまで、久々知を自分のものにしたいとは思わない。しかし、確実に亜子の心を支配してやまないこの感情を、捨てることもできはしない。どうやったって、今の亜子には、久々知以上に愛せる人がいないのだ。

 わかっている。こんなことは不毛だと。恋仲がいる人を好きになったところで、得るものは悲しみとやるせなさと深い傷。一文の得にもならない。けれど仕方がない。もう好きになってしまったのだから。

 なんとなしに上を向くと、薄い水色が広がっている。空は今日も同じだ。この空の下にあの人は生きて、自分も生きている。けれど繋がることはない。

 欲を言えばきりがないので、亜子は望みを何ひとつ口にしなかった。声に出したところで、見込みがないのは相変わらずだ。それなら、言葉にしてより実感することなどなく、無言で不明瞭なものに留めておきたい。

 ――強い女になろう。

 亜子は、他の誰でもなく、自分にそう訴えかけた。私はくノ一になるのだ。ならば強くあらなくてはいけない。男の忍者に対抗するだけの武力、誑かすための色香、自分の身を守るための知識・教養、味方が死んでも明日には人を殺せるだけの鋼の心、そんなものを身に付けなくてはならない。こんな小さな失恋くらいで、すべてを失ったような気分になっていてはいけないのだ。学園を出れば、こんな痛みはいくらでもあるに違いない。時には、愛した人を手にかけなくてはならない時もある。それに比べれば、叶ってさえいない恋を殺すことなど、赤子の手を捻るようなものだ。

 頭ではそう思っているのに、亜子の目からは大粒の涙が後から後から零れた。

 何故、どうして。不平不満なら、いくらでも口を突いて出てくる。だが、それを伝える相手もいない。亜子はこの恋を、自分の中だけで終結させようとしていた。

 ――教えてください、神様。あの人はなにを見てる? なにを考え、誰を愛し、誰のために傷付くの。

 わかりきった答えに、亜子はとうとう両手で顔を覆って泣き出した。手から教科書がバラバラと落ち、その音に驚いた鯉が跳ねて、パシャンと水しぶきが上がった。


 ままならない恋をしている。池の鯉は、そんなことを知らずに、限られた狭い池の中を悠々と泳いでいる。そんなふうにいられればよかった。なにも知らず、誰も想わず、たった一人で泳ぎ続けられるなら、その方がずっとよかった。

 “けれど”と、亜子は考える。もしこの池にもう一匹鯉を放てば、そこには想いが生まれるのではないか。叶わない痛みや、焦がれるもどかしさを知って、この鯉も泣くのではないか。ああでも、二匹しかいないなら、他の鯉がいないなら、彼らは彼らだけで結ばれるほかない。お互いしか知らないのだから、目移りすることもないのかもしれない。それはそれで、幸せなのか不幸せなのか。

 もし、この世に久々知と亜子以外に人間が存在しなかったら、久々知は自分を見てくれただろうか。そんな夢のようなことを考えながらも、亜子の頭は楽観的にはなれなかった。どうしても、久々知があのはにかんだ笑みを、竹谷以外の人に向けているのが思い浮かばなかったのだ。

 本当に、ままならない恋をしている。




▽こいのうた/GO!GO!7188



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