選択その25(悪魔の10年間)
あれ以来、ベルゼブブのことを頻繁に思い返していたなまえと同じく、ベルゼブブもまたなまえのことをほぼ毎日思い返していた。
それは日々の行動にも出るらしく、意味もなくなまえと出会った道を選んでは帰宅したり、辺りに目を配ったり気配を探る癖が付いてしまった。
(なまえと思われた人影がルシファーだったときは非常にがっかりしたのを今でも憶えている。)
両親の気まぐれに傷ついてはぼんやりと中庭を見つめることも増えた。
ベルゼブブにしてみればただ中庭を見つめているだけのつもりなのだが、その視線は色とりどりの花々ではなく、自然と果樹園へ向けられる。
あの人間の子供は元の世界へ帰り、両親に抱かれただろうか。
なまえを心配してか、自分と違っていつでも親に抱きしめてもらえることへの嫉妬か、どちらかはわからない。
どちらにしろベルゼブブには似つかわしくないことを考えることもあった。
どこかボケたところのあるなまえのことだから「帰れなかった!」などと笑いながら果樹園の奥から出てきそうなのだが。
どれほど果樹園を見つめても、風に吹かれて木々がざわめくだけで変化はない。
「…そんなわけないか。」
そうは思いつつも、しばらく視線を外すことはできなかった。
頻繁になまえを思い出す日々を過ごしていたベルゼブブだが、それも小学校を卒業するまでの短い間だった。
特進の中学に入ってからはベルゼブブの名を継ぐため本格的に勉学に励まなくてはならなかったため、なまえを思い出す暇などなかったのだ。
成体となってからなまえを思い出したのは2回だけ。
正式に名を継いだときと、初めて人間界に召還されたときだった。
晴れて一族の代表となり、自分を召還する者とは一体どのような人間であろうと想像したとき、かなり望みの薄い予想ではあったが真っ先に思いついたのはなまえであった。
今でも暢気にへらへら笑っているのだろうか、あの女は。
脳裏に幼いなまえの、無駄にニコニコした笑顔が浮かび上がる。
美少女に間違われるほど柔らかな美しい貌をしていたベルゼブブも、あれ以来すっかり身長も伸び、整った顔立ちは相変わらずだが肩幅も広く、大人の男に成長していた。
そんな自分とは逆に、ベルゼブブの想像の中のなまえはいつでも幼い。
(本人は考えもしないことだが、なまえを女として見ていないあらわれでもあった。)
さて、あの女が思惑通り本当に自分を呼び出したらまずなんと言ってやろうか。
当初から期待していなかった割りに、知らず口元がニヤける。
しかし。
いざ自分を呼び出した目の前の人間を見据えて、久しぶりになまえを思い出すとともに”あぁ、やはり彼女には素質がなかったのだ。”とベルゼブブは思い知った。
幼い頃のベルゼブブの予想通り、なまえが魔術書を手にすることはなかったのだ。
おそらくもう会うこともないだろう。
なまえが手にすることのなかったグリモアを持つ人間を目に映しながら、思う。
なまえが契約者でなかったことに対して、ベルゼブブは別段思うところはなかった。
ただ冷静に事実をそのまま受け止めただけで、再会が叶わずガッカリしたとかの感情は沸かない。
もしなまえと会える日が来るとすれば、それはいつのときか。
彼女がベルゼブブの名を忘れて死を迎え、魂の状態になったときだ。
こんなことを考えてしまうほど淡白な受け止め方であった。
だが珍しくベルゼブブの予想は裏切られる。
本格的に寒さも増してきた12月。
さくまの動向調査のため人型で早瀬田大学へ潜入した帰りのこと。
「…?」
淀みなく動いていたベルゼブブの足が止まる。
「どないしたん?」
犬の着ぐるみを着た友人(?)が微動だにしないベルゼブブに声を掛けるが、それを無視して彼は胃の辺りを抑えた。
胃が火で炙られたかのようにチリチリと痛む。
これが人間であったのならばただの胸焼けと思うところだが、ベルゼブブは悪魔だ。
”暴食”を司るとも言われる彼に胃の不調など無縁である。
不思議と不快を感じぬこの痛みは一体どこからくるのか。
原因を探ろうと痛みに集中するのと同時に、ベルゼブブの目に女が1人、映りこんだ。
ベルゼブブのいる廊下から遠く先を、女は刺すように冷たい空気から身を守るように両腕で体を抱きしめながら、廊下の端を小走りに駆けていく。
彼女はベルゼブブに目もくれず、彼の視界を横切っていった。
あぁ、まさか、そんな。
あまりの驚きに、思わず口元を手で覆う。
人間であれば霞んで見えぬほど遠くにいる女の横顔を認識した途端、ベルゼブブの脳内を10年前の記憶が駆け巡り…燃えるように熱くなった誓約書の存在をはっきりと感じ取った。
「ちょお、なになに!?べーやん!」
突然走り出したベルゼブブにアザゼルが驚くが、無視して廊下を曲がる。
その先には女子トイレ。
記憶の中の少女と違い、そこにいるのは腕も足もすらりと伸びた大人の女性。
ほんの一瞬目にしただけでも彼女があの日の少女であるとベルゼブブは確信を持っていた。
何故なら、ベルゼブブの中の誓約書が、誓いに従い魂を取り立てろと燃えるように熱く訴えるからだ。
人間を堕落させることに愉悦を感じる悪魔らしい感情に、自然と口角が釣りあがる。
案外世界は狭い。
いや、もしかしたら10年前になした数々の要因が功を奏したのかもしれない。
「アザゼルくん。ちょっと寄り道して良いですか?」
「別に構わんけど…黄金摂取ならアザゼルさんのいないとこでやってや、夕飯食えなくなってまう。」
「犬のクソ突っ込まれたくなければその口閉じとけ犬面。ちょっと知り合いを見かけたのでね。挨拶でもしようかと。」
「は?人間界に知り合い?」
相変わらずアザゼルを無視したまま、ベルゼブブは迷うことなく女子トイレの扉を開く。
こうやって大学に通っているあたり、その後無事に人間界に帰還を果たし、平凡な人生を歩んでいるようだ。
自分のことなど忘れて。
自分のことなど棚の上で、ベルゼブブの存在をなかったことのように生活をしているなまえに弱冠の苛立ちを覚える。
が、その顔は誓約を果たせる喜びに笑みが滲む。
いくつかある内の、扉の閉まったトイレの前に立つ。
もし、彼女が自分の名前を覚えていた際は。
…名前を呼んでやらないこともない。
その白い扉を蹴破るため、ベルゼブブは片足を持ち上げた。
こうして再会を果たした現在。
人間界のハエになまえの家を探させたり、契約者であるさくまの友人であることが発覚したり。
”誓約書の更新”と偽り契約書にサインさせるため、邪魔が入らぬようわざわざ”魔界と因縁深い場所”を作りなまえを魔界へ引っ張り込んだのに、失敗したり…事の次第を全てバラされ股を裂かれそうになったりと散々な目に合い、今ではすっかりなまえの家に入り浸る日々を過ごしていた。
なまえに憑く、という当初の目論見は潰されてしまったが、アクタベからの避難とカレーが摂取できるこの状況にはある程度満足しているベルゼブブ。
(カレールーを齧ることにも馴れてきた)
喉を伝ってせりあがってきたものを口の中から取り出す。
几帳面に折り畳まれた紙を広げれば、そこには2種類の幼い字。
10年前なまえにサインさせた…人間と初めての取り交わしだ。
当時こそは完璧な誓約書であると得意満面であったが、大人になった今あらためて読むと、なんとも幼稚な内容であった。
当時の自分は今以上に癇癪を起こしやすく他人の何気ない言葉にも食って掛かる性格だったので、感情的に並べ立てた誓約内容だったのだろう。
「…私も子供だったということか。」
大人になった今では、ただただ恥ずかしいだけの若い過ちである。
それにしても…と意外に思うのは、なまえがベルゼブブを憶えていたことだ。
この10年。
「必ず帰る。」と何度もそう言っては約束を破る実の両親より先に、幼く弱々しい人間であるなまえの”必ず”のほうが果たされるとは、なんとも皮肉である。
…まぁたったの10年しか経っていないのだから、記憶の片隅くらいには残っていたのだろう。
これが20年、30年と年月を重ねれば結婚・出産・育児と生活に追われ、記憶も薄らぎ、一度きりしか出会ったことのない存在である自分のことなど忘れていくのだ。
人間の一生を頭に思い浮かべ、ふとそこになまえの姿を重ね合わせた。
しかし結婚も出産も育児も、どうしてかどれもなまえの姿がしっくり合わない。
結婚ねぇ…あの女が結婚して子を孕み育てるなど想像できない。
ベルゼブブの同級生に既婚者はまだ少なく、ベルゼブブ自身も独身であり子がいないのも理由だが、それに相まってなまえに男の影がないことがより想像を難しくさせた。
休日は昼近くまで惰眠を貪るし、何より悪魔の自分に構っている時間があるくらいだ、男に時間を割いている様子が見られない。
人間の寿命は短いというのに…そこんとこわかってんのか?この女。
悪魔の全盛期は非常に長い。
だからこそ悪魔は独り身を謳歌し、後継者のことなどのんびり構えていられるが、人間は違う。
子を産む女なら尚更、ある程度の年齢に達しては出産の危険が増すだろう。
そこまで考えて、ベルゼブブは「ん?」と言って首を捻った。
何故他人の…しかも人間の人生設計の心配などしているのだろうか。
いや、それより何よりなまえに男がいようがいまいが自分には関係ないだろう、何を冷静に分析しているのだ私は。
何故なまえを気に掛けるのか。
そこに行き当たり考えたベルゼブブは、なまえに関して一つだけ気になっていたことを思い出した。
暴露を司る職業柄、相手の表情から考えていることがわかるベルゼブブだがなまえは時折読めない表情をすることがある。
例えるなら熱に浮かされたような表情、とでも言うのか。
しかしその表情が、何が原因で浮かび上がるのかが定かではない。
思い返してみると、なまえは話の途中でよくあの表情を見せる。
一体なんの話をしているときだったか…。
また深く思考し始めたベルゼブブの耳に、携帯電話の着信音が聞こえた。
11.12.29
誓約書が発信機のようになっています。
夢主が度々感じていた”不安感”は下手したら魂を取られかねない誓約書の存在を本能的に感じ取っていたためです。
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[mokuji]
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