選択その24(悪魔の10年間)



「また私に会いたいですか?」




念押しするように聞けば、なまえがいぶかしむような視線をこちらに向ける。
誓約書を書かせることで納得を得たベルゼブブだが、そんなこと知る由もないなまえからしてみれば突然怒っては泣き出し、涙が止まったと思えば笑顔を浮かべているただの情緒不安定な人にしか見えない。
自分の何気ない言葉一つでまた感情をかき乱されては怖いので、慎重になるのは仕方のないことだ。



しかし、短気ですぐ癇癪を起こすような自分に気付いていないベルゼブブにはなまえの真意を量ることができず、無言の彼女に苛立ちを募らせる。




「会 い た い で す よ ね ?」




暗に”約束を違える気か?”と言うように頬を鷲掴んで脅すように聞けば、なまえは頭をがくがくと縦に振って頷いた。









「いっっっったー!!」



親指の腹に歯を立てられたなまえが木々を揺らすほどに叫ぶ。
散々騒ぎつつ、流血沙汰になりながらなんとか誓約書にサインさせることに成功したベルゼブブは満足げだ。



本来悪魔との取り交わしは、それを必要としている人間に呼び出されて成されること。
それをベルゼブブの名を継いでもいない子供の内に人間と取り交わしをした、ということが更に自尊心をも満す。



そんな誓約書の内容はなまえにとって非常に不利なものだった。



なまえが誓いを立てるのは”生涯ベルゼブブを忘れぬこと”
その誓いが破られた際にベルゼブブが手に出来るのは”なまえの魂”



魂を差し出す条件は2つ。



@ベルゼブブのことを忘れて寿命をまっとうした場合。
A再会した際にベルゼブブを忘れている場合。



悪魔に魂を取られるということは来世へ行く権利を放棄させられることである。
Aの条件に関しては非常に厄介で、何かの縁で偶然再会してベルゼブブを忘れていた場合本来の寿命をまっとうすることなく、その場で魂を持っていく権利がベルゼブブにある。



これを回避するには死の間際までベルゼブブを忘れぬこと。
ベルゼブブの思惑通り、悪魔使いになるのも一つの手だが人間的な幸せを考慮するならば前者を選ぶべきだろう。



そのあまり条件のよろしくない誓約内容をなまえは説明されていない。
ベルゼブブは条件の詳細を説明せず「あなたの短い生涯でこのベルゼブブを忘れない、という誓約書ですよ。」とだけ告げていた。



どうせ文面通りに伝えても理解できないだろうし、魂を天秤にかけられていると知れば躊躇するに違いない。



子供ながら人間との取り交わしについて心得ているベルゼブブは狡猾だった。



こうして上手く事を運んだベルゼブブであったが、一つだけ気がかりがあるとすればなまえに再会できるかどうかである。



悪魔使いでもない一般の人間であるなまえとの再会はゼロに近い。
正直なところ、なまえとの再会をベルゼブブは期待していなかった。



しかし将来正式にベルゼブブの名を継いで自身のグリモアが出現したとき、扱いやすい人間に憑くというのは非常に魅力的だ。
悪魔使いは悪魔を選定することはできても、こちらはそれができないのだから。



なまえを悪魔使いに仕立てようとするベルゼブブは誓約書とともに契約書のほうもサインさせてしまおうかと考えるが、”契約”はこんな誓約書と違って正式な取り交わしだ。
正式に名を継いだ者だけが規定の手順を踏んで手にできる書類なので現時点でベルゼブブが手に入れることはできない。




「契約のほうは…まだいいか。」




とりあえず書類はこれで良しとして…さて、彼女を悪魔使いに仕立てるには何か良い方法はないものか。



ベルゼブブに親指を噛まれてうんうん唸るなまえを尻目にベルゼブブは考える。



偶然なまえは魔界へ迷い込み、偶然それをベルゼブブが見つけ、偶然その日は彼の気まぐれが心に芽生えて出来ただけのなまえとの縁。
偶然の出会いを必然の再会に持ち込むには、どうすれば良いのか。



考えを巡らしながら視線を上げたベルゼブブの目に、好物でもある赤い果実が映った。
果実は自身が熟れていることを主張するかのように赤く、丸みを帯びている。



赤い果実を見たベルゼブブの頭の中で、冥界に住む男の話を思い出した。



男は意中の娘を暗く陰気な冥界に繋ぎ止めるためにその世界に実った果実を食べさせた。
”冥界の食物を口にした者はその世界に属さなければならない”というルールに則り、娘は食べた実と同じ月の数だけ毎年彼の元で過ごしたという。



魔界の食物を口にした人間は、魔界と縁を切れなくなる



という冥界の男の話と似た、言い伝えに近い話が魔界には存在するのだが、はっきり言って裏づけはされていない。
悪魔にしてみれば勝手に魔界へ迷い込んだだけの人間など、どうなろうが知ったことではないのだからその話があまり魔界に浸透しなかったのは当然である。



造詣の深い者は知っている、という魔界ではさして重要視されていない言い伝えなのでベルゼブブ自身も半信半疑ではあった…が。



実行してみるのも面白い。



その言い伝えは、何事も画策するのが好きなベルゼブブの好奇心を刺激した。



赤い実をもぎ、半分に割ると透明感のある赤い小粒の実が顔を覗かす。
なまえが魔界の食物を口にしないよう、ジイが気を使ったことなど意に介さずベルゼブブは実の半分を彼女に差し出した。




「このベルゼブブを一生忘れない、と誓いを立てたのならもはや友人と言っても過言ではないでしょう。記念にベルゼブブ家の領地で実ったこの実を差し上げます。お食べなさい。」




指を噛まれて半べそだったなまえも、食欲をそそる色をしたその果実を目にして「食べるー!」と笑顔を浮かべた。



なまえの何も知らない暢気な様子に、ベルゼブブもまた口の端を異常に釣り上げて笑う。
この企みが将来どのような効果を発揮するのか想像したら、思わず笑みを作ってしまうほど愉快でしょうがなかった。








「人間界に戻ったら”グリモア”という魔術書を探しなさい。ベルゼブブの魔術書です。
そうですね…あと10年もしない内に私もベルゼブブの名を継ぐでしょう。あなたが成人した暁にでも私を呼びだしなさい。
それまでにグリモアを読めるようになるのですよ。あなたのようなバカでも呼び出すぐらいのことはできますし…まぁ期待はしていませんが。」



「ゲホッ!?ゲェッホ!ゲッフッ!!」




口の中に指を突っ込み、無理やり実を食べさせられたなまえは苦しそうに咳き込んでいる。
気にも留めず、残りの半分の果実に齧りつきながら「ではこれでおさらばです。精々五体満足で帰ることですね。」と言い捨ててなまえの背中を蹴り出す。



振り返ったがために人間界へ戻れなくなった夫婦の話も思い出したので、ついでに蹴り出してやった。
おそらく振り向いて文句を言おうとするだろう。



なんて怒るだろうかとニヤニヤ笑いながら想像するベルゼブブだが、意外と派手に飛んでいったなまえの姿は木々の間に吸い込まれるように消えた。
これにはベルゼブブも思わず「あ、」と声を出して驚く。



ジイの言う”人間界と因縁深い場所”というのは本当だったようだ。




「…挨拶ぐらいしてから消えろ、バカ女。」




まさか一歩踏み出しただけで消えてしまうと思ってもいなかったので、突然すぎた別れにまた名残惜しさがぶり返す。



ポケットに入れた誓約書を取り出して改めて見直し、そういえば一度も彼女の名前を口にしていなかった、と今更ながらベルゼブブは思った。
罵倒の言葉ばかり浴びせかけ、まともに名前を呼んでいなかったので当然だ。




「なまえ…そういえば名乗っていたな。すっかり忘れていた。」




次に会えるのは、10年後自分を呼び出したときか。
今回の画策が功を奏して再会したときか。
それともベルゼブブの名など忘れて死に、魂の状態になったときか。



まぁどうなったところで自分が損することはない。



ベルゼブブは誓約書を元通り折りたたむと、口の中に放り込み飲み下す。







娘を得た男は幸福だった。
しかし冥界に繋ぎとめられた娘の胸中も幸せで満たされたかどうかは、物語中で言及されていない。
そして何より悪魔のベルゼブブにとって、娘の気持ちなどどうでも良いことだった。






11.10.26
優一坊ちゃんの画策

夢主にとってこの出会いは恋愛感情の始まりですが、ベルゼブブの場合夢主に求めていたのは恋愛感情ではなく夢主の持つ母性です。

甘えたですね。






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