選択その23(悪魔の10年間)
背を撫でる手が止まる度になまえの頭をひっぱたくこと数時間。
いつの間にか朝の4時を迎えてしまった。
「もうすぐ4時になる。早くしないと帰れませんよ。」
今まで人前では決して表に出すことのなかった感情をなまえにさらし、散々泣いたおかげてすっきりしたベルゼブブは晴れやかな笑顔で眠りかけのなまえをゆする。
「んー…もう4時?」
目をこすりながら欠伸をするなまえを見て、つられてベルゼブブも欠伸が出た。
「行きますよ。」
城まで飛んできたときと同じようになまえの背負うランドセルを掴んで中庭に着地すると、ジイから教えられた「人間界と縁の深い場所」である果樹園へ向かって歩く。
手を繋ぐつもりはなかったのだが、いつまでもジイに手を振り続けたり、人間には毒性の強い毒々しい色をした花に興味深々で近づいたりと危なっかしいので不本意ながら手を繋いでいた。
繋ぐなまえの手は相変わらず弾力性があって柔らかい。
「ピンクの花はないの?」
忙しなく辺りを見回していたなまえが言う。
「趣味じゃありません。」
「植えようよ。キレイだよ。」
「私の庭にケチつけないで頂きたい。」
何が楽しくて男の自分がピンクの花を庭に植えなければならないのか。
ピンクの花を植えた日には、アザゼルが腹を抱えもんどりうって笑い転げることだろう。
「えー。色の組み合わせ悪いじゃん…。」
ぶつぶつ文句を言うなまえの手を強引に引っ張った。
「赤い実を付けた樹木の奥へ進みなさい。途中で隣の青い実をつけた樹木の方へ行ってはいけませんよ。」
ジイに言われた言葉をそのまま伝えるが、言われたなまえは果樹園の奥を見つめることに夢中で「うんうん。」と生返事だ。
こんな調子で無事人間界に戻ることができるのだろうか。
なまえの好奇心旺盛で危なっかしい行動を思い返して呆れながらも、なぜかベルゼブブは繋いだ手を離せない。
間際になって、急にベルゼブブはこの別れに名残惜しさを感じた。
普段のベルゼブブであるなら、偶然魔界に迷い込んだだけのよく知りもしない人間の子供に思い入れなど微塵も抱かない。
しかし散々泣いて弱りきった精神状態で共に過ごしたせいだろう、これでなまえが帰ってしまえば自分は本当に一人になってしまう、という考えがベルゼブブの頭の中をよぎる。
いっそのこと、このまま手を離さずにいてやろうか。
ちらりとそんな考えが浮かび上がるが、人間の子供など魔界の瘴気にあてられすぐ衰弱死してしまうだろう。
無理やり魔界にとどめても、死んでしまっては意味がない。
「一緒に行こう。今度はうちにおいでよ。」
繋いだ手を離すタイミングも失い、物思いにふけっているとなまえがこちらの考えを読んだかのように言った。
にこにこと笑いながら言っている様子から、どうやら冗談で言っているわけではないようだ。
今が朝の4時だということを忘れているらしい。
呆れながらも、少し喜んでいる自分がいた。
しかしベルゼブブはその誘いに乗ることはできない。
「私は其処から人間界へは行けません。悪魔が人間界へ行く手段は1つ。魔法陣を通るしかないのです。」
偶然に偶然が重なれば魔界に来られる人間と違い、悪魔が人間界へ行ける手段は魔法陣を通るしかない。
しかも基本的には一族の代表でありグリモアを持つ悪魔だけが呼び出されることになっている。
当然正式に名を継いでいないベルゼブブがなまえと共に人間界に行くことはできない。
それにベルゼブブが人間界に来れたとしても、問題は他にもある。
「じゃあもう会えないってこと?」と少し口を尖らせて、ふてくされたようになまえが言う。
「…あなたが普通の人間ならば、次会う確率はほぼ無いと言っても過言ではありませんね。」
それは、なまえ自身の問題であった。
人間界に召喚された悪魔を視認できるのは”悪魔使い”としての才能を持つ僅かな人間だけ。
悪魔使いの才能の詳細はハッキリしておらず、彼らに共通することと言えば人格に問題のある者が多い、ということぐらいのものだ。
それに当てはめて考えるならば…現時点で、おそらくなまえは当てはまらない。
まだ幼く、人格が完全に形成された成人ではないので言い切ることはできないが比較的なまえは一般の人間に近い部類だろう。
あぁ、やはりこれが今生の別れだろうなと勝手に結論づけるベルゼブブ。
理由もしらず”頑張ればなんとか会えるらしい”と思い込んだなまえが笑顔で「まったく会えないってわけじゃないんだ。」と言い放った。
「じゃあ、きっとまた会おう。」
またニコニコと笑顔を浮かべるなまえの何気ない一言に、物思いにふけっていたベルゼブブは打って変わってムッとした。
軽々しく言うものだ。
人間の生涯とは短い。
長ければせいぜい齢80に届くかどうか。
その短い人生の中に、異種族であり人を堕落の道へ誘うのが本業と言える悪魔を入り込ませる余地があるのだろうか。
悪魔使いでもなんでもない彼女に。
先ほどまで名残惜しさを感じていたベルゼブブの中で、ぐるぐると怒りの言葉が駆け巡る。
一時の感情で、軽々しくも「きっとまた会おう」だなんて。
このまま人間界に戻りさえすれば、どうせ今日のことなど忘れてしまうくせに。
「…きっと?…”きっと”だなどと、保証もないことを軽々しく言わないでもらいたい。」
怒りを抑えようと、唸るようにベルゼブブが言う。
両親が帰ってこないことを告げたときもなまえは事も無げに「また会えるよ。」と言った。
それが自分を慰めるために投げかけた言葉であると理解していたのだが、冷静な状態になかったベルゼブブには非常に引っかかった。
「”きっと”って言葉、嫌い?」
ベルゼブブの怒りの程もよくわかっていないなまえが、不思議そうな顔で見つめる。
その何もわかっていない様子に、抑えていた怒りの感情が爆発した。
「えぇ大嫌いですよ!必要以上に期待させるくせに簡単に破ることができるのですから最初から”きっと”など…”絶対”などと言わなければよいのに!」
きっと、絶対、必ず。
過去に果たされることのなかった数多くの”絶対の約束”が思い出される。
数時間前に泣いたばかりの涙腺は非常にゆるみやすく、ベルゼブブも気付かない内に涙が零れ落ちた。
何気ない一言で突然泣き出したベルゼブブに、当然ながらなまえは慌てふためき、理由もよくわからぬまま「会えるよう努力する!」と言い直す。
空いている腕で顔を覆うベルゼブブにもその狼狽ぶりは伝わるが、二度も泣いている姿を見られて気恥ずかしかったこともあり「努力ってどんな努力ですか!」と半ば八つ当たり気味に叫ぶ。
悪魔の自分はこの別れに名残惜しさを感じたというのに、この手を離すことに微塵も未練がないのかこの女は。
いつも求める側に立たされていると気付いてしまったためか、自然と握る手にも力が篭る。
ぐずぐずと鼻を鳴らす音に混じって、なまえが「あ〜。」とか「う〜。」とか唸りながら右往左往する。
「…じゃあ、今度もし会えないとしても優一くんのことはきっと忘れない。」
これでどうだろうか、とでも言うように様子を窺いながら呟かれたその言葉で、ベルゼブブの涙がぴたりと止まる。
なまえの言葉に納得を得たわけではない。
根拠のなさは相変わらずだが、宣誓に近いその言葉にベルゼブブはある考えを思いついた。
誓約書を書かせるのはどうだろうか。
昔も今も、口頭だけの約束ばかり。
破ったら破りっぱなしで謝罪一つで済まされてきた。
それならいっそのこと誓約書を書かせ、約束を違えたときは罰を与えればよいのだ。
これなら約束を破られたとしても、少しは心が満たされる。
それになまえの言う通り本当に再会できたときは、扱いやすい彼女のことだ…将来憑くのも悪くない。
悪魔らしい性質も相まって、その思いつきの考えはひどくベルゼブブの気持ちを落ち着かせた。
「…つまり死ぬまで私のことを忘れない、と。そういうことですね?」
そう念押しすれば、なまえは少し困った表情で頷く。
自身のこの思いつきをいたく気に入ったベルゼブブは「まぁ信じてやりましょう。」と笑顔を浮かべた。
11.10.10
この頃から粘着質タイプの優一坊ちゃん。
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