選択その16






我が家のトイレが魔界と繋がったことに、大いにショックを受けた私はクッキーも手に付かない。
これじゃあ気軽にトイレ入れなくなっちゃう…。




「…ま、まぁ逢魔が刻にトイレを利用しなければよいだけのことですし…来年になれば今年ほど頻繁にこちらへ来る可能性もなくなるでしょう。」




見るからにぐったりしている私に珍しく気を使ったらしい、慌てて付け加えるように優一くんが言った。
(優一くんに優しくされるとか、貴重すぎる…。)
「どうにかならないの?」と重い口を開けば、「無理ですね。」ときっぱり一蹴された。




「ろくな結界も施さず悪魔を招き入れたのですから、仕方のないことです。」




その言葉に私は「ん?」と言って首を捻る。
随分と詳しいようだけど、それだけ知っているのなら遅かれ早かれこうなるってことが予測できたんじゃないだろうか。
それに”鍵を所有する許可”の代わりに”敷居を跨ぐ許可”と騙すような言い方に変えてまで家の鍵を持ち出したのは何故だろう。



怪しい。
何か企んでないか?



疑いの目をちらりと優一くんに向けると、目が合ったのに彼はバッと勢いよく顔を逸らした。
あからさますぎるだろう。



人の考えていることがわかる、と豪語する奴のことだ。
私が疑いを持ったことに既に気付いているだろう。
そして気付いている上でのそのあからさまな態度。



バッチリ何か企んでいる。



言及してやろうと口を開きかけると、それより早く優一くんが立ちあがった。




「そうそう、なまえさん。あなたにやって頂きたいことがあるのです。」




そう言うなり書斎机へ向かい、その引き出しを開けて何やら取りだす。
タイミングを失った私は、仕方ないのでそれが済んでから言及してやろうと紅茶を啜った。




「これです。」




戻ってきた優一くんはクッキーの皿の横へ、二つのものを私に向けて置いた。
それは、無駄に煌びやかな卓上ペンと、ねじ曲がった文字の羅列が並ぶ一枚の紙。



10年前に書かされた誓約書にとてもよく似ていた。




「…何これ?」



「誓約更新の書類ですよ。10年前にも書いたでしょう?」




誓約書に更新なんてものがあるのか。
私は読めるわけがない文字の羅列をじっと見つめながら「これ、なんて書いてあるの?」と聞いた。
彼に対し疑いの芽が出てきた私は、ひどく慎重だった。




「10年前にも説明したではありませんか。あなたの短い生涯でこのベルゼブブを忘れない、という…」



「覚えてる。覚えてるけど…あの書類とこれ、違くない?」



「ハハハ、そんなバカな。どこがどう違うと言うのです?」




優一くんの口元はじゃっかんヒクつき、動揺している素振りを見せた。
悪魔のくせにそのわかりやすさはどうなの…。



どこがと言われたらとても小さなことだけど、この書類は10年前のものとは違う。
10年前の書類は手書きだった。
けれど、この書類は印刷されたものだ。
つまり、今目の前にあるこの書類のほうが妙に形式ばっている。




「それに、10年前の書類だって本当にそう書かれてるの?口で言うよりすごく長い文章だったけど。」




揺さぶりをかければ何かしらボロが出てきそうだと思った私は畳みかけるように言ってみた。




「ハハハハ、そんなバカな。」




と、言う割には優一くんの持つ紅茶のカップは揺れに揺れ、中身がびちゃびちゃ零れている。
無理だよ優一くん。誤魔化せてないよ。




「とにかく。内容もよくわからない書類にサインなんてできない。」




優一くんのその動揺っぷりに身の危険を感じた私は、テーブルの上のペン立てとその紙を彼の方へと突き返した。
危ない橋は渡りたくない。




「何を仰る。自分の言葉には責任を持って頂きたい。」




優一くんもまた、私と同じようにペン立てと紙を突きだす。
「いや、だから…」と言って、再度付き返そうとペン立てを掴むと、反対側から優一くんが掴んできた。
私達はペン立てをお互いへ付きだそうと、机の上でグググ…と押し合う。




「10年経っても覚えてたんだから…いいじゃん!」




ペン立てへ並々ならぬ力を入れているため、声にも力が入ってしまう。
優一くんの声にも「そうですかぁぁあ?」と力が入る。




「じゃっかん忘れかけてたようですけどぉ…!?」



「いや、それはない!だって…」




と私は続く言葉を慌てて切った。
初恋の相手だし、忘れるわけないじゃん…と言いそうになって、私はグッと言葉を喉の奥へ飲み込んだのだ。



危ない。
こんな流れでとんでもない告白をするところだった。



恥ずかしさからじんわりと首筋が赤くなっている私を見て、優一くんが眉をひそめた。




「だって…なんです?」




そうだ、こいつ人の考えがわかるんだった。
赤くなるやら青くなるやら、どんな顔すればよいのか混乱しつつ優一くんを見ると、不思議そうな顔が目に入った。



良かった、どうやらバレていないようだ。




「…あんな泣いてばっかりの優一くん、忘れるわけないじゃん。」




それっぽいことを言って私は誤魔化した。
(実際のところ、私の目の前で2度も彼は泣いていたわけだし。)



しかしそれを聞いた優一くんは、一瞬だけ素面で目を見開き…まるで先ほどの私の代わりとでもいうように突如カッと顔が赤くなった。
思いも寄らぬ優一くんの反応に驚き、私も目を丸くした。




「い…い、いつ…いつ、誰が何処で泣いたですって!?」




いつもなら淀みなく一気にまくし立てるように喋る優一くんの声が上擦った。




「え、だから…優一くんが…」



「泣いてなどい な い!!生まれてこのかたこのベルゼブブが涙を零したことなど一度たりとも な い!!」



「…生まれてこのかたって…。」




なんでわざわざ嘘くさい言い方をするのか。
初恋を誤魔化すことには成功したがこの言葉は効果がありすぎたらしく、優一くんはすっかり気が動転していた。




「い、いたたたたた!つめ!つめ刺さってる!」




優一くんの手に力が籠り、長い爪が私に突き刺さる。
しかし気が動転している優一くんに私の声は届かず、赤い顔のまま「いいから書くんだ!」と言うばかり。




「嫌だよ!なんか代償として魂取られそうだし、絶対イヤ!」




本当かどうかはわからないが、小説でもマンガでも、悪魔との取り交わしに魂を取られるなんてよくある話だ。
それに大人になった今、人間同士の取り交わしだって、契約内容をきちんと理解した上で慎重にサインしなければならない。
小学生の頃とは違うのだ。




「ちっ、無駄な知識つけやがって…昔は扱いやすかったのに。」



「ちょっと、聞こえてるんだけど。」




わざとなのかうっかりなのか、その呟きはばっちり私に聞こえていた。
やはり易々と書類にサインするべきではないようだ。
しかしそうなると10年前の書類は一体なんと書かれていたのだろう。



両手が塞がった今、目の前の頭に頭突きしてやろうか悩みながら、そんなことを考えた。





11.8.15
一つの部屋に男女二人きりなのに色気はやってこない。





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