選択その14

そんな週2でやって来る来訪者を迎えてから幾分か経った、ある日の夕方。



大学から帰って来るなりトイレへ直行した私は、用を済ませると扉を開けて…固まった。



そこは…見慣れた私の部屋ではなく、何処かの豪奢な城の廊下だったからだ。




「………。」




私はとりあえず、無言で扉を閉めて振り返った。
紛れもなく我が家の庶民的なトイレだ。



そしてまたドアノブを捻り、開けば庶民トイレとは不釣り合いな赤いカーペットの敷かれた廊下が広がっている。




「嘘でしょ…。」




悪夢でも見ているのだろうか。
何回か扉の開け閉めを繰り返したが景色が変わることはなかった。



しょうがないのでトイレのスリッパのまま廊下に出てみる。
そこは薄暗く、豪奢な城に見合った美術品が等間隔で置かれている。
その何点かは見覚えのあるものだった。



まさかここって…。



嫌な想像を打ち消したくて、歪んだ窓枠に手をかけて外を見る。
外は薄暗く、空は一面灰色の雲に覆われて太陽も月も星もない。
10年前と変わりない光景を目にして私は確信した。



ここは…魔界だ。
しかも、優一くんの家にいるらしい。



纏わり付くような暗い雰囲気に身震いした。
どうしてトイレを通して魔界に…しかも優一くんの家に来てしまったのか。



何がどうしてここへ来てしまったのかわからないが、なんとか戻れないものかと何度もトイレを出たり入ったりしてみる。



一度来たことのある家とは言え、こんな陰気さを纏った城内を歩き回れるほどの気の強さはない。



出たり入ったりを繰り返しいい加減疲れた私はうなだれると、どこからか視線を感じた。



辺りを見回すと私の視界に、曲がり角から顔を半分出してこちらを窺う…ハエ男がいた。
驚いてビクッと体を震わせると、向こうも驚いたらしい、ビクッと体を揺らした。



目が合ってしまい、どんな反応をすればよいかわからず無言で見つめ合うこと数秒。



私は気まずくて「…どうも、お邪魔してます…。」と言ってみた。



すると突然、ハエ男は「アギ〜!」と廊下の向こう側へ奇声を発した。
仲間に「不法侵入者がいるぞ!」みたいな危険を知らせるニュアンスを感じる。



これは確実に誰かを呼んでいる声だ!




「ちょっと待って!怪しい者じゃないの!その、私あなたと10年前に会ったことあるはずなんだけど…」




忘れもしない、私は10年前このハエ男に出会っているはずだ。




「身長これくらいで、クッキー食べてて…」




誤解を解くため、なんとか思い出してもらおうと身振り手振りで説明する。
が、ハエ男は首を傾げるばかり。



ていうか言葉通じてるのかな?
どうすれば良いのやら考えあぐねていると、ハエ男の背後から…たくさんのハエ男たちがやって来た。



あぁ…ハエ違いだったのか…。



どうやら10年前世話になったハエ男とは別人だったようだ。
冷静にそう分析すると、私は彼等とは逆の方向へ走り出した。








背後であぎあぎ聞こえる。
きっと「下手人だ、者ども出合え!」と集合をかけているに違いない。



もう一度説得しようという考えがちらりと脳裏をかすめたが、彼らの右手に光る包丁を見る限り捕まったら最後、確実に私はヤられてしまう。
とにかく逃げなければ。



無駄に長い廊下を必死に走る。
普段走ることなどほとんどないからもう足にガタがきていた。



早すぎる限界を感じていると、視界に見覚えのある扉が映りこむ。
10年前、一度通ったことのある扉だ。



私はある一つの可能性を思いつくと、夢中でその部屋へ飛び込んだ。








でかくて重い扉をやっとの思いで開け、僅かばかり開いた隙間から素早く体をねじこみ、背中全体を扉にへばり付けるようにして全体重をかけて閉めた。



命からがらやってきた私に、「ノックもできないのか。無躾な。」と嫌味が飛んでくる。




「はぁ…はぁ…っ…やっぱり…優一くんの…部屋…だったの…。」




自分はいつも不法侵入しているくせに。
息を整えようと大きく酸素を吸い込む私に、予想通り城の主…優一くんがソファーに座って優雅に紅茶を啜りながら嫌味を飛ばす。




「なんなの、どーいうことなの私なんでここいるの!?」



「落ち着きなさい。見苦しい顔がさらに見苦しくなっていますよ。」



「……。」




私、この人をひっぱたいても許される気がする。
いやむしろもっと前から殴っていい機会はあったはずなのに何で私この人の暴言に耐えてるんだろ惚れた弱みか?



なんとか怒りを抑え込もうと耐える私の背後で、扉が勢いよく開かれた。
例のハエ男たちに追いつかれたのだ。



私は取りあえず怒りを引っ込め、慌てて優一くんの座るソファーの後ろへ身を隠す。




「あの人(?)達なんとかして!」




命の危険を感じて、私は優一くんの両肩を掴んでがくがく揺らす。
優一くんは揺らされるがまま、「彼らはただ仕事に従事しているだけです。」と言う。




「その仕事ってのは、あの包丁で私を調理すること?」



「おや、察しがよくなったのですね。」




優一くんがニヤニヤと底意地の悪い笑みを見せる。




「…ムカツク…ッ」




優一くんと言い争っている間にもハエ男たちが距離を詰めてきた。
じりじりと迫る恐怖の集団に、言い争いをやめて優一くんの肩をぎゅうと掴んだ。




「あの人たちどうにかしてってば!」



「どうしましょうかねぇ…主人として仕事に忠実な彼らを咎めるのは気が引けますし。」




やりたい放題に生きてるくせに”気が引ける”だなどと、よくそんな言葉が出てくるものだ。
本音を隠さず楽しそうにニヤつく優一くんの態度にイラつきながら、私は眼前に迫るハエ男たちを見やる。



各々が手に持つ凶器がギラリと鈍く光り、私に向けられている。
中には錆びのような黒い汚れがこびりついており、その使いこまれた様は新品の刃物よりも恐怖を掻き立てた。



なのに彼らを止められるであろう肝心の優一くんはこの場を楽しんでいる。
打つ手立てがないこの状況に、全身の血が足元へと集まる感覚が私を襲う。



私に味方は、い な い。



本格的にパニックに陥った私は、「じゃあもういいよ!!そしたら私…っ…私……」




「優一くん人質にするからぁ!!」




などと口走った。
さすがの優一くんも「はぁ?」と驚いた顔を背後の私に向ける。




「人の子風情がこのベルゼブブを人質にするたぁいい度胸だな!?」



「じゃあどうすればいいの!?優一くんが止めてくれないんだからもうそうするしかないじゃん!!」




後から冷静になって考えると…私は相当錯乱状態だったようだ。
優一くんの上擦った声も耳に入らない。




「てめぇの思考回路はどうなってんだ!?おい半狂乱で襟を引っ張るな首が絞まるぅぅぅぅ!!」




完全にパニックに陥った私は、力任せに掴んでいた優一くんの服の襟を上へ引っ張り上げる。
パニックに陥った人間ほど何しでかすかわかったものではない…。
優一くんの首を絞めてやろうという意図で取った行動ではなかったのだが結果的に人質を痛めつけていた。
それが功を奏してか、ハエ男たちは主人の苦しむさまを見てオドオドしている。



力を入れ過ぎて手が痺れてきた頃、遠くから「あぎー!」と一声上がった。
多くのハエ男たちを掻き分け前に出てきたのは、他のハエ男たちよりも身なりが立派な…やっぱりハエ男が現れた。



そのハエ男は集団バエたちに向かって、あぎあぎと何やら声をかけると、彼らは納得した素振りを見せてぞろぞろと去って行った。
どうやらこのハエ男が彼らを説得して、私を助けてくれたようだけど…どうしてだろう。



しかし、もし助けてくれるとしたら…たった1人だけ思い当たる節がある。
10年前に1度だけ会ったことのある人物。




「もしかして…給仕してたあの時のハエの人?」




するとハエの人がこくこくと頭を縦に振った。
給仕していた頃と服装が違うので、まさかと思いつつ聞いたのだが…どうやらこの10年で出世したらしい。



よく10年前の小学生が私だとわかったな。
私なんかハエ男たちの見分けなどつかなかったのに。



そのハエの人は、あぎあぎ言いながら身振り手振りで私に何かを必死に訴えている。




「(何言ってんのかまったくわからないけど)ありがとう、ハエの人…!」




人間ではない何かと再会してこんなに感動したのは初めてだ。
勝手に感動の雰囲気を醸し出す私だが、どうもハエの人は焦っているような動作を繰り返している。



何を伝えたいのだろう。
自分も感動していることを伝えたいのかな。



都合のよい解釈をしたその時。




「ギ…ギ、ブ……ギブ…ッ…」




下から優一くんのか細い声が聞こえた。
私の手首を、力ない手が掴む。



私は、今だ彼の襟を力を緩めずに引っ張り上げていたのだ。
どうやらハエの人は、青白い顔の主人を心配して「そろそろ放してやってくれ。」と言いたかったらしい。



…もういいじゃん、こんな奴…。




11.7.30
べーやんよりもカッコイイ再会を果たしたハエの人。




[ 16/30 ]

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