責任その9
同棲を始めてからというもの、ヤンデレ大和撫子に笑う悪魔、暴れるオノノクスと気の休まらない日々を過ごした。
ノボリさんのぶっ飛び思考回路に寿命の縮まる思いはすれど、私は意外とこの生活に順応している。
慣れって怖い。
けれどこの生活が楽しくなるにつれて、私の胸中には一つの不安が燻ってゆく。
…ノボリさんは、本当に私のことを…。
そう思いながらも、もう少し、あともう少しとこの生活を続けたい気持ちがあった。
「…なんだこれ…。」
ノボリさんの部屋に引きっぱなしの布団を干そうと取りに行くと妙な紙キレが引き出しに挟まっていた。
大事な書類かもしれないし、皺のついたその紙キレを救出しようと普段は開けることのない引き出しを開いて手に取り、絶句。
その紙には流れるような美しい字で夫の欄にノボリさんの名前が。
婚姻届でした。
妻の欄は誰だ。
わ た し か ?
ノボリさんは今、リビングでシャンデラと戯れている。(熱くないのかな)
この紙キレを亡きものにするには今しかない。
何処でどう処分しようか考えていると恐ろしく良いタイミングで「どうしました?」と背後にノボリさんの声が響いた。
振り向く前に私の手からノボリさんは結婚届けを攫っていき、「あぁこれですか。」と感情の含まれない声で言う。
「ここの欄になまえ様のお名前と印鑑を押して下さいまし。」
「いやいやいやいや!」
なにその荷物の受け渡しみたいな口調は!
「それ婚姻届ですけど!?」
「バレましたか…左様でございます。何事もなかったよう振る舞えば流れで記入してくださるかと思ったのですが…。」
「そこまでバカじゃないです!」
確かに流されやすい性質だけど、そこまでひどいと思われてたなんて!
「記入してくださるだけで良いのです。」
「記入した後は?」
「役所に提出…ゲフン。わたくしのお守りに致します。」
「ノボリさん結構神経図太いからお守りいらないでしょ。」
てか私、身元はっきりしてないのに入籍できるのか?
ペンと婚姻届を持って迫るノボリさんの後ろから、騒ぎを聞きつけたシャンデラがふわふわと飛んできた。
不思議そうな顔をして私達を交互に見比べている。
まさか主人が婚姻届の記入を迫っている場面とは思うまい。
私は婚姻届をひったくると、ノボリさんが驚く間もなく素早くシャンデラに向かって放り投げた。
「シャンデラ、燃やして!」
婚姻届は上手いことシャンデラの火まで届き、消し炭となって空気中に散った。
これで一つ危機は去った。
「すみません手が滑りました。」
何か言われる前に抑揚のない声で嘘くさい言い訳をする。
が、ノボリさんはたいして痛手を受けていないらしく平然としていた。
「いえ、良いのです。」
そう言うと婚姻届の入っていた引き出しからノボリさんは束になった書類を取り出して私に差し出してきた。
…婚姻届の束でした。
「手違いがあったときのため100枚は持って参りました!
先ほどの1枚を抜いて今手元にあるのは99枚でございます。」
しかも全ての婚姻届には夫の欄が記入済みだった。
「怖い…!」
背筋が凍るとはこのことか。
「いつ書いたんですか、こんなの…。」
「仕事の合間に書いておりました。」
働け。
「…恥ずかしくないんですか?」
「記入している間の一字一句がとても幸せにございました。」
薄く頬を染めるノボリさん、隣でそれを見させられるクダリさんの身にもなってあげて下さいよ。
「シャンデラー。」
名前を呼ぶと、嬉しそうに近寄ってきた。
ものを燃やすのが好きみたい。
お前のマスターと違って従順だね。
「せめて一枚だけでも書いて下さいましー!」
「一枚だけでも書いたらアウトでしょー!?」
シャンデラに向かって投げると、優秀なこのこは一枚残らず嬉しそうに燃やしてくれた。
よくやった、シャンデラ。
「ノボリさーん。」
「……。」
私の呼びかけにノボリさんはうんともすんとも言わず。
ベッドの上に体育座りになって項垂れているので顔は見えない。
普段、私が紙の端で指を切るだけでも反応するくせに。
呼びかけなくても無駄に私に反応していたノボリさんが拗ねてしまった。
ちょっとやり過ぎたかもしれない…ノボリさんの隣に座って話しかけてみる。
「ノボリさん。」
「…。」
「ノボリさーん。」
「…。」
「…ノボルさん。」
「…ノボリです…。」
そこは訂正したいのか。
普段甘やかされてばかりの私はノボリさんの機嫌を直す手立てが思い浮かばず考えあぐねてしまう。
するとノボリさんがようやく顔を上げて体育座りから普通にベッドに腰掛ける体勢になってくれた。
良かった、このまま病んだらどうしようかと思った、と安心しているとノボリさんがポツリと呟いた。
「…わたくしとの結婚はお嫌ですか?」
無表情な中にも不安な気持ちが覗える、複雑な顔つきだった。
「…。」
言葉に詰まった。
こんなことを言われたら驚くなり恥じらうなりの反応が普通なのだけど、私はこの問いに即答できなかった。
結婚したいか、したくないかの問題ではない。
私はその質問に答える前に、明確にしておきたいことがある。
「ノボリさんは私のこと、本当に好きですか?」
質問に質問で返した私の言葉に、ノボリさんがハッとしたのを空気で感じる。
「何故、そのようなことを…?」
案の定ノボリさんは驚いて私を見つめている。
こんなセリフ、言うにしても普通タイミングを図るものだけど言ってしまったものはしょうがない。
ずっと気にしてて言えなかった一言だったのだから。
「…すみません。でも聞いて下さい。」
場馴れしていない私はなんて言えば自分の気持ちを解りやすく、そして相手を傷つけず伝えられるのか解らない。
でもノボリさんが本気で「結婚」を考えているのなら、今言わないと後戻りできなくなってしまう。
「同棲して私のことを知れば、ノボリさんきっと自分の気持ちが間違いだったって気付くんじゃないかと思って今まで暮してました…ノボリさん、無理してませんか?決まりごとに縛られ過ぎて自分の気持ちがわからなくなっていませんか?」
今まで何となくもやもやとして形をなさなかった不安や疑問が、今では一気に正体を現していた。
吐きだすような思いで告げた私を見つめたまま、ノボリさんが力なくゆるゆると頭を左右に振っている。
「違う、違います…そうではなくて…!」
こんなに悲しそうな顔しているノボリさん初めて見た。
けれど、そろそろ私達は、はっきりしなくてはいけない。
「気付いてないかもしれないけど…ノボリさん、私のこと一度も好きって言ってませんよ。」
ひどく言い辛い一言だった。
雰囲気をこれ以上固くしたくなくて、笑おうとしたけど失敗した。
「……私はノボリさんのこと好きです。でもノボリさんの気持ちがはっきりしない以上、結婚は無理です。」
告白したというのに、胸の上に石が乗っているかのように重い。
きっと私もノボリさんも、不安と悲しさと、複雑な感情が入り乱れたような顔をしている。
「…買い物行ってきますね!」
ノボリさんが口を開きかけたのを見て、ビビリな私はこの場に耐えきれず立ち上がった。
逃げるようにぎこちない動きで歩きだすと、扉に思い切り足の小指をぶつける。
普段なら悶絶するけど、今は緊張のせいかあんまり痛くない。
名前を呼ばれた気がしたけど、歩くスピードを緩めないまま貴重品の入ったバックをひったくるように掴んで外に出た。
階段を降りて数歩も歩かない内に涙が溜まって視界が霞む。
こんなシリアスな展開にする気はなかったのに。
マンションのロビーで泣くのは恥ずかしくて、涙を零さないよう上を向いた。
「なまえ様!」
すると階段の上から、今度は明確にノボリさんの私を呼ぶ声が聞こえた。
「お待ち下さいまし!」
姿は見えないけど、急いで階段を降りる靴音がカツカツと聞こえる。
「ヤバイ…!」
追いかけてくる気だ!
せっかく逃げてきたのにこれでは意味がない。
涙目で鼻もずびずび、精神的にも弱ってるところだから余計に会いたくはない。
どうしよう。
今から走っても大した差もつけられず追いかけられてしまう。
ノボリさんに追いかけられて逃げ切れるとも思えないし…。
「…ジャローダ!」
悩んだ挙句、私は階段に向かってジャローダを出した。
飛び出てきたジャローダは3mもあるその体で階段の幅を隙間なく埋めてしまう。
それと同時にバンッ!と鈍い音が響いた。
「…っ!…っ!」
ジャローダの向こう側にいるノボリさんが痛みに悶絶する気配が伝わる。
多分、壁になったジャローダに勢いよくぶつかったんだと思う。
…ノボリさん、鼻高いから相当痛いだろうな…。
しかしここで手を緩めてはいけない。
「ジャローダ、巻きつく!」
「♪」
「な!?ちょっと待っ…!」
ノボリさんの姿を見ないまま、ジャローダに命令を残して走り出す。
ノボリさんにも懐いているので、きっとジャローダは喜んで巻きついてくれるだろう。
「ごめん、ノボリさん!ちょっと1人にさせて!あとジャローダのことよろしくー!」
…そういえばあのこ、噛み癖があるんだっけ…。
11.4.29
シリアスが 書 け な い。
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[mokuji]
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