閑話
 人の来る気配に、地べたにへばりついて隠れたのは殆ど脊髄の命令だった。丁度巻物の様なものが密集しているところの影で、私が地面を寝床にすれば誰にも見つかることはない……だろう。わりと近場に死の影がちらつくのはあまりない体験で、少々体が震えた。どうやら呂蒙君に用だったようで、少々歯切れの悪そうな声で「仕方がない」と出ていった。迷いなく私を肩に乗せて歩いているときには聞こえることのなかった、靴が地面を擦る音を最後に、足音が遠のいていく。離れがたいと、思ってくれたのだろうか。くすぐったさに笑みが零れてしまう。


「服が汚れるぞ、姉上」
「あ、ありがとう、魯粛君」


 差し出された手を支えに起き上がる。確かに少々埃が積もっていたところだったようで、薄桃の着物に小さな黒い粒が点々と付いていた。手で払ってとれるだろうかと考えれば、私の手が未だ、魯粛君の大きな手の中に包まれていることに気付く。


 気にも留めないのか口が開かれることもなく、黙り込んでそのまま、私の真正面に立つ魯粛君。身長は呂蒙君よりも大きくて、首を限界まで逸らさないと顔すら見えないけれど、分かっていて近い所に立っているのだろう。昔と比べすぎるのもよくないが、こうもそのままだと圧倒よりも先に懐古が胸を占める。



 視界が真っ暗になった。触り心地の良い布地が顔に触れている。背を圧迫する腕は離れる様子もなく、それでも肺や呼吸を気遣ってか時折隙間を作る様に腕が動いた。指の間を隈なく触れる様に、包む手は温かく、新陳代謝が活発なのか相変わらず子供体温なのか。まぁ、それはないか。こんなにも大きくなったのだから。



「大丈夫だよ、痛くない」
「多少は動じるものと思ったのだがな」
「私にとっては、2人と別れたのはたった2年前だからねぇ、嬉しいの方が強いな」
「短いな」
「魯粛君たちは、何年だった?」
「30年、弱か、俺も年を取ったものだ」


 鼻先が頭のてっぺんに触れるのがくすぐったい。魯粛君が甘えてくるのは、決まって呂蒙君が寝た時や、他の何かに熱中しているときだけだった。それも自分の顔は決して見せようとせず、背や腕の中に顔を隠して、何もなかったように会話を続ける、それが魯粛君の甘え方。

「大変だった?」
「そうでもないさ」
「楽しかった?」
「まぁ、そうだな」
「……そっか」
「姉上はなぜここに?」
「気づいたらいた、かな、服も変わってたし、」

 精一杯伸ばした手で、ゆっくりと頭を撫でてみた。つやりと固められた髪はきっちりと結われて髪飾りの様なものの中に仕舞われている。それを崩さないように頭を往復すれば、気が済んだのか腕を離した魯粛君の顔が見える。なるほど大きな体に似合う頼もしい笑みだ。



「さて、幼い俺たちを保護してくれた恩だ、援助は惜しまんぞ?」


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bkm