ただいまはいつ?
「姉上!! 手伝いいたします!!」

 皿洗いをしようと立ち上がった私に飛びつくふわふわとした笑顔が、ふと脳裏を通り過ぎた。




*     *     *



 大学1年生を半分ほど終わらせたころにやってきた私の弟のうちの1人。呂蒙君はよく笑い、よく動く子だった。公園はまず全力疾走から始まり、ずっこけようと木にぶつかろうとまず止まらない。時々木の棒を拾い上げては剣士のように振り回し、全身くまなく汗と泥まみれになって帰ってくるのがほとんど常。メリットとアタックとカルピスがよく似合うといえば、雰囲気のおおよそはつかめるのではないだろうか。




「面目ない、姉上、先は、その」
「大丈夫だよ、もう痛くないから」



 先ほどの道から少し離れたところで、精悍な顔立ちの男性はなんとも申し訳なさそうに頬を掻いた。髭の生えた日焼けのある肌。見上げるような長身。束ねた髪は髪質が固いのか少々膨らんでいてふわふわとしている。そんな人が私を姉と呼んで、挙句目上の人として扱っているのは傍から見れば何とも可笑しな光景だ。しかし先ほどから感じているのは「おっきくなったなぁ」という親戚心というか老婆心というか、つまりは素直に感動しかない。

 疑いようもなく彼を私の可愛い弟である呂蒙君だと思っているし、普段なら話しかけづらい年上の男性だが、私の口や体は一切緊張することなく、呂蒙君を全力で甘やかそうと声色を変えたり、随分と高いところにある頭をなでたりしている。呂蒙君はそれがくすぐったいのか、むにょむにょと口を歪ませてから1つ咳払いをして、これから重要な話をしますよといった雰囲気を作り上げた。



「しかし、姉上はなぜこちらに?」
「気づいたら、かな、寝て、起きたら森みたいなところにいて、服もいつの間にかこんな感じだったし、ここ何処か聞いてもいい?」
「建業はお分かりか」
「北京のどっち側、とかで」
「ぺ?」
「つーじないかぁ」



 オーバーなリアクションついでに目を閉じて、何とか得られた情報のかけらを、何とか形にしようと頭を動かす。中国の主要都市の名前が違う。それもそうだ。見回せば電気はおろか蒸気もなく、書き物は竹や木の破片のようなものを使っている。高校の時は日本史を取ってしまったから、照らし合わせる知識がそれしかない。ああいや待て、昔魯粛君が霊帝の時代が、とか言っていて、調べてみればそのちょっと後くらいに金印だとか卑弥呼だとかの時代になったはずで、となると240、とか、そのくらい?


 だめだ。昔魯粛君たちの話を聞いて自分なりに色々調べたはずなのだ。なのに、今はもう単語とか、ぶつ切りの光景だとかしか思い出せなくなってしまっている。



「もう会うことはないんだから忘れろ、とかじゃなかったのか……」




 2人がいなくなってから今まで、何度となく考えたことだ。徐々に薄れる記憶、いつ買ったのかも分からなくなった物の数々。これを買ったとき、彼らが喜んでくれたのか、用途が分からず困惑していたのか。それすらも思い出せなくなって、彼らをこっちに連れてきた誰かさんのアフターケアのようなものなんじゃないかと、そんなことを思ったこともあった。



 でも、こうして会えた。それだけでもういいや、と、そんな風に思う




「………ところで、姉上」
「ん?」




「荷物のふりは出来るだろうか」



*    *    *



 落としはしないから絶対に動かないでくれと、竹のような植物で編まれた籠の中にみっちり入れられた。首や至る処の関節が痛いほどに道々に詰められていて、ふたを閉めてしまえば外を伺えるのは微かな編み目の隙間だけとなった。抱えた膝を動かさないように抱き抱えていれば「よ、と」という言葉とともに盛大な浮遊感が襲う。俵のように担がれたのだと想像できたが、把握は出来なかった。理解と納得は近いようで全くの別物なのだ。

 呂蒙君といえば確かに力仕事を進んでやる子ではあったけれど、いつか私を持ち上げられるようになるとか言ってたけれど、だからと言ってこんなに簡単に、ひょいって、おかしすぎる。



「力持ちになったねぇ」
「姉上が軽すぎるのだ、あちらは食物が豊富だったと思うが」
「いや、平均中の平均だよ? 呂蒙くんが凄いんだよ?」



 なるべく重心が動かないように固まれば、運び方がいいのか揺れは殆ど無く、電車かバス程の上下振動が時々来るだけだった。ゆらゆらと眠気の来るような揺れを感じている間に、何度か呂蒙君に話しかける声や、逆に呂蒙君が話しかける声を聴いた。荷物の中身について聞かれても易々と機転を利かせた言葉ですり抜ける。小器用、というのはどちらかというと侮りとか侮蔑の意味合いが強いように聞こえるが、実直極まっていた呂蒙君がこんな風に成長するとは驚きで、知らぬ間に大きくなってしまった、という事実に何やら寂しくなる。顔が見えないからか、想像以上の筋力を実感しているせいか、まるで知らない人のようだと思ってしまう。せめて話しかけることができたなら、自慢の弟がこんなにたくましく成長したのだと嬉しく思えるはずなのに。






 魯粛君も、大きくなったんだろうか。




 思い出すのはひょろっと背の高かった男の子。どちらかというと考えることが好きな子で、細かなことに疑問を持つ子だった。プリンが何で固まるのかとか、天気雨はどうやって降るのかとか。それらを全部考えて、覚えていっては、じゃあこれはどうなるのかととんでもない事を思いつく。育ちがいいのか服を汚すことに少々嫌悪感を抱いていたようで、それも呂蒙君に引っ張られ続けるうちに諦めがついたのか2年も経つ頃には2人そろって水か泥かに濡れて帰って来る時がたまにあった。



 すっと入った部屋の扉を閉める音がする。室内には先客がいるようで、軽い木の当たりあう音が2,3度してから止まって、物を置く音が数度響く。



「失礼、魯粛殿、少々お話があるのですが」
「ああ、−−−−−呂蒙、その荷は?」





ーーーーーーーーつい、体を動かしてしまった。聞こえてきた名前と、返ってきた声に。
 呂蒙君の悲鳴と共にバランスを一気に崩して宙に浮いた箱、基私の眼に飛び込んだのは何の遮りもない日光だった。眩しさに目をつむり、丸々投げ出された後はもう床に軟着陸できたら御の字だろう。せめて頭は守るべきだと抱えていた膝を離さずにスローモーションな浮遊感に耐えていれば、がっしりと受け止められて私の空中浮遊は終わった。




「    」



 息をのむ音がした。赤ん坊を抱きかかえるように体に回った2本の腕が固まって、私はどうも降ろしてもらえそうにない。ゆっくりと目を開ければ、赤い服に身を包んだ男性が、目を真ん丸にしながらこちらを見下ろしている。少しあってから申し訳なさげに呂蒙君の顔が視界の外からひょっこり伸びて、ああ、じゃあこの人はやっぱり




「ありがと、魯粛君、」
「………………お安い御用だ、姉上」




 軽々私を床に下ろしてそう微笑んだ魯粛くんは、随分とおじさんになっていた。


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bkm