3年という短い時間だったが、弟がいた事がある。
大学帰りの私の目の前にどこからともなく現れて、不安げに私を見上げた小さな男の子2人。幻だとか、夢だとか、そんなものでは決してなかったけれど、別れの時はそれこそそんなあやふやなものだったんじゃないかと思うほど呆気なく消えてしまった。
「……ろしゅくくんと、りょもうくん…………」
忘れることの無いように、その名を何度も口に出す。
返事がないことに苦しくなるが、それでも忘れてしまいたくなかった。お世辞にも出来た人間とは言えない私を、姉と慕ってくれた私の弟。写真だってある。買い与えた本も、服もみんな残っているのに、気を抜けば直ぐに忘れてしまいそうになる。物覚えが悪いわけじゃない。けれど忘れてしまえと、誰かがこの記憶をなくそうとしているような、そんな感じがするのだ。
もう一度呟いて、目を閉じる。すぐ、君たちの成長を素直に願えるようになるから、もうしばらくこのままうじうじさせていて。
* * *
次に目を開けたときに、私はどこともわからない森の中にいた。見渡す限りの木、澄み渡る空気と、湿り気を帯びた土。とてもすがすがしい目覚めだけれど、すぐさまここは何処だという混乱が続く。気づけば服装も着物のようなものに変わっていて、しかし日本でよく見る形じゃなくて、なにやら着物と帯が合体したような服だ。どちらかというと中国とか、ベトナムとか、そんな感じの。
とりあえず歩こうと、道なき道をとことこ歩いてみた。木の根や苔がびっしりと地を覆う光景はコンクリート育ちの私から見ればとても珍しい光景で、飽きることはない。日の光を反射してきらきら光る川を沿って歩いていれば、気づけばずいぶんと経っていたようで、日が黄色やオレンジを帯び始めている。
「おい、そこで何をしている」
声をかけられたのは突然で、後ろから声がしたと振り向けば、薄い鎧を間接や胴につけた男の人がこっちを険しい顔で見ていた。腰には刀。映画の撮影にしては周りに人がいない。タイムスリップ? 生まれた時代の説明に古代中国の王朝の名を出した弟がいたせいで、ちょっと不思議な出来事にはずいぶん寛容になってしまった。
「迷子になってしまったんです、人里は何処ですか?」
* * *
声をかけてきた人は割といい人だった。少々疑わし気にこっちを見てきたことも何度かあったが、それでもこっちだと数本煙の上がる人里のような処へと案内してくれた。
同じような服を着た人達が土を踏み固めたような道を歩いていて、子供がきゃっきゃと犬や猫を追いかけている。なんとも平凡で暖かな雰囲気だが、兵士らしき人が槍や刀を片手に歩いていたり、大きな声と共に一斉に振り回していたりする。平和と危機の度合いが違うのだろう。
「お前、家は」
「こっちじゃないみたい、ですね、ずいぶんと歩いてしまったみたいで、でも助かりました、ありがとうございます」
少し哀れなものを見る目で見られてしまった。もちろんきっとここに私の家はあるはずもなく、野宿か親切な人探しかを決めなければならない。それでもこれ以上彼に頼るわけにはいけないと「知り合いが店を構えているはずなので」と別れた。弟たちもいきなり全く知らないところに飛ばされた心細さや怖さを我慢して私を頼ってくれたのだ。私ができねば姉ではない。
「もしかしたら、あの子たちのいる時代かもしれない」
そう思えば、きっと何もかも耐えられると歩を進める。きっと柔らかな草の寝床はあるし、きっと土間の一部分くらい貸してくれる人がいる。まずは散策から始めなければ。
――――と、そう意気込んだ私の手を、がしりとつかむ大きな手。
再び後ろを向く。手の主は精悍な顔立ちの、青年と壮年の間のような男の人だった。先ほどの人とは打って変わり、重厚な衣服と鎧から、それなりの地位の人だと類推する。目玉をかっと開いてこちらを見る表情はひどく驚いているようで、言葉も音も漏らさない口が小さく戦慄いていた。
「―――――――――あね、うえ……?」
小さく呟いたその4文字。見たことのない人だ。そのはずだが、何故かふと、甘えたに私に飛びついてきたあの小さな体を思い出す。体を動かすのが何より好きで、外に行こうと誘えばきらきらと茶色の眼を煌かせていた、真ん中分けの髪をした可愛い弟。
「りょもう、くん……?」
この日、私は初めて鍛えに鍛えた男性の肉体の全力ハグによる骨の悲鳴を聞いた。