いっそ運命でも流れてこい
 たとえ初恋がどうこうなろうと、時間は無慈悲に過ぎていくものだ。



 月曜の朝。昨日のおしゃれ感満載の格好とは正反対を行き、ジーパンとパーカーを適当に選んで家を出る。好みでもない濃いめの化粧をさせられた所為か肌はあまり芳しくなく、入念なお手入れを余儀なくされ遅刻寸前。飛び乗った電車内で使い古したリュックサックからイヤホンを抜き出し、携帯に突き刺して耳に嵌めるも、のっけからシリアスバラードのピアノ音がズシンと響く。満員電車の陰鬱な空気も相まって崩れ落ちそうだ。



(帰りたい)



 根っからのインドア派は多人数がひしめく場所がとことん嫌いなのであるからして、私の心がお家の静けさと安心感を渇望しているのは仕方の無いことである。最早音楽を変えるべくポケットから携帯を引き出す気力もなく、ただ時が過ぎるのを待つ。
 今回の運転手は少々運転が荒いようで、がこんと止まっては慣性の法則で体が前につんのめる。スカスカの時はともかく満員の時は眼前のリーマンに激突するのが何とも心苦しい。適当につけた粉なんぞ仕立てのいいスーツに着いたらことだ。なるべく下を向きながら、時々出入りする客に揺らされながら止まる駅の数を数えていく。いま3つ。あと1つ。



 いい加減切なさを前面に押し出してくる失恋ソングから逃れようと携帯を取り出した時、少々外れかけたイヤホンの隙間から、間もなくカーブに差し掛かるといった旨の放送が入る。4連続でバラードだが仕方がない。女性が涙を流す顔のジャケットを動かすことを諦めて、ポケットに仕舞い込む。




―――と、どうにも力の入り具合が悪かったようで、ずるんと滑った携帯がイヤホンを引っ張りながら床に落下する。耳に強烈な痛み。と、同時にがこんと音を立てながら車体がカーブに乗る。



「う、わ」



ぼすん。



 目の前のスーツに顔面からのめりこむ。当然バランスを崩したせいで頭の向きなどを考える余裕もなく、顔面から落ち着きのある色合いのストライプに突っ込んだ。びくともしない体幹は賞賛すべきなのだろうが、その前にひどく穏やかに漂ってくる香水らしき匂いが気になった。ガタイがよく、スーツで、人に不快感を与えない量を噴射できる節度の持ち主。ひょっとしたらやの付くああいうタイプの人なのではないのだろうかと血の気が引く。





「怪我はないか?」




 聞き覚えのある声がした。まぁ、そうだろう。昨日聞いた先、何といい声かと思いもしたものだ。恐る恐る、上を見る。




 魯粛さん。口が危うく呟きかけた名前は、何とか喉元で押しとどまってくれた。つり革と容易に並ぶ高身長。重そうなカバンを持ちながらも、抱きとめる様に背中に回った腕――この腕の存在に気付いた時恥ずかしさでまた叫びそうになった――はびくともせず、変わらず心配そうにこちらを見ている。かすり傷の様に付着したファンデーションも視界に入っているだろうに、そちらに何かしらの反応をすることもない。


 なぜ今なのだ。いや、何故昨日の今日なのか。人が初恋だのなんだのと思っていた矢先になぜ会うのか。しかも状態がおかしい。外見の洗練と対応力は天と地の差、さらに迷惑と無様の合わせ技は寧ろ山葵湯を飲むべきは私ではなかったのだろうかと真面目に考えるほどだ。



「い、え、ダイジョブデス」




 口は片言に動き、半分外れたままプラプラと揺れるイヤホンは間抜けに引っかかったまま。そうかと安心したように口角を緩めた魯粛さんに心臓が跳ね上がって暫く、ぷしゅうと扉が開いた。行き交う人集り、と言うよりは人の渦に巻き込まれ、カンカラカンと蹴り転がる携帯にアッと気付けば、バリアフリーの床を滑る様に飛び出てホームで止まる。「ご、ごめっ、あ、」などと意味不明な言葉を魯粛さんに吐きながら、なんとか外に出て拾い上げる。



 踏まれ、蹴られてパッと見原型だけは変化のないスマートホンに、電源ボタンを押した瞬間蜘蛛の巣が張り付いた。バキバキの筋から滲む虹色。ふにふにと柔らかく弾む画面。守るべきものを守りきれなかった保護シートが虚しく剥がれやすくなっていたが、ペラリと引き剥がせばシート自体に大きな損傷がない。エージェントだけ無事で保護対象だけ死んでいるような凄惨な有様だ。



いや、そんなことを気にしている場合ではない、魯粛さんは!!



 自分が被った被害より他人にかけた迷惑の方を重要視するくらいの道徳が暫くの放心の後に帰ってきてくれて、はっと後ろを見る。



 ぷしゅうと閉まるドア。


 困ったように笑いかける魯粛さんの顔が遠くへ消えていって、今日の買い物にわさびを買う事を心に決めた。







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bkm