恋のはじまりと終わり
とある日の午後、里帰りを満喫しながら飼っている犬と戯れていると、急なことだがと前置きされて、私のお見合いが決まった。
お見合いといえば鹿威しと和室。親と当人と仲人さんが向かい合って座って、あとは若い人たちで、というやつがメジャーだろう。しかし聞けば和室じゃないし仲人さんいないし、そもそもお相手は父の仕事関係の知り合い、というか偉い人で、30の後半を行くおじさんだという。当の本人、現在大学2年生である私としては逆上ものだ。若い身空の愛娘を、いったいどこのひげおやじに差し出せというのか。



私は激怒した。必ずや敬愛していた父を討ち、そのお相手様の鼻っ柱をへし折ってやろうと決めた。私には社会の上下関係がどれだけ絶対的なものかは分からないが、それでも家族を犠牲にするほどではあるまい。わさびを湯に説きながらそう覚悟を決めて、仕方がないから出てやるよとマグカップを用意する。感涙に咽びながらこくこくと首を振る父。ではさらばと鍋の中身をそっくり注いで退出する。次の父上はきっとうまくやるでしょう。




*     *     *





決戦の日が来た。案内されたのはカジュアルという言葉の似合うお洒落なカフェだ。もちろんカジュアルの意味は言葉通りではなく、カジュアルスタイル、などと気取って使われる方の語彙だ。間違っても上下ジャージでこれが私のカジュアルだ、といった意味ではない。
30分前に到着したため当然だが席には誰もおらず、私は精一杯の肩肘張った服装の着心地の悪さに辟易しながら椅子に座る。ニスの塗られて艶めく焦げ茶色の木製の椅子だ。後頭部まで届く背もたれに違和感を感じながら何ともなしに髪や服の裾を治すのは、これからのことに緊張や心臓が止まりかねないほどの恐怖を感じているからで、決してどんな人が来るんだろうといった期待をしているわけではない。過日は鼻を狙おうと心に決めていたが、今となってはどう穏やかに事を済まそうかで頭がいっぱいになっていて、顔面ヒットの洗練さはすでに蚊帳の外だ。




「ろしゅく、さんねぇ」



見合い相手の名前を呟いて、目を赤く充血させた父から辛うじて聞き取れた情報を反芻する。


頭脳明晰で人付き合いもよく、明朗闊達文武両道。どこぞの有名大学を首席で卒業した後はあのポンコツの勤める会社の親玉に入社。元から実力主義の専務の伝手で入ったその人はすぐさま頭角を現して、並み居る先達たちを次々と牛蒡抜きしたそうだ。あらゆる嫌味や嫉みもなんのその、言った奴ら全員を唸らせるほどの働きで認めさせるその姿勢は誰からも支持されていて、今や上から数えて一桁台の地位に君臨しているらしい。



まぁ、すごい人っていうのは分かったが、そんな人と私が何故こんなことになるというのだろうか。




「失礼だが、燕子殿、でいいかな?」



いい加減腰が曲がってきたところで、突如上から急降下してきた言葉に肩が跳ねた。気付けば約束の時間は5分前と迫り、目の前には自販機を優に超える長身がこちらを見下ろしている。でかい。説明不要。




「ええ、と、魯粛さん、でしょうか」
「ああ、すまんな、随分と待たせてしまったようだ」
「いえ、そのような……」



やっつけ仕事に打ち上げた仮面を装着し、努めて柔らかく笑んで見せる。私は女優、私は女優、私は女優。そう、髭おやじとディスったその人がどえらいダンディなイケメンでも、表情にそれをおくびにも出してたまるものか。



「杜燕子と申します、今日はお会いできて光栄です」
「魯子敬という、見合い、とは銘打ってあるが、別段気にしなくてもいい、よくある会社同士の縁結びみたいなものだーーーーというと、面倒だと思われても無理はないがな」
「いえ、そんな」



十中八九そんなものだろうと察しはついていたから別に気になりませんよと言ってしまいたい。というかこんな偉い人見合いに担ぎ込めるほどあの凡骨は有望視されているのだろうか。だとしたら対応の改善……はしなくてもいい。外でどうだろうと、家の中ではねじの外れた父だ。



と、まぁそんなこんなで終始おほほほな感じでその日は終了した。「今日は楽しかった」「ええ、私もです」なんて決まり文句で別れて父の車に揺られ、穿き慣れないスカートやヒール靴で疲れた足を一人暮らしの家で投げ出し、ずるずると疲弊した体を1Kの家に上げる。明日は普通に1コマ目から授業だし、3桁弱離れた実家から通うには始発に乗っても間に合わない。自分好みにレイアウトの進んだ2年目の我が城は、今日も快適に城主を迎え入れてくれた。



柔らかいクッションを狙って投げた小振りなカバンが、ボタン1つで危うげに留まる口から1枚の紙を吐き出した。ため息とともにそれを拾い上げ、カバンの奥深くにしまい込む。11この数字が並び、英数字交じりの一文が記されたあの小さな紙は、魯粛さんが去り際に渡した名刺だ。定規も無しにまっすぐ書かれたそれらは、びしりと息を揃えて並んだ軍人のようで、何やら息が詰まる。



今日は私の外面と並んで殆ど遜色ない優雅な立ち居振る舞いと大らかな態度をしていたが、その実彼はあの字と同じ軍人のような人なのだろう。無理だ。そういう人って大概女性は家にいて家庭を守るものだとか言いそうだ。関白宣言が頭の中をよぎり、「できる限りで構わないから」の部分が妄想の魯粛さんによって切り捨てられる。



日々を細々とマイペースに生きる私と合おうものか。いや、合わない。



 まぁ、今後会うことはもうないだろう。おそらく此方が趣味や休日の過ごし方を聞かれた時についた嘘など大方把握されているだろうし、彼にとって今回の見合いはほとんど仕事の一部のようなものだっただろう。そうでなければ誰が好き好んで10以上も年の離れた小娘と懇ろな関係になるというのか。



触り心地のみで選んだルームウェアに着替える。だぼだぼでずるずるで、このまま階段でも下りようものならつんのめって落下しかねないほどにゴムの緩いそれを布団にベッドに倒れ伏せば、睡魔は即座にその身を包んだ。シャワーは明日、ご飯も明日。とにかく今はぐっすり眠ってしまいたくて、髪の毛を見事に結わえていた差しピンと使い捨てのゴムを髪数本と丸ごと引きちぎって眠りにつく。片付けも、明日だ。今日はとにかく疲れたんだ。枕に頬を擦り付けながら、羊を数えるように何度も念じる。




さらばほのかな恋心。初恋となる前に消え去り給え。







prev next

bkm