>> さよならグリム
やさしくあたたかな世界で生きていきたいと、ずっと昔から思っていた。

育った環境のせいもあり、わたしが小児向けの絵本や童話なんかに初めて触れたのは、お酒も飲めるような年齢になってからだが、母が繰り返し語るしぬほどつまらないアホみたいな理想よりも、もっと素敵な世界があることには、ずっと前からなんとなく気づいていた。
この世界には、得意げに幸せを語る者がいる。やさしい世界で生きてきた、心も体もマシマロのようにやわらかい人間がいる。私はそうではない。見つけ出すのは、とても簡単なことだった。
そうして仕事で入った大きなお屋敷の、モビールの揺れるまだあたたかいその部屋で、美しい絵本の数々を見つけた時は、やっぱりだと思った。私の考えは正しかった。やさしくあたたかな世界は確かにあって、やはりそれは私にとって魅力的であったのだ。
私は本棚から次々と絵本を引っ張り出し、たくさんの王子様と出会って、しあわせな結末に頭をぼうっとさせた。たくさんの、やさしくあたたかな夢を見た。
だけど。


「何してるの?」


私が一人夢中で読み漁っていた時、私の後ろに立ったのは。
やっぱり、王子様なんかじゃなかった。









「何してるの」


そっと置かれるように、静かに上から舞い降りて来た声に、私は顔を上げた。黒くて深い闇のような目と目が合って、私はにっこりと微笑む。紅茶のカップがソーサーに軽く当たって、カチャリと音を立てた。この家は静かだから、そんな些細な音もやけに耳障りに感じた。


「こんばんは、イルミ。何って、お茶だけど」


私がそういうと、イルミは興味無さそうにふーん、と言った。だけど、興味無さそうにした割にはその場を去ることなく、私の前の椅子にごく自然な態度で座ろうとする。そこは汚れてるから座らない方がいい、というタイミングを、なんとなく逃してしまったが、イルミは座る前にきちんと背もたれが汚れていることに気づいた。私は、それについて何か言われる前に黙って立ち上がって、イルミの分の紅茶を淹れに行くことにした。文句を言われるのは御免だ。
お湯を沸かしながら、お茶一杯分、イルミと何を話そうか考える。話すのは、私にとって苦というわけでもないから別にいい。だけど、イルミにつまらない話をしたくはなかった。


「イルミ、どうして此処に?」

「ナマエのこと、さっき街で見かけたから。きっとここだろうって思って」

「うそ。気づかなかった。かなわないな」


かなわない、というのは、イルミの存在に気づくことができなかったことだけではない。
私がこの街にいるのを見ただけで、私の今日の仕事場におおよその検討をつけることが出来るということは、私の依頼主がだれで、その人がだれを憎んでいるのかというところまで、イルミは大体を知っているということだ。
その情報量に、流石だと感心した。そして、同時に少し困ってしまった。イルミという人間に出会ってから数年、初めは何を考えているか、全く理解できなかったけれど。彼が何を感じ、どういう思いで生きているのか、何となくわかるようになってからというもの、私はこうして困らされてばかりだった。正解かはわからない。だけど、私の考えでは、イルミはきっと、私のことがそれなりに嫌いじゃない。
紅茶のカップを手に持ち振り返ると、結局イルミは汚れていない椅子に座って、こちらをじっと見つめていた。私はイルミの前、汚れた椅子に座って、イルミに淹れたての紅茶を差し出すと、自分のすっかり冷めてしまった紅茶を手に取った。
イルミは紅茶には口をつけないまま、私に向かって淡々と言った。


「ナマエは相変わらず、どうかしてるね」

「どうして?」

「なんで自分が殺した奴の家に我が物顔で居座れるの?流石に引く」

「ああ……紅茶一杯分の時間くらい、許されると思って。もう家主もいないし……せっかく、素敵なおうちだからね」

「前も確か、ナマエはそうやって人の家の本を読み漁ってたよね」


血塗れで。
イルミにそう言われ、私は静かに目を伏せる。なんだか懐かしい。初めて会ったあの時も、確かに同じようなことを言われた。
振り返った時、ちょっとがっかりしたのを覚えてる。だってイルミは、私の理想とは程遠いと、一目見ただけですぐにわかったから。彼は間違いなく、私の母の理想の人だった。
そんなイルミと、こんなふうに仲良くなるなんて、絶対にないと思っていた。そんなの絶対に嫌だった。母の、世界中の人の理想とはあまりにもかけ離れた、非常識な理想。ほんと、アホみたいと思ってた。どうかしてると思っていた。
でも、結局私は私の意思で母の理想の道を歩み、そうして、無様に失敗しようとしている。


「今日、イルミに会えてよかったよ」

「何で?」

「べつに。来てくれて、ありがとうね」


本当のことだった。私は、イルミがすきだ。とてもとても、だいすきだ。さっきも言った通り、母に言われたからじゃない。すべて私の意思だ。
イルミを好きになったのも、イルミにもう一度会いたいと何度も思ったのも、紛れもなく私なのだった。何一つとして、強制されたわけじゃない。私は本当に、イルミが大好き。私の理想の人じゃなかったし、むしろ、正反対の奴だった。それでも、今私にはイルミしかいない。
私がそんなことを考えているとは露知らず、イルミは紅茶に視線を落としながら、やっぱり口をつけることはせず、静かに、僅かに言い訳じみた言葉を紡いでいく。


「別に、本当は来たくなかったんだけどさ。ナマエはどうかしてるけど、所詮俺たちから見たらザコだし」


そこまで言ってから、イルミはピタリと口を閉じた。そうしてまた、こちらをじっと黒い目で見つめてくる。まるで、お人形みたいだと思う。美しいと思う。私のような中途半端なザコではなく、イルミは本物だ。私の思い描いていた理想とは程遠くても、そういう意味では、イルミは王子様とそう変わらないのかもしれない。
やがてイルミは、美しい姿で、声で、 淡々といつも通りに私に言った。




「ナマエなんていなくなっちゃえばいいのに」



イルミの言葉に、今度は私がぴたりと息まで止めた。
わかっている。突き放すようなひどい言葉だけれど、イルミは怒っている訳では無い。こう見えて彼は、喜怒哀楽の怒については特に、わかりやすい所があるから、私が鈍感なわけでもない。確実に、イルミの機嫌は悪くなかった。
だけど、彼の言葉もまた、きっと嘘ではない。どんな言葉よりも真実を語っていたし、本心だったに違いない。イルミは確かに、私にいなくなって欲しいのだと思う。
イルミはきっと、知らないのだ────私たちの出会いは仕組まれていたということ。そして、もうすぐ終わるのだということ。イルミは私たちの関係に親の介入が無いと思っているようだけれど、本当はそんなことは無い。私は今度、イルミのために死ぬことを約束しに行くのだ。
いなくなっちゃえ、なんて言わなくたって、さよならはもうすぐそこまで追いついてきている。

私は、カップをそっと置いて、イルミの目を見つめ返した。それから、できるだけ柔らかく微笑んで、許しを乞うような調子で、こう返した。



「ごめんなさいね、もう少しだけ、そばにいさせてね」


私がそう言うと、ほら。イルミは安心したように、一つ息を吐くのだ。
いなくなってほしいのは、きっと本心だ。だけど、自惚れでないのならば、イルミは私のことがそれなりに嫌いじゃあない。だから、こうして私に会いに来てくれる。私の言葉に、僅かながらに安堵する。
そんなイルミに、もうすぐ貴方の前からいなくなる私が、貴方のせいでいなくなったのではないのだと伝える為に。嘘でも、少し先の未来を約束して、いなくなりたいのだ。死んでしまったら、もう何も言えないから。

やさしくあたたかな世界で生きていきたいと思っていた。だから、こんなのは全然、まるっきり望んだ人生じゃないけれど。だけど私は、大好きな人のために海に融けるのもまた、悲劇ではなくしあわせというのではないかと、思うのだ。

171125
prev//next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -