→名前をなくした
広いし臭うし夜は暗いし、見るからに怖そうな人ばかり歩いていて、物騒だし。そこは、本当に散々なところだった。
そんな恐ろしい場所をひとりさ迷い歩いていた昼下がりに、わたしくらいの子ども数人と出会ったが、それも希望にはならず。その子達は泣いてるわたしをただばかを見るような目で見てきただけだった。ほんとうに嫌なところだ。さいあく。
しかし、そんなところでも星空だけは意外と綺麗で、それがまたわたしを悲しい気持ちにさせる。こんなに綺麗な星空だ、おかあさんにもみてほしかったのに。
ああ、かなしい。おかあさんいないし。二度と会わないって言われたし。嫌われたんだ。私が悪い子だから。ねえ、わたし、もうおかあさんを怒らせないよ、しっかり言うこと聞くよ。なんでも聞くよ。だからゆるして。迎えに来て。こんなところ、いやだ。
「あ、昼間の。まだ泣いてたんだ」
「……」
ぐすぐすと鼻をすすり、枯れない涙を拭っていると、背後から明るい声がして、振り返ればくりくりした目の金髪の男の子。
“昼間の”ってことは、さっきわたしの事をばかにしてきた子の中の1人だ。怖かったし、それにむかつくし、絶対に許さない。
今おかあさんのことで忙しいから早く向こうに行ってほしい。きえろ。
「ねえ、いつまで泣くの?」
「……」
「あ、耳が悪いのかな、おーい?!!ねえ!!!」
「うるさいよ!!」
「何だ、聞こえてるなら返事ぐらいしてよ。ねえ、いつまで泣いてるの?」
「……ずっとに決まってるじゃん」
「ふーん、なーんだ」
やっぱり馬鹿なんだなぁ。
聴こえるか聴こえないかくらいの小さな声で、男の子は確かにそう言った。
かっと頭があつくなる。ばか?なにいってんのおまえ。ばかはおまえなのに。ついでに、もっといえば、この男の子は変だ。すごく。
「だって…だって、ふつうはみんな家族と暮らすんだよ?そうじゃなきゃ変なんだよ?」
「カゾク?変?」
私の言葉に男の子はきょとんと首をかしげた。
今度はばかにしている訳じゃなくて、単純に驚いているみたいだった。それから、わたしの顔を覗きこんで、尋ねてくる。
「変って、どうして?」
「だって…みんながそうだから。みんなと違うのは、変だよ」
「みんなと違うから変?みんなときみは関係ないよ?関係ないんだから違うのはとうぜんでしょ」
「関係なくないよ!」
「関係ないよ。だってみんな、顔も名前も違う、知らない人なんだから」
当たり前のことを説明するように、くだらなそうにいう男の子に私は納得いかなくて、むっとしていると、男の子ははぁ、とため息をはいて空を見上げた。
「つまらない子だなぁ」
「っじゃああっちいってて!」
男の子の呟きが、どうしてか案外ショックで、もう本当に嫌で、私は虫でも追い払うみたいに男の子の顔の前で手を払う。あわよくば事故に見せかけて引っぱたいてやろうと、めちゃくちゃに払った。
すると、そうされた彼は何を思ったのか、10往復したくらいで突然、その手をぱしりと掴んだのだ。
ぎょっとして男の子の顔を見る。私と違って、涙をためている訳では無いのに、男の子の目はきらきらと輝いて見えた。
「ねえ、ちょっと今、いいこと考えた」
「え…」
「きみ、ひとりはいやだろ?」
男の子の言葉に、私は素直に頷く。
ひとりは、ひとりは嫌。さみしいし、こわい。
私が頷いたのを見た男の子は、ばかにした顔をポケットにでもしまいこんでしまったみたいに、すっぱりと消して、笑顔で私の両手を握りこんだ。
「それならおれ達、おれ達さ」
────一緒に、“なにか”になろうよ。
◇◆◇
それから、私がさいあくの場所、否、さいあくの場所“だった”場所────流星街を出たのは、約十年後のことだった。
おかあさんは、今となっては当然のことだが、ついに私を迎えに来る事はなく、結局私は自分の力で、何だかんだ慣れ親しんだ其処を出た。
いや、厳密には私だけの力ではないけれど。それを言うと調子に乗る奴が数人いるので、私はそれはなるべく言わないことにしている。
「あの日ナマエが捨てられてくれて良かったって思うんだよね」
その、すぐに調子に乗る数人のうちの一人────十年経って、背も恐ろしい程に伸び、すっかり成長したあの日の金髪の男の子、もといシャルナークは、母親を待ち続けていた私に、待たなくなった今でもそんなことをいう。
それは、一定の時間を置いて何度も聞く言葉だった。何度も何度も話すから、もうとっくに面白くもなくなった古びた話題だというのに、この男はいつまでも、まるで初めてこの話をしているみたいに新鮮そうにあの日のことを話すので、そういう所を見ると、私は少し背筋が冷えたりもする。
要するに彼は少しおかしいのだ。彼は“自分と他人は関係がない”と今も思っていて、本当にその通りに周りなんて関係なく我が道を行っているから。おかしさを当たり前のように受け入れてしまっている、もう完全におかしさに染まった人間だ。
だからいい加減、私も間に受けなきゃいいのに────私もどうにもおかしいようで、それを聞く度に、律儀に顔を曇らせた。
「いやだよ、私はお母さんと兄弟とみんなで暮らしたかったよ」
そして、毎回シャルの言葉におよそ同じような言葉を返していた。話題としては古びていてくそつまらないが、私にとってもあの日は決して、新鮮さを失ったりしない。これでよかったなんて、そんなこと、生まれ変わったって思わないだろう。
「…無理だったけど」
続けて、ぽつりと言葉を付け加える。これは、いつもは言わない言葉だ。初めて言った言葉だった。
どうしてこんな言葉が零れ出たのかは自分でもわからない。無理だった、なんて終わらせるような言葉、前なら絶対に言いたくなかったのに。ひょっとしたら、自分でも、この話題で憂鬱になる自分にうんざりしていたのかもしれない。
そうしてあっけなく零れたその言葉に、思いの外、悲しみとか恨みとか、そういうものが何もこもってないこと、事実のみを告げる声だったのには、少し驚いた。あの日が新鮮さを失わなくても、悲しみは新鮮さを失っていく。
でも、考えてみれば、私はそもそも恨みなんてもったことは一度もない。そして、かなしみはきっと、あまりにも長い時間がいつの間にか忘れさせてくれたのだ。
あの時はこの事で一生泣いて過ごすのかなって、ばかみたいに泣いていたけれど、大人になってみれば案外そんなこともなかった。
私はあれから、あの街で大きなものも小さなものもとにかく沢山失ったし、そのひとつひとつを必死で追いかけるのは、到底できないと諦めるしかなかったということもある。
お母さんの顔も、弟の顔も、微妙に思い出すけどそれだけだ。夢にすら出てこない。完全に手放してしまった。だから、だからもう、戻れない。いくら求めても。泣いても喚いても、顔を曇らせても。
「もー、まだそんな事言ってる。ナマエには俺がいるじゃん」
「……」
無言で、ちらりとシャルを見る。
得意げに笑っている彼のその手には、私につながる糸がしっかり握り取られているような気がした。
それに引き寄せられるように、私は何度もシャルに出会う。シャルが仲間と共に作り上げた幻影旅団という盗賊グループの一員でもなく、恋人でも、友達でもないというのに。
私は外に出てからは、彼と関係なく過ごしていくはずだったのに。それなのにこうして、彼と一緒にすごし、本当は大して飲めないお酒を飲んで、無意味な会話を延々と続けたり、しているのだった。
それは、私がシャルの“なにか”で、シャルが私の“なにか”だから。そうやって、私達はあの日の拙い約束にどうしてか縋りつく。
「そうだね、……シャルは、特別だから」
「あれ、今日は意外と素直だね」
嬉しそうに笑うシャルが、この違和感にこのままずっと気づいてしまわなければいいと思う。
彼の求めている“なにか”が何なのかはわからないけれど、口約束で作った、こんな掘っ建て小屋の秘密基地みたいな関係では、それにそぐわない事だけは私にはわかっていた。
口約束がだめであるならば、紙に書けば良いのかといえば、そういう話ではない。約束がいけない。なにかというのは、否、何であっても目に見えないものというのは、恐らく約束して作ることはできず、約束によって作ったものは所詮贋物なのだ。うつくしいなにかは、言葉によっては作り出せない。…これは、私個人の価値観だろうか。そうであれば、どんなにいいか。
私は、今日も空っぽの手を握りしめて、祈る。家族の代わりに手に入れた名前すらない“なにか”は、ひどく脆くて、いつだって私には頼りない。
私は昔から周りに左右されがちのテンプレ人間で、名前のない不確かなものなんて、ないのと同じだと思っていたから尚更だった。
それでも、自分がシャルナークの何かであることは、私に残された、唯一だったのだ。無いものを、ねだっている。いつもそう。
◇◆◇
「なにかに、なる……?」
「そう!ねえ、おれたち仲良くしない?泣かないならしてあげるから。」
「…わたしは、」
男の子が何を言っているのかがよくわからなくて、良い返事を返せないでいたら、幼いシャルナークは私の手をぎゅっと、少しつよく握った。
それが、なんだかまるでお祈りのようだと、私はその時ふと思った。胸の前で十字を切ったわけでも、手を組んで目を閉じたわけでもないが────彼は今、祈っている。幼さに身を任せ、無邪気で無垢に、健気に、何かに祈っている。
さっきまで散々腹を立てていたというのに、私はそう思った瞬間、それを振り払う事はできなくなっていた。そうして気づけば私はシャルの手を握り返して、彼の目を真っ直ぐに見つめ、わかりもしないものになる決意をしていた。なれるように、お祈りをした。
「なにかって、どうすればなれるの?なにかって、何?」
「おれ達が、自分で決めるおれ達の関係だよ」
「それって、例えばともだちみたいなもの?かぞくみたいなもの?」
「そんなんじゃない。そんなつまらないものじゃないよ。誰にも名前のつけられてない、おれ達だけの関係!」
シャルナークが無邪気に要求してきたことは、とても難しいことだった。まず、彼の説明を理解するのに本当に苦労した。
彼曰く、それは「ここの人たちとも違って、外の馬鹿なカゾクとかいうわけのわからないものよりも、ともだちよりもこいびとよりも、もっとすごいもの」らしい。
テンプレ人間の私では、前例のないことは中々わかってあげられなかった。私を選んだのは、完全にシャルの人選ミス。しかし、シャルにはそれすらどうでもよかったらしい。
「まぁ、俺も君と作れる気はまったくしないけど今日思いついて今日きみにあったからもう運命だし仕方なくない?頑張ろう」
ようするに、それは幼いシャルナークの気まぐれだった。たまたま私がシャルの通り道で泣きじゃくっていて、なにかを欲していた誰でも良かったシャルが私でそれを試してみただけのこと。
それでも、今でも私はそれを大切にしている。ばかだろうか。それでもいい。シャルナークのおかげで、私は私になれたのだから。それは間違いない。
あの日、シャルが私の手を握った時、彼は同時に私の運命をしっかり、ぎゅっと握りしめ、それから今まで離す事は絶対にしなかった。
私が縋ろうが縋らなかろうが、私はこれからも、彼が飽きるないしはそれに気づくまでは────躓こうが転ぼうが、そうしてついていけなくなろうが、引きずり回されるのだ。
170111
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