▼ ふゆはさむいから暖かくしなさい
世界から放り出されたのはいつだったか、10歳のときだったから、もう8年も前になるのか。
放り出された先は、得体も知れない化け物と、得体の知れない武器を使う人間が存在する世界。目の前で起きていることが理解できなくて、夢でも見ているのだと思った。
誰かが、私に何かを言った。多分、「どこの者だ」という類のものだった。
弱々しく自分の国の名前を言う。兵士たちが何かを話している。ひそひそとして、感じが悪い。
夢なら早く覚めてしまえ。強く自分の頬をつねった。普通に痛くて、それはそれで涙が出て来そうになった。つねった手に、見知らぬ黒い腕輪がぶら下がっていた。
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名前が玉狛に来た翌日、昼間になり陽太郎に引っ張って来られたヒュースはソファに座り部屋を眺めた。一日に一度は健康面を考え、地下から出すと決められていたのだ。
陽太郎がヒュースの横でジュースを飲む。その前のソファには迅が座っており、キッチンにはいつものごとくレイジが本日の昼食を作っていた。
「……あいつは、ここの人間なのか」
「あいつ?」
ぽつりとヒュースが言った言葉を拾ったのは迅だった。ヒュースは陽太郎に聞いたつもりだったので少しだけ間を空けて、「名前とかいう、ドーナツ女だ」と返す。
昨日のことを知らなかったためドーナツ女……?と疑問に思いつつ、迅が「ちがうけど」と答える。
玉狛に来ていたので、てっきり自分がまだ見たことのなかった隊員だと思っていたヒュースは「そうか」と呟く。だとすると情報を聞き出せる回数には限りがあるなと、ぼんやり思った。
「名前に会ったのか?」
迅はヒュースの質問に答えたというのに、ヒュースは迅の問いには答えなかった。代わりにレイジが「オセロをしたそうだ」という説明をした。ますます迅はわからなくなった。
「オセロってなに、遊んだの? あいつコミュ力半端ないな」
「……遊びだと?」
「遊びだろ? あ、真剣勝負だから遊びじゃないみたいな?」
「……?」
ヒュースは昨日の出来事を思い出す。オセロというものは玄界の会議で使われるもののはず……そう考え、とある結論に達した。
「やはりあれは、玄界の会議体勢ではなかったのか……!!」と、まる一日経ってからようやくヒュースは名前に騙されていたことに気付いた。
あのオセロ女……!憎らし気にヒュースがへらーっとした顔の女を思い出す。迅が何故か怒り始めたヒュースを見て、陽太郎と目を合わせて首を傾げた。
「迅、れいぞうこに名前のドーナツがあるぞ」
「お、マジ? 食べる食べる」
陽太郎が迅に教え、「おさむたちの分をちゃんとのこすんだぞ」と昨日名前に言われたことを注意した。
ガチャ。冷蔵庫からドーナツを取り出しながら、迅は苛ついて陽太郎にはらでもいたいのかと心配されているヒュースを盗み見た。
なんで、オセロなんかしたんだろう?迅にはそこが気になった。自分がいた国の情報でも聞こうとしたのだろうか。それとも、自国から離れてしまった近界民に自分でも重ねたか。はたまた、ただ遊びたかっただけか。
当たらずといえども遠からず、迅の考えは正解していた。もしも未来が変わっていれば、彼は全てを見抜けたかもしれない。だが現時点で彼に見えていたのは、今後も遊びにきてはお菓子を持ってくる姿だったり、ヒュースにちょっかいをかけている姿だけだった。
よく冷えたドーナツを口に含み、しっとりとした生地を噛む。砂糖の甘さと、ミルクやバターの心地よい風味が口の中を包んだ。
▽▼▽
「諏訪隊と荒船隊か。ボコボコにしようぜ三雲くん」
ところ変わって本部内ラウンジ。玉狛第二の次の対戦相手を聞いた噂のドーナツ女あらためオセロ女がにこやかに三雲に言った。
本部に個人ランク戦をしに来た空閑と合同訓練に来た雨取に付き添ってきた三雲は、次の作戦に頭を悩ましながらラウンジにいた。一度は断ったのだが、まるで息抜きをしない三雲に付き添いという名目で空閑と雨取が外に連れ出したのだ。
座っていた三雲を見つけた名前はコーヒーを奢った。三雲が丁寧に「ありがとうございます」と頭を下げると、「うんうん。菊地原くんと違っていい子だね」と頷かれた。
話は次のランク戦に移り、自分の知り合いの名前が出てきたためか、名前が上記のように冗談を言う。冗談かどうかはわからないが。
「諏訪さんは勘がいいところが厄介だねー。堤さんと組むと強くなるから早めにどっちか落とすか引き離すかしときたい。笹森くんはカメレオンが怖いね」
レイジが自分たちで調べさせようという育成法を取っているにも関わらず、名前はべらべらと情報を与えた。三雲はすでに調べた情報なので問題ないのだが、それにしても軽率である。
「荒船隊は狙撃手ばっかで、穂刈は仕事ができる。半崎くんは狙撃の腕が高い。んで荒船が弧月を使える。攻撃手もやって狙撃手もやるとか変態だよね」
「そ、そんなことは……ないと思いますけど……」
「別に気を遣わなくても……あ、そうか。荒船が変態だとレイジさんがどうなるんだって話だもんね」
「この気遣い屋さんめー」と言われた三雲は苦笑いをした。状況的には絡まれているとも言えるが、素でいい子な三雲は色々教えてくれていい人だなと思った。だが、変わった人だなとも心の中でちらっと思った。
「三雲くん頭いいし、空閑くんは動けるし、雨取ちゃんはトリオンやばいし。大丈夫大丈夫。自信もって」
「あ、ありがとうございます」
背中を叩いて励まされる。そして「だから、今日はちゃんと寝てね?」と続いた言葉に、三雲は自分が寝ていないことがバレていると気付いた。
荒船隊の陣形を崩せる策が思い浮かばず、最近は眠る時間が深夜になっていた。もちろん学校は変わらずあるため、三雲は寝不足だった。
「……すみません」
つい謝ってしまった三雲に、「別に謝らなくても」と名前が笑った。
「でも次会ったときまた目の下に隈作ってたら、チョップで落とすよ?」
笑顔でそう言った名前に、少しだけ血の気が引いた気がした。
「お、落とすというのは……?」
「そんなビビらなくても。冗談だよ」
「前に三輪くんにやってめっちゃ怒られたし」と続けられ、あんな強い人を気絶させるほどのチョップかと想像して「あ、はは……」と乾いた笑いしか出なかった。
ちなみに、三輪をチョップで無理やり寝かしつけてから2週間は口を利いてもらえなかったが、名前は「警戒されちゃったし、次は睡眠薬でも盛るか?」と懲りずに考えていた。心配しているのかいじめているのかどっちだという話だ。
「次の試合見に行くからね。面白い試合期待してる。荒船ボコるとか」
「……あの、こないだから思ってたんですけど、荒船さんに対して当たり強くないですか?」
「まさか、そんなことは」
去り際に「荒船には犬だ犬。あと水攻め」と弱点まで教えていった名前に、やっぱり当たりが強くないか?と残された三雲は一人思った。奢ってもらったコーヒーが、少しだけぬるくなっていた。
(ふゆはさむいから暖かくしなさい ぬるいコーヒーなんて捨てちゃいなさい)
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