きょうだい




体育の授業でグラウンドを走る燐を屋上から見つめる色子。今は人間の姿だ。

(……私、一体何をしているんだろ)



「お前は私のものだ…サキュバス……私以外考えさせたくない……っ」



昨晩、メフィストに三百年ぶりに抱かれてそう言われた。

(……私はメフィストの気持ちなんて知ろうともしなかった……何百年も彼を傷つけていた…)

はぁ、とため息をつく。今まで悪友だと思っていた相手。だが彼は自分を愛してくれていた。いつだって気ままで掴めない男だった。

(…機能は素直…だったなぁ)
「色子さん」
「!」

突然誰かに声をかけられてびくりとする色子。振り返ればそこにはジャージ姿の雪男がいた。

「あれっ、雪男??確か体育って一年合同じゃ」
「屋上に色子さんがいるのが見えて捻挫したって言って抜けてきちゃいました」
「雪男がサボりかぁ、珍しいわね」

雪男は微笑みながら色子の隣に腰掛ける。そういえば雪男と二人きりになるのは祓魔塾の説明を受けた時以来だ。

「…今日は猫じゃないんですね」
「…うん」

なぜか今日は人間の姿で居たかった。獅郎が愛したこの姿で…。

「……何かあったんですか」
「…わかる?」
「…貴女は嘘がつけない人のようだから」

本当に人間らしい。雪男はそう付け加えた。

「………私、何をしたいのか自分でも分からないの…。……燐と雪男を愛する気持ちで私はここに来た。二人を見守るために……でも今は…はっきりそう言えない…。…私の気持ちは親心みたいなものなのか、それとも…」

…メフィストや獅郎が自分に向けてくれるような愛なのか…。雪男は黙って聞いていてくれる。

「…私は…これからどうしたらいいのかわからない…」
「…………兄さん、最近変わったんです」
「えっ」

いきなりの雪男の言葉に驚いて彼を見る。

「…最近、よく色子さんの話をするんです。とても嬉しそうに。…貴女は、自分のことをよくわかっていないと言うけれど…兄さんは貴女を理解しようとしています。むしろもっと知りたいと思っている。…双子だからですかね、わかるんです。貴女は悪い悪魔なんかじゃない」
「!」

かつて獅郎にも言われた言葉。

――悪魔の中にだって悪さをしねぇやつもいるんだ。こいつは俺達がこうしてメシを食うのと同じ行為をただしてただけだ。…悪い悪魔じゃねぇよ

自分を悪い悪魔ではないと評価する人。それは色子にとって思いがけないことだったから。雪男は優しく笑った。

「…貴女が僕らを守ってくれていること、その気持ちは純粋だと思っています。…貴女は貴女のしたいように生きてほしい。…少なくとも兄は貴女と出会っていい方向に向かっていると思います。…貴女はいい人だ」
「……っ雪男…」

こんなにも優しい息子を持った獅郎はなんて幸せだったのだろう…。色子は胸がなんだか熱くなって涙を浮かべた。しっかりハンカチを差し出してくれるのも雪男の優しさだ。

「ありがとう…雪男…」
「……いえ、…不思議ですね…本で読んでいた悪魔が目の前にいる。祓魔師として、本来なら貴女を祓わなければいけない身であるのに……貴女といると落ち着きます」
「…そう、かな」
「…色魔はどんな男をも魅了する…その能力のせいでしょうか」
「…そうかもしれないわね」

色子はそう言われると少し悲しくなった。仕方の無いこと。わかっているのに、自分が愛されるという事実が能力のせいだというのは…少し傷ついた。

(…本当に私自身を愛してくれる人なんかいないってことね…)

獅郎もメフィストも、自分を愛してくれたのは能力のせいであって自分自身に魅力があったからではない気がして。するといきなり雪男が距離を縮めてきて顔をのぞきこんできた。

「!?ちょ、ゆき、お…っ近くない…?」
「…わからないんです、僕も」
「えっ?」
「…僕も自分の気持ちがわからない。兄さんに奪われたくないという気持ち…」
「え、ちょ…っ」

いつもの雪男らしくない台詞と行動。眼鏡の奥の瞳が切なげに揺れている。

「…貴女が兄さんを特別に思っていることは知っています、けれど…」
「……雪男…まさか…?」
「…まさか…なんです?言ってみてください…」

昨晩のメフィストと似た雰囲気。雪男は色子の頬を優しく撫でた。

「……っ」
「…でも僕は…貴女の望むようになればいいと思っていますから」
「………私の、望むように…」
「…そろそろお昼ですね、…兄さん、色子さんの分のお弁当作ってましたから」
「……ありがとう!」

色子が屋上を出て行くのを見届け、雪男は微笑んだ。

「……やれやれ、本当におかしな兄弟だ」
「!本間くん」

ふと雪男が振り返るといつの間にかフェンスに座っている尹佑がいた。いつからその場にいたのか。

「貴方もサキュバスを気になっているくせに、どうして何も言わないんです?雪男さん」
「…さあ………でも僕は昔からこういう性格なんで…どうしようもないですね」
「………人間は意味が分からないことばかりだ…昔から…求めるくせに突然拒む……俺達が人間ではないとわかった瞬間…」

何百年も前から続く『人間』の性質。残酷で我が侭で愚か。なのに、自分の片割れはそんな人間の心を持って生まれてしまった。それがいつも哀れで、心配だった。

「…サキュバスはどんな悪魔よりも人間らしい…だから…何度も利用されてきて、人間みたいに苦しんで泣いていた…俺に、わからないように…。…俺に心配をかけさせたくない、なんて…人間みたいな感情で…」
「………」
「俺に隠していた…必死に笑顔で取り繕って……本当に人間みたいです…アレは…」
「…本間くん」

雪男はそっと尹佑のもとへ歩み寄り、彼を見上げた。

「…僕には貴方も、人間に見えます」
「……はい?」
「…妹を心配し、守ろうとする兄に……見えますよ。貴方は色子さんを人間らしいと言うけれど…僕には、貴方も同じ人間に見えます。………だから、素直になってみませんか?…きっと喜びますから」
「………」

優しく微笑んだ雪男は尹佑のもとをそっと去り、屋上の階段を降りていった。残された尹佑はひとり、青空を見上げる。

「……人間、か……」

彼女が人間の心を持っているとしたら、その片鱗が自分にもあるのだろうか。かつて自分とサキュバスが性欲魔(ラストバス)として一つの悪魔だった頃、意識ももちろん一つだった。ならば、分裂して彼女に人間の心が芽生えたということは、性欲魔だった頃にすでに人間の心があったのだろうか。

「…思い出せないけど…さ」

自分と彼女は一心同体。それでも、サキュバスは己の道を歩もうとしている。それなら自分は…

「…守ってやらなきゃ……たまには、兄貴面させてくれよ」

尹佑の声が青空に消えていった。


きょうだい

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