若紫

今は昔、武士の時代に城下町として栄えた街の一角。大通りを外れ一度曲がると、川沿いへと抜けられる道沿いに一軒の喫茶店がある。大正家屋を改装した二階建て、小さな庭付のそこが、私のお店。
眩く柔らかな朝日が窓から差し込んで来る、午前七時半。木製のドアに付いたベルが来客を知らせる。
拭いていたグラスから顔を上げ、視線をそちらに向けると、ここ数週間でようやく見慣れた白皙の美貌が目に飛び込んできた。仕立ての良い濃紺のスーツを上品に着こなす彼は、目が合うと軽い会釈と共に微笑んだ。とくん、と心が音を立てる。
毎朝この時間に通ってくる彼は、他のお客さんが来るまでここで本を読む。日当たりの良い、カウンターの席がお気にいりなようで、迷わずにその席へと腰を落ち着けるのです。
所作の一つ一つが洗練されているから、何かのお作法の先生なのかもしれない。それに、慣れてきたのか、おじいちゃんみた…古風な話し方をされる。見た目だと20代後半くらいのお兄さんに見えるのに、それが馴染む面白い人。
お名前も、職業も知らない、美しい男性。
「いらっしゃいませ。お早いですね」
「貴方も」
氷の入ったコップを前に置けば、すまんな、と小さくお辞儀をされる。さらりと宵闇色の髪が揺れて、仄かないい香りが鼻先を擽った。いつも不思議ないい香りがするのだ。
どんな香水を付けていらっしゃるのかしら。
内心首をかしげていると、男性がカウンターの上にあったメニューを手に取る。長くて形の整った長い指が、そっと文字を指し示す。
「モーニングと、珈琲を頼む」
「モーニングと珈琲ですね。珈琲は食後でよろしいですか?」
「あぁ」
「では、少々お待ち下さいね」
ゆるりと優雅に首肯する彼を見届けて、私も淡く微笑み返した。毎朝の、変わらないやり取り。
私が食事を用意している間、彼は文庫本を読んで待っている。和柄のカバーがかかっているから、内容は分からない。前にお話ししたときに読んでいたのは五輪書だった。時代物がお好きなのかもしれない。
慣れた手つきでプレートの上に盛り付けを済ませて、本を読む彼にひっそりと視線を送った。
左側だけ長く伸ばされた髪が僅かに頬にかかっている。朝日を浴びる肌は白く澄んでいて、彼自身が光を纏っているように錯覚しそうになった。紙面に向けて伏せられた切れ長の目は優美で、横顔に色香を感じずにはいられない。長い指が紙を捲る音が、店内に流れる曲の合間に紛れる。
まるで神様に愛された光源氏のような方ね…。
思わず見惚れていると、文面から顔を上げた彼と視線がぶつかった。澄んだ空のような、蒼い瞳。
「っ」
「はは、そのように熱心に見つめられると照れくさいな」
「すみません…!」
あぁ、やってしまった。そこまでじっと見ていたつもりはないのだけれど、ばっちり目が合ってしまった。
顔に集まる熱を誤魔化すように注文の品を彼の前へと運ぶ。
「お待たせいたしました。どうぞ、ごゆっくり」
すぐに踵を返し、川面の見える大きな窓の側へと逃げるように移動した。
硝子の向こうには穏やかな水の流れと、険しい山の斜面、その手前には住宅が並んでいる。
山の上にはかつての城跡がある。城郭は残っていないけれど、石垣だけは現存しているので観光資源として一役買っていた。
晴れ渡った空の下流れる川はとても綺麗で、波立った私の心を徐々に落ちつけてくれる。
落ち着いて、落ち着いて。あんまり見すぎたらお客様に失礼よね。ボーっとしないように気を付けなくちゃ。
よし、と心の中で気合いを入れて調理台の片付けへと取り掛かった。
彼の前の皿が空になる少し前に珈琲カップを用意する。
元々カップとソーサーは私が気に入った物を棚に並べて、そこからお客さんに似合いそうなものを使ってお出ししているのです。そしてこれは、彼が来るようになってから買った新入りさん。持ち手と縁取りには金色が使われて、表面は深い藍色で内側の白い面には花と月の模様が描かれている。
これを見つけた時に、ふとこの人が思い浮かんで、ついつい買ってしまった一品だったりする。
もっとも、彼はその事実に気付いているかは分らないけれどね。
準備を終えた私はカウンター内の定位置に収まる。手近にあった雑誌を整頓しようと手を伸ばしかけると、プレートの上に乗っていた最後の一口を咀嚼、嚥下した彼が口を開いた。
「珈琲を、頼めるか?」
「はい、かしこまりました」
すぐに立ち上がってお湯の入ったケトルの前へと移動する。そして背を追うように柔らかな声が投げかけられた。
「なぁ、貴女は花が好きなんだな。ここにはいつも季節の花が置いてある」
「ええ、大好きですよ。祖母も母も大好きだったので、自然と好きになってました」
珈琲を準備しながら、笑顔で頷く。
「なるほどなぁ。花は四季折々で色も形も香りも異なるものが楽しめる。俺もとても好きだ」
俺も好き。
たった一言、しかも花が好きという事を指しているのに心が弾む。
心なしか明るくなった彼の声音に相槌を打ちつつ作業を続ける。
濃茶の液体が白い器に満たされて、白い湯気が立ち上る。ソーサーにカップを乗せ、香ばしい匂いと共に差し出した。
「どうぞ。熱いのでお気をつけ下さいね」
「ありがとう」
長い睫毛に縁どられた目が嬉しそうに細められる。
「今日もいい香りだ。…貴女の入れる珈琲を飲むと、外では飲めなくなってしまうな」
「お口に合ったようでとても嬉しいです」
はにかみながらお礼を言うと、彼もまた、はは、と笑ってから僅かにカップを傾けた。
「そうかそうか。貴方が俺の言葉で喜んでくれるなら、毎日足を運んでいる甲斐がある」
貴方の言葉だからこそ、嬉しいんですよ、なんて。
言葉にして伝えられたら、どんなにいいでしょう。
実際に口にできたのは、控えめでくすぐったそうな笑い声だけだった。
「うふふっ、お上手ですね」
ドキリ、と大きく跳ねた胸の音を隠すように背を向ける。
「あんまり褒めても、メイプルクッキーくらいしかお出しできませんよ?」
「はっはっは、それでもクッキーは出してくれるのだな」
「他のお客様もいらっしゃいませんからね。特別ですよ?」
からかいを含んだ声音で返せば、よきかなよきかなと満更でも無さそうな口調と笑い声が上がった。
「本…な……が、中々…い……だ」
がらりとやや大きな音を立てて戸棚の戸がレールの上を滑る。
そのタイミングで彼が何か続けたのか、声が途切れて聞き取れなかった。
「すみません、もう一度言っていただいても?」
新しく出した真っ白のお皿に三枚のメイプルクッキーを乗せて、コーヒーカップの隣に置く。
「なに、取るに足りない独り言だ。そんな事よりも、この時期で好きな花を教えてはくれぬか?」
「へ?あ、えっと、そうですね…。今の季節だと、やはり桜でしょうか。チューリップ、金魚草とか雛菊も可愛らしくて好きですよ」
答えながら椅子を彼の座る所の少し手前に移動してから座る。
「ふむ、桜、か…そういえば、向こう岸の桜並木は見事に咲き揃っていたなぁ。あの下を歩くと、たおやかで凛とした香りに包まれて心地良い」
「それに、風が吹くと桜の花弁が雪のように降って来て幻想的ですよね」
今朝も橋の向こうの桜並木を散歩していた時に一際大きな風が吹き付けてきた。咄嗟にスカートの裾と髪を抑えて、閉じた目を開けば、そこに広がっていたのは風に舞い上がる薄紅の花弁だった。
やや目を伏せて両手を膝の上で組む。
「勿体ないとは思うんですけど、あの瞬間がとっても好きです」
不意にカタリと椅子を引く音がした。ハッとして顔を上げれば、長身の彼が美しい所作で立ち上がるところだった。
もうお帰りになるのかしら…。
私も慌てて立ち上がり、レジへと行こうと腰を浮かせる。でも予想に反して彼が向かったのは、窓際だった。
爽やかで美しい光が外から差し込み、美しい彼を引き立てている。窓枠に手をかけて遠くへと視線を投げかけるその姿は、まるで一枚の絵画を置いたかのように素敵な光景だった。
ついつい目で追うと、麗しい彼は緩やかな動作で私を手招いた。
「一緒に花見をせぬか?ここからでも対岸の桜の花が良く見える」
一応お仕事中だけど、ちょっとだけなら、いいかな?だってせっかく光源氏(と勝手に内心で呼んでます)さんが誘ってくれたんだし、何よりお店の中だし…!
「…喜んで」
とは言ったものの、あんなに綺麗な彼の隣に立つのはなんだか申し訳ないような、恥ずかしいような気がしてしまう。
数歩分手前で躊躇って止まると、ここへ、と窓枠を軽く手で示されてしまう。
え、え?それは隣にってことですか?どうしましょう!なんだか急にドキドキしてきちゃいます。いえ、勿論彼に他意は無いのは重々承知の上ですけど!
「ん?どうかしたか?」
「いっいえ!」
きょとんと不思議そうに目を丸くし、小首を傾げる光源氏。
わたわたと隣に収まると、彼の背がとても高いことを再認識させられる。特別私の背が低い訳じゃないですよ?日本人女性の平均と同じくらいですから。
ただ、彼は私よりも目算で20センチ以上高そうなのです。普段は座って会話をする事がほとんどで、こうして立った状態でお話する機会なんてお会計の時くらいだった。
彼に倣って、自分の手を木製の窓枠に軽く乗せてみる。少し離れたところ片方だけ置かれた掌は大きくて、改めて男性なんだということ意識してしまう。
さらにあのいい香りがはっきりと認識できて、いつもより近い距離を考えざるをえない。
硝子の向こうには晴天のおかげで咲きそろった薄紅の雲が水彩のように柔らかな色合いで広がっているのに。
すると、右肩に重さと熱が触れ、不意に耳元で空気が震えた。
「おもかげは身をも離れず山桜 心の限りとめて来しかど」
身体の奥まで溶かすような、まろやかで艶のある声が鼓膜を震わせる。
驚いてつい声の方に身を捩れば、目と鼻の先に端正な顔があった。
知らず、息を止める。
間近で見る彼は神に愛されたとしか言いようのないほど美しい。真っすぐに私を映すのは空色の中に向日葵色が浮かぶ宝石。憂いを帯びたの蒼の瞳に、喜びの黄色が月のように輝く瞳だった。
待って、待って。どうしてそんな目で見つめるの。そんな…熱の籠った目で、私を見つめるの。
瞳の奥に垣間見えた熱情に思考が追い付かなくて声が出せない。
彼もまた沈黙を守ったまま、私をじっと見ていた。
カチ、カチ、カチ。店内の時計がピアノのBGMに紛れて三回針を揺らし終えた時に、外から人の足音が聞こえてきた。
いけない、見られてしまう。
肩に乗せられた手から素早く抜け出し彼のパーソナルスペースから離れる。
あぁ、もう。なんでこんなタイミングで人が来るのかしら!いえ、あのままだと私が窒息するところだったんですけど、でも、せっかく和歌を頂いたのに返歌もしないで逃げるなんて失礼なことをしてしまった…ううう…。
名残惜しいような、振り返るのが怖いような、複雑な思いを抱えつつ小走りに扉の方へ向かう。
扉まであと数歩、という所で二人目の来客を知らせる鐘が響いた。
「おはよーございます陽凪さん!」
「黒瀬くん!?」
元気な声で入って来たのはつい先月までアルバイトで働いていた黒瀬くんだった。金色の地毛を長く伸ばしているけれど、明るくてとても素直ないい子なんです。
「おはよう、ございます。えっと、黒瀬くんは進学先も決まって大学生になったんじゃ…?」
「そーなんだよ。本当は県外行こうと思ってたんだけど、やっぱり県内の大学に行くことに決めたんだ。じっちゃんに毎日会えないのは少し心配だけど、県内に居ればすぐに帰れるだろ?」
「はっはっは、黒瀬は祖父思いの優しい子だからな」
近づく声に振り向けば、さっきの真摯な雰囲気は微塵も感じられない、見慣れた微笑みで彼が歩み寄ってくる。すると黒瀬くんはぱっちりした目を驚きで見開いてから嬉しそうに破顔した。
「三日月のにーさん!未だに通ってるんですね!いらっしゃいませ」
「だいたい二週間ぶりか」
「うわー、もうそんなになりますかね?」
「あぁ。時の流れは思いの外早いからな」
親しげに言葉を交わす二人に思わず首をかしげる。
「あの、お二人とも、知り合いなんですか?私のお店でお話しているところは見たことがない気がするんですけれど…」
光源氏さんが来る時間帯は黒瀬くんのアルバイトの時間より早かった。しかも土日だけという限定的な条件下だったことを考えると、謎は深まるばかり。
それに、さっきの口ぶりからすると光源氏さんがここに通ってることを知っているみたい。
「まあ、ちょっとした知り合いだ」
「そうそう!オレのじっちゃんのことも知ってるし、長い付き合いなんだ。なー、三日月のにーさん」
「はっはっは、そうだな」
仲の良い兄弟のようなやり取りに、胸が温かくなる。それはとても良いことなんですが、そんな事よりもさっきから気になっているのが、彼のお名前なのです。黒瀬くんは三日月のにーさんと呼んでいるけれど、苗字なんでしょうか。それともお名前?…聞いても不自然じゃない、でしょうか?あぁ、でも今を逃したら聞く機会なんて巡って来ないかもしれないし!
「あの!お名前をお聞きしても良いですか?」
頭二つ分は背の高い彼の目を見つめる。緊張で声が少し上擦ってしまったのはもうこの際気にしない。
私の問いかけに一瞬驚いたように目を見張る彼だったけれど、すぐに麗しい微笑みを浮かべてから一礼した。
「そうか、まだ名乗っていなかったか…。いや、失礼した。俺の名は三日月宗近。よろしく頼む、陽凪さん」
最後に付けたされた声音の優しさに胸がきゅんと高鳴る。
「私の、名前…」
「黒瀬から話は聞いていたから知っていたんだが、なかなか呼ぼうとすると気恥ずかしくてな」
「そうだったんですね」
呼ばれた私まで恥ずかしさが伝染したように、二人で笑い合う。
そんな私たちの後ろで、温かく見守る様な目でこちらを見ている黒瀬くんにも、彼の呟きにも気づくことはなかった。
「…お似合いだと思うんだけどなぁ、三日月のにーさんと陽凪さん」


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