最終夜

西洋の古い城郭を模したこの帝都ホテルは、二階以上にバルコニーと呼ばれるせり出した部分がある。細かな装飾を施された階段を上った廊下の突き当たりで一度立ち止まって硝子戸を押し開けた。人一人が通れる風の通り道が出来て、少し解れた髪とドレスの裾を揺らして過ぎ去っていく。少し、肌寒い。
戸を閉めて外に出てしまえば、人の気配も熱気も声も、何もかもが遠くなる。微かに届く鍵盤の音色に耳を済ませて、大きく深呼吸を繰り返す。肺いっぱいに酸素が満たされてる筈なのに。
「はぁ…苦しい…」
鉄の手すりに身を預けて、中庭に視線を落とす。手入れの行き届いた庭園は木々がお行儀よく並び、本館内から漏れる光で一面だけが葉の緑色を認識できる。
今使われているホールのある東棟以外の三棟は宿泊施設や遊技場になっていて、ぽつりぽつりと人の存在を示す明かりと影がカーテン越しに揺れていた。
「せっかく、お声をかけていただいたのに…」
あの場であの呼びかけ方は不自然じゃなかった。私が変に意識して、勝手に嫉妬して逃げてしまった。
「子供みたい…」
手摺に組んで乗せていた両腕に額を当てて俯く。
自分の気持ちに正直な彼女が羨ましかった。胸を張って、彼が私の好きな人ですって言える彼女が。
勇気を振り絞って、恋心を周りに示した彼女と、臆病になって、恋心を隠した私。
「隣に立つ資格なんて、無かったのかしら…」
じわり、と目頭が熱くなる。
瞼をきつく閉じれば、悲しみの塊が床に落ちていく。
「なーに言ってんだ?つばき」
ぴちゃりと雫が割れた音と硝子戸の蝶番が鳴いた音、そして一番聞きたかった声が届いたのは同時だった。
「…!」
一瞬息が出来なかった。驚きで、声が出ない。
涙で紅やら隈を隠していたお化粧が取れていたことも忘れて、振り返る。
こちらに歩み寄ってくる彼は走って来たのか、一筋髪が頬にかかっていた。それをかき上げる仕草に胸が否応なく高鳴る。
白い髪を後ろに撫でつけているから表情がいつもよりはっきりと分かった。
整った柳眉が元気なく下がっているのに、頑張って笑おうとしているのが。
「やっと追いついた」
どうして?追いかけてくださったの?何も言わずに逃げたのに?
聞きたいことはたくさんあるのに、胸がいっぱいで上手く声にならない。
「まさか追いかけっことかくれんぼをすることになるとはな。驚いたぜ」
ごく当たり前のように隣に立った鶴丸さまは、背中を手摺に預けて私に微笑みかけてくれる。
陽の光を集めたように暖かで優しい、金色。
二人の距離は、掌一つ分。
「泣いていたんだろう?…一人で」
っいけない!お化粧崩れてる!
私が背を向けるよりも早く、頬に手が伸ばされた。いつもより強引に掴まれ、そっと額を合わせられた。触れた部分が、熱い。
近い近い…!
驚きと緊張で身体が強張って瞼をきつく閉じると、それを拒絶と取ったのか鶴丸さまは言葉を重ねた。
「顔を見られたくないなら、せめてこうして君に触れさせていてくれないか?」
吐息が鼻先を掠める。
手が、震えていらっしゃる。もしかして鶴丸さまも、不安なの?私と、同じ…?
了承の意を示すために掌を重ねれば、小さく息をのんだのが伝わってくる。
そうよね。言葉にしないで逃げていたら何も伝わらないわよね。
「つるまる、さま…」
「ん?」
「ど、して、ここに?」
促す声があまりにも甘く優しくて声が、心が、震える。
「顔も見ずにお姫様が逃げるから追いかけて来ただけだぜ」
「…すみませんでした」
やんわりと手を外してから一歩分距離を開けて一礼する。
「いや、その…俺もいきなり腕を掴んで悪かった」
照れくさそうに口籠る鶴丸さまは何だか初めて会った頃に少し戻っているようで可愛らしい。
本当はもっとゆっくりお話ししたいのだけれど、今はその、お化粧が気になってそれどころじゃないのよー!
「あの、すぐ戻ってくるので、お花摘みに行って来てもいいですかっ」
「へ?花摘み?」
「ええ!少々お時間を下さいませ。あ!お酒でも持ってきて飲んでてくださっても大丈夫ですから!」
「あっ、おい!つばき!」
お返事も聞かずにバルコニーを飛び出した私。すぐに自分の更衣室に戻って化粧を直してもらってから戻って来れば、鶴丸さまは変わらずそこに居てくれた。
「ただいま戻りました」
すまし顔で隣に立てば彼は穏やかに迎えてくれた。
「おかえり。全く、君の行動は予測がつかなくて退屈しないな」
「ふふ、褒め言葉って思ってもよろしいですか?」
「あぁ、勿論」
金色の瞳と目を合わせて笑い合う。和やかな空気が続くかと思いきや、自然に手を握られて指が絡み合った。宝石のように煌めく瞳に射抜かれそうなほど視線を注がれて、目が泳いでしまう。
「鶴丸さま?」
「今日はな、君を迎えに来たんだ」
迎えに来た、って…。
思い当たる約束はたった一つ。
「私、を?」
「そうだ。随分待たせてしまってごめんな…」
決して弱くはない力で引き寄せられてしまえば、抗うことなんて出来ない。抗うなんて、考えもしなかった。
久方ぶりの温もりと安心感が私を包み込む。背中に回る腕の強さも、髪を撫でる仕草も、
「会いたかった」
耳元で囁く落ち着いた声も、何もかもが記憶の中の鶴丸さまと重なった。
「君は?俺に会えない日が続いて、俺の結婚の話が出て、何とも思わなかったか?」
「…それ、は」
結婚の話があっても無くても、一日中鶴丸さまのことを考える時間があることには変わりはなかったけれど…。
言い淀んだことをどう捉えたのか、背中と腰に回された腕に一層力がこもる。
「俺はずっとつばきの事だけ考えていた」
「っ!そういう言葉は、婚約者さまに贈るものですわ」
私だって同じなのに、口では天邪鬼なことばかり言ってしまう。
薄めの胸板に手を置いて押し返す。それに気づいて腕の拘束を緩めた鶴丸さまを見上げた。
「信じてくれないのか?」
そんな困ったように笑ったって、許さないんだから!ここはちゃんと言葉で伝えないと!
「だって、お手紙も何も下さらないし」
「あぁ」
「伯爵令嬢さまとのご婚約だし」
「そうだな」
「今日会ったら何事もなかったみたいにお声をかけてくださるし」
「うん」
「相変わらずのかっこよさですし!」
「…うん?」
「鷹司伯爵のお嬢さんとても美人で可愛らしいお方で私なんかより、んむっ」
自分でもよく分からず半泣きになって訴えていると口付けが降って来る。
軽く触れ合わせるだけの口付けなのに、不思議と心が繋がった気がした。
「ん、つばきが俺を好きなことも、寂しかったことも分かった」
「なぁっ…!」
なんでそういう恥ずかしい事をサラリと口になさるのよ!
顔に熱が集まって火でも出そうになる。
「ははっ。君の大好きな苺みたいだ」
慌てて両手で顔を隠せば、そのまま胸に強く抱きしめられてしまう。
「そんな可愛い君の本音は、いつになったら君の声で聴けるんだい?」
そんな風にねだられてしまうと、いつもの意地っ張りなんてどこかに行ってしまう。
私をただの女の子に変えてくださる、鶴丸さまの魔法。
「…本当はね、ずっとずっと会いたかったの!でも、でもっ。私、会いに行って良いかも分からなくて」
視界がじわじわと揺らめいて行く。
泣きだす前に、これだけは。
顔を見て、伝えたい。
「好き。大好きです、鶴丸さま」
言い終わると同時に頬を熱い雫が零れ落ちて行った。


私が泣いていたのもほんの数分の事。泣き止んだ私の髪からいつかの花飾りを取って髪を解き、慰めるように梳いてくれる。
優しく指を通してから、少し膝を曲げて目線を合わせてくる。
「よし、泣き虫はもう終いだ。…抜け出すぞ」
「え?でもまだ晩餐会が」
「だからこそさ。君の事だ、荷物は出来てるんだろ。…俺に、盗まれてくれるかい?お嬢様」
そんな風に聞かなくても、お返事なんて決まっているのに。私に選ばせてくださるのね。
「喜んで…!」
笑顔で答えれば、彼は泣きそうな顔でありがとう、とお礼を言ってくれた。








カツ、カツ。石畳に2人の足音が鳴り響く。
日が昇っている間は賑やかな街だが、夜は街灯が灯っているのみで静まり返っている。
前を歩き私の手を引く彼は止まらない。三日月の頼りない月明かりの中、確かなのは繋いだ手の暖かさだけ。
「鶴丸、さま」
「まだ、遠くだ」
彼が振り向く。強い意志を秘めた瞳が向けられ、白い髪が夜風に揺れた。
「もっと、遠くへ行こう。誰も俺達を知らない所まで」
行く宛など知らない。それでも歩みを止めることは出来ない。
偽りの指輪など、身分と共に川に沈めて。


おわり


【白い椿の花言葉は「完全なる美しさ」「申し分のない魅力」「至上の愛らしさ」】

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