第三夜

鶴丸さまが私を盗み出す、と言うのは言葉の綾だった。要は二人で夜逃げをするということ。
そのためには双方が今の生活を捨てることを意味していた。
私はどんな所でも鶴丸さまと共に生きることが出来るならいいと思っていたわ。
私を盗み出すことを提案されて、すぐにでも遠くへ連れ去って欲しいとねだった。そんな私に鶴丸さまは優しい口づけと肩掛けだけを残して置いて行ってしまったの。
「もう少し、時間をくれ。君も、よく考えて欲しい」
夜会から戻ってからは、最後にかけられた言葉の意味を考えながら日常を過ごした。
女学校に通い、美味しい食事をして、習い事に通い、暖かな布団で眠りにつく。
そんな当たり前の生活が、鶴丸さまと逃げ出してしまえば突然なくなる。
友人も、食べ慣れた食事も、安心して暮らせる住居も、お気に入りの洋服や着物、袴だって持ち出せない。
そして一番私が悩んだのは、家族の事だった。
今のままでは私の将来は私に選ぶ権利はないまま。それでもお父様もお母様も私にめいいっぱい愛情を注いでくださっていることは十分すぎるほど分かってる。
許婚の方だって、私がよくお話していた人を選んで下さった。その方を特別嫌ってはいないし、むしろ好ましい気持ちの方が大きいわ。
それでも、私は鶴丸さまに巡り会うことが出来たの。乙女小説の主人公みたいに可愛くなくても、お上品じゃなくても、美人じゃなくても。彼は私を、選んでくれたのだから。
気持ちの整理が付いて来たある休日の昼下がり。
今日は夕方から婚約者の方と夕食をすることは決まっていたけれど、心は鶴丸さまのことでいっぱいだった。自室の窓際にある椅子に座り、初めて会った夜会でいただいた花飾りを陽に透かして見る。白い椿の、髪飾り。
今度会えるのはいつになるかしら。夜逃げの相談っていつしたら良いのかしらね。荷物とか、お金はどうしようかしら…。
漠然とした不安を持て余していると、不意に扉が叩かれた。
「はい、どうぞ」
すぐに居住まいを正して了承を返すと、ガチャリ、とドアノブをドアノブを開けて入って来たのはお父様だった。今日も仕立ての良い灰色の背広を身に付けている。年齢相応の顔に浮かぶ表情はとても晴れやかだった。
何か良いことでもあったのかしら。
「つばき、少しいいか?」
「ええ」
椅子から立ち上がって室内にある英国製ソファーを促す。私も机からそちらに移ると、お父様が口を開いた。
「お前、ここ数か月五条海運の五条男爵と親しくしているそうだな」
えっ…。
いきなりどうしてそんなことをお父様が?
唐突に意外な人物の名前が出てきて心が反射的に警戒態勢に入る。
「そう、ですね。帝都ホテルで少し海運業界のお話をしてから、ご挨拶する間柄ではありますわ」
「あぁ、やはりそうか」
首肯すればとても嬉しそうに声を上げるお父様に不信感は募るばかり。
てっきり鶴丸さまとの関係が知られてしまったのかと思ったけれど、違うみたいね。
内心で安堵のため息をつきながら、微笑んで先を促す。
「五条男爵がどうかなさったの?」
「なんでも、鷹司伯爵の娘さんが彼に一目惚れしたそうでな」
一目惚れ、という単語に一気に嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
ダメ。伯爵と男爵なんて、あり得ない。そんなこと、あり得ないと信じたいのに。
私の些細な変化には気付かずに、喜色を満面に出したお父様は語ることをやめない。
「彼の事業は今までにない手法を取っていて男爵にしては中々やり手だ、ということで彼を婿にすることにしたと先程電報が届いたんだ。まぁ、成金だとは言え、少しは見所があるようだし、何といってもお得意様のお嬢さんのご婚約だろう?」
そこから先は、どんな顔をして話を聞いていたのか記憶すら曖昧で。
あっという間に約束の時刻を告げる時計を横目で確かめて、急かす女中に手を引かれて自家用車へと乗り込んだ。
お気に入りの着物を着て、外出するのに全然元気は出ない。私の大好きなお料理を出して下さるお店での晩餐だったのに、料理は砂でも噛んでるように味も全くしなかった。
相手の方も驚くほど顔色が悪かったみたいで、すぐに帰ることになったのだけれど、帰り際に手を握られた。
「つばきさん」
「何でしょうか?」
「今日お誘いしたのは、これをお渡ししたかったからなんです」
少し申し訳なさそうに笑う許婚の彼が手のひらに載せているのは、深い蒼の天鵞絨がかけられた小さな小箱。男らしいごつごつとした指が蓋を開ければ、簡素だけれど気品のある銀の指輪が収まっていた。
「これ、は…」
「婚約指輪です。…僕が、貴方を妻として迎える証です。受け取っていただけますね?」
「…はい」
のろのろと左手を差し出せば、壊れ物にでも触れるように下から手が添えられる。違う。何もかもが、違う。
私の彼は、こんな風に私の手を握らないわ。もっと指は細長くて、体温はもう少し低いの。ここに居ることを確かめるように優しく握りしめてくれるの。
鶴丸さまへの愛しさと自分の無力さに目頭がじわりと熱を持つ。
指にひんやりとした銀の輪が通されれば、大きさはぴったりだった。当たり前か、彼は私の婚約者なのだから。
鶴丸さまも鷹司のお嬢様にこうやって指輪を贈るのかしら…。
「ありがとう、ございます」
声を絞り出し一礼すれば、眼の縁にたまっていた涙が零れ落ちてしまう。
「まさか泣くほど喜んでいただけるなんて…!」
婚約者の彼は照れくさそうにはにかんで、ハンカチーフを懐から取り出した。そっと顔に手を伸ばされて、とっさに顔を背けてしまう。
違う、違うの。私が涙を拭って欲しいのも、涙を見せたいのもこの人じゃない…!
「すみません、失礼します」
それだけ告げて店の前に迎えに来た車に飛び乗った。
「お願い、出して」
震える声で指示を出せば、低いエンジン音と共に窓の外の景色が流れ出した。石畳の上を走る鉄の塊はガタガタと揺れて、座席からも振動が伝わってくる。
普段はこの振動が心地よくてうたた寝をすることもよくあるけど、今はそれさえも煩わしい。
ほんの僅かな違和感に左手へと視線を落とせば、鈍い光を跳ね返す銀輪が確かに存在している。
「こんなの、約束の証でも何でもないわ…ただの手枷足枷…」
冷めた目で指から引き抜いて、目の前にかざす。等間隔のガス灯のぼんやりとした明かりが明滅するように車窓から入り込んできて、その度に硬質な光が目に映る。
こんな指輪、捨ててしまえたらいいのにね…。
はぁ、とため息が零れる。もう涙は引いていて、胸の中は虚しさと無力感で溢れていた。
下駄を脱いで座席に足を乗せ、膝を抱えるようにして座る。
早く、鶴丸さまに会いたいよ…ギュッと抱きしめて、髪を撫でて欲しいよ…。
そこまで考えてハッとする。
「ご結婚、決まったんだったわ…」
自分で口に出しておきながら、それが一番きつい事実ね。
鶴丸さまの気持ちを疑ってなんかいない。それでも、彼が結婚を了承したって考えると気が滅入る。
私の結婚はまだまだ先だけど、鶴丸さまはすぐに挙式もあり得る、のよね…。お父様には電報が届いたっておっしゃっていたし。
「もう、お会いすることも、出来なくなってしまうのかしらね…」
乾いた瞳から涙が溢れるまで、そう時間はかからなかった。


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