Bar Espada | ナノ
カシスソーダ

想い人、一期くんに、好きな人がいる、という可能性が浮上したのはもう先週のこと。それでも、一期くんの好きな人が薫子さんだと思う、という親しい後輩の言葉が頭から離れない。
気になるけど、まさか本人には聞けないし…。陽凪とも中々時間が合わないから、ゆっくり話せたのはこの前の飲み以来一回もない。
そうこうしている内にあっという間に金曜日がやって来た。

よし、一旦終わり。長谷部課長に確認してもらわないと…。
椅子を少し引いて、軽く背伸びをする。ギュッと閉じた目を開ければ、机や書類に囲まれる爽やかな王子様が居た。
この前から仕事が一段落ついたり、席を立つ度に一期くんのデスクへ視線を向けちゃうんだよね…。
今月から社内ではクールビズの一環でノーネクタイを実施している。今日の一期くんは、白地に水色のシンプルなストライプシャツを着こなしていた。パソコンの画面を見つめる横顔は真剣そのもので、綺麗さが際立っている。とくん、と心臓が跳ねた。
話してる時の柔らかい表情とか雰囲気も好きだけど、真面目な表情も…。
「かっこいいなぁ」
「何がだ」
突然背後から独り言を拾われて驚く。大きく肩が震わせて勢いよく振り向いてみると。
「長谷部課長っ!?ど、どうかなさったんですか?」
「どうもこうもない。書類を受け取りに来たんだ」
「…!すみません!」
クリップでまとめておいた数枚の紙を手渡せば、険しかった表情が幾分柔らかくなる。
「それと、別件なんだがこの後時間を取れるか?」
「今からでしょうか?」
「いや、今日の勤務が終わった後でいい。話自体は5分もかからずに済む」
「分かりました」
取りあえず頷いておくことにする。話って何だろう?
「では、帰宅前に声をかけてくれ」
そう言って踵を返す長谷部課長。飾り気のない真っ白のシャツに包まれた背中は広くてほどよい緊張感を纏っている。すると、グレーのズボンを履いた長い脚が数歩進んだところで止まった。視線を上げると、藤色の綺麗な瞳と視線がぶつかる。
「もし余裕があれば粟田口にも声を掛けておいてくれるか」
「はいっ」
予想外の名前に若干声が裏返るけど、課長は大して気にした様子もなく自分のデスクへと戻って行った。
それからも仕事をこなし、最後にエクセルでの処理を終えた頃には定時を1時間ほどまわっていた。それでも課内でパソコンや書類と睨みあっている人は少なくない。勿論、一期くんも。
…帰る前に一期くんにも声かけろって言われたし、申し訳ないけど話しかけよう。
帰り支度を済ませ、ロッカーからコートや鞄を抱えて出てくる。フロア内を軽く見渡して、一期くんのデスクに目をやると。
「あれ?いない…」
さっきまで仕事してたのに…もしかして帰った?でも、私がロッカーに行ってた時間なんてほんの5〜6分だし、その間に帰ったとは思えないんだけど。
通路の端に避けて壁に背を預けて悩んでいると、男性用ロッカールームの方から優し気な水色の髪をした王子様が出てきた。
良かった!まだ帰ってなかったんだ!
私は急いで帰り支度を済ませた一期くんへと駆け寄った。
「一期くん!」
「薫子さん、お疲れ様です。もうお仕事は終わりですか?」
柔らかな微笑みと穏やかな口調で労われて、一気に疲れが吹き飛ぶ。
「うん。一期くんも?」
「はい。思った以上に時間がかかってしまったんですが、何とか終わりました」
「お疲れ様!」
「ありがとうございます」
彼が小さくお辞儀をすれば、天使の輪が光るサラサラの髪が軽やかに揺れた。そのまま一期くんが少し不思議そうに続ける。
「ところで、私に何かご用でしたか?」
「そうそう。長谷部課長に帰る前に一期くんと一緒に声をかけてくれって言われて。さっき仕事が終わったから、一期くんに声をかけようと思ってたの」
「あぁ、成程。私も薫子さんが終わったのとほとんど同じくらいにデータが仕上がったんですよ。すれ違わなくて本当に良かった」
一期くんがほっとしたように一つ息をつく。
「待っていてくださって本当にありがとうございます、薫子さん。女性を待たせてしまうなんて、すみません。さぁ、行きましょうか」
そっと促されて、歩を進める。
か、彼女になったみたい…!
「女性」という一言でついつい頬が緩みかけてしまう。駄目だ、まだ仕事中なんだからニヤニヤしないようにしないとね。
心の中で気合いを入れて、課長室へと足を踏み入れた。


長谷部課長から言われたのは、私と一期くん、各々に他の部署と合同で行う企画に参加して欲しいとのことだった。秘書課の代表ということでとっても重要な役割だ。私は営業課との企画に、一期くんは窓口課との企画に加わることをお互いに快諾したのだった。
闇色にすっかり染まった空の下に出ると、夏特有の温い風が頬を撫でていく。するとそれまでにこやかに話していた一期くんが急に黙ってしまう。
「一期くん…?」
不思議に思って顔を覗き込めば、何かを迷っているように視線を彷徨わせている。
「何か悩み事でもあるの?」
「悩み事、と言いますか…私的な問題ですな」
困ったような笑顔で頬をかく彼は、何故かとても頼りなさげに見えた。迷子になった子供のような、当てのない道を彷徨う旅人のような存在に思えてしまう。
好きな人が困ってる。何とか力になってあげたい…!
「私で良かったら、話聞くよ…!」
歩き続ける彼の腕を引くと、金色の瞳が驚きで見開かれた。私が立ち止まっているため、彼もまた歩みを止めて半身をこちらに向ける。
「でも、これは仕事とは全く関係ないことなんです。薫子さんに話を聞いてもらえるのはとてもありがたいし、本当に助かるのですが、そこまで貴方に甘える訳には…」
「そんなの気にしなくていいんだよ。ご近所で同じ部署の後輩が困ってるんだから、力になりたいって思うのは迷惑、かな?」
「薫子さん…」
以前陽凪がやっていたみたいに少しだけ首をかしげて、微笑んでみる。すると一期くんは私に正面から向き合った。
「お話を聞いていただいてもいいでしょうか」


それから40分程後の事。私と一期くんはBar Espadaのカウンター席で隣合って座っていた。
心地良いピアノのBGMと、薄ら明るいオレンジ色の柔らかな照明が店内を満たしている。
扉を開けて一期くんと連れ立って入ると、ホールに居た廣光くんと鶴丸さんが一瞬動きを止めて私たちを見た。距離があったからどんな表情をしていたかは分からないけど、鶴丸さんは軽く手を振り、廣光くんは小さく礼をしてくれたのは確認できた。それからすぐにカウンター席を勧められて、今に至る。
今日の席も、初めて来た時、そして陽凪を連れてきた前回と同じだった。それぞれの前にはシャンディーガフとモヒートがグラスに半分ほど入っている。
注文をして、カクテルを一口飲んでからはお互いに距離を測りかねて、中々言葉が出てこない。こっそり一期くんの横顔を見てみる。薄明りの中でもシャープな輪郭が繊細な印象を引き立てていて、本当にかっこいい。
どうしよう…こっちから話振っても大丈夫かな?でも私が引っ張ってきちゃう形になったし、無理に聞き出すのも…。
どうやって話を切り出そうかと頭をフル回転させていると、ふっと影が差した。
「今日は少し元気がないみたいだね、薫子ちゃん」
「光忠さん…!」
顔を上げると見えた優しく男前な微笑みにじわりと体温が上がる。
「今日はかっこいいお兄さんと一緒なんだね。もしかして彼氏さんかい?」
「えっ!?」
ボンっと効果音が付きそうなほど顔に熱が集まり、咄嗟に顔を両手で隠す。
や、やっぱり恋人同士に見えるの…?嬉しい…!
声に出せない幸せを噛みしめていると、一期くんがやんわりと言葉を返した。
「あ、いえいえ。薫子さんは私の大切な仕事の先輩なんです。私の彼女なんてもったいない方ですよ」
「そんなことないよ!私の方こそ、一期くんみたいにかっこいい人には勿体ないくらいだし…」
「はは、ありがとうございます薫子さん」
はにかんで一口モヒートを飲む一期くん。そんな彼に光忠さんはじっと観察するような視線を送っていたことを私は気づけなかった。
「そうなんだね。彼女はここに何回か通ってくれているんだけど、男の子を連れてきたのは初めてだから、特別な人なのかと思ったんだ。早とちりして申し訳ない」
「お気になさらないで下さい。…あの、薫子さん」
纏う空気が、声音が、固くなった。
緊張、してるの?
そう感じた途端、心臓が脈打つ回数をどんどん増やしていく。
「どうしたの、一期くん」
問い返した声は思っていた以上に掠れていて、店内に流れる音の波に飲まれてしまいそうだった。
整った顔をこちらに向けて、視線を注がれると息が上手く出来なくなってしまう。視線を絡ませ、至近距離で向き合う彼は童話から抜け出して来たかのように魅惑的な美しさを放っていた。
「今日は誘ってくださってありがとうございます。本来なら、こんな事を貴方に言って良いのか、ずっと迷っていたんです。それでも、薫子さんが話を聞いてくださるということだったので、そのご厚意に甘えさせてください」
こくりと無言で頷くと、強張っていた顔が優しい面差しに戻って行く。
あれ?優しい目、というか、これって…照れて、る?
痛いほど自分の心臓の音を自覚しながら見守ると、一期くんはいよいよ覚悟を決めたのか宝石のように煌めく黄色の瞳に強い意志を滲ませた。
「陽凪さんの好みを教えていただけませんか…!」

ひなさんのこのみをおしえていただけませんか

え?陽凪?何でいきなり陽凪が……あ。
楽しそうに談笑する2人。同じ課に所属していた2人。好みの女性をあっさりと教える一期くん。人懐っこくて、可愛くて、モテるのに、自分に向けられる好意に鈍い陽凪。
もしも一期くんが課が離れても、昼休みにわざわざ声をかけていたのだとしたら。
頭の中で今までの見聞きした情報が繋がる。
「彼女は何回話しても、どこか掴めなくて。何を話題にしても大体は笑って聞いてくれるんですが、彼女自身のことは未だによく分からないんです…。こんな事をしては卑怯だと思うのですが、どうしても…彼女のことが、知りたいのです」
続けられた内容と、何よりも彼の表情を見れば、この話題がいかに彼にとって大切なことかが計り知れた。
私、こんなにキラキラしてて優しい顔をして話す一期くんを初めて見たよ…。
あぁ、そうだったんだ。一期くんは。
「陽凪のことが、好きなんだね」
自分でも驚くほど優しい声音で、私は、自分の恋にひっそりと終止符を打った。
「っ…!そ、そんな、好きだとか、そういうことではっ…!」
「とか言っちゃってー。顔真っ赤だよ?」
「なっ…!」
からかうように笑えば、一期くんは焦ってそっぽを向き、残っていたカクテルを飲み干す。
「っけほ」
「大丈夫かい?うちのはカクテルでも結構しっかりしたお酒だから、一気に飲むのは良くないよ」
苦笑いしながら白いおしぼりを差し出す光忠さん。
「すみません」
二人のバタバタとしたやり取りを見ながら、ぼんやりと考える。
そんな反応も初めて見るなぁ。
私の知ってる一期くんは、いつでも穏やかで、優しくて、何でも爽やかにこなしていた。仕事に向き合う姿勢も、弟君たちのお世話をしてるお兄さんな一面も、同僚としての何気ない会話も何もかもが素敵だった。
でも、陽凪のことが話題になった途端、一気にただの男の子になった気がしたんだ。照れて、動揺して、たった一人を想って一喜一憂する。
もしかしたら、これが素の一期くんなのかもしれないなぁ、なんてね。
それから一期くんをからかいつつも、陽凪の好きな食べ物とよく着てる服のブランドを話の種にした。
女の子の洋服の話をしても、一期くんはピンと来ないみたいだったけどね。…少しの意地悪は、許して欲しい。
「あ、と…そろそろ家に戻りませんと」
ポケットから携帯を取り出して、申し訳なさそうに視線を下げる彼。携帯電話にアラームを設定していたみたい。私も自分の腕時計で時間を確認する。
帰るには良い時間だ…でも。
「もう一時間半くらい経ってるもんね」
「そうですな。薫子さんも…」
私の手元に目をやった一期くんが言い淀む。磨き上げられた木目の美しいカウンターのグラスには、まだ半分ほどカクテルが残っていた。光忠さんおすすめのカカオフィズという薄茶色をした甘いカクテル。
とは言っても、まだ三杯目だからほとんど素面に近い状態ではある。
「あ、私はもう少し飲んでいくよ」
「しかし…」
心配そうに柳眉が下がる。整った顔の男性は困り顔までかっこよく見える。
躊躇う一期くんを急かすように、再び携帯が振動する。今度は着信みたいで、中々鳴りやまない。
「私なら全然大丈夫だよ!そんなに飲んでないし!さ、弟君たちが待ってるでしょ?」
五秒ほど逡巡してから、渋々といった表情で、一期君は頷いてくれた。
「…女性を一人だけ置いて行くのは申し訳ないのですが、先にお暇させていただいてもいいでしょうか?」
「勿論だよ。元々私が一期くんの話を聞きたいって言って付き合って貰ったようなものだから。遅くまでありがとう」
笑顔で彼の背を押せば、一期くんは私の大好きな微笑みで頷いた。
「お礼を言うのは私の方です…!ありがとうございます、薫子さん。やはり貴方に話を聞いてもらって良かったです。来週からのプロジェクトも、お互いに頑張りましょう」
椅子から降りて私に向き直る一期くんは綺麗に一礼。道を聞きたいからと光忠さんを伴って扉を出て行く。
細身だけれど男性らしいシルエットが黒塗りの扉の向こうに見えなくなる。
扉に付いたベルが寂し気に鐘の音を鳴らすさまを、私はぼーっと見つめていた。店内に流れるBGMもさざめく様な会話も、何もかもが遠い。意識は、彼に持って行かれたままみたい。
……戻って来てほしい、なんて。やっぱりあなたが好きです、なんて。
あり得ないのに、願ってしまう自分が居る。
馬鹿だなぁ、本当に。
扉から視線を剥がし、残ったカカオフィズを一気に飲み干す。口いっぱいにカカオの甘さが広がって、喉の奥に落ちていく。
空のグラスを置き、物思いに耽っていると、光忠さんの代わりにカウンターへと入っていた廣光くんが歩み寄って来た。
「…注文は良いのか」
「あ…うん」
「ボーっとしているが、風邪か?」
「ううん。ちょっと考え事しちゃって」
「そうか」
そっけない返事なのに、視線を上げれば心配そうに眉を下げている。
「ありがとう、廣光くん」
「何故ここで礼を言うんだ。俺は何もしていな、」
「廣光!ラムコークとカルーア、カシオレを頼む」
ウエイターに役割を変えた鶴丸さんがメモを差し出す。
「分かった。…アンタ、きついならもう帰った方がいい」
さらりと視線を流して言い残すと、すぐに作業に戻って行く。彼の動きを追うように長く伸ばされた髪が揺れた。
廣光くんの去った後には鶴丸さんがちゃっかり収まる。今日も真っ白な服装だ。黄金色の瞳を軽く見開いて、彼もカウンター越しに声をかけてくれる。
「なんだ?君がそんな顔してるなんて珍しいな。何か疲れるようなことでもあったのかい?」
「まぁ、そんな感じです」
苦笑と共に相槌をうつ。
「そんな時だからこそ、ここに居るんだろ?」
「え…?」
「沈んだ気持ちも、嫌なことも、何も知らない俺達が話を聞くことで、少しはすっきりすることもある。もし君が話したくないなら、無理には聞かない。でも、もしもすっかり吐き出してしまいたいと思っているなら…」
真剣な表情をふっと微笑みで崩し、右側ー店の扉へと目を向ける。私も白い彼に倣ってそちらを見つめると。
「あいつに相談してみたらいいんじゃないか?」
黒塗りの扉がゆっくりと開き、店の主の帰還を鐘が告げた。
光忠さんの蜂蜜色の瞳と視線が絡まる。緩く目尻を下げて微笑んでくれる光忠さん。その微笑みはどことなく憂いを含んでいて、思わず釘付けになってしまう。
「出来たぞ」
「おお、ありがとな」
「礼はいい」
そんな二人のやり取りが交わされる間も、私は光忠さんから目が離せないでいた。
話すも何も、光忠さんには全部聞かれてる。だからあんな表情をしたんだろうし…。かわいそうって同情でも、されてるのかな…。
てきぱきと注文をこなしつつ動き回る三人を何ともなしに目で追う。コースターに乗せられたグラスは空で、不鮮明に向こう側を映したままだった。
結局話も出来ないまま、ただただ時間だけが過ぎて行った。気が付けば店内に人の姿はなく、穏やかなジャズ調のピアノの音が辺りを満たしていた。
緩慢な動きで腕時計を確認すれば、あと30分程でお店の閉店時間だ。
いつまでもここに居る訳にはいかない。でも、部屋にはまだ戻りたくない。
もう何度目か分からない溜息を零した時、隣に誰かが座った。ふわり、と鼻孔を擽るのは甘いムスク。黒の上品な靴に、長い脚を包むのは同じく黒のシンプルなスーツのズボン。白いシャツと布越しにも分かる鍛えられた身体。大きな手は黒の手袋に覆われている。
「光忠さん…」
「薫子ちゃん。はい、これ」
とろけるような甘い微笑みと共に差し出されたのは、澄んだ赤紫色のカクテルだった。
「僕からのサービスだよ」
「ありがとう、ございます」
一口飲めば、果実の爽やかさと炭酸のしゅわしゅわと弾ける感覚が心地いい。
「カシスソーダ、ですね。美味しいです」
「喜んでもらえて何よりだよ。……あのさ、」
「見事に失恋しちゃいました」
先手を打って笑って見せると、光忠さんはどこか苦しそうに眉をひそめる。
「やっぱり、薫子ちゃんが好きだった人は彼だったんだね」
「分かっちゃいました?」
「あぁ、すぐに分かったよ」
ゆっくりと頷いてくれる光忠さん。
そんなに分かりやすかったかな?まぁ、陽凪にもすぐばれたから案外そんなものなのかもしれない。
「とっても礼儀正しくて、君が好きになるのも納得だ」
「ふふ、そうでしょう?彼…一期くんはいつも優しくて、穏やかで、こんな私でもちゃんと女性扱いしてくれるんですよ。話しかければ笑顔で聞いてくれるし、何かと気にかけてくれてる気がしたんです」
両手で触れたままのグラスから水滴が掌の上を滑っていく。
「道を教える時にね、彼から君の話を聞いたよ」
「えっ…!」
弾かれたように光忠さんの方へと体の向きを変える。なに、それ。何て言ってたのか聞きたい。
そんな気持ちがありありと表情に出ていたのか、落ち着いて、と軽く笑ったバーテンダーさん。低く艶やかな声が響く。
「彼の中で、君はとても頼りになる先輩なんだって言ってた。君は、とても自立していて、芯が強くて、男性と渡り合って行けるほどの実力があるって」
「…あはは、やっぱりそうなるよね」
掠れた乾いた笑いが口をつく。
確かに、文句を言われないよう、仕事には万全を期してきた。自分で出来ることも出来ないことも多少は無理してやったし、辛さは笑顔で隠した。
その事実に、一期くんは気づいてるんだと思ってた。私が背伸びをしていることも、強がっていることも。だからこそ、優しく声をかけてくれているんだと思ってた。
でも、本当は。
「一期くんが言うほど、しっかりしてないですよ。ただ、ちょっと見栄を張って仕事をしてるだけなんです」
閉じた瞼に浮かぶのは、明るい日差しの中で笑い合う二人の姿。どちらも私の大切な後輩だ。わかってる、分かってるけどね。
「…もうちょっと可愛げがあれば、振り向いてもらえましたかね?」
冗談めかして声色を明るくしてみる。ついでに小首を傾げてみると、光忠さんは一瞬目を見開いた。炎の揺らめきが垣間見えるような、濃い金色の瞳が熱を帯びる。
「…ねえ、薫子ちゃん。君は、今日僕が君に出したカクテルのカクテル言葉を知ってるかい?」
「カシスソーダですか?」
「…あぁ」
視線を逸らさないまま、椅子から降りて歩み寄ってくる。無駄のない僅かな動きに合わせて黒橡色の髪が揺れる。
近づく距離。一層強くなる甘い香りと触れるか触れないかの熱にくらりとしてしまう。
「…カクテル言葉は」
耳に吐息がかかり、魅惑的で扇情的な声が奥で響く。
それを聞いた途端、不意に涙がこぼれた。
「このタイミングで、それってズルくないですか…?」
「ん、そうかもしれないね」
至近距離で絡む視線には慈愛の色が強い。
また、そんな目で見つめるんですね。
本当にこの人は自分がどれだけカッコいいか分かってないんだから…。
そんな風に言われたら、甘えたくなっちゃうじゃないですか。
ねえ、今だけは。
「泣いても、良いですか?」
泣き笑いになりながら尋ねると、広い胸に額を押し当てられた。遠慮がちに、でもギュッと抱きしめてくれた腕の中は暖かくて、安心できて。
「ここでは、背伸びをしなくても大丈夫…君の気が済むまで、こうしているよ」
大きな掌があやすように髪を撫でてくれた。
彼の体温と流した涙で、胸の痛みは少しだけ洗われた気がした。





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