Bar Espada | ナノ
アプリコットフィズ

週末の夜にあった出来事と素敵な雰囲気のバーについて話したくて仕方なかった私。でも私の勤める秘書課にはあまりそういう話題で盛り上がれる人っていないのが現状なんだよね…。
別に仲が悪いとかそういう訳ではなくて、私がよく話す人たちが大体既婚者か仕事漬けな人というだけなんだけど、私も一応まだ若い女性、だし。ちょっとさみしい。
よくよく考えたらうちの課内の結婚していない男の人で私がよく話してるのは一期くんくらいかもしれない。もしくは長谷部課長かな?課長とはほとんど仕事の話にしかならないけどね。
そんなこんなで、私の恋愛事情をがっつり知ってるのは実は仲良しの後輩である陽凪だけだったりする。勿論今回のこともラインで話してあるんだけど、やっぱり直接話したいって気持ちが大きくなったので木曜日の昼にランチの約束を取り付けたのだった。


思いの外長引いた午前の案件を済ませ、15分ほど遅れて陽凪が勤める所へと歩を進める。すれ違う人々は手にお弁当や水筒、あるいは書類の束を抱えていた。
お昼休みとは言っても、午後には持ち越したくない仕事もあるよね。仕事を続行するであろう人たちに内心でエールを送りつつ、エレベーターに乗り込み1階のボタンを押す。
昼休みに会おうねって連絡はしてたけど、遅れるなんて思ってなかったし…。
デスクを離れる時に簡単なメールを送れば、一分もたたないうちに
「お仕事お疲れ様です。私もさっき交替したばっかりなので、まだエントランスホールに居ますよー」
と返信があった。
エレベーターを下りれば、目の前には爽やかな太陽の光が惜しげもなく注ぐ広々としたエントランス。そこの正面で制服を清楚に纏い笑顔で接客するのが陽凪の仕事だ。簡単に言ってしまえば受付のお姉さん。友達として付き合うと、女の子らしいのに媚びないしさっぱりしてて気を張らずに居られる子だなーと思ってる。
昼休みに入ったって言ってたけど、エントランスのどこで待ってるのかな?
もう一度lineをしようとスマホのロック画面を開くと。
「ふふふ、そうなんだね」
鈴が転がるような可愛い声が聞こえてくる。
陽凪の声だ!あの子の声ってよく通るから羨ましいなぁ。
そう思いつつ話し声の方へと歩いて行く。恐らく打ち合わせも出来るテーブルとイスの所で同僚の女の子とガールズトークでもしているんだろう。今立ってる場所からだと、エスカレーターで遮られて見えない位置に置かれているため姿が見えないのは当然だった。
待たせて申し訳ないなーという気持ちから小走りになった、その時。
「あぁ。でも、薬研がフォローしてくれたから何とか間に合ったんだ」
陽凪に相槌をうった相手の声にも聞き覚えがあって、ドキリとする。
もしかしなくても、一期くん?
いつもなら彼の優しい声に心拍数が跳ねるのに、むしろ背中が冷やりと感じる。恐る恐る顔だけ覗かせて確認すると、テーブル越しに談笑する一期くんと陽凪の姿が目に飛び込んできた。
そういえば一期くんって異動する前は陽凪と同じ課だったっけ。
陽凪は明るくて特に人見知りをする訳でもないし、私が一期くんを好きって知ってからは時々一期くんの情報をくれる。…陽凪にはその気がないって分かってても妬いちゃうなんて、嫌な先輩、だよね。
そう考えると、足が止まってしまった。
「さっすが薬研くんだねー!一期くんのお話を聞いてると、薬研くんはしっかりしてるから時々中学生かと思っちゃう」
「それは来年からだよ」
「知ってる知ってる…あ!」
あ、見つかった…。
私の姿を見つけた陽凪が嬉しそうに笑顔になってこっちに駆け寄って来てくれる。飼い主を見つけた小型犬みたいで可愛いなぁ。
話していた一期くんも少し遅れて私に気付き会釈してから歩み寄って来てくれる。
「薫子さーん!」
「待たせてごめんね」
「全然待ってないですよ」
尻尾があれば千切れんばかりの勢いで左右に振ってそうな笑みの陽凪。
「他の子と交替してここに座ってたら、ちょうど一期くんが話し相手になってくれたんです」
何か情報を掴んだらしい彼女は、(またあとで)と口パクだけで伝えると、一瞬悪戯っ子のようにキュッと口角を上げた。
そんな些細な愛らしい仕草だって似合うのが、ひどく羨ましかった。



結局昼休みはあまり時間がなくなってしまったけど、折角だから仕事帰りに光忠さんのバーに行こうということになった。二人で待ち合わせをして、化粧品や洋服を見て各々気に入った物を見つけた私たちは上機嫌で黒塗りの扉を開けた。
カラン、とドアに付いたベルが来客を告げる。
「「「ようこそ、Bar Espadaへ」」」
先週と変わらない、三者三様の良い声がお出迎え。
適度な広さの店内に落ち着いたオレンジ色の光が柔らかな影を作り出している。
さっと店内を見渡せば、人が居ないのは三人掛けのテーブル1つとカウンターくらいだ。
スタイリッシュなテーブルの間を行き来する廣光くんが視線を流してほんの少しだけ会釈してくれる。私も頬を緩めて無言の挨拶を交わす。鶴丸さんは片手を上げてからスタッフルーム扉へと吸い込まれていった。きっとマジックの準備でもするんだろう。
どこに座ろうか迷って立ち止まっていると、カウンターで注文を作り終えたらしい光忠さんに呼ばれた。
「いらっしゃいませ、薫子ちゃん。また来てくれて嬉しいよ」
「この前はありがとうございました」
「今日はお友達も一緒なんだね。カウンターでもいいかい?」
琥珀色に煌めく隻眼が私の斜め後ろに立っている陽凪に注がれた。
私は光忠さんにお任せとかも出来るしカウンターで良いけど…。
「陽凪はカウンターでも大丈夫?」
「はい!全然大丈夫です」
「では、こちらへどうぞ」
足が着かないタイプの高い椅子に座ると、正面にはカラフルで大きさも様々なボトルや瓶が綺麗に鎮座している。その前を黒いベストに白いシャツに身を包んだ光忠さんが行き来しているところは本当に素敵だった。
「薫子さん、薫子さん」
「どうしたの?もう注文決めた?」
いつもはすごく迷うのに珍しい。洒落たメニュー表から軽く袖を引く陽凪に目を向ければ、そっと耳打ちされる。
「ここのマスターさん、イケメンですね…!目の保養です」
あぁ、そういうことか。確かに陽凪は面食いなところあるし…あ、いや私も人のこと言えないんだけど!
一期くんの笑顔とか、横顔とか、纏う雰囲気とかもう王子様で…ってそんなこと考えてる場合じゃなかった。
「かっこいいよね、光忠さん。おすすめをお願いしますって言ったらきっと美味しいカクテルを出してくれると思うよ」
「わー!なんだか常連さんみたいで憧れます」
「じゃあ折角だから一緒におすすめを頼もうか…って、あれ?」
光忠さんに声をかけようと顔を上げると、光忠さんの姿がない。ぐるりと見渡してみれば、スタッフルームの方へと足早にかけていく後姿を視界の端でとらえる。
何か問題でもあったのかな?
不思議に思った私はシルバーのトレイを持ってカウンターに戻って来た廣光くんを呼んでみた。
「廣光くん」
「どうした?注文か?」
「それもあるんだけど…。注文しようと思ったら光忠さんが向こうに走って行ったのが見えたから、何か問題でもあったのかなーって心配になったから声かけてみたんだけど」
「…あぁ。それならすぐ戻ってくるはずだ。それにその理由もすぐ分かる」
少し呆れ顔で切れ長の涼しげな視線をシンプルなドアに送る廣光くん。
「一つ言えるのは、今日来て正解だってことだ」
それだけ告げるとカウンターに回り込む。無駄のない動作に合わせて首の右側に流された髪が尻尾のように揺れる。
とりあえずカシスオレンジとカルーアミルクを注文すると、慣れた手つきでお酒やらジュースやらを混ぜて透明なグラスを満たしてくれた。
どうぞ、とそれぞれの前に置かれたコースターにグラスを乗せてくれるので、お礼を言ってから手に取る。
「「かんぱーい」」
落ち着いたジャズのBGMに硝子の当たる音が混ざった。


女子2人が揃ってお酒を飲んだら、話すことなんて幾つになっても大して変わらない。そう、恋話!
ぐだぐだとお互いの好みを言ったり、過去の話を一部だけ話して聞かせたり。
今日現在、私も陽凪も彼氏は居ない。私は一期くんに絶賛片思い中ですが。
陽凪は好きな人というか気になる人すらいないって言うんだから世の中どうなってるんだ。「恋はするものじゃなくて落ちるものなんです!」というのが今までの格言その一。まぁ、陽凪は面食いな一面があるから恋に恋する気持ちが残ってるのかもね。
ぱっちりした目に人懐っこい性格、可愛い声に幼さの残る顔立ち。スタイルだって悪くないから、きっと密かに思いを寄せてる男性は山ほどいるんだろう。本人曰く全然告白されないですよ…ってげんなりしてたけど。高嶺の花って認識なのかな?実際話せばそんなことないって分かると思うんだけどな。
前に話を聞いたら、彼女の中では優しい男性は「いい人だなー」で終わることがほぼ毎回のパターンだった気がする。本人曰く、友達だと思っていたから気兼ねなく話していたのにショック、とのこと。
話を聞いてて思ったけど、もしかして相当鈍感なタイプか。向けられる好意を読み取る能力と空気を読む力はまた別みたい。
「陽凪はこんなに可愛いのに彼氏がいないなんて信じられなかったけど、やっぱり納得」
「え!?なんで突然そうなるんですか!や、その、事実ですけど」
両手でグラスを持ちすねたような視線を寄越す小動物系後輩。こんなに純粋でいい子なんだから、きっととんでもない男前に見初められるんだろうね。
「何となく思っただけだよー」
はぐらかしてグラスを持つ手とは反対の手で栗色の髪を撫でてあげれば、しゅんと落ち込んでいた表情が困ったようなはにかみに変わる。
「ありがとうございます…こればっかりはご縁なので仕方ないんですけど、そろそろ恋したいです…」
グラスを置き、そっと目を伏せる陽凪。長い自睫毛が暖色系のアイシャドウで彩られた目元に薄らと影を落とす。
表情豊かな明るい雰囲気とはうって変わって上品で大人な表情に、女の私も思わずドキリとしてしまう。
「…大丈夫。陽凪はきっと幸せになれるよ」
「そうなるように自分磨き頑張りますね!…さ、私の話は置いといて、一期くんのお話でもしましょうか」
自分のペースに戻った陽凪が気になるキーワードを持ち出して来た。
「うわ、いきなり話が変わりすぎじゃない?」
「へ?そうですか?」
あぁ、この子マイペースだった…。
「えっと、それで?昼休みに会った時に何か言いたそうにしてたけど」
「それですそれです。薫子さんのためになるかなーと思って、一期くんに好きな女性のタイプを聞いてみたら、答えてくれたんですよー」
「えっ!?」
予想以上の内容に外だということも忘れて声が上擦る。
「待って、それって一期くんの中でかなりトップシークレットな部分じゃないの?今まで一期くんの噂でそういう類のことって聞いたことないんだけど…」
「ふっふー。前に薫子さんがそう言ってたのを思い出したので、流れで聞き出しましたー」
得意げにニヤリと笑う。この後輩、さらっと色んなことを聞き出せるくらい頭の回転が速いから恐ろしい…。ありがたいけどね!
「一期くんの好みの女性ですがー……」
たっぷり一呼吸分勿体ぶる。
「簡潔にまとめると…明るい、仕事が出来る、可愛い一面がある、だそうです」
「あれ?割と普通」
「そうなんですよー。薫子さんの言うはにかみ王子スマイル?でモジモジしながら言ってました。でも、結構具体的な内容だったんで、もしかすると想い人が居るのかもしれないですね」
最後の一言に頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。アルコールがほんの僅か入って温まって来たはずなのに、背筋に何か冷たいものが当てられたような感覚に陥る。
一期くんに、好きな人が居るってこと、だよね?
当然のように昼休みの光景がフラッシュバックした。
ショックが少なからず顔に出てしまったらしく、陽凪が焦ったようにグラスを置いた両手をパタパタと上下させる。
「あああ、すみません!薫子さんを落ち込ませようと思った訳じゃなくて!もしかしたら一期くんの想い人が薫子さんなんじゃないかなって思ったから話したんです!」
「っげほ!?」
「わああ!大丈夫ですか!」
予想外の追撃に勢いであおったカクテルを少し咽てしまう。ちょっと待って、それどういうこと?
廣光くんが無言で差し出してくれた真っ白なおしぼりで口元を押さえつつ視線だけで問う。
「一期くんの言葉を借りると『いつも会うたびに優しい笑顔で挨拶してくれて、私の兄弟についての話題も嬉しそうに話を聞いてくれるんだ。仕事をしている時の凛とした横顔も素敵だけれど、一番好きなのはご飯を食べているときの幸せそうな表情、かな。とても、その、か…可愛らしい、よ』なんですよ。薫子さん、一期くんとよく朝に会うっておっしゃってたし、家族の話もしてますよね」
BGMが遠く感じ、おはようございます、と爽やかに微笑む一期くんの声が鮮明に甦る。
「しかも仕事の時間は同じ課だから横顔だって見る機会もありますし、お昼だって食べてる所を見られてても不思議じゃないんですよ」
社員食堂でお昼を食べていた所に偶然遭遇して、美味しそうなランチですね。私もそれにしようかな、と声をかけてくれたのはつい二、三日前のこと。
仕事なんて毎日同じ空間でやってる。
徐々に私を取り巻く音が戻ってきて、鼓動が少し大きくなった気がする。私は口元に当てていた布を置き、もう空になったグラスを無意識に触った。
「一期くんって女性と同じ課にいたのは私と同じ課の半年だけと今の秘書課らしいんです。現状でその可能性が一番高いのって薫子さんじゃないですか?」
一気に予想を述べた陽凪が残り少ないカルーアを飲み干す。一仕事終えたかのように深呼吸をすると細い肩が波打った。
一期くんが私を好きかもしれないという事実に逆上せあがりそうになって、思わず俯く。
顔が熱いのも、身体が火照るのも、全部お酒のせい、と思いたい。でもさっきから脳裏は一期くんの笑顔でいっぱいで。うわぁ、どうしよう。私、相当一期くんのこと好きだ…。
「うわー、だめ、好き」
段々恥ずかしくなってきて、テーブルに突っ伏す。すると柔らかな男性の声が上から降って来た。
「薫子ちゃん、大丈夫?もしかして具合悪くなっちゃったかい?」
慌てて顔を上げれば、整った男らしい顔が心配そうにこちらを覗き込んでいる。一瞬、ほんの一瞬だけど、彼の蜜色の瞳に吸い込まれそうになった。
「全然そんなことないです!」
「でも少し顔が赤いよ。ちょっとごめんね」
おもむろに右手にはめていた黒い手袋を外し、カウンター越しにしっかりと鍛えられた腕が伸ばされた。左手は頬を包み込むように添えられ、おでこにはじんわりと温もりが伝わってくる。今までにないくらい至近距離で光忠さんと顔を合わせていると認識するまで、少し時差があった。
「わぁ…」
陽凪のときめいているような感嘆なんて聞こえないくらい、目の前の光忠さんに集中してしまう。
男の人なのに肌はきれいで、髪はちょっとだけ固そうだけどきっちり手入れされてるのがよく分かる。睫毛も生え揃ってるし、何よりこの目が、
そこで小さく息をのむ。とろける黄金色の向こう側に揺らめく炎が見えた気がして。
何で、そんなに慈しむような眼で私を見てる、の…?
胸のあたりがギュッと握られたように苦しくなって、テーブルの縁に手をかける。それとほぼ同タイミングで顔に添えられていた熱が離れていく。
その事実を名残惜しいと感じてしまう自分がいて、少し混乱する。
え…私、今、もう少しこのままで居て欲しいって思っ、た…?
「うん、熱はないみたいだね。良かった」
「そ、うですよね」
気持ちに頭が追い付かない。それでも首を縦に振るけれど、光忠さんを真っ直ぐに見ることは出来なかった。不自然にならない程度に視線を泳がせてみたり…。いや、すでに不自然か。
「でも念のために今日はもう一杯で終わりにした方がいいかなって思うんだけど…」
「じゃあバーテンダーのお兄さんのおすすめをお願いしたいです!」
それだ!!
勢いよく左側を見れば、心底楽しそうに花の顔を綻ばせる後輩が居た。え、何でそんなに楽しそうなんですかね、陽凪さん?
「ふふ、良かったですね、せーんぱい」
「な!なんでいきなり先輩呼びになってるの?」
「なんででしょー」
そんな私たちの様子に密かにクスリと笑った光忠さんには気付かなかった。
「…ご指名なら、かっこよく決めたいよね」
そうしてじゃれ合っていると、不意に周りが静かになって私と陽凪もついつい口を噤む。
どうしたんだろう…。
不思議に思い、背を向けていた店内に身体の向きを変えたところで、店の奥まったところにあるステージに白と黒の人影を見つける。
白い方は言わずもがな、マジシャンの鶴丸さんだ。もう1人は見たことがない人で、舞台上に設置してある立派なピアノの所に座って鍵盤に手を置いた。
少し離れたところで廣光くんがテーブルに寄りかかり、ため息の後こう言った。
「…ようやくか」
「え?」
何が、と続けようとした声はマイクを通して張り上げられたエンターテイナーによって遮られた。
「今宵もここへ足を運んでくれて心から御礼申し上げます。ここからは彼によるピアノの生演奏をBGMにしてお楽しみください」
言い終わるか終わらないかの内に軽やかな音階がゆったりと奏でられる。落ち着いた曲かと思ったら、そこから階段を駆け上るように爽やかな速さでジャズ調へと変貌していく曲に感嘆のため息が零れた。
「わぁ…!」
「凄い…!」
「だろ?あれだけの腕を持ってるのに趣味なんて言い張るからとんでもない人だよ、三日月さんは」
他のテーブルからきた注文を作る手を休め、苦笑する光忠さん。ここの1階にある喫茶店の経営が本職なんだよ、と教えてくれる。
そうなんですかーと頷く私の横で、うっとりと旋律に聞き惚れている陽凪が噛みしめるようにピアニストの名前を繰り返した。
「みかづきさん、かー…」
それっきり陽凪は奏でられる繊細な音に集中してるようで、話しかけても少しだけ上の空な返事。楽器やってたことがあるとかは聞いたことないけど、相当気に入ったんだろうなぁと思いつつ私も大人しく彼の演奏に耳を傾けることにする。
店内は彼の音楽の世界にすっかり満たされ、誰一人として話す人も居なかった。すぐ近くで鳴るガラスの音さえもこの空間には必要なんだと錯覚するほど、彼のピアノは素晴らしいんだって音楽に詳しくない私でさえ分かる。
軽快なジャズ調はほどなくゆったりとした部分にさしかかり、どことなく静かな月夜を連想させられた。
どれほどの時間が経ったのかは分からないけれど、たっぷりと余韻を残して最後の一音が弾かれるとピアニストがゆったりと立ち上がる。
顔立ちは遠くて分からないけれど、小顔ですらりと長い手足に、左側だけ長く伸ばされた髪型だけは認識できる。黒いシャツに黒いズボン、白い手袋とモノトーンな衣装。そこにやや落ち着いたトーンの赤ネクタイが鮮烈な華を添えていた。
優雅な仕草で一礼すると盛大な拍手が彼へと贈られる。拍手が鳴りやまないうちに聞き慣れたBGMがフェードインしてくるけれど、耳の奥には生き生きとしたピアノの音が残っている気がした。
お辞儀をした彼はと言えば、すぐ傍で控えていた鶴丸さんが歩み寄り幾つか言葉を交わすと、すぐにこちらへと向かって来た。それを見た陽凪が急に落ち着きなく髪を手櫛で整えたり、椅子に座り直したりし始める。
「どうしたの?」
「や、その…さっきのピアノの演奏がとってもとっても素敵だったので、一言でもいいからご本人に言いたいなって思って。でも、男の人だからなんだか緊張してしまって。…いきなり知らない人に褒められてドン引きしない、ですかね?」
小さな掌がギュッと膝の上で握りしめられている。不安げに大きな瞳を揺らし、若干上目遣いになる彼女は贔屓目抜きにしても可愛いと思う。
こんなに可愛い子に褒められて喜ばない男性なんてもはや男性じゃない!
きっと大丈夫だよ、と励ましの言葉を声にしかけたら。
「っはは。そんなに真っ直ぐに演奏を褒められるのは嬉しいが、照れくさいな」
穏やかで甘さを含んだ声音が背後から聞こえて思わずそっちを向く。
「ほー。君が照れるなんて珍しいな、三日月」
「そうか?俺のようなじじいでもこんな可愛いお嬢さんに褒められたら照れるさ」
ははは、と愉快そうに笑うピアニストの男性は、間近に見ると白皙の美貌であることが嫌というほど分かった。下手な女性より美人という言葉が似合う、絶対。これは男女ともに惹きつけられる美貌だ。
光忠さんと廣光くんは伊達男風のカッコいいだとしたら、この人は鶴丸さんのカッコいいに近いかっこよさだと思う。いや、ボキャ貧すぎてカッコいいしか浮かばないし、私の中での一番はやっぱり一期くんだけどね。
そうこうしている間に月の名前を持つ美人さんはちゃっかり陽凪の隣に座って注文してるし。
鶴丸さんが上手く話を回してくれているようで、陽凪が頑張って感想を伝え始めた。自分でも言ってたけど、緊張から鈴のように澄んだ声は少し上擦ってるように感じる。
ということで、連れてきた話し相手が居なくなってしまったけれど、今の私にはちょうどいいのかもしれない。だって、陽凪が最後に教えてくれた推理と一期くんの微笑みや声が何度も浮かぶから。
一期くんが、私のことを好きかもしれない。それがどんなにちっぽけな確率でも、それに縋りたい、賭けてみたいって思っちゃうんだから恋って恐ろしい。
「はぁ…」
「僕で良かったらお話し相手になるよ、薫子ちゃん」
「光忠さん」
カウンターの向こうでグラスを拭きながら光忠さんが声をかけてくれる。知らず知らずのうちに俯き加減になっていたみたい。
光忠さんもすごく優しいなぁ…。
「まずはご注文のカクテルをどうぞ」
コースターの上に置かれたのはオレンジ色のカクテル。カクテルと言われなかったらオレンジジュースって言われても納得しそう。
「なんていうカクテルなんですか?」
「今日のはアプリコットフィズ、だよ」
「じゃあフルーツ系の甘いカクテルなんですね」
「うん。さっきはカルーアだったから、柑橘系のさっぱりした甘さがいいんじゃないかなって思ってね」
「なるほど。じゃあ早速いただきます!」
光忠さんの言う通り、さっぱりとした甘さがちょうどいい。だからといってジュースやチューハイとは全然違う。しっかりとしたフルーツの甘さと酸っぱさが何だか恋する気持ちと似てるように感じた。また頼んでみようかな。更に1つ、お気に入りのカクテルが増えちゃった。
幸せな気持ちでお酒を楽しんでいると、すぐに鶴丸さんとピアニストさんの2人が楽しそうに笑い出した。
何か面白いことでもあったのかと思って見てみるけど、チーズとサラミの盛り合わせと各々のカクテルくらいしかない。
「いきなり笑い出したけど何か面白いことでもあったの?」
「へ?何にも…ただ、私のカクテルを見て、薫子さんに出したカクテルの名前を聞いたら、お二人とも笑い出して」
陽凪も若干困惑気味に微笑み返してくれる。
「ん?2人はカクテル言葉を知らないのか?」
「あ、ちょっ、三日月さん!」
慌てる光忠さんなんて何のその。きょとんとした表情を美しい顔に浮かべた三日月さんが小首を傾げる。その仕草、女の子じゃなくても似合うんですね…じゃなくて。
「カクテル言葉って何ですか?」
「花言葉、みたいなものなんですか?」
「あー…」
私と陽凪の立て続けな質問に、光忠さんは注文でも来たのかくるりと向きを変えて離れていってしまう。代わりに意気揚々と答えてくれたのは鶴丸さんだった。
「簡単に言ってしまえばそうだな。カクテル一つ一つに対応した意味があるんだ。例えば俺に出されたインペリアル・フィズは【楽しい会話】、三日月に出されたアレキサンダーは【完全無欠】ってな具合さ」
「へー!じゃあ私のは何ですか!」
軽く持ち上げられた細身のグラスには黄色いお酒が明かりを優しく跳ね返している。グレープフルーツ系かな?
「君のはアンジェロだから…」
「好奇心、だな。ははは、猫のように愛らしいお嬢さんにはぴったりだ」
「あ、ありがとう、ございます…!」
うわあ、仕事の関係上褒められ慣れてそうな(偏見かな?)陽凪が!本当に照れてる…!
くすぐったそうに少しだけ肩をすくめて笑う横顔は本当に嬉しそうだった。
「私のも分かりますか?アプリコットフィズなんですけど…」
「「アプリコットフィズ…」」
一拍分の沈黙をBGMが埋めてくれる。
「なぁ、俺はど忘れしてしまったんだが、三日月は覚えてるか?」
「あっはっは、奇遇だなぁ。俺も思いだせない」
「え」
「忘れてしまったなら仕方ないですね。また後で調べましょうか!」
「いやー、すまんすまん」
「はっはっは」
陽凪のフォローに笑って乗っかる2人。
忘れたなら仕方ない、かー。後で調べよう。
光忠さんは私にどんなメッセージをくれたんだろう。元気、とかそんな感じのことだろうな。
そこからはお店で出されているチーズや、三日月さんの経営している喫茶店の話へと話題はどんどん変わっていき、お暇する頃にはすっかりカクテル言葉なんて意識の外に抜け落ちていた。







【アプリコットフィズ】振り向いてください

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