Bar Espada | ナノ
キール

「おはようございます薫子さん」
普通の8階建てマンションのエントランスを出た所で後ろから爽やかな声がかけられた。
振り向けば隣の一軒家に住む粟田口家の長男、一期くんの姿。今日も笑顔が眩しい。
「おはようございます、一期くん」
「これからお仕事ですよね」
「うん。一期くんは弟さん達の身支度かな?」
「はい、それから出社ですな」
「いつもすごいね!じゃあ、またあとで」
「ええ、また後程」
柔らかく微笑んだ一期くんは家の中から聞こえてくる「いちにいー!」という声に慌てて戻っていった。
やっぱり一期くん格好いいな。
私は足取り軽く駅へと向かった。
私が一期くんと出会ったのは今年の春、人事異動で私の部署へと変わってきたのがきっかけ。
周りにいる男性と違って物腰柔らかで面倒見のいい彼に私が恋に落ちるまでそう時間はかからなかった。私の後輩と同じ窓口課だったから、話だけは聞いていたんだけどね…。
態度の柔らかさも去ることながら、王子様のようなルックスも相まって、王子様ってあだ名で呼ぶ人も居たりする。


今日も何事もなくパソコンでのデータ入力を終えた私は、ロッカーから荷物をまとめて課長のデスクに立ち寄った。
「長谷部課長、お先に失礼します」「あぁ、また明日も頼む」
「あの…明日はお休みではありませんか?」
私の指摘に長谷部課長は慌ててカレンダーを確認する。
「…!休み、か。どうも最近曜日の感覚が曖昧だな…。ゆっくり休んでくれ」
「はい。長谷部課長もあまり根を詰めないで下さいね」
「これくらいどうということはない。…だが、気持ちだけ受け取っておこう」
厳しかった表情が緩み一瞬笑顔を見せてくれる長谷部課長。実は長谷部課長も社内では人気のある人だという噂がなんとなく思い浮かぶ。
あぁ、普段の表情とこういう時のギャップが好かれる理由なのかな。
もう一度一礼してから、私は会社を後にした。

外に出れば空が徐々に夜の色に染まっていく時間帯だった。明るめの紺色が涼しげだ。
今日は花の金曜日ということもあって飲み屋街の近くは多くの人で賑わっている。あちらこちらから食欲をそそる香りが漂ってくるし。私も一杯飲んで行こうかな?
でも今日は連れがいない。後輩の子誘えば良かったかも。1人で飲みに行くのは構わないけど、やっぱり話し相手がいた方が楽しい訳で。
携帯で検索をかけるために道の端に立ち止まり画面をスクロールする。
「こういう時行き付けのバーでもあればお洒落なんだけどねー…」
独り言が喧騒に飲み込まれて行った矢先。
「ねぇ、いいでしょー?」
「私達の奢りだからぁ」
「いや、僕はこれから仕事なので遠慮させてもらうよ」
すぐ隣の居酒屋の店先で女性二人と長身の男性が話してる声が耳に飛び込んできた。おーおー、ナンパですね。えーと、この辺りで私でも入れそうなバーは…
「えー!おにーさんこれからお仕事なのー?」
「どこのお店のホストさん?私、おにーさんになら貢いじゃうー」
「あー、そういうお店じゃないんだ。それに僕、待ち合わせしているし」
……あ、このお店良さそう。よく前を通って気になってたところだし、今のうちに行ってみよう。
目星も付き携帯をしまって歩き出そうとしたら。
「この子とね」
思いの外近くから聞こえた甘い響きの声。引き留めるように掴まれた左手首が熱い。
「えっ?」
驚いて振り向けば絶賛ナンパされてる様子だった男性らしき人。片方の目に眼帯をしているけれど私を真っ直ぐに映す隻眼は美しい琥珀色をしている。とりあえず、飲み屋特有の安っぽい照明の下でもとても整った顔立ちということは分かった。さらにフワリと知らない香水が鼻腔を擽る。あ、いい香り。
問題は私がこの人を知らないことかな。
「待たせてごめんね?」
「あの」
「女の子達がご飯に誘ってくれたんだけど、僕らこれから仕事だろ?」
私の瞬間的な困惑など何のその。お兄さんは勝手に話を進める。しかもおねーさん二人に分からないようウインクしてきた。うわ、キザな人。
「ソウデスネ」
「さ、お客さんが待ってるから行こうか」
目配せに合わせて仕方なく頷けば、優しく腕を引かれて人波へと足を踏み入れた。
私たちは無言でしばらくそのまま歩き、店が途切れた辺りでやっと立ち止まる。
「本当にごめんなさい!無関係な女性を巻き込むなんてすごくカッコ悪いですよね」
向き合って開口一番頭を下げて謝ってくれるお兄さん。
「そんなに謝らなくても大丈夫ですよ。頭を上げてください」
「…ありがとうございます。貴女がとても美しくて優しい女性で僕は幸運だ」
はにかみながらお礼を述べてくれる。さらっと誉めてくれるなんて、やっぱりホストなんじゃ…。
「そうだ!助けてくれたお礼に僕のお店にぜひ来て下さい。これでもバーを経営しているので、一杯だけでもいかがですか?」


彼、光忠さんの誘いに乗ってその場から歩くこと5分。大通りから一本入ったところにある建物の2階にそのバーはあった。
黒塗りの扉は落ち着きがあって光忠さんの雰囲気にぴったりだと思う。
「あの、かかってる看板はclosedになってますが大丈夫ですか?」
「うん、問題ないよ。ただいまー」
「お邪魔します」
扉に着いたベルがカランと軽い金属音を響かせて来客を知らせる。
3、4人掛けのテーブルが2つ、二人用のテーブルも3つほどにカウンター席がある少人数向けの店内。暖かみのある照明がシンプルでスタイリッシュな机やカウンターを照らしていた。
「おや、遅いと思ったら女性を口説いてたのかい?こりゃ驚きだ」
「信じられないな」
一番奥のカウンター席に座っていた線の細い人がニヤニヤしながら声を掛けてくる。髪の毛が真っ白だけど普通の男の人だ。それにカウンター内にいる日焼けしたバーテン服の男の子が無愛想に頷く。
「いやいや、鶴丸さんもくりちゃんも誤解しないでね。彼女は僕が困ってるところを助けてくれたからお礼しようと思って連れてきたお客様だよ。ね、薫子ちゃん」
「大したことはしていませんが、一応」
「へー?まぁ、深くは追及しないがな」
言うが早いか鶴丸さんと呼ばれた白い髪のお兄さんはカウンター脇の扉の中に姿を消す。
「もう店は開けていいんだろ」
「うん、待たせてごめんね」
くりちゃんと言われた日焼け少年が一旦入り口を開け、ドアにかかっていた看板をひっくり返したようだ。
「薫子ちゃん、ここで待っててくれるかい?」
「はい」
光忠さんも一旦スタッフルームへ入ったようで、次に出てきた時は廣光くん(名前聞いたら教えてくれた)とほぼ一緒のバーテンダー服を身に付けていた。うわ、スーツも似合ってたけどこっちもすごく似合う。さすがイケメンは何着ても決まるわ…。
「さっきはありがとう。これは僕からの気持ち」
差し出されたグラスにはキャラメル色のお酒が灯りを返して煌めいている。いつもビールばかりだからカクテルなんてカシオレとかカルーアくらいしか知らないんだけど。
「綺麗ですね。カクテルですか?」
「うん」
「おいおい、キールを出すとは随分「はい、鶴丸さんはマジックの準備してきて下さいね」
白シャツに黒いループタイ、黒のズボンに着替えた鶴丸さんの口を手で塞ぐとにっこり遮る光忠さん。
「それは白ワインにカシスのリキュールを合わせたカクテルなんだ」
「なるほど」
一口飲んでみると白ワインだけよりもカシスの風味でより飲みやすくなっている。
「とっても美味しいです!」
「良かった。薫子ちゃんに喜んでもらえて何よりだよ」
そうこうしていると、他のお客さんが来たことを告げるベルが鳴った。
「「「Bar Espadaへようこそ」」」


30分もすればセンスのいい店内はすっかり人でいっぱいになった。空いてるのはカウンターくらい。
ふと時計に目をやればそろそろ9時になるところだった。お客さんも増えて来てるし、もう一杯もらって帰ろうかな。
「すみません、注文いいですか?」
「どうぞ」
「シャンディガフをお願いします」
ビールベースにジンジャーの組み合わせで前に合コンで頼んだことがあって、飲みやすかった気がする。
「承りました」
にこりと微笑みを残して作り始める光忠さんの背中を見ていると、マジックを披露し終えた鶴丸さんが隣の席に座る。
「何を頼んだんだい?」
「シャンディガフです」
答えると鶴丸さんは光忠さんとはまた色味の違う金色の瞳を見開いた。そしてすぐにクスクスと笑いだした。
「ははっ、シャンディガフか。いいチョイスだな」
「そうですか?前に飲んだことがあるのがそれくらいなので」
「はい、お待たせ」
ことり、と目の前に置かれたグラスには蜂蜜色の液体の上に白い泡が少し乗っているカクテルだった。
爽やかな喉ごしで何口かに分けてすぐに飲みきってしまった。
それから少しお話しをして、お会計をお願いしたけれど、お礼だからと言って光忠さんはお金を受け取ってくれなかった。
「なんだかすみません」
「気にしなくていいんだよ。僕が助けてもらったささやかなお礼さ。また遊びに来てくれたら嬉しいな」
ありがとうございました。
丁寧な一礼と優しい微笑みに見送られて、私は上機嫌のまま帰路へと着いた。



***


薫子を名残惜しそうに見送った光忠がカウンターに戻ってくると、鶴丸は笑いを噛み殺しながら話しかけた。
「それにしてもキールにシャンディガフとは、彼女もなかなかやるな。いやー、いい驚きだぜ」
「確かに面白かったが鶴丸さんは笑いすぎだ」
「二人とも今日は辛辣だね?」
「俺は馴れ合うつもりはないからな」
「まーたそういうこと言って。でも手伝ってくれてありがとう」
ストレートな感謝の言葉に弱いのか廣光はすぐに注文を取りに行ってしまう。なおもひっそり笑い続ける白い先輩に光忠の密色の瞳に呆れが浮かぶ。
「彼女はカクテル言葉を知らなかったと信じたいよ」
「だといいな」
からかうような笑顔の合間にふと優しげな眼差しを光忠に注ぐ鶴丸だったが、気づかれる前にカウンターを離れた。



【キール】最高の巡り会い
【シャンディガフ】無駄なこと

zzz >>

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -