気高い月との邂逅

遠くから呼びかける声が聞こえる。深い祈りが込められた美しい音色が。
「どうか、私に貴方の力をお貸しください」
簡素な言葉にも拘らず、彼は声の主の複雑な感情を瞬時に共有した。
期待、不安、畏れ。そして、純粋に何かを守りたいと願う強い心。
あぁ、俺はこの美しい声の主に求められているのだ。澄んでいて愛らしくも凛とした霊気と甘美な響きの声を持つこの者に。
それはまるで強く美しい光を放つ太陽に心惹かれるものと似ている、と彼は逸る心で感じる。
この人の子に、手を伸ばしてみたい。
明確な意志が生まれた途端、心地良い微睡みから急速に何かが形作られていく気配に包まれる。
暗かった視界は眩しいほどの光に溢れ、瞬く間に歴史の走馬灯が駆け抜けていく。
彼の頬には一筋だけ熱い雫が繊細な跡を作り、すぐに消えていった。




パタパタと軽快な歩調で美しく磨き上げられた木目の廊下を駆けるのは1人の女性。しかし彼女には女性と言うより女の子、という表現の方がしっくりくるだろう。短くも女性らしさを感じる長さに切りそろえられた柔らかな栗色の髪に花の髪飾り。ぱっちりとした猫目には好奇心がキラキラと輝き、小さな唇はほんのりと赤く色付いている。
なだらかな曲線を描く体の輪郭は痩せすぎず、太りすぎていない絶妙なバランスで、少し小さめの足を前へ前へと進める彼女の膝上でふわりと淡い色のスカートが翻った。
この本丸の主、紅緋は齢二十歳、数えで21になる学生だ。
審神者は本来ならば適切な教育を受け、知識を持ち、力の扱い方を学んでから本丸へと勤めるものだが、紅緋は諸事情により二週間ほど前に審神者になったばかりである。そのため、大きな失敗も一度だけあったが、それ以来紅緋は自身の学業と審神者としての知識を学ぶ日々を続けているのだった。
今日も講義を早々に終えてきた彼女は自分の刀剣男士が待つ大広間へと急いだ。
「清光、今剣、蛍、こんのすけ、ただいま帰りましたー」
元気に障子を開けると、部屋の中で寛いでいた少年と青年、式神が温かく迎え入れてくれる。
「お帰りなさい、主!」
「あるじさま、おかえりなさい」
「おかえりー」
「お帰りなさいませ、主殿」
「早いね。まだ昼過ぎじゃん」
「うん。今日は講義が少ない日だから。みんなは畑当番が終わったところ?」
「そのほかにもほんまるのおそうじをしておきました。どうだ、すごいでしょう」
「流石だね!本当に助かるよー」
褒めてください、と言わんばかりに抱き付いてくる今剣を胸元で受け止める。左手で頭を優しくなでると、蛍丸もぎゅっと抱き付いてくるため、少しだけあいている反対側で受け止める。
「俺も掃除頑張ったよ。だから、ちょっとだけ撫でてほしい、かも」
「うん、蛍もいい子だね」
「あー!二人ばっかりずるい!俺も可愛がって!」
清光まで抱き付いてくるの?見た目的には整った外見の青年である彼に抱き付かれるのはちょっと心臓に悪いから遠慮したいんだけど。いや、嫌いとかじゃなくて。
いくら本体が刀と言えど、紅緋には彼らをただの武器や美術品として扱うことなど到底できないのであった。
慌てて、清光は後でね、と言いかけたが、彼が少しだけ困ったような笑顔を浮かべていることに気付き、代わりに問いを投げる。
「清光、何かあった?」
「…あのさ、そろそろ出陣を再開しない?」
出陣、という単語にドキン、と心臓が痛いほど脈打ち、頭をなでる手が止まる。清光に向けられた瞳にはまだ困惑の色が強く現れていた。体も無意識のうちに強張っていたが、それに気づかないふりをして、二振りの幼い容姿をした付喪神は人の子に寄り添う。
「主も分かってるんじゃない?俺達、もう1週間も出陣してないよ。だからこんのすけもこの頃早く帰ってこいって言ってるんだろうし」
「…そう、だね」
ゆっくりと瞼を下ろし、深呼吸する。腕の中には二つの温もり。そして目の前には未熟な自分を見捨てずに根気強く待ってくれる大切な初期刀。
一度、大きな失敗はしてしまったけれど。こんなところで立ち止まっていては彼に合わせる顔がないし、何よりやられっぱなしは私らしくない。あれから少ししか時間は経ってないけど、以前よりは霊気の使い方も術も刀剣のケアも学んだから。いつまでも怖がってちゃダメだ…と自分に言い聞かせる。
深呼吸と共にゆっくりと目を開く。紅緋の瞳には怯えの色が薄れ、決意が読み取れた。
「…今夜、鍛刀するよ。新しい仲間を迎えて明日は準備。明後日、出陣しよう」
あぁ、初めて会った時と同じだ。傷つくと分かっても彼女は自分で選んだ道を自信を持って進む人だ。
微笑みを見て清光はそう感じるも口には出さず、にっこりと笑い返したのだった。

***

満月の昇ったその日の晩、紅緋は巫女装束を身に付けて軽く化粧を施して部屋を出た。月明かりに浮かび上がる白い肌と、人口の紅が彩る口元は清廉な色香を漂わせる。普段は表情豊かで人懐っこい一面が強く表れているため幼く見られがちだが、口を引き結び緊張した面持ちで静寂の中を進む彼女は年相応かそれ以上に落ち着いた空気を纏っていた。
紅緋は2つある鍛刀部屋のうち【花】と名札の付いた手前の部屋に入る。
前回の鍛刀で蛍丸が来てくれたことは記憶に新しい。
「こんばんは。今日もよろしくお願いします」
襖を開けて土間になっている作業場へと下りれば、小さな和装の男の子がニコニコと駆け寄ってきた。彼らは付喪神を降ろす際の刀身を形作ってくれる。
本当の名前は知らないけど、妖精や式神の一種なのだろう。
本丸経営を始めて間もないため、紅緋の組める部隊は初期刀の清光以外短刀だけだった。戦力増強のために、枯渇しがちな資材を奮発。その結果が大太刀の蛍丸で大喜びしたことがつい先日のように感じる。
「打刀か脇差の付喪神さまに来て欲しいからー…」
資材はとりあえず全て350で。
それぞれの資材置き場に使用量を取り出し、綺麗に並べた。事前調査で分かっているが時間は1時間半とのこと。何事も無ければ、手伝い札を使うまでもなく今日中にお迎えできるだろう。
早速作業を開始する小さな刀鍛冶に視線を送ってから、祭壇に正座して数回使った祝詞を唱える。
祈ることは、唯一つ。
大切な仲間を支える力を身に付ける努力は怠らない。だから。

「どうか、私に貴方の力をお貸しください」



「…何か間違った?え?」
霊力を使い、心地良い疲労感に浸っていると刀鍛冶が提示した完成時間に眼を疑う。
そもそも4時間もかかる刀剣なんているの?そんな情報聞いたことないんだけど。え?本当に何なの。
今までは20分が当たり前で、政府の審神者用鍛刀時間一覧表を見ても4時間なんて見た記憶がなく困惑する紅緋。実際は一番下に4時間、5時間の表記も一応あったのだが、審神者業は始まったばかり。そもそもデータが少なく、打刀や脇差(あわよくば太刀)を顕現させたいと思っていた彼女は見落としていたのだった。
「なにかあったんですか!」
大急ぎで部屋へと駆け込んできたのは今剣だった。
「けがはないですか。へんなものでもきてしまいましたか?」
今剣が危惧しているのは紅緋の質の高い霊力に引き寄せられる悪しきモノなのだが、実際部屋に来てみれば嫌な気配は一切ない。むしろ清浄で濃い霊力が集まっていると言える状況であった。それに気づかず、紅緋は小さな刀鍛冶が置いて行った木板の時刻を指さす。
「確かに、変なものかも」
「これは…」
「今日の鍛刀、いつもより疲れたし、時間はすっごくかかるから、ちょっとびっくりしちゃって」
力の加減が下手すぎて失敗したのかな。落ち込む紅緋に今剣はどこからか手伝い札を差し出した。
「しんぱいなら、これをつかってみてください。ぼくはなにがあってもだいじょうぶなように、へやのそとにいますね」
「うん、ありがとう」
審神者が付喪神を呼ぶ際は、たとえ同じ刀剣男士だとしても立ち会うことは推奨されない。
今剣は部屋から微かに感じる自分と似た気配に笑みを深めた。
「きっとくるとはおもってたけど、こんなにはやいとはおもわなかった」
一方紅緋は手伝い札を小さい刀鍛冶のところへ渡すと、間もなく一振りの太刀を捧げ持って来てくれる。
受け取った刀身は今までの刀の中でもっとも重く、最も美しかった。
反りの強さと刀身の細さに思わず感嘆のため息が零れる。蝋燭の火にかざしてみると、波紋には幾つもの三日月が浮かび上がった。
「三日月…」
さらによく見ようと顔を近づけた途端、刀が宙に浮く。
それを合図に一気に神気が部屋に満ち、外へと溢れ出して行く。息苦しささえ覚える力の奔流に本当に押し流されないよう、両腕で顔を庇い、立ち上がって両足に力を入れた。
数秒の後、ほんのりとした桜の香りが届く。次いで耳にトンと軽く土間に何かが降り立つ音。
ゆっくりと腕を下ろし、目を開けると。
長身で深い青色の狩衣を纏った男性がそこに立っていた。顔がとても小さく、長い睫毛がびっしり生え揃っているのが分かった。…決して羨ましいなんて思ってない。
左右の髪がアシンメトリーで黒とも群青ともとれる艶やかな髪には金の飾り。大きな掌に長い指。
刀剣自体が美しいと人の姿をとっても美しいんだなぁ。そんなのんきな感想は、閉じられていた瞼が開き、宵闇に浮かぶ一対の月に見つめられた途端、かき消された。
眼に、月がある。
本当に綺麗で、美人だと思う。でも、この眼は、深い。
自分でもよく分からない感想を抱き小首を傾げる審神者に、力を与えられた彼は穏やかな微笑みと共に名乗った。
「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」
「初めまして。審神者の紅緋と申します」
三日月さんかー、と心の中でこっそり復唱しつつ深々と礼をする彼女に、三日月は、はて、と不思議そうな顔をした。
「今、審神者と申したか」
「はい。私がこの本丸の主で、貴方を顕現させた審神者です」
こくりと頷くと、三日月は鷹揚に笑い出した。
「はっはっはっはっは。そうか、そなたが」
なぜ笑っているのかわからず、きょとんと目を丸くして小首を傾げる紅緋は小動物のように愛らしい。黙っている時の少しきつい印象は薄れ、いつもと変わらない子供っぽさが戻る。
困惑する紅緋に構わず、まだ少し笑い続ける三日月が長くしなやかな手で手招いた。
「はっはっは、近う寄れ」
「え」
何なんだ、このお兄さんは。どこの平安貴族か戦国大名の刀かよ。そんな心の内がありありと表情に出る彼女に三日月はほんの刹那鋭い視線を送った。しかし紅緋が気付くわけもなく、三日月は穏やかな雰囲気に戻る。
「一度は言ってみたい言葉だな」
「そうですかー。今言えて良かったですね」
「はっはっは。よきかなよきかな。…では」
花が咲くように、しかしどこか凛とした強さも垣間見える笑顔で返事をする紅緋に、三日月は満足げに首肯した。
「刀剣乱舞、始めよう」

***

鍛刀部屋の扉を開け、待機していた今剣と二言三言交わしたところで、紅緋はふと意識を失ってしまう。
「あるじさま!?」
「おっ…と」
三日月はふらりと傾ぐ目の前の身体を反射的に掴んだ。
思っていた以上に握った手首は細く、柔らかだった。加減が上手く出来ずに握りしめてしまった指が滑らかな肌に軽く沈み、驚いて手を離しそうになる。三日月が本気で力を込めれば骨などたやすく折れそうだ。
彼女は審神者で、自分を顕現したから守るべき存在であることはなんとなく把握している。どの様な存在か、これから自分はどうすべきなのかも。まぁ、納得しているかどうかはまた別の話なのだが。
とりあえず自分の胸元に引き寄せてしゃがめば、無防備な全身が預けられる。腕の中に収まった少女はどこもかしこも柔らかかった。鼻孔を擽る仄かな花の香りにふと大昔の記憶が疼いたがすぐに影を潜めた。華奢な白い首筋に、好奇心と決意で光っていた浅緋色の瞳は見えない。生え揃った睫毛が幼さの残る顔に僅かな影を落としている。
「三日月。あるじさまはかよわいおなごなのですよ。もっとだいじにあつかわないと、けがをしてしまうじゃないですか」
目の前にはどことなく懐かしい雰囲気の少年が立っている。子供特有の大きな瞳に浮かぶのは懸念。その怪しい赤色の奥には深い知性が感じられる。
「はは、すまんすまん…。この身を得たばかりで上手く力の加減が出来なくてな」
「あー、それはよくわかります。がんばってください」
「はっはっは、焦らず慣れていくさ。先に来たお前たちに聞きたいことは山ほどあるからなぁ」
「そうですよね」
頷き、立ち上がった今剣が姿勢を正した。
「あいさつがおそくなりました。ぼくはいまのつるぎ。むかしはよしつねこう、いまはこのこのまもりがたなです」
真っすぐに向けられる赤の瞳はそれを誇りに感じていることがはっきり感じられる。
(ほぅ、そこまでこの娘を気に入っているのか)
「俺は三日月宗近。天下五剣でもあり、三条宗近の一振りだ。よろしく頼む」
軽く一礼をして、腕の中で眠る審神者を慎重に抱き上げて立ち上がる。平安の装束を模した正装の袖が優雅に翻り、防具が硬質な音を鳴らす。
…見た目より少々重いな。
「ぅん…」
そんな雑念を感じ取ったのだろうか。抱き上げた少女の眉間に少しだけ皺が寄った。それを見て自然と口の端が上がる。どうやらこの子の勘は良いようだ。
「まずは人の子を褥まで運ばねばなるまい」
「そうですね。あんないしますよ」
「あぁ」
頷いて、先を行く今剣を追うのだった。


紅緋を何事も無く運び終え、先人たちとの挨拶や会話もつつがなく済ませた三日月。
今剣と共に生活する部屋へと一度行ってから、置手紙を残して庭を散策する。
夜の帳が包む濃紺の空には無数の輝きが散りばめられ、上った月は控えめな輝きで地上を照らす。大きく深呼吸をすれば、肺に満たされるのは清浄な空気。あぁ、心地良い霊気だ…。澄んでいるのに、暖かさを感じる。今剣や加州、蛍丸も絶賛していたなぁ、と思い返す。
ここを過ごしやすい、好ましいと思うのもあの娘が主だからなのだろう。
「これを成しているのがあの人の子だというのか…」
『どうか、私に貴方の力をお貸しください』
捧げられた祈りの声が、心が、とても美しくて手を伸ばした。
どれほどの主かと思っていたのだが、ここまで幼いとは思いもしていなかった、と言うのが本音である。
あの人の子を心から主と慕うかは、今後次第といったところだ。
「まぁ、俺は好きなようにさせてもらおう」

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