フライング・シャワー
ある夕方のことでした。
あたりはとっぷりと日が暮れて、空がすっかり藍色に変わった頃、どこからともなくほんのりひんやりとした空気が流れ始めましたが、おなじみ猫はやみんのおうちからは柔らかな光と、そしておいしそうな匂いがただよってまいりました。
中は一体、どんなぐあいでしょうか……?
あむあむ、あむあむ。
ぬくぬくと暖かな部屋の中では、テーブルを囲んで猫はやみんと猫まいたんがお食事の真っ最中です。
今日の夕食は……カレーライスのようです。とろりとしたルーの中から、いささか不ぞろいではありますがジャガイモやにんじんがいい色になって顔をのぞかせています。そのほかにも、傍らにはカップのコンソメスープとドレッシングのかかった野菜サラダが添えられておりました。
なかなかおいしそうです。
ただ、猫はやみんはとろとろに顔をほころばせながらカレーをぱくついているのですが、猫まいたんはといえば、時々スプーンを止めると、ちらちらと猫はやみんのほうを気にしています。どうしたんでしょうね?
「ど、どうだ、味は?」
何度目かスプーンを止めた後、猫まいたんはおそるおそると猫はやみんを上目づかいに見つめました。
「うん、いいお味〜♪ とってもおいしいよ」
猫はやみんはほころんだ顔のまま猫まいたんにうなずくと、再びカレーをぱくつきはじめました。
「そ、そうか?」
「うん、すっごく!」
おせじ抜きの猫はやみんのほめ言葉に、猫まいたんもちょっと嬉しそうです。実際、今回の出来は猫まいたんにしてはなかなかのものでした。
自分も一口すくって口に入れると、ちょっと甘口かも知れませんが、ちゃんとしたカレーの味が口の中に広がります。
もぎゅもぎゅもぎゅ。
楽しい夕食の時間が過ぎていきます。
「ふう、おいしかった。ごちそうさま〜」
お腹をぽんぽんとさすりながら、猫はやみんが満足そうな声をあげました。
……一体、何回お代わりしたんでしょうね?
「うむ。ま、まあなんだ。うまければなによりだ」
猫まいたんは嬉しそうにうんうんとうなずきましたが、猫はやみんが台所に立とうとしたのを見て、ぱっと立ち上がりました。
「待てアツシ、どこへ行く?」
「え? せっかくだから僕が洗い物でもしようかなと思って……」
きょとんとした顔をする猫はやみんに、猫まいたんは黙って首を振ると、まあ待てというように手を振ります。猫はやみんもつられるようにその場にぺたこと腰を下ろしました。
「そうか。だがなアツシ、今日の食事当番は私だ。ならば片付けまで、最後までやりとおす義務がある。違うか?」
「う、うん、そりゃまあそうだけど……」
「心づかいはありがたいことだが、私は私の責任を最後まで果たしたいのだ」
「うん……。わかった、じゃあお願いするね」
「うむ、まかせるがよい!」
猫はやみんの笑みに、猫まいたんも力強くうなずき返します。
「じゃあ、僕はその間にお風呂にでも入らせてもらおうかな?」
「そうだな、そうするがよかろう」
「うん……あ、マイ?」
風呂場に行きかけた猫はやみんがくるりと振り向くのを見て、猫まいたんは怪訝な顔を浮かべました。
「どうした?」
「一緒に入ろっか?」
「……なっ!?」
その一言に、猫まいたんの顔が見る見る赤くなっていきます。
「あははっ、冗談冗談! じゃあマイ、よろしくね〜」
「……ア、アツシっ!!」
猫まいたんが何か言おうとした時には、猫はやみんは素早く風呂場へと消えた後でした。
「あ、あ、あやつはまったく……」
それから少しの間、猫まいたんはすっかり熱くなってしまった頬をなだめるのに一生懸命でしたとさ。
***
「あははっ、まったくマイったらかわいいんだからなあ〜。……本当に入らないかな?」
猫はやみんの頭の中でなにげにさりげなく、猫まいたんが聞いたらぐーでひっぱたかれそうな、アヤしげな想像が行進していきます。
「……ま、仕方ないか。ふ、ふふん、にゃん、にゃん、にゃん♪ っと」
肩にタオルなんぞをかけながらからりとドアを開けると、もわんと暖かな湯気が流れ出しました。
軽く身体にお湯をかけると、ひろびろとした浴槽にゆっくりと体を沈めます。何でそんなに広いかは……言うまでもありませんね?
「ふあ〜、あ、あ、っと。いいお湯だにゃ〜」
頭にタオルをのせたりしながら、つい漏れる声をむしろ楽しんだりしています。
ちなみに、お風呂に入ったときはこういうふうに声を出したほうがリラックスできるそうですよ。
これ、ホントの話。
「さ、さてと、作業に取りかかるとするか……」
一方、ようやく立ち直ったらしい猫まいたんは、空き皿を取りまとめるとかちゃかちゃと流しに運びこみます。
目いっぱい皿を積み上げてよたこら運ぶ姿は、はたから見ていてなんとも危なっかしいのですが、どうにかひっくり返さずに流しまで持ってくることができました。
「よし、では始めるか」
猫まいたんはスポンジを手に取ると、蛇口を思いっきりひねりました。たちまち暖かいお湯が勢いよく流れ出します。
「鍋皿よ、覚悟するがよい!」
何か勘違いしているのではと思われるようなかけ声とともに、勢いよく洗い物を始めるのでありました。
「ふんふ、ふ、ふ〜ん……」
湯船から出た猫はやみんは、ゆっくりと身体を洗い出します。ついでに頭にもシャンプーをかけて、こしこしと丁寧にこすり始めました。……そういえば、猫はやみん愛用のシャンプーとボディソープには全部柔軟剤が入っているそうな。
「ふあふあだとマイがもっとぎゅーしてくれるもんね〜♪ ふ、ふんふ〜ん……」
……なるほど、そういうことですか。
「さて、じゃあ流そうかな……あれ……?」
猫はやみんは思わずシャワーを見上げました。いつもなら勢いよく吹き出すはずのシャワーが、かろん、と音をたてたっきりでちょろちょろとしか出てこないのです。
「あれ〜? どうしちゃったんだろう……」
実はそのころ、台所では……。
「にゃにゃにゃにゃにゃ〜!!」
猫まいたんがお湯をがんがんに使って洗い物の真っ最中なのでした。なにせ、カレーはこびりつきやすいので、猫まいたんはお湯をどうどうとぶっかけています。
「にゃ、にゃ、にゃ〜っ!!」
怒涛のごとく流れ出すお湯、踊り狂うごはん粒、漂うカレー、うなるスポンジ、飛び散る水しぶき!
……洗い物って、格闘技だったんですかね?
ともあれ、これではお風呂場にお湯が回るわけがないのでありまして……。
「あれ〜、おっかしいなあ……えいっ、えいっ!」
そうとは知らない猫はやみんはやっきになって栓をひねりますが、ちょろちょろはまったく解消されません。
「え〜、なんで〜? えいっ、えいっ!」
泡だらけのまま、猫はやみんの格闘は続きます、が。
「……にゃんっ!!」
あ、すべった。
永遠に続くかと思われた洗い物が、ようやく終結の時を迎えました。
「……よし、洗い物終わり! みろ、私だってやればできるではないか!」
たしかに水切りの中には、ぴかぴかになった鍋や皿がきれいに並べられています。
……回りがお湯と泡でびっしょびしょなのは、まあ、見ないことにしておきましょうか。
ともあれ、大きな達成感とともに、意気揚揚と猫まいたんは蛇口をきゅっ、と閉めるのでありました。
「えいっ、えいっ! ……ん?」
一方こちらは猫はやみん。
どうやらまだ奮闘していたようですが、ふいにシャワーがぶるり、と震えました。
「あれ……?」
思わず猫はやみんが顔を近づけた次の瞬間!
どばばばばばあっ!!
「にゃにゃっ!? ……わぶぶぶっ!」
思いっきり全開にしていたものだから、シャワーからものすごい勢いでお湯が噴出して、猫はやみんを直撃しました!
風呂場の端まで転がされた猫はやみんに、さらにお湯が容赦なく襲いかかります。
「い、一体何が……わ、わぶぶっ!?」
さいわい、それほど熱くはないのでやけどはしませんでしたが、このままではどうしようもありません。ともかくお湯を止めようと、にじ、にじと何とかシャワーに近寄ります。そのさまはまるで絶壁を登る登山家のよう。
……泡だらけの登山家なんて、聞いたこともありませんが。
「あ、あとちょっと……取った!」
と、その時。
ふとしたはずみからシャワーがフックから外れてしまいました。
「あ」
はい、もうお分かりですね?
シャワーは右に左に、ぶわんぶわんとしっちゃかめっちゃかな動きを始めるのでありました。
***
『にゃ〜〜〜〜〜っ!!』
猫まいたんがようやく一息ついたとき、お風呂場のほうからなにやらものすごい悲鳴が聞こえました。
「な、なんだっ!?」
異変を察知した猫まいたんは慌てて駆け出します。
「アツシ! 一体何が……わぶっ!?」
「マ、マイ〜!! これ止めて〜!?」
ぬれた髪をかきあげて猫まいたんが見たものは、所構わず暴れまわるシャワー栓と、それにしがみつくようにして一緒に引きずられている、泡だらけの猫はやみんの姿でした。
「ア、アツシ! そなたはそういう体の洗い方をするのか!?」
「そんなわけないでしょ! とにかく助けて〜!!」
とは言われても、いったい何をどうしたらいいものか。
ともかく猫まいたんは、シャワーの動きを止めるべく、猫はやみんと一緒にシャワー栓にしがみつきました!
でも、結果は……。
『にゃにゃにゃにゃ〜っ!!』
振り回されるのが二匹に増えただけだったり。
「ま、マイ〜!」
「アツシ!」
二匹が声をかけあった次の瞬間、どぷーん……、と大きな音とともに、湯船に水柱が2つ立ちました。
***
ちゃぷん。
猫まいたんはすっかりぬれてしまった髪を再びかきあげると、盛大なため息をつきました。
――なんで、こうなるのだ。
「ま、まあともかくだ。シャワーが落ち着いてよかったではないか……」
ものは考えようというやつですね。
結局、あの後シャワー栓が湯船の中に飛びこんだので、勢いが弱まったところをようやく押さえることが出来たのですが……。
「でもさ、マイ?」
同じく顔をわしわしとこすりながら、猫はやみんが尋ねます。
「何だ?」
「これって、元栓を閉じればよかったのかな……?」
「あ」
ちょっとの間沈黙が落ち、それからどちらともなくばつの悪そうな苦笑をうかべました。
「ま、まあよい。もう終わったことだ。アツシよ、過ぎたことにいつまでもこだわっていてはいかんぞ?」
……いや、少しはこだわってもいいんじゃないでしょうか?
でも、猫はやみんは猫まいたんの言葉に逆らう気がないので、うんうんとうなずいています。というか、なんだかとても嬉しそうなのですが……?
「そうだね〜。ふふふっ、でもさ……」
「なんだ、また『でもさ』か? 莫迦みたいな顔をして……。もしや、さっき頭でも打ったのか?」
とろけるかと思えるくらいに顔が緩みっぱなしの猫はやみんを見て、ほんの少しだけ心配になった猫まいたんでしたが、猫はやみんはふるふると首を振りました。
「では、なんだ?」
「いや、結局一緒にお風呂に入ることになったなー、と思ってさ」
「!!」
猫まいたんの頭から、タオルがずり落ちます。
さっきは夢中で気がつきませんでしたが、これは要するに、猫はやみんがお風呂に入っているところに飛びこんだわけで……。
猫まいたんは、お風呂の温かさとは違う熱が、全身に回るのを感じました。
「わ、私は出るぞ!」
「えー? いいじゃない、せっかくだからゆっくりあったまろうよ〜」
「こここ、こらっ、アツシ、離せ!」
「やだ」
みょーに短くかつキッパリというと、猫はやみんはぐいと猫まいたんを引き寄せました。
「にゃっ!?」
また水柱。
「こここ、こらアツシ!」
「わ〜い、マイと一緒のお風呂だ〜」
「アツシ〜ッ!!」
それからしばらく、お風呂場はなんともにぎやかな騒ぎで、それがやむころには二匹ともすっかりのぼせていたそうな。
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