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White Day


 二〇〇〇年三月八日(水)一九三〇時。
 熊本は平和だった。
 そういって悪ければ、平和への階梯を着実に上っていこうとしていた、と言い換えてもいい。
 一九九九年五月七日に九州、いや、世界のほとんどの者に知られる事なく行われた最終決戦。それにからくも勝利を収め、かの者を赦しえたことで突如として訪れた平和を、当初ほとんどの人は信じる事ができなかった。
 泳げぬ者が水中に入るときのように、おずおずとした調子で九州中部戦線全域の調査が行われ、その範囲が徐々に九州全土、そして海外へと範囲を広げていき――
 少なくともアジア・極東部において幻獣がほぼ消滅した事実が確認されたのは、「決戦」から実に一ヶ月後だった。
 理由は全く分からぬながらも、ともかく死の恐怖と戦いから逃れえる事ができた、と認識した人々の反応はすさまじく、まるで今までの鬱憤を晴らすかのようなお祭り騒ぎが繰り広げられ、九州で楯として使われるはずだった学兵や自衛軍の残存部隊はまるで英雄のような扱いを受けた。
 もっとも、自分たちの力で平和を勝ち取ったわけではない彼らは、それに素直に和する事は出来なかった。
 特に学兵にしてみれば、誰が自分たちを戦地に送り込んだかを忘れてはいなかったから、政府が誇らしげに人類の勝利と学兵達を褒め称えるコメントを発表した時など、ほとんどの者は殺意に近い嫌悪感を抱いていたと言われている。
(もっとも、それに伴ない功労金と休暇が全軍に対して贈られたが、それを断る者もまたほとんどいなかった。彼ら・彼女らはこの二ヶ月で充分現実的な物の見方を覚えさせられたのだと言っていいだろう)
 ともかく、そんなこんなの大騒ぎが終わった後、ふと我に帰ってみれば、厳しい現実が待ち受けていた。
 幻獣の脅威は去ったものの、その爪痕の方は今だ厳然と残っていた。特に主戦場となった九州中北部、完全に幻獣の制圧下に置かれた九州南部においては、一体どこから手をつけたらいいのかすら見当もつかない。
 一度は疎開した市民が帰ってくるにつれて、あらゆる面においての不足・不備も目に付くようになった。もちろん市民たちも努力はしているものの、個々人で出来ることはたかが知れている。
 結局、再び学兵たちに目がむけられ、彼らに武器の代わりに再建用の装備と資材を与え、とりあえずの復興が完了するまで引き続き徴用する事にしたのだ。
 かくして、銃をつるはしに持ち替えた学兵たちは、戦時に倍する勢いで東奔西走、新たなる「戦い」に投入される事になったのだった。
 そして、それからほぼ一〇ヶ月が過ぎた――

   ***
 既に日はとっぷりと暮れ、仕事時間も終わったハンガー内はほっとした空気に包まれていた。ひところは戦闘出撃よりきついと言われた復興作業も一段落し、そろそろこの小隊も解散・全員除隊になるのではないかと噂されている昨今、残業してまでしなければならない作業はほとんどないとなれば、どうしてもこの時間には気も緩んでくるのも仕方がない。
 速水・舞の両名も、小隊配備のブルドーザー(民間会社の放出品だ)の整備をもうすぐ終えようとしていた。
「全点検項目異常なし、と……。舞、そっちはどう?」
 油で汚れた手をぬぐいながら訊ねると、エンジン関係を見ていた舞がパネルを閉じながら答えた。
「少し待て……。よし、OKだ」
「じゃ、作業完了っと……。この小隊も、なんだかすっかり施設科みたいになっちゃったね……」
 タオルを渡しながら、思わず苦笑がもれる。
 確かに周囲を見回せば、ブルドーザーにパワーショベル、ロードローラーにバックホー、奥にはラフタークレーンまである。施設科というよりはちょっとした建設会社といったほうが正しいかもしれない。
「まあ、そうだな。だがろくに訓練も受けない者を戦場に駆り立てていた、あの頃に比べればだいぶマシであろう」
 同じく手をぬぐいつつ、舞が答えた。すでに自分たちがヴェテランの兵士扱いされていることには言及しない。
「……そうだね」
 下手をすると労働基準法に引っかかりそうな、年端の行かない子供たちまで現場で働かせているという事実はこの際無視する。少なくとも明日の命も知れないということはないし、復興自体が急務であることに変わりはないからだ。
「それより、そっちは終わったのか?」
「うん、大丈夫。あ、そうだ。舞、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「なんだ? 手短に言うがよい」舞は工具を元に戻しながら、顔も上げずに先を促した。
「実は……」

   ***

「何だと? もう一度言ってみろ」
 舞はおもむろに顔を上げると、速水をじろりと睨んだ。その気迫に多少気おされつつも、速水は努めて笑顔を絶やさないようにして最初から繰り返す。
「う、うん。だから、今度の日曜に遊びに行かない? ってことなんだけど。……一四日にはちょっと早いけど」
「一四日?」
 舞はしばし考え込み――はっと顔を上げた。唐突に何か気がついたらしい。
「そ、そそそそそれはつまり、もしや、あの……」
 いつの間にやら彼女の顔には赤みがさし、声が上ずってきている。
「うん、ホワイトデーのプレゼント、ってことで、なんだけど。……どうかな?」

 ことの起こりは約一ヶ月前。
 二月一四日。言わずと知れたバレンタインデーであるが、この日、速水は舞からチョコレートをもらったのだ。
 誰に教えてもらったのかは知らないが、おそらくは手作りであろう、少々いびつなハート型をしたチョコレートに、これまた何度もやり直した後が歴然としたラッピングを施されたそれを、舞はまるで戦場に突撃するがごとくの勢いで突っ込んできて速水に手渡した。
 そのときのショックで更にいびつになったという説もあったが、そんなことなど速水にとってはどうでもよかった。
 他に懸絶する技能「天才」を持ちつつも、こと家事になるとからっきしな彼女が、彼のためを思って慣れない腕をふるい、この難題に取り組んだことが分かるからだ。
そのために多大な材料と膨大な時間、そして数限りない失敗と試行錯誤が存在したであろう事は想像に難くない。
 それは手渡すときに見た舞の手――ここしばらくでようやく見ることのなくなっていた、数多くのバンソウコウや火傷の跡――を見るだけでも明らかだった。
 付き合い始めてから一年近くが経ち、お互いの家に泊まりあうような仲だというのに、いまだに人前ではそのような素振りすら見せず、手をつなぐ事すらよしとしない彼女が、一体どれだけの勇気と決意をもってこの行動に及んだのか……。
速水は舞が不器用ながらも示してくれた愛情に、心が何か温かいものに満たされるのを感じた。
 ただし、それが昂じたあまりに思わず抱きしめてしまい、アッパーを食らったのはまったくもって自業自得ではある。
 それはともかく、何とか彼女の努力に応えてあげたいとホワイトデーのお返しを考え始めた速水だったが、そこまで思考を進めてからはた、と考え込んでしまった。
 自慢ではないが、速水は結構家事が得意である。
その中でもお菓子作りはサンドイッチ作りと並んでかなりの腕前を持っており、キャンディだろうがクッキーだろうがホワイトデーで必要とされる菓子ならばさして苦もなく作り上げてしまう。それも市販品にも負けない程度のものを、だ。
 だが、それではおさまらないのは舞である。ただでさえ普段から速水の料理にはいわれのない(こともない)コンプレックスを抱いており、そのようなものを渡せばまた一悶着起こりそうなのは目に見えている。舞にとって家事の克服は最重要課題であると同時に最難関でもあるのだ。
 だからといってわざと手を抜いたり、市販品を渡しても大して結果は変わらない。
付き合っていく上で速水の腕前は嫌というほど熟知している舞は、そんな小細工などすぐに見破ってしまう。第一そんな物は速水のほうが渡す気がしなかった。
 どうせだったら気持ちよくプレゼントを受け取ってもらいたかったので、彼はその点について考えに考えた。そしてたどり着いた結論が「プレゼントはやめて、一緒に遊びに行こう」というものだった。
 あいにく一四日は休日ではないが、その直前(一二日)が日曜であることだし、ちょっと早いけどまあいいか、と目的地のリサーチをするべく舞に話しかけたわけである。

「ホ、ホワイトディ……か」
 舞はそう言ったきり俯いてしまった。額には深いしわが刻まれている。
 もしかして気に入らなかったか? 焦った速水は矢継ぎ早に言葉を繰り出し始めた。
「そ、そう。本当なら何かお返しするものだけど、たまには、こういうのもいいんじゃないかなって、それで……」
「もうよい!」
 どこか行きたいところがあれば……。と続くはずだった台詞は、突然の大声で断ち切られた。
 やっぱり、気に入らなかったのだろうか? それともいささか気を回しすぎたか? 呆然と立ちすくみながら速水はちらりとそんな事を考えた。ついでに、この後訪れるであろう自らの被害レベルをすばやく算出し、脳内電話帳で一番近い救急病院の電話番号を確かめる。
 が、意外なことに舞はいささかばつの悪そうな顔をしてこう言った。
「あ、いや、すまぬ。しかしだな、そのように長々と言葉を継がんでも大体のところは分かった。で、どうすればよいのだ?」
「え?」
 思わず間抜けな声をあげる速水。それには構わず舞は言葉を続ける。
「いや、私の仄聞したところでは、ホワイトディなる日には男性が女性に菓子を手渡すものだと聞いていたものでな、少々驚いたのだ。そのようなやり方があるとは勉強不足であった。許すがよい」
 今回は珍しく正解に近い知識を仕入れていたようだが、それが速水の提案と合わなかったので必死に整合性を取っていたようだ。
「で、わ、私は、どどどのようなことをすればよいのだ?」
 再び声を裏返しながらの質問にふと我に返り、
「あ、うん。もしどこか行きたい所があったら……」
 と言いかけたが、途中で舞が納得の表情で頷いた。
「ふむ、つまり目的地と旅程の選定を行えばよいわけだな?」
「旅、旅程……。う、うん、まあ、そういうことかな」
 どこまで行くつもりなんだろう? 速水はちらりとそんな事を考えたが、顔には出さなかった。
 賢明な判断といえる。
「よかろう! まかせるがよい!」
 なんとも力強い宣言である。なんだかいつもよりもやけに気合が入っていた。
「そなたの心遣いに感謝を。それを無にせぬためにも完璧なる旅程を作成してみせよう! ゆえにしばし待つがよい」
 燃えている。
 はっきり言ってなんだか見当違いの方向に燃えている気もしなくもない。
「そ、そう? 決まったら教えてね?」
 あまりの意気込みように、速水のほうがかえってちょっと腰が引けていたりして。
「無論だ! そうと決まればこうしてはおれん。すまぬが先に帰るぞ!」
「え? ちょっと、舞? あ、行っちゃった……」
 事態の急展開についていけず、呼び止めようとしたときには舞は既に遠く走り去ったあとだった。
「舞ってば、晩御飯一緒に食べようって約束したのに……」
 これはいわゆる「すっぽかし」というやつらしい。
 速水は、ちょっぴり不機嫌なまま工具の片付けを続けた。
 その夜、誰かの遠吠えが聞こえたとか聞こえないとか。

   ***

 家までの帰り道、舞は思いがけないチャンスが転がり込んできた事を素直に喜び、かつ感謝した。
「千載一遇の好機とはこのことだ。今こそかねてからの計画を実行に移すべき時に違いない!」
 戦闘の時だって、これほどまでに「燃えていた」かといささか首を傾げたくなるくらいにテンションが上がりっぱなしになっていた。周囲へのはばかりがなければスキップの一つでもしたかもしれない。
 もちろん、舞にとっては十分な理由があってのことである。その原因は、あえて言うならば速水にあった。
 去年の四月からこっち、二人が付き合い始めてからは、それこそ毎週のように(復興作業に入ってからはそれほどでもなかったが)デートを重ねてきたが、その際の主導権は完璧に速水が握っていた。
 ――あれは不覚だった。この私ともあろうものがわ、我がカダヤとはいえ人の為すがままにされるなど!
 このテの話ではまるっきり自分から誘えないのが大きな原因の一つなのだが、そのことはこの際忘却の彼方に置く事に決めたらしい。
 まあ、それはそれで照れくさくも嬉しいものであったのだが、舞には舞の主張というものもある。
 つまりこうだ。
 二人は恋人同士であり、そうである以上二人は対等であるはずで、なればこそ、たとえデェトといえども、自らの主導において少なくとも一回は行われるべきだ、という三段論法である。脳内的には完璧といえる。
 どんな理論だって頭の中では完璧なのだが。
 そこへ今回降ってわいたようなこの話。自らの野望(と言うにはあまりにもささやかだが)を達成する絶好のチャンスであると思われた。
「見ておれ厚志、私とてもデ、デェトの段取りぐらい出来るのだということを、今こそ知らしめてくれるわ!」
 もはや、完璧に目的がすりかわっているようにみえるのは、気のせいだろうか?

   ***

 翌日。空は薄曇りで、いささかもやもかかっているものの特に崩れるような気配もない。
 やや肌寒さすら残す春の空気の中、田辺は学校へと歩を進めていたが、ふと前を見るとなにやら人影が見えた。
 足取りがどことなく安定を欠いており、酔っ払いかと一瞬不安になったが、近づくにつれて見覚えのある制服とポニーテールが見えた。それになんとなく安心して小走りで近寄っていく。
「おはようございます。芝村……さん? ど、どうしたんですか、その目?」
「芝村に挨拶は……、田辺か。今日は早いな」
 確かにそれは舞であったが、その目は真っ赤に充血し、いかにも憔悴しきった表情を見せていた。 
「いや、大した事ではない。気にするな」
「き、気にするなと言われても……」
 はいそうですか、とはとてもいえない雰囲気があった。
「あの、芝村さん、何か悩み事でもあるんですか? わ、私でできることでしたら相談に乗りますよ?」
 それを聞いて何事か思いついたのか、舞は周囲に素早く目を走らせると、ちょいちょいと手招きをした。
「?」
 訳が分からないままに、それでも素直に田辺が近寄ると、舞は耳元で呟くように言った。
「すまぬが、ちと話がある。ここではまずい、昼休みにハンガー二階に来てくれぬか?」
「え? はい、別に構いませんが……」
 一体なんですか? という口調を語尾ににじませながら訊ねてみるが、それに答えはなく、
「ではまた後でな。失礼する」
 と言うと、そのまま相変わらず危なっかしい足取りで立ち去っていった。
「あ……。話って、何かしら?」
 後ろ姿を不安な様子で眺めながら田辺は呟いたが、答えなど分かるはずもなかった。
 
 ちなみにこの瞬間、速水の「舞と昼食を一緒に食べる」というプランはあっさりと崩壊した。

   ***

 昼休み、ハンガー二階。
 かつてと違い士魂号がないので、妙にがらんとした印象を受けるここは、人もほとんど来ない。
 打ち合わせには最適であると思ったのも納得できる話ではあった。
 一つ誤算があるとすれば……。
「はぁ、つまりデートコースですか?」
 驚いたような声があがった。
 がらんとしている分、小さな声でも良く響くことまでは考慮していなかったらしい。
「しっ! 声が大きいっ!」
 慌ててたしなめる声が聞こえた。
「あ、ご、ごめんなさい。でも……」
 小さな声で詫びが入る。
 舞の言っていた話とはこれであった。
 結局、彼女にしてみれば初めてデートコースを設定するわけで、正直なところ何をどうすればいいのかが全然分からなかった。それに、彼に対して大見得を切った手前、かつてと同じコースというのもできれば避けたい。
 そうなると、昨夜にしたところで頭をいくら悩ませても答えが簡単に出てくるはずがなく、気がついたときにはすっかり夜が明けていたという次第であった。
「ともかく、概要については理解したことと思うが、ここはあえて恥を忍んで、無礼であることも承知の上で頼む。そなたが行ったことのあるデェトコォスを教えてはくれぬか?」
 いささか決まり悪げに、頬を染めながら舞は頼み込んだが、田辺は申し訳なさそうに答えた。
「あの、お教えしたいのは山々ですけど、私も自分で決めたことがなくって、連れてってもらうばっかりで、それに……」
 声がどんどん小さくなる。
「どうした?」
「今まで行ったところって、あ、あまり参考にならないと思います……」
「それでもいい。参考までに教えてくれぬか?」
 意気込んで言う舞に、田辺は少々困った顔になりながらもそっと手招きをした。舞は怪訝な表情のまま、それでも素直に近寄る。
 田辺は耳元に口を寄せると、ぼそぼそと話し始めた。
「……で、……とか、……です」
「ふむ……え? 何だと? う、うむ……」
 最初は神妙な表情だったが、それが驚いた表情から呆れに変わるのにさして時間はかからなかった。
「そ、それは……独創的といえばいえるが……」
 コース自体は速水が計画したものと大差はなく、もう少し違いを見せたい舞としてはあまり参考にならなかった(舞は知るよしもないが、コースの提案をしたのは速水だった。そのときに、「後は自分なりに付け加えてね」と言ったそうな)。
 ――なぜ、布団干しがコォスの中に入っているのだ?
 その辺りがどうしても理解できない舞であった。
 ……まあ、普通理解できまいが。
「ごめんなさい、せっかくですが私は今回お役に立てそうにないです……」
 あまりに申し訳なさそうに謝るので、これは舞としても苦笑を浮かべるしかなかった。
「いや、よい。元を正せば私が決めねばならぬことだ。世話をかけた」
「いえ、お世話だなんて……。本当にごめんなさい」
「もうよいと言っただろう? それよりせっかくだ。一緒に昼食でも食さぬか? 珍しくリーフが手に入ったので、淹れてきてあるのだが……」
「え? いいんですか? ありがとうございます。じゃあ、せっかくですから食べましょうか?」
 ヒントは得られなかったが、こういう時間も悪くはないな。
 舞は、弁当をつまみながらそんな事を考えていた。

 ところで、この時は二人とも、まさかその会話を聞いている者がいようとは予想だにしていなかった。
「ふうん。なるほど、そういうわけ……」
 そんな呟きの後、人影が音もなく消えた。

   ***

 田辺との昼食はなかなか有意義なものであったが、結局今の課題については何ら進展を見せたわけではなかった。
 この「難関」をいかにして突破するか? 今の舞はそれに全力を集中しており、他のものなど目に入っていない。それでも授業に出る辺りは律儀ともいえるが、内容なぞ全く頭には入っていなかった。
 チャイムが鳴り、授業が終わる。
「舞、今日の仕事だけど……舞?」
 何とか話のきっかけでも作ろうと声をかけてみるものの、舞はそれに気がつかぬかのように(実際、気がついていない)とっとと外に出て行ってしまった。
「あ……」
「何だぁ? 速水、お前芝村とケンカでもしたのかよ?」
 呆然と立つ速水に滝川が声をかけたが、どこか面白がっているように聞こえたのが運の尽きである。クラスメートたちはこれから起こるであろう事を正確に推察し、黙ったまま首を振った。
 彼らとて命は惜しい。
「い、いや、別にケンカなんて……」
 予想からすれば意外なほどの抑えた反応だったが、無論滝川は気がつかない。必死になってアイコンタクトを取ろうとした者もいたが、全く無駄であった。
「隠すな隠すなって! いくらお前たちでもケンカの一つもなけりゃ嘘ってもんさ。俺でよかったら相談に乗るぜ!」
「……そう、じゃあ仕事でもしながら聞いてもらおうかな?」
 周囲が凍りついた。全員が首筋を刃でなでられたように縮こまる。滝川がそれに気がつかないのはのは運がいいのか悪いのか……。
「げっ、仕事かよ。まあいいや、行こうぜ……、お、おい、そんなに引っ張るなって」
「まあ、いいから行こう」
 そのまま歩調を緩めることなく速水が出て行った後、残された者は大きな息を吐いた。どっと冷や汗を吹いた者もいる。ののみなど半泣き状態だ。
「やれやれ、久しぶりに見ましたね、ああなると触らぬなんとやら、ですからね……」
 善行が額に冷や汗を浮かべつつ、眼鏡をそっと押し上げた。瀬戸口もののみをなだめつつ同意する。
「相変わらず姫さんがからむと一変しますね。それにしても滝川は学習機能がついてないのか?」
「……滝川だからな」
 ボソリと来須がつぶやいたのに、全員深く同意した。
 ……思えばひどい話である。
 かくして滝川は、日付が変わるまで延々と仕事&速水の八つ当たり的のろけ攻撃を受けつづけることになり、ようやく解放されたときには雑巾のほうがまだまし、というくらいに疲弊しきっていたという。
 もしハンガーに舞がいれば、あるいは運命も変わっていたかもしれないが、彼女はとうとうその日は姿を見せなかった。
 彼女は一体どこに消えたのか――

   ***

 時間は少しさかのぼる。
 何ら妙案も打開策も考えつかなかった舞は、浮かない顔のままハンガーに向かおうとしていたが、誰かが自分を呼ぶ声にふと足を止めた。周囲を見回すと、校舎の影から伸びた手がおいでおいでをしている。
何かの罠かと疑いつつ近づいていくと、そこには原が立っていた。
 ある意味罠だったかもしれない。
「何の用だ? 私は忙しい……」
 原はしゃべりかけた口を人差し指でそっと押さえた。瞬時に顔を赤くして固くなる舞に話し掛ける。
「ここでは人目があるわ。ちょっとこっちに来てもらえる? あなたにとって損はない話よ」
 どことなく面白がっている目に少し嫌な予感は感じたが、そう言われてはあえて逆らう理由もない。舞はしぶしぶではあったがおとなしく原の後についていった。
 原にすればしめしめというところか。

 女子高校舎の倉庫に入り込んだ原は、唐突に切り出した。
「芝村さん、今度のデート、なにやらお困りのようね?」
「なっ! そ、そなた、なぜそれを!」
 自らが敵と規定したものを葬り去るときにはおそらく眉一つ動かさないであろう舞も、根が素直なせいか、普段は(というよりこと恋愛沙汰に関しては)つくづく腹芸が出来ないところがある。
 原は、うっかり白状させられた事に気がついていない舞へ、
「あら、ハンガーは私の庭も同然よ? それに、あんなところで話しているのが聞こえないとでも思ったの?」
と笑いかけた。
「な、何が目的だ?」
「ああ、そんなに身構えないでいいわ。はいこれ」
 ――まるで猫ねえ。
 毛でも逆立てるんじゃないかというくらいに警戒している舞に、原は何冊かの本を差し出した。
「……?」
 舞は訝しげに本を受け取ると、そのうちの一冊のページを開いてみた。
「これは……?」
 そこには熊本県下の観光スポットがいくつか記されていた。
「あ、それは観光案内ね。戦争前のものだからあまり参考にならないかもしれないけど。それが熊本県の地図と交通案内」
「原……そなた……」
 原は少々照れ臭そうに笑った。
「なぁんてね。あまり私が真面目ってのもヘンよね。まあ、とりあえず持ってって。足しにはなるでしょ?」
「……すまぬ、原よ。そなたを少々誤解していたようだ」
 俯き気味に謝罪する舞に、原はいいよとでもいうように、ひらひらと手を振った。
「あなたを見てると、ホント危なっかしいんだから……。で、あとはこれはおまけね」
 原は更に一冊、さきほどのよりは少し厚い本を手渡した。
「これは?」
「これさえあれば、あなたもちゃあんとデートのお膳立てができるわよ?」
 そう言って渡された本の表紙には、『ステディ攻略法 〜これであなたも彼女をゲット!〜』の文字が踊っていた。
 これは、男性用ではないかという気もしなくもない。しかも超初心者(?)向け……。
 周囲が二人の(というより舞の)進展度合いをどう見ているか、よいバロメーターだと言えるだろう。
「あいにく女性用ってなかったのよ。まあ、そのあたりは適当に読み替えてね」
「そ、そうか……。しかし、わ、わわ私にはその、カダヤは……すでに……」
「まあ、たまには初心に帰るのもいいんじゃない?」
 そう言ってまた笑った原の表情は、実に素直なものだった。思わず舞もつられてぎこちない笑みを返す。何とも言いようのない感謝の念が沸き起こった。
「感謝するぞ、原!」
 だが、この時舞は大事なことを一つ忘れていた。原がただ親切だけでそんなことをするわけがないということを。
 そして彼女が所属している組織のことを。
 ゆえに、彼女の笑みの裏にあるものまでは看破できなかった。
 それに……。
 ――私を差し置いて恋愛事をはかろうなんて百年早いわよ、芝村さん?
 彼女があの組織に所属していることが、今なら深く理解できるであろう。

「む、そういえば……。世話になりついでですまぬが、原よ、そなたが勧めるコォスなどあれば教えてくれぬか?」
「私? そうねえ……」
 まさかそこまで素直に聞かれるとは思っていなかったのか、原は少し目を丸くしながら考えた。と、そこで先のとがった黒い尻尾がひょいっと顔を出す。
「私なら、こうかしら……」
 表情だけは真面目なまま、耳元で囁くように言った。
「色々凝るのもいいけれど、あなた達も付き合い始めてもうすぐ一年でしょう? その間に行った思い出の場所を訊ねてみたらどう? で、一日の最後に一緒に食事でもしながらいろいろと語り合ってみるのなんてどうかしら?」
「な、なるほど……」
 舞は脳内のメモ帳に必死に今の言葉を書きつけた。それが多くの場合はかつて速水の提案したコースをなぞるであろう、という事については全く考えが及んでいない様子だ。
「で、あとはね……」
 うっすらと笑いを浮かべながら、再び顔を近づける。
「何、続きがあるのか? ふむ……、え? ……!!」
 なにやら原がこしょこしょとささやいていくと、舞は耳先までじゅわ〜っという勢いでみるみる真っ赤になり――
 大きな音と共に、その場にぶっ倒れた。
「あらら、芝村さん、大丈夫?」
 原に抱きかかえられるように起こされた舞の頭の上には、士魂号が乱舞していた。
 原さん、あなた何を言ったんですか?

 それからしばらくして、、怪しげな足取りで立ち去っていくのを見送った原は、背後に向けて呟いた。
「若宮君」
「はっ、素子さん、ここに」
 前を向いたまま、呟くように命じる。
「後は任せたわよ。分かってるわね?」
「任せてください、素子さんのためならたとえ火の中水の中……」
「……それはいいから、早く行きなさい」
 わずかな気配の変化があって、この巨漢がどうやって、というぐらいに静かな足取りで舞を尾行していく。
 スカウトの原義は「偵察兵」であるという事を思い出させる良い証拠である。
 原はそれを見て、満足そうに微笑んだ。

   ***

 ともあれ、原からの援助(?)を受けた舞は、その日からより一層精力的にデートコースの選定に励むことになる。
 ただ、この辺りから自らの限界も同時に悟り始めたものか、むやみやたらとオリジナリティのみを追求する姿勢は影をひそめつつあった。要は主導権を握れればいいのであり、速水と一緒に行った事があるかどうかは二義的な問題とされた。
 これは原の影響か、それとも単に考えるのに疲れたか……。
 どちらかとはにわかに定めがたい問題であった。
「ふむ、そうやって考えてみると結構選択肢というのはあるものだな……しかし……」
 そう言いながら舞はスプーンをシチューのレトルトパックに突っ込むと、少しかき回してから口に運んだ。
 軍用レーションは温めなくても食べられるとはいえ、冷たいままのシチューはさすがに味気ないが、今の舞は調理する間も食べに行く時間も惜しかった。
 空になったパックはそのままごみ箱に向けて放り投げる。少し狙いが甘かったのか、縁に弾かれて落ちてしまった。
 ……速水あたりが見たらなんと言うであろうか?
「ともかく、さして遠くへいけるわけではないしな……」
 ポテトベーコンのパックを開けながら呟く。
 まず、リストから最初に外されたのは、熊本市から見て遠距離にある観光スポットだった。
 理由は簡単。戦争の影響で交通機関が役に立たないからだ。公共交通機関の大半は軍の管轄下だったりダイヤがめちゃくちゃだったりとろくな事がない。いつか県南部の自然公園へと行った事があるが、あれなどはどちらかというと奇跡の範疇に近い。
 長いリストのあちこちに遠慮なく×がつけられる。
「そして、これらも除外だ」
 次にリストから外されたのはいわゆるアミューズメントやテーマパークである。これは営業していないところも多く、仮にやっていたとしても舞自身がよく分からない。それでは主導権など握れるはずもなかった。
 缶入りのクラッカーを片手に、またもや×の行列。
 条件を課していくたびに候補は次々と消えていき、結局残ったのは熊本市周辺だけというありさまだった。
 いささか不満はあったものの、絶対的条件はいかんともしがたい。舞はミネラルウォーターで口を湿らせながら、さらに条件の絞込みを開始した。
 ……ところで、軍用レーションは戦場での栄養確保のため、大変高カロリーであるということは知ってますか?

   ***

 舞が「作戦立案」に夢中になっている一方で、最も哀れをとどめたのは速水かもしれない。彼はここ数日、まったくといっていいほど舞としゃべっていなかった。
 あれ以来手作り弁当もぷっつりと途絶え、まるで速水など存在しないかのような態度を取られることにはさしもの彼もほとほと参った。何しろ自分で言い出したことだから、舞に文句をつけるわけにもいかないのだ。
 今日もまた、授業が終わると同時に風のように立ち去る舞をただ呆然と見送るだけであった。すでに追いかける気力も残っていないらしい。
「舞ぃ〜」
 寂しげな遠吠えが、プレハブ校舎にこだまする。
「うう、あんな事言うんじゃなかったかなあ……。舞ぃ〜」
 すでに完全なほったらかしモードである。なんだか女房に捨てられたダメ親父のような、うらぶれた雰囲気すらかもし出しているのがいっそう哀れを誘う。
 まるで幽鬼のようにふらつく彼に周囲も声をかけるにかけられず、寄せられるのは同情と憐憫、それに興味の入り混じった生暖かい視線だけだった。それも速水が顔を向けるとたちまちに消え去ってしまう。
 誰もが、滝川の二の舞はごめんだと思っていた。
 人ののろけ話ほど、聞いてて腹の立つものはないのである。

   ***

 日は流れて三月一一日(土)午前三時二五分。
「こ、これでよし……」
 心身ともに疲労しきった声で舞が呟いた。だが瞳には光が宿っている。
 ついに計画が完成したのだ。
 とはいっても、ベースは原が(主に前半に)言ったのとさして変わりないし、改めて見返してみるとやけに分量が少ないような気もする。舞は数秒間じっとそれを見つめていたが、
「……まあよい。ともかく主導権は我が手にあるのだ」
 と、なぜかやや自信なさそうに呟いた。
 それでも高揚した気分を害するほどでもなかったが、ふと後ろを振り返った瞬間、そんな気分は消し飛んでしまった。
 山積みになったレーションパックのカラ、しっかりとたまっている洗濯物、そこらへんでごみくずと化している廃棄されたリストの数々、打ち出しっぱなしのプリントアウト……。
 近来まれに見る散らかりっぷりである。
 彼女の計画では「速水を自宅に呼びつける(必須)」というところから始まっていたのだが、さっそくその第一歩からつまづきそうな危険性満載といった感じである。
「ま、まずい……」
 計画表を机の上に放り出し、慌てて周囲の片付けを始める舞だったが、もちろん、その程度で朝までに片付くわけはなかった。

   ***

 その日の昼休み。速水は一人ぼんやりとプレハブ校舎の屋上で、自作のサンドイッチの昼食をとっていた。
 だがそれは、今の速水の心情を反映しているかのごとく、ハムとレタスが実にいいかげんに挟み込まれただけの乱暴なシロモノで、かつて萌が語った「熟練の主婦の技」など薬にしたくても見当たらないような体たらくであった。
 半ば機械的にサンドイッチを詰め込み紅茶で飲み下す。
いまや完璧な抜け殻といった感じで周囲の情報など全く頭に入っていかなかった。
「厚志」
 だからその声が耳に流れ込んできたときにも、速水はとっさに対応する事ができなかった。
「こら厚志、どこを見ている。こっちを向かんか!」
 かすかに苛立ちが混じった声にようやくのろのろと振り返ると、そこには妙によれよれの舞が立っていた。
 速水はなおもぼんやりとその姿を見つめていたが、徐々に目の焦点が合ってくると同時に、その目を大きく見開いた。
「舞……?」
「そうだ、何を馬鹿面をして……ひゃっ!?」
「舞ぃっ!!」
 何が起きたと思う間もなく、舞はしっかりと速水に抱きしめられていた。
「ああ、ようやく話せた! 舞っ!!」
「こ、こらっ! 人前でこういう事をするなといつも……、や、やめんかあっ!!」
 速水が宙に舞ったのは、それから三秒後のことである。

「どうだ、落ち着いたか?」
「……これ以上ないくらいにしっかりと、ね」
 首の具合を確かめながら、速水が笑顔で答えた。ようやく口を聞いてもらえた事がよほど嬉しかったらしい。
 舞はその様子を見ながら、かつてない緊張に身を固くしながら厳かに告げた。
「そうか、では連絡だ。あ、明日のデェトコォスを発表するから、こ、こ、今夜八時に我が家に来い、い、いいか?」
 ……訂正する。厳かなんてものではなかった。
「うん、分かった……。じゃあ、明日はそのまま出かけるんだね? そのつもりで準備しておけばいいんでしょ?」
「そ、その通りだ」
 まだいくらかどもっているが、どうやら今度は少々理由が違うらしい、なんとなくそわそわと落ち着きがなくなっている。
「でも、どうして八時……?」
「いいからっ! ともかくそなたはその時間にくれば良いのだっ! 一分一秒たりとも早く来てはならんぞ、いいな!?」
 魔王も身をすくませそうな舞の剣幕に、速水はただこくこくと頷くしかなかった。
「分かればよい。私は準備があるから先に帰る。ではな!」
 そう言うや、舞はきびすを返すとあっという間に駆け去っていった。
「あ……、行っちゃった……。でも『遅れるな』っていうのならともかく、『早く来るな』って一体? それに準備って?」
 考えたところで分かるはずもなかった。

   ***

 その日の夜八時、約束通りやってきた速水は、玄関先で呆然と立ち尽くしていたが、やがて納得したように諦観を交えながらボソリといった。
「……なるほどね、こういうことだったの」
「あ、厚志! これは、あの、その……」
「見てるだけで、大体分かったよ……」
 速水の眼前には、混沌があった。
 舞とても時間を区切ったのは、過去の経験からそれなりの勝算があってのことだった。実際あらゆるガラクタを押入れに放り込むところまでは二時間前に完了していたのだ。
 ところが、やはり慌てたものか、ガラクタと一緒に完成した計画表まで放り込んでしまったのに気がついたのはふすまを閉じた後で――
 やむなく再び店を広げ、どうにか計画書が見つかったのは速水がくる五分前。
 そして、計画書は再びプリントアウトすればよかったのだと気がついたのは、さらにその後だった。
 結局苦笑と共に速水が介入することになったのだが、どうにか部屋が見られる状態になったのは日付が変わってから大分たってからだった。

「その、すまぬ……」
「まあ、舞が頑張ってるのは知ってたし……。それよりコースを教えてもらえるかな?」
 すまなそうに謝る舞の前に、速水は苦笑しながらおにぎりを差し出した(夕食もまだだった)。
 とにかくも普通に接する事ができるようになった安堵感からか、余裕すら見せて速水が尋ねると、舞は少し顔を赤くしながら一枚の紙を差し出した。
「こ、これが計画書だ。読むがよい」
「どれどれ……? え? こ、これは……」
 速水はしばし絶句した。かいつまんでいうとそこにはこう書かれていたのだ。
 
 水前寺公園 → 藤崎八幡宮 → 熊本城植物園 → 夕食
 
 水前寺公園は日本庭園が有名であり、藤崎八幡宮は二人が初詣でに訪れたところ。そして熊本城植物園もたしか博物館の帰りに寄った事があった。つまり、一応舞自身の機軸も取り入れつつ、かつて訪れた場所も盛り込むというコンセプトは見事達成できたことになるのだが……。
 なんと言うか、高校生がデートスポットとして選ぶにしては、随分と自然散策に溢れ過ぎ、妙に枯れた雰囲気が漂っているような気がしないでもなかった。
「これで、決定なんだね?」
「そうだ……何か不満でもあるのか?」
 言葉とは裏腹にやや不安げな響きが混じっている。
「とんでもない! 了解。楽しみだね」
 例えどんなコースでも舞自身が一生懸命に考え、そして決めたのならば速水としては文句をつけるはずもなかった。
「そ、そうか……」
 心から安堵したような口調で舞が答える。ようやく笑顔が戻ってきた。
 そう、ここで速水が不用意な一言さえ言わなければ。
「明日、天気がいいといいね」
 ぴたりと舞の動きが止まる。音がしそうな勢いで速水の方を振り向いた。
「なんだと?」
「いや、だから明日天気が……」
 天気、天気だと!?
 そこまでいわれて、舞は初めてこのコースが完全に屋外向けであり、平たく言えば雨天の場合を何も考えていなかったことに気がついたのだ。
 慌てて天気予報を確認すると、降水確率は三〇%。夕方はともかく、午前中が少しぐずつき気味になるかもしれないとのことだった。
 ――し、しまった!
 本当の事を言えば少々崩れたぐらいならどうにでもなるのだが、自らのうかつさにショックを受けていた舞はそこまで考える余裕などありはしなかった。
「厚志、これからコースの追加検討を行なうぞ!」
「え? 追加って、何の?」
「決まっているであろう! 雨天の場合の行動計画だ! ああ、何ということだ。我が計画にそんな手抜かりがあったとはうかつであった、許せ厚志」
「え、雨天のっていったって、多分、大丈夫だよ」
 速水がいささか自信なさげに言った台詞に舞は噛みついた。
「何を根拠にそう言いきれる!? ならば我が前にその根拠を示すが良い!」
「いや、根拠ったって……。それに、もう三時を回った……」
 全てを立ちきる鋼のような声が響く。
「やかましいっ! 完璧な計画なくして勝利が掴めるか!」
「……勝利ってなにさ?」
 速水の呟きに、もちろん答えは返ってこなかった。
 結局、どうにか新たな「行動計画」が確定したのは、もう夜も明けようという頃であった。
 余談ながら、朝の光の中、一人の巨漢がよろめくように舞のアパートを後にするのを見た者は誰もいなかった。

   ***

 静まり返った部屋の中に柔らかな光が差し込んできている。
その中で二人はピクリとも動かずに寝入っていた。さすがに朝方までの騒ぎは気力体力を消耗させたらしい。
 やがて、その光に誘われるように速水の眉がかすかに動き、寝返りを打ったかと思うとゆっくりと目を開いた。まだ半寝ぼけ状態のまま、ニ、三度瞬きをする。
 静まり返った室内は、柔らかな紅い光に包まれていた。
 ――紅い……?
 少しの間、それの意味するところが分からずにぼうっとしていた速水だったが、全てが理解できたとたんに飛び起き、舞を揺り起こした。
「舞、舞ってば、起きてよ!」
 なんともあどけない寝顔で寝ている彼女をたたき起こすのは気が引けたが、それでも事実は告げねばならぬ。
「んー……、うにゅ。何だ厚志、どうしたのだ?」
 実は結構寝起きの悪い舞が、実際よりかなり幼く見える反応を返した。速水はそれに一瞬だけ気を取られたが、
「大変だよ! もう夕方になっちゃってる!」と言った。
 彼女もまた、脳に情報が到達する数瞬の間を経て、
「なんだとっ!?」
 と飛び起きた。
「そんな馬鹿な! ちゃんと目覚ましをかけた……」
「舞、これスイッチが入ってないよ!」
 そう、昨日半ば寝ぼけ状態でセットされた目覚ましは、スイッチを押し忘れていたのだ。
「ま、まさか……。厚志、これは朝焼けではないのか? そ、そうだ、そうに決まっている!」
「……あっちは西なんだけど」
 光のさし込んでくる方向を指しながら、速水がとどめの一言を告げた。
「そんな……」
 舞は目の前で完璧な(と本人の信じる)計画が音を立てて崩壊するのを実感した。思わずその場にへたり込んでしまう。
「舞……」
「やっと、やっとデェトで主導権が取れると思ったらこのザマか……、情けない」
 傍から見ても気の毒なほどしゅんとしてしまった舞に、速水は優しく語りかけた。
「舞、僕は君の立ててくれたコースでデートしてみたいな……。今日はちょっと無理そうだけど、次の時は一緒に行こう、ね?」
「厚志……」
「だからさ、そんな悲しそうな顔をしないで! ねっ!」
 務めて明るくふるまうその姿に、舞もようやくぎこちない笑みを返す事ができた。
「う、うむ、よかろう。任せるがよい」
 ようやく元気の出てきた舞に軽く微笑むと、速水は彼女をそっと抱きしめて軽く髪をなで始めた。
 悔しさはいまだ残っていたものの、舞はそれでもその優しい愛撫から逃れるような事はしなかった……。

 結局、どこへも出かける事がかなわなかった二人は、予め舞が用意していた食材を使って二人仲良くで夕食を作り始めた。舞が少々奮発していたおかげで、夕陽が落ちきる頃には肉をメインとした洋風のコースらしきものが出現していた。
「さあできた! 舞、スープ皿を取ってくれる?」
 エプロンを外しかけてた舞が慌ててスープ皿を手渡すと、ポタージュが注がれる。ふうわりといい香りが広がった。
 準備が整ったところでそれぞれ席につき、いつもの言葉。
『いただきます』
 スープを口に運びながら、計画は崩壊してしまったが、最後に一緒に食事というのだけは達成できたからまあいいか、と思う舞であった。

(本当はコミックに続きますが、これにてご免をこうむります)



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