前のページ | 次のページ
[目次へ戻る]

交渉(その2)


 同日 〇一一五時
   阿蘇特別戦区

 速水たちが合流点に急ぐと、そこはかなり開けた平地になっていた。周囲には夜目にもはっきり分かるほど青々と草が生い茂っており、まるでちょっとした絨毯のようだった。
 いま、その絨毯は時ならぬ強風に翻弄されている。
 準竜師を乗せた大型ヘリが、サーチライトを照射しながら慎重に降下、草原にゆっくりと着陸したのだ。強風にあおられながらも準竜師は表情ひとつ変えずに降り立った。
 ヘリからやや離れたところで、速水は士翼号を停止させた。ハッチを空け、そっと地面に飛び降りる。
「どうやら終わったようだな」
 準竜師は士翼号のほうを眺めながら、ゆったりと言った。それから視線を少女の方に向ける。
「お前も、ご苦労だった。よくぞ任務を完遂したな」
「準竜師とあの方のおかげです。援護がなければ、多分私は死んでいました」
「ならば、あとで礼でも言っておけ。で、どうだ」
 少女は少しだけ姿勢を正すと、はっきりとした声で言った。
「九州の撤退が条件だそうです」
 準竜師は小さく頷いた。現在の戦況を考えるならば、寛大と言ってもいい条件だったかもしれない。だが、九州の陥落は明日の本州、いや日本の姿である。大多数のものはそう見るはずであった。とてもまともに飲めたものではない。
 ――兵を無駄に死なすのは、好みではないのだがな。
 だが、いかに芝村一族といえど、少なくとも彼は大戦略を決断できる立場にはなかった。
 ――なれば、やはり……。
「まあ、そんなところだろうな。あとで報告書をまとめて提出しろ。……速水」
「はっ」
「お前もご苦労だった。……士翼号もよく整備しておいてやれ。これからの任務にも期待する。以上だ」
 それだけ言うと、準竜師はヘリへと戻っていく。途中で少女に小さく頷いて見せた。
 準竜師が完全に乗り込んでしまうと、少女は小走りに速水のほうへと走り寄ってきた。傍らには猫――どうみてもブータが付き添っている。
 少女は速水の前に立つと、小さく一礼した。やはりどこかで見覚えがあるが、記憶の底では何かが引っかかっている。
「……ありがとうございます。おかげで助かりました」
「ああ、遅くなり、申し訳ありませんでした」
「助かったことに変わりはありませんよ、速水さん」
「……失礼ですけど、どこかでお会いしましたっけ?」
「いいえ、これが初めてですよ。私とは、でも……」
「?」
「……あなたは、私の妹を知っています。大事にしてあげてください。クローンでも、人ですから」
「妹? ……あっ」
 ピースが当てはまった。どこかで見たことがあると思ったら、ののみに似ていたのだ。
「すると、あなたは……」
「形式で言えば、ののみの姉にあたります、恵と申します。よろしく」
「恵さん、ですか、こ、こちらこそ」
「それと、士翼号さんも。……舞さん、と仰るんですか?」
 速水は心臓が口から飛び出るかと思うほどに驚いたが、考えてみればののみの姉となれば、同じような同調技能を持っていても不思議ではない。
 ――自分は今、どんな顔をしているだろうか?
 そんなことを考えながら、速水は恵に視線を向けた。恵の顔がかすかに曇る。
「お気を悪くされたのでしたらすみません。でも、あの戦車からも何か――誰か、ですね――が感じられたので、ついあなたの心を……」
「……」
「どのような事情があるかは分かりませんが、私はあなたが困るようなことだけはしたくありません。……信じてくれますか?」
 速水は、恵の瞳を見た。速水を見つめる瞳にはののみと同様一点の曇りもない。なんとはなしに、速水は信じてもいいのではないか、そんな気がしていた。
 世の中にあるのは欺瞞と裏切りと絶望ばかりではない。
「信じます……。あなたの言葉と、その瞳を」
「ありがとう、速水さん」
 傍らで猫が小さく鳴いた。
「ああ、もちろん先生も。お疲れ様でした」
「その猫は……?」
「あなたはよくご存知のはずですよ」
「ニャウン?」
 猫――ブータは不思議そうに小首をかしげていた。自分のことが分からないのかと言いたげだ。
「先生ってのは……なんです?」
「世の理(ことわり)を知る方ですから」
 速水は、もう一度まじまじとブータを見つめた。
 ――先生、ねえ……。
 普段校舎の隅で昼寝ばかりしている姿からは、ちょっと想像しがたいことでもあったが、まあ、そういうこともあるのだろう。速水はそれ以上深く考えるのをやめた。
 と、恵がクスリと小さく笑った。
「?」
「いえ、何だか想像した通りの人だなあ、って。あなたみたいな人は好きですよ。深く考えなくても、誰かのために行動出来る人は。……ワイルド、でしたっけ?」
「は、はあ、どうも」
 ――そ、それってそういう意味だったっけ?
 速水が怪訝そうな顔をするのも構わず、恵はなおもくすくすと笑っていたが、やがて表情を改めると、小さく一礼した。
「今日は本当にありがとうございました。お礼はいずれ……。では、失礼いたします」
 それだけ言うと、恵はくるりときびすを返し、ヘリへと乗り込んでいった。そして足元には……。
「で、君は一体どうするの?」
「ブニャン」
 ブータは足元でちんまり――というにはいささか質量があるが――座り込み、速水を見上げていた。
 何となく理解すると、速水は士翼号へときびすを返した。ブータはその後ろからさも当然といった感じでついてくる。
コックピットに入ったとき、ちょっとした騒ぎが起こった。
『ブ、ブータ!? そ、そなたがなぜそこにいる? というか厚志、なぜ連れてきた!』
「なぜ、って言われてもねえ……。向こうに乗らないみたいだし、置いてきぼりはかわいそうでしょ?」
『う、ま、まあ、確かにそうだが……』
「じゃ、決まり。君は適当なところにいてくれる?」
「ニャ」
 ――くっ、い、今ここに手があったら!
 少々ネジのはまり具合が緩んだような思考が一瞬あった後、ふ、と舞の声が冷静になった。
『そういえば、厚志よ』
「何?」
『そなた、先ほどの少女と何を話していた?』
「い、いや別に……!?」
 ――好きですよ。
 先ほどの言葉が蘇る。
『脈拍、血圧共に急上昇、汗もかいておるな……。厚志、一体何があった! 正直に言えば許してやる』
「許すって、い、いやその、別に……」
『さっさと白状せぬか! 何を隠して……!』
『速水、何をしている? 回収地点まで移動せよ』
「あ、は、はい、失礼いたしました! 速水千翼長、回収地点に移動いたします! ……ね、ほら舞、移動しなきゃいけないから早く行こう?」
『そ、そなたは全く相変わらず……。ええい、士翼号、移動開始する! 厚志、後で覚えておれよ!』
 ――まいったなあ、一体なんて説明したらいいの?
 なんというか、舞のあまりにも変わらなさ過ぎなところが、なんともいとおしいやら困ったやらの速水であった。
 さて、その間ブータは、というと、シート隅のツールボックスのそばに、ちゃっかり自分の居場所を確保して、早々に居眠りを開始していた。
 夫婦喧嘩を食わないのは、犬だけではないのである。

 こうして、人類と幻獣の交渉、そして交渉者の保護を目的とした降下作戦は、誰の目に触れることもなく終了した。
 交渉は相互の条件を確認するに止まり、実質的には決裂といっても良かった。もっとも、人類側もまともに講和を行う気があったのかどうかはいささか疑わしいが。
 ともかく、交渉者たる二人――いや、一人と一匹か――を救出する事に成功した速水たちは、回収地点まで前進、待機していた輸送用ヘリに吊り下げられ、その場を後にした。
休日

 一九九九年五月二日(日) 〇三五〇時
   五一二一小隊ハンガー前

 数台のトレーラーが、エンジン音を絞りながら敷地に侵入すると、ハンガー脇にぴたりと停車した。
人の気配はない。指示は徹底しているようだ。
 周囲で手早く士魂号が固定されていく中、トレーラーから立ち上がった士翼号は、一緒についてきた準竜師差し回しの整備士に誘導されて、その身を整備台へ収めた。
「結構長かったね。舞、お疲れさま」
『私は問題ない。そなたこそ疲労がかなりたまっているはずだ。早めに休むがよい』
「やれやれ、メディカルデータをチェックされちゃね……。とりあえず、報告を済ませたら少し寝るよ。舞も休んでて」
『うむ、ではな』
 同時に周囲の計器が次々に光を失っていく。それを確認した速水はコックピットからはいずるようにして表に出た。
 確かに、通常とは異なる降下機動と、それに続く戦闘は、速水の体力をかなり削ぎ取っていたらしい。彼は少しふらつく足を踏み締めながら、報告のために下へと降りていった。
 舞はすべての機能を停止する前に、その姿をカメラアイに捕らえつつ、「眠り」に落ちていった。
精神体であるとはいえ、全く疲労しないわけではないのだ。
 ちらりと後ろを振り返った速水は、士翼号のカメラアイが光を失うのを確認すると、足早にデッキを降りていく。
「報告します、士翼号他四機、全機固縛完了いたしました」
「ご苦労、今日一日はゆっくり休むがよかろう。……士翼号もせいぜいいたわってやることだ」
「はっ。……ひとつ、よろしいですか?」
「なんだ?」
 怪訝そうな準竜師に、速水は一語一語確認するように言葉をつむいだ。
「僕たちに、何を、お望みですか?」
 準竜師は一瞬驚いたような表情を浮かべ――次ににやりと笑った。
「別に、そなたらが為すべきことを為すがよかろう」
 複数形を強調しつつ、それだけ言うと、準竜師はゆったりと立ち去った。
 ――返答がもらえただけ、良しとするべきかな。
 速水はうっすらと笑うと――そのまま大あくびをした。
「こりゃいけない、早いとこ寝ようっと……」
 なんだか地球が傾いているような感じを抱きつつ、速水は着替えを急ぎ、早々に退散した。
 そのせいか、彼方からいくつかの視線が自分を見つめていることには気がつかなかった。

 舞は、どことも知れぬ闇の中をたゆたっていた。彼女自身はあまりこれが好きではないが、体がないとはいえ休養は必要な以上仕方がなかった。
 音も、光もない世界、かつて、再び運命の歯車を回すことになったあの時のような――。
 ――いや、違う。
 闇の彼方から、誰かが自分を呼んでいるような気がして、舞は意識を集中させた。
 ――舞さん、芝村舞さん?
『誰だ?』
 士翼号の機能が大半停止している今は、ちょうど居眠りしている人間が夢の中で声を出しているようなものだが、それでも相手に伝わったようだ。
 ――私です。わかりますか?
『外交官か。確か恵と言ったな。ののみの姉だそうだが、何か用か?』
 舞は知らず、構えた雰囲気を取っていた。大雑把なところは速水が説明していたが、どうしてもそういう態度になってしまう。
 それを察したのかどうか、恵は変わらぬ口調でこう言った。
 ――はい、あなたにお話があって参りました。……単刀直入に申し上げます。舞さん、あなたは速水さんが好きですね?
『……な、なぬがっ!?』
 いきなりやってきたかと思えば、あまりに唐突な話の展開に、舞は身体があれば跳びはねそうな程驚いた。
『な、なな、なぜそにゃ、いやそなたがそんなことを!?』
 ――失礼かと思いましたが、心を読ませていただきました。それで、お二人が深く愛し合っていることを知りました。
『……』
 舞は、答えぬ。
 ――先ほど速水さんにも言いましたが、私たちのようなクローンは、速水さんのような方が好きなのです。でも安心してください。私のは憧れのようなもの、あなたのように愛しているのとは、多分違う、と思います。
『な、あ、愛……し、しかし、私、私は、死……』
 ――お互いの心がかくも通じ合っているというのに、いまさら言い訳することもないでしょう?
 恵の声はどことなくおかしげだった。舞はいささか面白からぬ思いを抱きつつ「答え」た。
『それで? そなたは何の用で来たのだ?』
 ――まずは謝罪を。そして、ちょっとしたプレゼントを。
『プレゼントだと? 何だ、それは』
 ――ええ、、ちょっとしたお手伝いと言ってもいいでしょう。本当は私の褒美だと言われたのですが、あなたの方がふさわしいでしょう。あまり長い間は無理かもしれませんが……。
『手伝い……? だから、一体なんだと聞いているのだ!』
 ――すぐに、分かります。
『え?』
 ――それでは。ああ、もう一つ言いますと、私はあなたも好きですよ。あなたも、誰かのために戦うことのできる人だから。それでは……。
『あ、こら、待て……!?』
 見る見る遠ざかる気配を何とかたどろうとした次の瞬間、突如舞の意識は渦にでもほうり込まれたかのようにぐるぐると回り始めた。
――なっ、これ、は? ……うわあっ!
 対処する暇もあらばこそ、渦はますます激しくなり、あっと言う間に舞の意識を飲み込んでしまった。
 どこかへ連れ去られるような、引っ張られるような感覚に、最後の思考が形作られる前に、舞の意識は暗転した。

 同日 〇七〇〇時
   市内某所

 夜が明けた。
 昨夜、人類の行方を左右しかねないほどの重大事があったとは思えぬ、のどかな朝であった。窓から柔らかな光が差し込んで来ている。今日も、いい天気になりそうだった。
 部屋の中は、どことなく幼げな印象がただよっていたが、全体としてはきちんと片付けられており、清潔な印象を与えていた。その部屋の中、窓とは反対側にベッドが置かれ、ベッドの中では一人の少女が静かな寝息を立てていた。
 静かなひととき。
 やがて、時計が七時半を指そうというころ、ようやく陽光がベッドに届き始めた。
「ん……」
 眩しさにかすかに眉をしかめ、身じろぎしつつ反対側を向いてしまったが、やがてまたゆっくりと戻ってくる。幼さの残るその顔は全く安らかであり、栗色の髪がほんの少し眉にかかっていた。罪のない、というのはこういうものを言うのであろうか。
「ふ……にゅ……」
 二言、三言口の中で小さくつぶやくと、再び仰向けになった少女は、しばしまどろんだ後にうっすらと目を見開いた。
 まだ寝ぼけ気味なのか、しばしそのまま天井の模様を眺めていたが、またそのまま夢の世界に戻りかけ――
 突如、大きく目を見開いた!
「なぬっ!?」
 それが、第一声であった。
 少女は何とか身を起こそうと身をもがかせるが、手足はまるで夢の中でもあるかのように頼りなく、力が全く入らない。それでもどうにかこうにか身を起こすと、彼女は自分の手をまじまじと、今初めて見るものでもあるかのように見つめると、やや震わせながら自分の顔を触り、髪の毛を引き寄せた。
全く見覚えがない、いや、あるにはあるのだが、ここで見るはずのないものだった。いや。それを言えば手も足も。
 肉体の、感触も――。
「い、一体何が起こったのだ!」
 驚愕に満ちたその叫び声は、幼子特有のかん高さに満ち満ちていた。

 同日 〇八三〇時
  尚敬高校前

 朝もやも晴れ、すっかりいつもの活動を取り戻した――中にはそのまま取り戻せなかったところもあるが――町中を、速水は足早に通り過ぎていった。大した時間ではないが、休養を取れたおかげで精神のほうはすっかり回復している。
やがて校門へとたどり着くと、門に寄りかかるようにしていた人影が手を上げた。
「よう、坊や、今日は早いじゃないか?」
「あ、瀬戸口君おはよう。今日は待ち合わせ?」
「ああ、ののみとな。お前さんこそどうした?」
「ん、ちょっと士翼号の様子を見に……」
「なんだ? せっかくの休みだってのに熱心なことだな……。適当に息抜きしないとばてちまうぞ?」
 あいまいな笑みを残しつつ立ち去る速水を見送りつつ、瀬戸口は複雑な表情を浮かべた。
「……まだ、忘れられないんだろうな」
 瀬戸口自身、身に覚えがないわけではない。それに無粋な言葉をかけるほど、彼も愚かではなかった。
「ま、人それぞれさ……。おっ、おーい、ののみ!」
 ふと視線を戻せば、校門へとやってくる幼い人影を見つけ、瀬戸口はスイッチが切り替わったように声を張り上げた。
だが、近づくにつれてののみの様子がただ事でないのに気がつき、眉をしかめる。
 デートなのに衣服はいつもの制服なのはまあいいとして、髪の毛とリボンが一体何がどうなっちゃってるんだか、半ば崩れかけてようやく引っかかった、という姿をさらしているに至っては、気づくなというほうが無理であった。
 どことなくひょこひょこした足取りで、半ば壁を伝うような歩き方に至っては、瀬戸口の保護欲をいたく刺激しまくっていた。
「の、ののみ? お前一体どうしたんだ、どこか具合でも悪いのか、ん?」
 天の慈愛でもこうはいくまいと思える満面の笑みとともに、やさしさに満ちた声で話しかけた瀬戸口であったが、結果的には全く無駄となってしまった。
 すなわち、「しまった」という表情を浮かべられた挙句に全力で遁走されてしまったのである。
 まあ、逃走の際に二度ほどすっ転び、三度ほど壁にぶつかっていたようだが、大したスピードであっという間に校舎の影に隠れてしまう。
 ――な、なんだ? 俺、一体何かしたか?
 何が起こったのか理解できず、瀬戸口はその場で凍り付いたまま、しばし動けなかった。
「……これは、何やら意外な展開になってまいりましたわね、原の奥様?」
 校門からやや脇に寄った壁沿い、茂みの中から野太い声がする。奥様と言う呼称から彼らの正体は明らかでもあるが、なんと言うか、その、むさい男の裏声というものはあまり拝聴したくないものである。それでも残りの二人は聞き慣れているのか、眉ひとつ動かさない。
 人間の順応力は偉大である。
「そうですわね……、これはひとつ追跡が至当と思われますが、いかがでございますか、善行の奥様?」
 茂みに潜む唯一の女性、その瞳には、抑えようのない好奇心がきらめいていた。
「そうですわね……。今日はほかに目標が来ないようですし、彼らを追跡いたしましょう……皆様、よろしくて?」
 彼ら――奥様戦隊の柱石にして頭脳である善行は、眼鏡を慎重に直しつつ、しなを作りながら確認した。
 はっきり言って直視したくないその姿を目に納めながら、後の二人ははっきりと頷き――あろうことか微笑んだ。
 三人はめいめい野戦盗聴・盗撮用設備を肩に担ぎなおすと、まるで風のように姿を消した。
 つくづく、タフな連中である。

 ハンガーに限らず、校内も休日ということもあって静かなものだった。だが、むしろ彼にはその方が都合がいい。足早にグラウンドを横切ると、ハンガーの中へと入っていった。
意外に冷え冷えとした空気の中、聞こえるのは士魂号の鼓動と、エアコンのいささかがたついた空調音だけ。
 その中に、士翼号は昨夜の姿のままそこに立っていた。
 だが、寸前で速水はどことなく違和感を感じた。士翼号をしげしげと眺めてみる。唐突に原因に思い当たった。
 反応がないのだ。
 いつもなら士翼号のカメラアイが自分を捉えていて、なんらかのリアクションが帰って来るはずなのに。
「舞?」
 恐る恐ると呼びかけても、返事は、ない。
「あれ?」
 コンソールを覗き込んで驚いた。自律判断システムがすべて「SLEEP」になっているではないか。
「えーと、まさか舞、寝坊してる……わけないよね」
 当たり前である。
 いくら中身が舞でも、れっきとした兵器が寝坊しては話にならない。センサーぐらいは二四時間警戒し続けている。
「ちょっと、これってどういうこと? 舞?」
 コンソールを色々いじくって、ついには士翼号の外板まで叩いたりしてみたが、自らの手が痛いだけだった。
「冗談じゃないよ。もしもし、舞? もしもーし? ……まったく、何がどうなってるの?」
 相談しようにもあたりには誰もいないし、そもそもそうおいそれと相談できるような内容でもない。途方に暮れつつ、速水はふらふらとハンガーの外へとさまよい出て行った。
「困ったな、一体どうしたら……」
 と、そこで何者かが視界を横切ったため、速水の思考は一時中断された。
「!」
「おっと、ごめん! ……って、あれ?」
 危うくぶつかりそうになった相手はののみであった。
 それにしても、まあなんとひどい格好であることか。
 髪はすっかり崩れきって、栗色の髪はあっちこっちに跳ねまくってるし、服は転んで埃だらけだし……。一体どこの砂場から帰ってきたのやら、という印象であった。
「ののみちゃん? 一体どうしたの? 誰かとケンカでもしたの? 瀬戸口君と待ち合わせてたんじゃ?」
「あ、あの……その……」
「あーあ、こんなに泥だらけになっちゃって……」
 そういって優しくほこりを払ってあげようと、前を軽くはたいたとたん、ののみの顔がさっとひきつり、見る見るうちに紅く染まっていった。
「なっ……! そ、そ……」
「え?」
「そなた、どこを触っておるかあっ!」
 そう叫ぶや、ののみは親指をいささかぎこちなく速水の口の中に突っ込むと、遠慮会釈なく頬をねじり上げた!
「いひゃひゃひゃひゃ、ひょ、ひょっほ、はひふふほ!?」
 普段にもまして、何が何だかさっぱり分からない。速水は転げるようにして逃げ出した。ののみは肩で息をしつつ、胸元を掻き抱きながら目じりにうっすらと涙を浮かばせており、その目は速水をじっと睨みつけている。
「そ、そなた、私が見ていない所でののみにこんなことをしておったのか! そ、そなたがそのような変態的行為をするような輩だったとは……!」
「そ、そんな、埃を払おうとしただけじゃないか、ひどいよ舞〜……」
 痛む頬を押さえ、目に涙を浮かべつつ弁解しようとして、初めて速水は己の発した言葉の意味に気がついた。
 ――今、僕は、誰の名を呼んだ?
「……舞だって?」
「あ……」
 ののみの体がぴくり、と硬直した。じり、じりと後退を始めている。
「ひょっとして、さ。まさかとは思うんだけど……」
「しっ、知らん、知らんぞ!」
 ののみはくるりと反転しようとして、足がもつれてしまったらしくその場にへたり込んでしまった。速水は素早く回り込むと、抱きかかえつつしっかりと押さえ込む。
「もしかして、もしかしてだけど……、舞?」
 ののみは、さんざん逡巡した後でこくりと頷いた。


名前:

コメント:

編集・削除用パス:

管理人だけに表示する


表示された数字:



前のページ | 次のページ
[目次へ戻る]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -