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積層記憶(終話)


『入るぞ?』
「はい、どうぞ」
 舞がふすまを開けると、速水は既に布団に潜り込んでいた。
 シャツなどを手に取り――さすがに下着はちょっと勇気がいったようだが――手早くまとめ、洗濯機へとまとめて放り込む。戻ってくる時には盆に水の入ったコップを載せつつ、再び姿を現した。
「あまりひどいようなら、病院にでも行ったほうがよいのではないか?」
「嫌」
 速水の余りにきっぱりはっきりした返事に、舞は一瞬二の句が継げなかった。
 しかしそれでは全く話が進まない。気を取り直していささか威厳を込めた声でもう一度言おうとした。
「しかしだな……」
「ごめん、僕、病院の臭いも雰囲気も嫌いなんだ。だから、行かない」
 速水の返事は決して激することがなかったが、柔らかな中にも拒絶の意思がはっきりと表れていた。
 だから、その口調からは彼の心の隅に浮かび始めた、暗い淀みのような記憶を思わせるものは何も見出せなかった。
 かつて、あの忌わしい場所で人間とも思われないような扱いを受けた記憶は。
 一見ぽややんなように見えて、場合によっては一度言い出したらてこでも動かないところもあることを知っている舞は、わざと口をへの字に曲げて見せ、次には大げさなため息をついて見せた。
「仕方あるまい。その代わりひどくなっても知らんぞ?」
「舞が看病してくれるなら大丈夫だよ」
 病人の陰りの中にも精一杯の笑顔を見せる速水であったが、次の言葉は全くの予想外だったようだ。
「誰が看病するといった?」
「ええっ!?」
 良く見てみれば、舞はしっかりと自分の鞄を手にしていた。
「何を驚いておる。私の受けた指示はそなたを送り届けることだけだ」
「ちょ、ちょっと、ちょっと!」
「ではな、ともかく動くでないぞ」
 本気で焦っている速水など一顧だにせず、まるで天気の様子でも訊ねるようなごく当たり前といった調子でそれだけ言うと、舞はさっさと部屋を後にしようとした。
「ま、待ってよ舞!」
 あまりの驚きに、速水はふらつく上半身を慌てて引き起こした。そのままだったら布団から飛び出したかもしれない。
 舞はその場で足を止めると、再びくるりと振り返った。
 速水は目を丸くした。舞の顔にはしてやったりという表情が浮かんでいるではないか。
「冗談だ。たまには私の冗談も効くものだな……。なんだ? たわけ、泣くでない」
「だってぇ……」
 速水は目に大粒の涙をためながら舞を見上げていた。ひょっとしたら目には星でも浮かんでいたかもしれない。
 その表情に言葉を詰まらせたりはしたものの、舞は努めて平静な表情を保とうとした。
「た、たわけ。病人たるそなたを放っておくわけがなかろうが。そこまで私を薄情だと思っていたか?」
「ううん、そんなことはないけど……怒ってたし、本気かもしれないと思っちゃった……。だますなんてひどいよ」
 その言葉を聞いたとたん、舞の表情が一変した。眉をきつくつり上げ、目に炎すら浮かべた姿に、今度は速水が絶句する番だった。
「馬鹿者、馬鹿者っ! 怒らないわけがないだろう! 身体の変調ぐらいいち早く気がついてしかるべきであろうに、何の対策もとらんからこうなるのだ! それを何を甘えておる、勘違いするのもいい加減にしろ!」
 今までためにため込んでいたものが一挙に噴き出した勢いだった。肩と拳を震わせながら息を整える舞の目じりには、うっすらと涙がにじんでいた。
「それにだましただと? そなたはこの位せねば分からんであろうが! 私が、わ、私がどんな……」
「ごめん……」
 あまりの勢いに、速水にはそう言うのがやっとであった。
 ――自分が舞を悲しませたのだ。
 まるで胸に楔を打ち込まれたような痛みに、速水はただ首をうなだれるしかなかった。
「ごめんだなどと……!」
 舞はまた激しかけたが、唐突に口を閉じると速水を睨み付けた。
 二人とも動かない。
秒針が時を刻む音だけがやたら大きく聞こえた。
 どのくらい経ったであろうか。舞は肩の力を抜くとそっぽを向き、先ほどまでとは打って変わった弱々しい声で呟いた。
「まあ、責任は私にもある」
「……なんで?」
「私も、そなたがいつもと違うのには気がついていた。だが、病とまでは思い至らなかった」
 言葉が途切れた。
 再び口を開いた時、舞の口元にはかすかに皮肉そうな笑みが浮かんでいた。
「どこから見てもぽややんで、そのくせ私の事となるとあれだけうるさいそなたゆえな」
 普段からして春風駘蕩、ところが舞の健康管理については幼い子の保護者でもここまではやるまいというほどの過保護ぶりで、自ら舞の健康管理者を公言してはばからなかったのだから、速水もこれには一言もなかった。
「ともかく、責任の一端が私にもある以上、看病はしてやる。だがな、許したわけではないぞ」
「うん、わかった……。でも、よかったぁ……」
「ああもう、だから泣くでないというに。……まったく、小さい子みたいな奴だな。ともかくおとなしく寝てるがよい」
 ようやく苦笑らしきものを浮かべた舞は、鞄を手近に放り出すとポケットからハンカチを取り出して、速水の目元をそっとぬぐってやった。
 たぶん自分の顔はとてもみっともないことになっているであろうことは容易に想像がついたが、速水はそれを別に恥ずかしいとは思わなかった。
 なんと言っても彼女がそばにいてくれるというのだから。
「と、ともかくだな。せめて薬だけでも飲んでおけ」
 どことなく照れくさくなったのか、舞は速水にハンカチを押し付けると救急箱を乱暴に引っ掻き回し始めた。
「本当は、薬も嫌なんだけどな……」
「駄々っ子みたいなことを言うな。それではいつまでたっても治らんぞ」
 一生懸命薬を探す姿に軽く微笑むと、速水はハンカチから漂う舞の残り香を楽しんだりしていたのだが、そのとき彼はもう少し注意深くするべきであった。なにせ、彼にとっては結構な災厄が目の前に迫っていたのだから。
 救急箱をかき回す舞の手がだんだんと忙しくなる。箱の中の薬は出来合いにしては豊富だが、どれも同じように見えた。
 ――ど、どれだ? どれが効果があるのだ?
 と、「解熱」という文字がちらりとみえた。熱を解くのだからこれでもよかろうと、舞はその箱を引っ張り出した。
「よし、これを……一回一錠、か。なんだ? ずいぶんと大きいものだな……」
 アルミ蒸着の包装に包まれたそれを向くと、中からどことなく砲弾に似たような薬が顔を出した。
 ――喉につかえたりはせぬのか?
 いささか不安を覚えた舞は、もう一度箱を取り寄せて説明書きを読み始めたが、読み進むにつれて、だんだんと額に汗が浮かんできた。やがてそれは完全な驚愕に変わる。
 ――な、な、何だと!? こ、これを、その、つまり……。
 確かに砲弾型をしているだけのことはあり、貫通性(?)はよさそうではある。
 つまり、座薬。
もちろんのこと、投入するのは口からではない。
 ――い、いやいくらカダヤとはいえわ、私がそのようなことを……だ、だがそれで熱が下がるのだな? あ、あやつは動けない以上、私がやるしかあるまい。
 別にそんなことも無いのだが、ショートしかけている思考回路はいとも都合よくそのあたりを無視してしまった。
「あ、あの、ちょっと、舞?」
 小声で何やらぶつぶつと呟きだした舞を見て、速水はそっと声をかけた。
先ほどと違い、努めて軽い調子になるよう努力しながら声をかけたつもりだったが、その努力はあっさり無駄になった。
「あ、厚志! これから投薬を実行する。む、無駄な抵抗はやめよ!」
 体中の血が集まっているのではないかと思われるほどに顔を真っ赤に染めながら、舞は雄々しくもそう宣言した。
手にはさっきの座薬。
 一目見てそれが何であるかを悟った速水の顔からざっと血の気が引き、もともと悪かった顔色が紙のように白くなった。
「ま、舞? まさかそれを使うなんて言わないよね?」
「……これを使えば熱が下がるそうだ。そ、そなたが動くには及ばん。わわ、私がやってやる」
 まるで獲物を捕らえる肉食獣のような足取りで、じり、じりと舞が距離を詰めてくる。慌てて飛び起きた速水はベッドの隅へと避難するが、たちまち壁に追い詰められてしまった。
「動くな! そなたは病人なのだぞ!」
「そんなことされれば誰だって動くよ! だ、第一それだったら自分でやるから、それを貸してっ!」
「だめだ! それほどに薬を嫌悪していてはつ、使った振りをして捨てるかもしれんではないか!」
 ――それもそうか。
 納得してどうする。
 速水は己の言葉のうかつさを心底呪いつつ、何とか次の打開案を考えようとしたが、そうは問屋が下ろさない。
「ええい、まどろっこしい! 観念してごちゃごちゃ言わずに往生せよ!」
 ……それでは、死んでしまいますが。
 説得が効かぬと判断した舞は(どのへんが説得だったのかは知らないが)、いきなりベッドの速水に向かって飛び掛った。
「わっ、ちょ、ちょっと待……うひゃっ!」
 身をかわそうとするも普段の彼ではない。速水はたちまち身動きがならなくなってしまった。いくら舞が鍛えているとはいえ、普段ならこうやすやすと押さえつけられることもなかっただろうが、いかんせんどうにも体に力が入らない。
「ま、舞、お願いだからやめて……!」
 熱による荒い息と潤んだ瞳で切れ切れに訴える速水は、それだけで妙になまめかしかった。
「くっ! し、静かにせんか!」
「やだーっ!」
その姿と己の行為に妙な罪悪感を覚えつつも、舞はその手を緩めようとはしない。
「ええい、痛くはせん! おとなしく観念しろ!」
 ……それはちょっと、何かが違うかもしれない。
 意外な台詞に一瞬速水が固まった隙をついて、舞は右手を布団の中に突っ込んだ。
 目的の場所付近で、舞の手が右に左にうごめきまわる。
「わっ、ちょ、ちょっと、舞。だからやめ……ひゃあ! ま、舞、そこはっ!」
「!!」
 半ばはだけたパジャマの下、その隙間から手を差し入れた舞の動きが完全に硬直したが、速水もそれは同様であった。
 ――わ、わ、私は何を……ええいっ、今はそれどころではないっ!
 瞬間早く正気に帰った舞の右手が、電光石火の動きで目的の場所に到達した!
「あ〜〜〜〜〜〜っ!」
 速水の、なぜかいささか切なげな声が窓を震わせ――
 そして、ぱたりと絶えた。
 唐突に、敷地の木から木の葉がはらりと落ちた。

   ***

 耳まで真っ赤になりながら、舞は洗面所で手を洗っていた。いくらなんでも場所が場所である。
 いや、それだけでもないようだが。
 ――わ、私としたことが、かかか関係無いところにまで触れてしまうとは……。
 あなた、一体どこ触ったんです?
 深呼吸三回でどうにか気を落ち着け戻ってみると、ベッドでは速水がさめざめと泣いていた。舞を見つけると恨みがましい視線を向けてくる。
「舞〜、ひどいよ、病人に乱暴して……」
 毛布を手繰り寄せ、しなを作ってベッドの上に横たわる速水には、なんというか妙な艶があった。これではまるでどこかの昼メロにでも出てきそうなシーンである。
 配役は逆だが。
「ややや、やかましいっ! し、仕方がないではないか。こうせねば熱が下がらんというのだからっ!」
 せっかく落ち着けた気分など成層圏のかなたまで吹き飛ばし、顔どころか耳の先まで真っ赤にして、舞は怒鳴り返した。
 重い記憶が意識層を突き破りかけるのを抑えつつ、速水は涙声で言った。
「でもさ……救急箱の中に、飲み薬の風邪薬は無かったの? 確かあったと思うんだけど」
「え?」
 我ながら間抜けと思われる声とともに、舞は慌てて救急箱をまさぐってみた。
 あった。
 一瞬の沈黙の後、何か柔らかい物を打つ音が響き渡った。
「な、なんで僕が叩かれるのさ!? 気づかなかったのは舞じゃないか〜。……舞のエッチ」
「なっ!! ……ううううう、うるさいっ!」
 とうとう舞は首を不自然な角度に向けたまま、向こうを向いてぺたりと座り込んでしまった。
血の上った襟足が妙に色っぽい。
 速水はそれでもどことなしに普段と違う視線を向けていたが、それがだんだんと柔らかくなっていくのが自覚できた。
 ――あいつらとは、違う。舞は、自分のことを本気で心配してくれたんじゃないか。
 先ほどの、おかしいくらいに真剣な表情を思い出すにつれ、速水は心にわだかまっていた澱が少しずつ洗い流されていくのを感じた。
「……まあ、舞にだったらいいや」
 かつての記憶の一部はいまだ心に浮いているが、それはもう彼を苦しめはしない。速水は心からの笑顔を舞に向けた。
「なっ。何を言ってる!?」
「なんでもない。熱のせいかな? ……うん、多分そうだよ」
 いまだ熱の残る顔のまま、いくら舞が怒鳴ってもにこにこと受け流すものだから、舞もなんとなく慌てているのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
 ようやくのことで体勢を立て直すと、今度こそ舞は威厳を込めて指示を下しなおした。
「ともかくだな、今はただ休むがよかろう。……乱暴だったことは陳謝する。その、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
「う、いや、その……。さあ、もう寝ろ」
「うん、そうする……お休み」
 さすがにもう気力のほうが尽きたのか、程なくしていささか荒い寝息が聞こえてきた。
「厚志……。厚志?」
 完全に寝たのを確認すると、ふ、と舞の表情が緩められた。額にそっと手を当てる。不自然なほど熱かった。
「厚志……、馬鹿者が。普段私のことをあれこれ言っていて、自分が我慢していては何にもならないではないか。そういうのを医者の不養生というのだ。……まったく、そなたは大馬鹿者だ。あまり……心配させるでない。そなたは私のカダヤだ。そのそなたを私が放っておくわけがなかろう? 案ずるな。だから、早く良くなれ。……そなたは、そなた一人のものではないのだ」
 つ、と立ち上がると、少し顔を赤らめながら舞はそっとふすまを閉めた。

   ***

「ごちそうさま」
 速水はそっとスプーンを置いた。
「もういいのか?」
「うん、ちょっと食欲がないんだ。ごめん」
「そうか……」
 舞はいささか残念そうに盆を下げた。
 盆の上にはいささか焦げ目のある粥とジュースがのっていたが、それらはどちらもほんの二口程度しか手をつけられていなかった。
 盆を片付けた舞は、再び体温計を差し出した。
 三八度八分。
「あまり変らぬな……。まあ、何か口にできただけでもよしとするか。薬を……」
 速水の肩がぴくりと震えた。
 すがるような視線を受けて、舞は苦笑しながら錠剤と水を差し出した。
「同じ真似はせぬ。飲め」
「う、うん」
 思わず体が反応したことを後悔しつつ、速水は錠剤を口に含んだ。
「ともかく、後は寝て体力の回復を図るのみだ」
「うん……舞は?」
「私は向こうの片づけがある。その後は……同じことを言わせるつもりか?」
 舞の返事はそっけないものだったが、照明の加減か頬がかすかに赤くなっているのを速水は見た。
「ううん。それじゃ、お休み」
 何事かを理解した速水はにっこりと微笑むと、そっと目を閉じる。薬の加減かそれとも体力のせいか、睡眠に落ちるまでに時間はかからなかった。
 舞は少しの間その場にじっと立っていたが、いささか苦しげながらも寝息が聞こえてきたのを聞き、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
 それから枕元に近寄ると、速水の額にそっと手を触れる。いまだにそこは異様なほどの熱を持ち、汗に濡れていた。
 舞は軽く眉をしかめるとそっと部屋を出た。
 ふすまの向こうからは洗い物の音と、何かに水をためるような音が聞こえて来た。

 熱があるときには大抵ろくな夢を見ない。
 その例に漏れず、速水の額には玉のような汗が浮かび、苦しげに引きゆがんだ口からは時々苦悶の声が漏れ出でていた。
 彼の意識は薄暗い闇の中を漂い続け、姿かたちの定かならぬ何者かに責め、苛まれ、弄ばれ、そして嬲られていた。その全てに対して速水は無力であり、ただ流されるしかなかった。抗おうにも全ての力が奪い取られてしまったかのように体はぴくりとも動かない。
 まるで、あの時のように。
 このまま永劫に闇の中をさまようのかと思われたその時、遥かかなたから自分を呼ぶ声が聞こえるではないか。
「厚志……」
 ――誰? 僕を呼ぶのは、誰?
 それはとても身近な、そして愛しい者の声。
 次の瞬間、速水の意識は何者かの手を振り切って、急速に浮上していった。

「厚志、どうした厚志?」
「う……うあ……ああ……。あ、こ、ここは?」
「気がついたか」
 ほっとしたような声がすぐ傍らから聞こえてきた。舞がいささか不安げな表情とともに彼を覗き込んでいる。
 すっかり照明が落とされ、スタンドの豆球ひとつだけがともされた室内は、弱々しい光がわずかな範囲をオレンジのモノトーンの世界に沈み込ませていた。まだ夜明けは遠そうだ。
 相変わらず体中がぼやけるような熱気を感じたし、汗もすごかったが、額に乗せられたタオルだけがひどく心地よい。
「うなされていたようだな……大丈夫か?」
「うなされ……、ああ、変な声でも出してた? ごめんね」
 目覚めてみれば先ほどまでの感覚は遠く過ぎ去り、何があったのかも判然としないが、漠然とした不安と嫌悪感だけは心の隅にいまだわだかまっていた。
「ずっと……いてくれたんだ?」
「そばにいてやると言ったはずだ。私は約束はたがえぬ」
 そっぽをむいたまま心外そうな声で答える舞に、速水はそっと微笑んだ。
「うん、そうだね……ごめん」
「気にするな。……何か飲むか?」
「ああ、ありがとう」
 速水はいささか苦労しながら少しだけ上体を起こした。少し頭がふらつくが、おぼつかない手で舞が枕を腰に当ててくれたのでそれほどでもない。
 舞は手近に用意してあったらしいコップにポットから湯を注ぎ、砂糖を溶いてから水をさした。そしてストローで軽くかき混ぜた後、自分で少し口に含んでみる。
「む、熱さはこのくらいか……よかろう。飲むがよい」
「う、うん……」
 そっと差し出されたストローに口をつけ、むせないように注意しながら一口吸い込む。温かくて甘い湯がのどに流れ込んだ。汗で消耗した体に温かさと甘さが心地よい。
「おいしい……」
「そうか、よかった」
 安堵するような口調とともに、舞が少しだけ微笑んだ。
 速水にはその湯がなんだかいっそう甘いように感じられた。

 と、その時突然に二人の多目的結晶に、とても聞き慣れたが慣れたくはない音声が飛び込んできた。幻獣警戒警報がことに速水の病身を揺さぶっている。
「来たか!」
 コップを置くが早いか、舞の中で何かのスイッチが切り替わった。瞳に宿る冷たいまでに理性的な光は、彼女が芝村一族の者であることを声高に宣言していた。
「ぼ、僕も……」
 慌てて起き上がろうとする速水だが、完全に上体を起こした途端に天井がぐるぐると廻り始め、体がぐらりと傾いた。危うく倒れそうになるところで上体が押さえ込まれる。
「馬鹿者、病人がむやみに動くでない! 私が行く、そなたはここで寝ているがよい」
「で、でも、出撃なら行かなきゃ……」
「病人がいても足手まといだ」
 舞は少しだけ瞳を揺らしたが、冷酷なまでにばっさりと言い切った。が、次の瞬間には苦笑を顔に浮かべている。
「……それに、そなたは体を治すのが任務のはずだ。心配するな、私も私の任務は忘れん。それにそなたがいなければ士魂号が動かせぬことも承知している。だが、出撃となれば手伝えることは多かろう。分かるな?」

「う、うん……」
「……すぐ戻る」
 そっと肩に手を当てると、後はもう振り返ることもせずに部屋を飛び出していく。
 しばし隣でしていた衣擦れの音と、乱暴にドアが閉まる音を残して舞は家を飛び出していった。
 速水の多目的結晶はまだ警報を伝えていたが、次の瞬間にそれはぱったりと途絶えた。病人にまで警報を出していることに気がついた小隊のほうで警報を切ったらしい。
 ――小隊からもお荷物扱いか。
 体の自由も利かないこともあいまって、おき出すことを完全にあきらめた速水は再びベッドに身を横たえた。
 急に室内の温度が下がったような気がした。もちろんそれは気のせいだとは分かっている。別に自分の熱が上がったわけでもない。
 原因は、はっきりしているのだ。
 その時、遠くで爆発音らしきものが聞こえた、ような気がした。慌てて耳をすませてみるが、続く音は聞こえない。
 ――もしも。
 その考えが浮かんだ時、速水は蹴り飛ばされたような衝撃とともに唐突に理解した。
 今、舞の身に何かあっても、自分は何もできないことを。
 ――舞は大したことがないようなことを言っていたけど、出撃ともなれば何があるか分からない。こんな時に何かあったら、僕は……どうしたらいいんだ?
「……くそっ」
 豆球だけの弱々しい光の中で身を横たえているしかない自分がとてももどかしかった。
 ――このままじゃいけない、このままじゃ……。
 だが、今の彼にはなす術がない。
 もどかしさに身を焼きつつも、絶え間なく責めつける熱と体の痛みは速水に容赦なく襲いかかる。
 いけないとは思いつつも、速水が再び眠りの園に引き込まれるまでには、さほどの時間を要しなかった。

 結局、舞が戻ってきたのは空が白み始める頃だった。

   ***

 昨夜の騒ぎなど知らぬ気に、さわやかな朝が来た。
 空は薄雲がかかっていたものの、天気を悪化させるほどではない。雲の間から差し込む光が薄もやの残る町並みを照らし出していた。
「時間だ。出せ、厚志」
 舞は体温計を受け取ると、慎重に目盛りを読み取った。
「三七度八分か、少しは下がったな。昨日寝ていたのがよかったのだろう。食欲も回復してきたようだしな」
 椀の中の粥は半分ほどがなくなっていた。
「結局昨夜は出撃、なかったんだ」
「うむ、あの後すぐに待機命令に変わってな。大事には至らなかったのだ」
 待機命令になれば恐らく帰されたはずなのに、帰ってくるのが遅かった理由は速水には容易に想像がついたが、敢えて口には出さなかった。
 ――頑張りやさん、なんだよね。君は。
「やっぱり今日も寝ていなくちゃダメかな?」
 と、いきなり舞がくるりと振り向くと速水を睨みつけた。
「そなたの悪い癖だぞ、厚志。少しよくなったかと思えばすぐに調子に乗るあたりがな。そなたはようやく熱が下がり始めたばかりなのだ。ここで下手に動けばまたぶり返すのが分からんか?」
 言葉はきつくはなかったが、正論ではある。
 もっとも、速水としては神妙な顔の影に笑いを隠すのに必死であった。今舞が言っているセリフは、そっくり熨斗をつけて彼女に返したいぐらいだったのだ。
「う、うん、そうだったよね。ごめん」
 まあ、ここで時ならぬ局地戦を勃発させるわけには行かないので、とりあえず素直に頷いておくことにした。
 もちろん目は少し潤み気味にして、やや上目遣いにすることも忘れない。
「……わ、分かればよいのだ。では、私は出かける」
 思わぬ攻撃に頬を赤らめつつ、舞は手早く登校の準備に取り掛かった。着替えなどは昨夜の出撃のついでに家によったので特に問題ない。一人にすることに不安がないとはいえなかったが、昨夜よりましな顔色が安心材料となった。
「では、行ってくるぞ……ちゃんと寝ていろよ」
「分かったよ。行ってらっしゃい」
「……なるべく早く戻る」
 そういい残すと、舞は学校へと向かった。
 急に寂寥感がぶり返してくるが、昨夜ほどではなかった。
 それにしても、いくら熱が残っているとはいえ、二日もベッドで寝っぱなしではいい加減にやることも尽きてくる。となれば、いきおい視線は唯一の外界である窓の外に集まることになる。
 舞が出かけるときにカーテンを開けていったので、電気をつけなくても室内はかなり明るい。先ほどまでかすみ気味だった空も、いまはそこここに晴れ間が覗いている。
 しばし、速水は窓の外に繰り広げられる天の移り変わりを眺めていた。
「そういえば、こんなふうに一人でのんびりしていた事なんて、最近なかったなあ……」
 訓練と整備、それに出撃に明け暮れる学兵に休みなどないのは当然であった。それに休みには大抵舞と一緒にいる。
「寂しいな……」
 速水は自分の言葉に驚いた。そんなことを感じると考えたことすらなかったといっていい。
 彼はいつも一人だった。それが当たり前だったのだ。心を許すような友もいたわけでもない。寂しいかどうかなんてことは考えもしなかった。
 ともかくその時その時をがむしゃらに、時には手を血で染めてでも生き延びる。そんな生き方が当たり前だった。
 ここに来てから、全てが変わった。たった一人の少女に出会ったがゆえに。そして、今まで生きてきた記憶の上に、様々な「思い出」が積み重なっていったのだ。
 もし今五一二一の皆がいなくなったら、いや、なにより舞がいなくなったら――
「きっと、僕は寂しさに耐えられない……」
 自分でもこんなふうに感じるとは意外だったが、それが素直な感想だった。と同時に、昨夜の恐怖が胸を駆け巡る。
舞と離れた時、自分は何もできなかったではないか。
 速水は天井を仰ぐと、口元を引き締めた。
「もう、こんなことにはならない……約束するよ、舞」
 誰も聞くものとて無い約束を口にしながら、速水は再び眠りにつくのだった。

   ***

「芝村さん、ちょっと降りてきてくれる?」
 ここはおなじみ整備ハンガー。
 午前中の授業が終わるやいなや、舞はまるで飛びつくように士魂号の整備に取り掛かっていた。普段から整備のスピードは速いほうだったが、今は目にも止まらぬ、という表現がぴったり来るほどだった。
「何だ? どうしたのだ、原」
 作業の手を中断させられて不機嫌そうな舞に、原はすまなそうに話し始めた。
「ごめんなさい、例の頼まれていたアビオニクスなんだけど、今連絡が入って到着が遅れるらしいのよ」
「何だと?」
「急いでるのは分かるんだけど、どうしても無理だって言うのよ。本当にごめんなさい」
「いや……、そなたが手を尽くして無理だというのなら仕方があるまい」
 かなり渋々ではあるが、舞は現実を受け入れることにした。いくらなんでも無から有を生み出すことは出来ない。
「それでね、お詫びといってはなんだけど、後は私たちがやるから今日は帰りなさい」
 原が放った予想外の一言に、舞の目が丸くなる。
「なんだと? し、しかし……」
「ここにいてもやることはないし、それにあなたには『任務』があるはずだけど?」
「それは、まあ……そ、そうか? では、すまぬが失礼する」
 原の面白がっているような笑いは正直愉快ではないが、正直どこでこの話を切り出そうかとも思っていた矢先のことだったので、原の提案はまさに渡りに船であった。
 せめて悠然とした態度を取ろうという気持ちとは裏腹に、舞の手は実にあわただしく帰りの支度をすませると、足はたちまちにロケットスタートのように飛び出していった。
 なんというか、あまりに正直な彼女の態度に皆も苦笑せざるを得ない。
「ほんとに心配なのね、彼の事が」
「でも……。私たちもお見舞いに行かなくて大丈夫でしょうか? 芝村さん一人では大変では?」
 森がいささか気遣わしげに呟くのを聞いて、何人かは苦笑を大きくした。これが全く裏表のない言葉だからある意味始末に負えないのだ。
「今日はやめときなさい。二人の間に割って入るなんてヤボというものよ」
「はあい、分かりました」
 はっきり言っておかないと本当に見舞いに行きかねないので、原は太目の釘を刺すのを忘れなかった。
「まあ、今日のところは『待ち遠しさ』をプレゼントしてあげましょう?」
 誰にか、は言うまでもないであろう。
「ああ、そうそう。さっき届いたアビオニクス、納品は済んでるわね?」

   ***

「おかえり!」
「ひゃんっ! こここ、こらっ! そにゃた、いや、そなたはどこに抱きついとるかっ!」
 腰にまとわりつく感触に思わず舞は声を荒げるが、そんなものなどどこ吹く風。
 やけに静かだったので、寝ているのかとそっとふすまを開け――ベッドの傍らに立ったとたんの奇襲であったから、舞にもどうしようもなかったのだ。
「やっ、こらっ! ま、まったくそなたは子供みたいに……」
 声は呆れを含んでいたものの、速水のあまりにも嬉しげな様子に無碍に振り払うことも出来ず、舞は複雑な表情をしてなすがままにされるしかなかった。
 ただし、そのときの表情は怒ってはいない事は確かである。

 夕食を済ませた後再び薬を飲ませ、熱を測る。
 ほぼ平熱に戻りつつあるのを確認して安心した舞は、風呂を済ませて上がってきたところだった。
 髪を乾かしてから再びふすまをあけると、速水は静かな寝息を立てて寝入っているように見えた。舞はその傍らに立つと、そっと寝顔を覗き込む。
 ――心配させおって。
 と、寝ていたと見えた速水がそっと右手を差し出してきた。一瞬驚きはしたものの、舞は柔らかい笑みを浮かべると静かに握り返した。
 油断大敵。
 いきなり速水はくい、と軽く手を引っ張った。ほんの軽くだったのだが、全く無防備な舞にはこれで充分であった。
 結果、舞は速水の隣へ無事(?)にご招待。
「あ、あ、厚志、い、一体何を……」
「今日は、一緒に寝よう?」
「な……!」
「駄目……?」
 意外なほどに真剣な目に見つめられて、舞の呼吸は一瞬止まりかけた。青い瞳にまるで吸い込まれそうな気分になってしまう。
「ね?」
 重ねた速水が問うのへ、頬を染めつつ、こくりと小さく頷く舞であった。
 やがて、部屋の電気が消える。
 ベッドの中に二つの人影があった。そのうちのひとつである舞は、右に左にとどこか落ち着かない。それは速水の匂いに包まれているからかもしれなかった。
 と、背後から小さな声がかかった。
「舞」
「……何だ?」
 声の中に何かを感じ取り舞が振り返ると、すぐ間近に速水の顔があった。顔に再び血が上るのが分かったが、次の言葉は彼女の意表をついた。
「僕は、いつまでも君のそばにいるからね」
「な、何だいきなり妙なことを……まだ熱でもあるのか?」
「ん、なんでもない。熱か……。夢、そう、熱のあるときにちょっと変な夢を見たんだ」
 速水は小さく笑ったが、その笑いはいつもと違うように舞には感じられた。もっとも、声にしたのはこれだけだったが。
「おかしな奴だな」
 しばし二人の間に沈黙が落ちた。
 やがて舞が小さく、本当に蚊の鳴くような声で呟いた。
「……そうだ。そなたは私のそばにいるのが一番良いことなのだ。……私が、離しなどせぬがな……。それに、此度のような不始末は二度とせぬ。ここに誓おう」
 ――ああ。
「ありがとう、舞」
 そう言うと速水は、そっと舞を抱き寄せた。

 君だから。
 本当に愛しく、守りたい君だから。
 そなただから。
 我がカダヤにして、守りたいそなただから。

 離さない、永遠に。
(おわり)


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