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幻想食品(その1)


 もしこんな装置があったら――あなたは使いますか?

 一九九九年四月九日(金)。
 開戦から一カ月ほどが過ぎ、人類――主として学兵を中心とした若年兵たち――は懸命の防戦を繰り返すものの、決して先行きは明るいとはいえない状況だった。
 昨年の「八代平原攻防戦」で陸自主力が壊滅してしまい、代わりに投入された学兵は時間稼ぎ以上の期待は持たれていなかったのだから、この結果はある意味予想通りといえるのだが、実際に矢面に立たされる者にしてみればたまったものではない。
 ゆえに、学兵たちは己をこんな状況に追い込んだ者たちへの悪態をつき、ここにいない何者かに己の幸運を祈りながら戦い、そして死んでいった。
「九州は、学兵の死体を防壁にしている」と言われるゆえんである。
 とはいえ、いかなる偶然か気まぐれか、それとも正当な理由でもあるのか(幻獣の考えを理解できる者などほとんどいないが)、まれに幻獣警報が鳴らない夜もある。
 そんな日には誰もが、いつサイレンが鳴るかと怯えつつもわずかな休息をむさぼるのだ。
 それは、軍隊も例外ではない。
 熊本市内にある尚敬高校。そしてその敷地内に間借りする、第六二高等戦車学校こと生徒会連合独立第五一二一対戦車小隊、通称シャノアール。
 そのいずれも夜の校舎は人気もなく、静まり返っていた。
 この風景を奇異に感じる方もいるかもしれない。軍隊は年中無休の二四時間営業ではないのか、と。
 それはある意味正しい指摘である。今この時間にも不測の事態に備えてスクランブル(緊急発進)のために待機している部隊もいるし、レーダーなどの索敵システムなどは一瞬たりとも休むことなどない。それにいざ戦闘ともなれば、それこそ時間は意味を失う。
 だが大部分の場合は――最前線に張り付いていたり、損害回復中の連中はともかく――、意外なほど規則正しい生活をしている。
 当然かもしれない。
 出撃命令が下っているのならともかく、軍隊にも一応一日の予定表というものがあり、時間が来れば床につく。兵士とて人間であり、休息しなければまずは自分自身が真っ先に消耗してしまうからだ。
 軍隊というシステム内では、人間とは一番無理のかかる「部品」なのだ。
 そういう意味では、普段の学兵などは負荷をかけているどころの話ではないのだが、今日みたいにようやくこのところの連戦が一段落つき、士魂号の損傷も全て回復――どころか、連戦開始前を上回るところまで引き上げ、スカウトたちの装備も新型導入のめどが立ったとあれば、何もすき好んで残る理由はない。
 結果、いつもなら何だかんだと朝方まで人の絶えることのない校内も、日が変わるころにはしんと静まり返ってしまったというわけである。
 こういうときにも、普段なら小隊司令を含む事務組は結構残っていたりするものだが、今日ばかりは小隊司令室たるプレハブ小屋にも明かりはない。
 あたりは街灯以外何もない、真の静けさに――
 いや、そうではない。
 何か、機械をいじるような音と、時々意味の分からぬ呟きが、どこからともなく聞こえてくる。本校舎のほうだ。
 夜の学校、それも校内ともなれば常夜灯もほとんどなく、窓から入り込む街灯の明かりだけがかすかに周囲を照らし出していた。
 そんななかで、校舎裏に近い一角、倉庫のあたりだけはぼんやりと明かりが灯っている。
 中を覗いてみれば、白衣姿の男がでたらめな鼻歌を歌いながら目の前の機械に取り付いていた。
「フフ……、フフフフフッ」
 時折、なんというかどことなく薄気味悪い笑い声が漏れ聞こえて来る。よほど楽しいようだ。
 やがて作業が終了したのか、男――岩田は満足げなうめきとともに機械から離れる。二、三歩下がって全体の様子を見ると、華麗にターンをきった。
「フフフ、これぞ世紀の大発明! ああ〜あふれて垂れ流さんばかりの私の才能が恐ろしい……。フフフフフ、フハハハハァ!!」
 聞く者もいない中、岩田は己のなした所業を狂気すらにじませているのではないかと思われるほどに褒め称える。自画自賛の極みである。
 五一二一小隊きってのマッド・サイエンティストこと岩田裕の、それも自信に満ちまくった発明品。
 考えるだに恐ろしい気がする。
 一通りおのれに対する賛嘆を繰り返すと、岩田は周囲に散らばった部品や工具を手早く片付け始めた。
 それが済むと、周囲にセンサーとおぼしき装置を設置して部屋の電気を消し、ドアの鍵を異様なほど厳重にかけた後、周囲を何度も見回した後、足早にその場から立ち去った。

   ***

 翌日。
 朝から空は雲ひとつなく見事に晴れ渡り、今日一日の好天を保証していた。
こんな日には多分出撃もないと今までの経験則が告げている。珍しく二日連続で出撃なしになりそうだとなれば、気分も多少なりとも明るくなろうというものだ。
 そんな中、速水と舞の二人はプレハブ校舎からちょうど出てくるところだった。こんな雰囲気ならば、さぞや若人らしい話題でも……。
 と、思いきや。
「……というわけだ。まだ表沙汰にはなっていないが、近々何らかの形で発表があろう」
「北熊本の補給所が壊滅ってのは痛いね。ここに影響がでなければいいんだけど……」
「そうだな、後でチェックしてみることとしよう。ところで今日の整備は完了したが、かねてから聞いていたそなたの戦闘機動をシミュレートしてみたいと思う。どうだ?」
「そうだね。あまり自信はないんだけど……」
「厚志、前にもいったがそなたはもっと自分を信頼した方がいいぞ? そなたには着実に成長の跡が見られる。我がカダヤとして非常に喜ばしいことだ」
「あはっ、そうかな? 舞にそう言ってもらえると嬉しいよ。ありがとう」
 速水の微笑みを見て、舞はてきめんにうろたえた。
 ようやくのことで出てきた声は多少裏返っていたりして。
「れ、礼など及ばん。当然のことを言ったまでだ。と、ところで……」
 ……なんというか、華とか色気とかとは全く無縁の、なんとも散文的な会話はあった。
 だが、速水は見ている者まで微笑みたくなるような笑顔だし、舞も頬を染めながら、時々小さな笑みを見せている。傍から見れば話題はどうあれ、当人同士にとってはこれはこれでそれなりに良いものらしい。

 好きにやったんさい。

   ***

「では、シミュレートを始めるとしようか」
「あ」
 何かを思い出したように、速水が急に立ち止まった。
「どうした?」
「ノートが切れてるの忘れてたよ。ちょっと買ってくるから、先に行ってて」
「では先に準備を済ませておこう。……早く来い」
 舞はそう言い残すと、足早にハンガーに向かって歩きだしていた。先程の名残か、まだ少し頬が赤くなっている。
 微笑みながら見送ると、速水は廊下を足早に歩き出し――
 突如、襟首に違和感を感じたと思うと、ものすごい勢いで横に引っ張られた!
「うわあっ!」
 それでも、反射的に何かいるとおぼしき方向に拳を突き出したのは大したものだが、影のような存在はあっさりそれをかわすと、そのまま速水を引っ張り込む。
「ぐぇ……」
 一瞬、強大なG(重力)で気が遠くなったかと思うと、意外に静かなショックで床に軟着陸するのが感じられた。
「あ、あれ……ここは?」
 周囲には明かりはなく、昼間だというのに全体に薄暗い。周囲にはほこりをかぶった机とか、普段使われなさそうな大地図などが無造作に詰め込まれていた。
「倉庫……?」
「そのとぉりぃ〜」
「うわあっ!?」
 いつの間に忍び寄ってきたのか、毎度おなじみ奇抜なメイクがトレードマーク、自動電波受信機こと岩田裕が速水の肩に手をかけて、背後から覗き込むように彼を見ていたのだ。うっかり目を合わせれば夢に出て来ることうけあいである。
 もちろんとびっきりの悪夢で。
「フフフ、実は……グハァッ!!」
 光る液体を吐き出しながら、岩田が華麗に宙を舞った。
 速水が反射的に半歩下がりながら回転、岩田の手を左手で振り払い、返す右手でストレートを叩き込んだのだ。
 岩田は非常にアヤしげな笑みを貼り付けたまま、短い弾道飛行を強制されたあげくガラクタの山に突っ込んだ。
 荒い息のまま速水はその様子をぼんやりと眺めていたが、まさかその中からバネみたいな勢いで飛び出してくる者がいるとは想像のさらに外だったらしい。
「いっ、岩田君!? 人間にそんな動きって可能なの?」
「フフフ、私は不死身の男イワタマン! このくらい出来なくてどぉしますか?」
 顎を撫でながら、なんだか良く分からない解説をする岩田であった。
「それにしてもなかなかいいパンチでしたねぇ。父はマコトに嬉しいですよぉ!」
「父ってだれのことさ!?」
 マトモに反応しないほうが精神衛生上よろしいような気がしないでもないが。
「ところで……」
 さっきのパンチと速水の叫びをさわやかに無視すると、岩田はのらりくらりとした動きで近寄ってきた。思わず身構える速水だったが、そんなものもどこ吹く風である。
「実はですねぇ、アナタに是非見てもらいたいモノがあるのですよ」
「見て欲しいもの?」
 速水は怪訝な表情を岩田に向け――慌てて目をそらした。
 彼の顔がどアップで目に入ってしまったのだ。
「そ、それで一体何を……?」
「いけませんねぇ、もう少し小声でないと。これはなかなかに重要なヒミツなのですから」
 口元に人差し指を当てながら、岩田はにんまりと微笑んだ。
「秘密って……。そんな秘密なら、僕が見ていいの?」
「ああ、それはもちろん! あなたは僕のディアフレンドですから、全く問題ナッシーング! フハハハハハァ!」
 ――そっちの方がよっぽど大声じゃない。
 ちょっとイっちゃってるような岩田の笑い声にそんなことを考えながらも、
「はあ、そんなもんなの?」
 とあいまいながら返事を返すあたり、速水も神経が意外に太いのか――それとも慣れたのか。
 いや、それ以前に親友であることは否定しない点についてはいささかどんなものであろうか?
 さすがに、かつて一時間にわたって追いかけっこをしたり、どつきあい(実態は速水が一方的に殴り倒していたのだが)、あげくの果てに本田に向かって「がちょ〜ん」とかヌかしただけのことはあった。
 ……将来のために、更正したほうがいいんじゃないかと思わなくもない。
「フフフ、ではこちらへごあんなーい……」
 倉庫の奥には何やら布をかぶせられた物体が見えてきた。高さは速水の身長よりも幾分高い。
 速水がその前にたたずんでいると、岩田が恭しく紐を差し出してきた。
「さあ、これをグイッと引いてください」
「これを?」
 紐を渡されてきょとんとしている速水に、岩田は再びにんまりと頷く。
 仕方なしに速水が紐を引くと布が外れ、ちょうど士魂号のコックピットに設置されているシートのようなものが姿を現した。
 いや、どうやら座席そのものは本当に廃棄された士魂号のシートらしい。よく見れば、あちらこちらに流用されたとおぼしき部品がくっついている。頭上にはシートと一体化したごついヘルメットのようなものが装着され、背後にはデータ通信用とおぼしきコードが乱雑に絡まりながら何かの機器とつながっていた。
「これぞ世紀の大発明! 名づけて『テイストプレーヤー』なのでぇす!」
 そのまんまである。
「味覚の……再生?」
「そうです。人間の味覚を記録し、それを自由に再生する事ができるマシンです。ああ〜なんというスバラシイ、私は私の才能が恐ろしい……スバラシイッ!!」
 再びくるくる回りだす岩田は放っておいて、速水はいささか興味を持った目で装置を見直した。
 ――味覚の記録と再生だって? だとしたら……。
「ところで、それってもう試すことが出来るのかな?」
 つい口から滑りでた一言だったが、後から考えれば、速水にとってこれが人生の一大痛恨事であった。
 今、自らの運命を定めてしまったとも知らずに、速水は幾分常態に復した声で尋ねた。
「モォチロンですともっ! ささ、ずずいと前へ〜」
 ぐいぐいと背中を押されつつ、速水は「装置」の前に引っ張り出された。
「これが、プレーヤー?」
「ええ、今のところは記録と再生、両方が可能です。本当は記録はともかく、再生の方はもう少しコンパクトにまとめたいところなんですがね」
 笑いをおさめた岩田は、ほんの少し科学者然とした口調と物腰で呟いた。
 思わず速水が振り向くと、岩田はいつもの態度に戻って、
「フフフ、どうしました〜? いくら私の美貌に見惚れても何も出ませんよ〜」

 軽い殴打音が倉庫内に響いた。

   ***

 性懲りもなく復活した岩田の説明によれば、原理的には味覚だけでなく、五感の全てを記録・再生することが出来るのだそうだ。
 それにしても、「五感」の記録など可能なのであろうか? それを解く鍵は五感そのものの感じ方にある。
 そもそも五感とは「視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚」の五つを指す。
 例えばここに一個のりんごがあったとする。これを食する時、私たちはどのように感じているかを考えてみよう。
 りんごの嫌いな方にはまことに申し訳ないが、しばしのお付き合いを願いたい。
 まずは視覚。大雑把に言えば「丸くて赤い物体」という情報が視神経を通して入手される。
 次は触覚。手にしたりんごの感触、あるいは歯ざわり・舌ざわりもこれに入るであろう。このとき一緒に温度(温感)も得られているだろう。
 りんごをかじるあたりで嗅覚にも情報が届き始める。「甘い香りがする」といったところだろうか。
 そしてメインである味覚。これは舌の上にある味蕾(みらい)がさまざまな味を感じている。
 聴覚は? といえば、りんごを咀嚼している時に口内で発生した音がある。それが三半規管に到達することで私たちは咀嚼音を「聞く」のである。
 ただりんごをかじる、という行為の間に、それぞれの感覚はさまざまな情報を受け取り、そして脳に送られたそれに脳内の各部分が反応し、最終的に統合された情報によって「りんごをかじる」行為を認識することになる。
 ただし、このとき注目したいのは、全ての情報は神経を介して脳に伝達される、つまり電気信号の一種でしかないという点である。
 ではこれらの刺激を外部から直接脳に伝達したらどうなるであろうか?
 脳自身は「それぞれの感覚器からの信号を受信した」と判断するであろうから、実際には存在しないりんごを食べているような気にならないだろうか?
 実際、脳の特定の部分に刺激を与えると、被験者にはさまざまな色が見えた、とする実験結果もある。これは視覚野に対して外部から与えられた刺激が反応した実例である。
 この装置は、直接体験している食行為、または過去の記憶を記録し、それを再生することで、あたかも直接体験しているかのように感じさせるわけである。しかも五感全ての再生が可能なのだから、その場実際に食しているのとなんら変わらないであろう。
 説明を受けた速水は、正直驚愕していた。それが本当なのだとすれば、世紀の大発明と言っても差し支えない。
「すごいじゃない、岩田君!」
「フフフ、当然です。僕はエレガントにしてブリリア〜ント! このくらいは日常茶飯事!」
 衛星軌道に届きそうなほど鼻高々な調子で岩田が再び華麗にターンを切った。
「あれ? でも本当に情報のやり取りなんて出来るの?」
 岩田はちっちっちと指を振った。
「ノンノン、いけませんねえ。アナタは、脳磁気入力装置のことを忘れていませんか?」
「あ……」
 速水ははたと膝を打った。
 士魂号の補助情報システムとして、脳磁気の変化を読み取り伝達する脳磁気入出力装置があるが、当然というべきかこれには送受信機能がある。そうでなければ発信は出来ても結果が分からなくなってしまう。それを利用したと言っているのだ。
「なるほど、普通ならバッファで届かない情報が届くように改良したって訳だね。で、入力ってどうやってやるの?」
 速水は既にやる気満々の模様である。その声に岩田はニヤリとした。
「ど、どうしたの?」
「入力、入力ですか? 実はですネェ、電極を脳髄に埋めて、直接情報を採取するんですよ……フフフ」
 岩田の手にはいつのまにかケーブルと電極、そしてなぜかメスが握られていたりして。メスは、薄暗い照明を反射して、異様なほど鋭く輝いた。
 
 ずざざざざざっ!!

 ものすごい音と共に、速水は思いっきり後ずさりした。今の動きならスキュラのレーザーでも楽勝でかわせそうだ。
 壁に張り付いた彼は、全身がまるで熱病に侵されたかのように細かく震えている。
「フフフ、かる〜いジョークですよォ。その方が精度が増すのは本当ですが、普通の脳磁気入力装置の接点を強化するだけで充分に使えました。あなたに傷をつけたとあっては、芝村さんになんと言われるか……フフフ」
 岩田は手をぴらぴらと振って見せる。
 ――い、いや違うっ! 今のは絶対本気の目だった!!
 今更ながらに危険を感じても、時既に遅し。
 部屋の隅に追い詰められた速水に対して、岩田がじりじりと詰め寄っていく。
「いつまで部屋の隅にいるつもりなんですか? 試してみたいんでしょう?」
「い、いや、僕は……」
「試してみたいでしょう〜〜〜〜〜?」
「は、はい、試してみたいです!」
 地の底から這い出てくるような声と例のメイクのどアップに、速水は本田ですら満足するであろう程の直立不動の姿勢で絶叫していた。
「オゥ、なーんとスバラシィ! ワンダホー、ビューティホー、エェクセレェントッ!!」
 一人勝手に熱を上げる岩田を見て、速水は目から滝のごとき涙を流しつつ、うっかり返事をしたことを激しく後悔していた。
 
   ***

「では、そこに座ってください」
「こ、こう?」
 恐る恐ると速水はシートに腰掛けた。使い慣れているだけあってしっくりとおさまる。
「そうです。では、記録装置を下ろしまぁす」
 小さな音がして、ヘルメット状の記憶装置が速水の頭にかぶさった。大脳の各記憶野と信号をやりとりするための接点が頭のあちこちに当たっている。
 大きめな接点の先端は丸くなっているとはいえ、なんとも薄気味悪い。それ以前に普段なら接点が当たったりしない。
「平凡な中の最善」を追求した結果だとは言っていたが……。
 ――そのまま、刺さったりしないよね?
「で、つ、次は?」
 速水の声は少し震えていた。
「こうしますっ!」

 しゅしゅんっ!

 風が鳴った。
 そんな、ほんの一瞬の感覚であった。だが速水は我が身に訪れた大きな変化を発見し、驚愕に目を見開くことになる。
「……ねえ、一つ聞いてもいいかな?」
 本人の予想に反して、口からこぼれ出た声は驚くほどに冷静であった。
「なんですかぁ?」
 くるくると回り続ける岩田を見ながら、速水は己の背中に流れる冷や汗を押し止どめることができなくなっていた。
「頭はともかく……。どうして手足まで固定されてるの?」
 彼は、座っていたシートごと、厳重に縛り付けられていたのだ。
とはいっても、別に亀だの海老だの海産物の名が付いた、特定の趣味の方が大いに興味を抱きそうなものではないが。
「フフフ、もちろん安全のために決まってるじゃないですか。……主に、ワタシのですが」
 岩田がニヤリ、と笑って見せると、速水の不安レベルはあっという間に限界点を突破した。
「ちょ、ちょっと待って!? 身体を固定しなきゃならないような事があるの!?」
 速水は何とか振りほどこうともがいてみたが、縄は小揺るぎだにしなかった。身体のどこかで警戒警報が最大級のアラームを発している。
 ――こ、このままじゃまずいっ!!
 岩田は無言で後退すると、速水に好奇心と探求心に満ちた視線を向けた。その視線はもう冷徹な科学者が実験対象を見つめる時のそれであり、「慈悲」とか「憐憫」とかいう言葉は事象地平の彼方まで探しても見つかりそうにない。
 速水厚志、絢爛舞踏に一番近いかもしれないと噂されるこの男は、今、心の底からの恐怖を味わっていた。
 そう、もう少し続いたら過去の嫌な記憶までぽろぽろこぼれ出てきちゃいそうなぐらいに。
 その時、岩田の言葉がかろうじて耳に届き、わずかだけ意識がそれた。
 それは、ここにはいないナニモノかが恩寵をたれたもうたのであったろうか――
「フフフ、さあ、栄光の一瞬! イキマァスッ!!」
「い、や、だーー!!」
 ――訂正する。どん底にもさらに下はあったらしい。
 速水は、己が絶叫していることすら理解できないほど全身を恐怖に支配されていた。
 性的興奮すら感じているのではないかと思われる程の喜びをあらわにしながら、岩田は最後の言葉を高らかに宣言する。
「合言葉はぁ、ポチっとなァッ!!」
 同時に一際大きな絶叫が響き渡ったが、不思議なことにそれは倉庫の外には一切漏れなかった。部屋の四隅では、小さな銀色に輝く装置が唸りを上げている。
 時々、スパークらしい光が窓を白く染めたが、それだけであった。
 どうやら、速水は最後の最後まで気絶できなかったようである。

 合掌。

  ***

「まったく、あやつはどこに行ったのだ……。毎度毎度探す私の身にもなってみろ、本当にあやつには学習効果というものがないのか」
 なおもぶつくさ言いながら舞が女子高廊下までやってくると、向こうからふらふらと速水がやってくるのに気がついた。
「こら、厚志! そなたは一体今までどこに……厚志?」
 ふと言葉をとぎる。速水はうつろな瞳のまま、舞の方を見てはいるがあまり目に入っていないようだ。
「あ〜。まい〜、元気〜?」
「う、うむ、まあな……ではなく! そなた、一体どうしたのだ? おい、厚志!」
「ふわああ〜、なんかすごかった……」
 その場にへたり込む速水。
「何だ、な、何があった? ヘンなのは元からだが、どうしてこんなに……」
 なにやらこのうえなく満ち足りた表情をしている速水に山ほどの疑念を抱きつつ、何とか立ち上がらせようとしたのだが……。
「ふにゃ……」
「うわっ!」
 いきなり膝が崩れた速水にのしかかられる格好になってしまった舞は、大きくバランスを崩してしまい、その場に盛大にひっくり返った。
「い、いたた……。!! あっ、厚志ッ! そにゃ、いやそなた、どどどどこに乗っておるか!」
 思わず舞の声が裏返ったが、のしかかられる格好で胸に顔を埋められれば、それもいたしかたあるまい。
「……」
 速水は胸の上でピクリとも動かない。
「お、おい、厚志? ……厚志、厚志ッ!?」
 肩をつかんで脳のシナプスがおかしな具合になりそうなほど揺さぶったが、既に速水の思考は闇に飲まれつつあった。
 ――あー、なんか柔らかいな……。
 それを最後に、舞の悲痛とも言ってもいい声を遠くに聞きながら、彼の世界は暗転した。
(つづく)


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