戦友、還らず(その1)
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
(方丈記より)
なるほど、確かに人間には河の流れを変える力などない。うたかたのように消え行くしかない者もあるだろうが、それでも残された人々は生きていかねばならぬ。
これもまた、変わらぬ真理である。
***
熊本市に、初夏の気配が近づいてきていた。朝夕はまだいささか冷えが残っているものの、日中には、すでに季節が変わったかと思うほどの陽光が降り注いでくる。
だが、今日は太陽も少々手加減する気になったのか、熊本市内にある尚敬高校の昼休みは、まさに「うららか」と表現してよかっただろう。敷地の大部分を占める女子高も、そして一角を間借りする第六二高等戦車学校、すなわち五一二一小隊も、大戦闘の後であるとはとても思えぬほどの穏やかさに包まれていた。
だが、人はそうでもない。
行き交う者たちの表情は女子高・五一二一小隊を問わずいささか硬いものが含まれており、わけても女子高の生徒たちなど、プレハブ校舎に向ける視線に明らかな怯えさえも含ませていた。今もまた、何人かがグラウンドを横切ろうとしていたが、その足取りは妙に早く、なるべくプレハブ校舎を見ないよう、慎重に目を逸らしていた。
と、その時。ふらりとプレハブ校舎から人影が現れた。
瀬戸口である。
彼はこればかりはいつもと変わらぬ、飄々とした足取りで女子高の方へと歩いていく。
その姿に先ほどの女生徒たちが気づき、また瀬戸口もそれに気がついたが、そこに生まれた空気は、これまでとは似ても似つかぬものであった。
「よっ、お嬢さん方。今日も見目麗しいねぇ」
壬生屋あたりが聞いたら、速やかに修羅場のひとつでも展開されそうな軽い口調と台詞であるが、言葉をかけられた女生徒たちの反応は対照的であった。
彼女らは悲鳴こそ上げなかったが、一瞬驚いたような表情を浮かべた後、困惑と共にお義理のような会釈をすると、口の中で何かつぶやきながら、さらに足を早めてその場を立ち去ってしまったのだ。
だが、置いてけぼりを食らった瀬戸口は、特にこの仕打ちに怒るでもなく、無表情のまま彼女らを見送っていた。
「……ふん、まあ、こんなものか」
瀬戸口のつぶやきは、彼がこのような声を出すのかと驚くような重いものへと変わっていた。
だが、予想できることではあった。
なにしろ彼は――正確には彼を含む五一二一小隊や、その上級部隊までが――一時は味方殺しの嫌疑をかけられていたのだから。
現在その疑いは、彼ら自身が身の潔白を証明する形で、公式にはすべて晴れたことになっていた。それでも、いまだに周囲の彼らを見る目に大きな変化があったとはいえなかった。
曰く、彼らは味方を殺す。
曰く、彼らに援護されると、生きては帰れない。
まことに厄介なのは、前者はともかく、後者については、状況だけ見れば、部分的には真実であり、かつ現在も繰り返し再現されている事実である、ということである。
裏を返せば、五一二一小隊を含む士魂号装備部隊――通称「芝村中隊」が、遊撃戦力として火消し的任務が多く、大抵の場合は味方が苦境に陥っているときに参戦を要請されるからにほかならぬ。ただ、最近ことさらにその手の任務が急増したのは、味方殺しの部隊に対する懲罰行為である、あるいは反芝村派による意図的なものであるという噂もある。
いずれも今のところ類推の域を出ていないが、ろくなものではなかった。そしてこの類推も、おそらくはまたいくばくかは真実を含んでいるために、なおのこと始末が悪い。改善を図ろうにも、どこから手をつけたらいいのかさえ分からなかった。
かように、いったん定まってしまった評価を覆すのは難しく、変えるためにはとてつもない労力を要求されるものなのである。
……今の瀬戸口の行動が、変化を期待する努力であったかどうかについては、また議論が必要であろうが。
「……ま、これも時間が解決するってやつだろ。いきり立っても仕方がない。なるようになるさ」
――なんとかしようとしてる奴も、いないでもないしな。
彼は視線をプレハブ校舎に、次にそこから少し離れた小さな建物へと移した。そこでは確かに改善の努力が図られているはずであった。
――もっとも、それでも取り戻せないものもあるけどな。
「分かってても、それでもやるんだな? 速水……。それもまあ、人それぞれ、か」
口調とは裏腹に、瀬戸口の表情に、わずかに苦いものが混じった。
後に「士魂号ゾンビ事件」と呼ばれる一連の騒動、そのそもそもの始まりもまた、ひとつの噂であった。
士魂号が味方を襲う、という迷惑極まりない風聞が流れ始めたのは、今からおよそ二週間ほど前のことだった。
最初はデマ、あるいは程度の低い謀略として、不快ながらも相手にしていなかった小隊の面々も、やがていくつかの事実を目の前に突きつけられ、否応なく認めざるをえなくなってしまった。
五一二一小隊の眼前で、友軍の一個小隊が一機の士魂号に殲滅させられるさまを見せつけられては、これはもう疑えるはずもなかった。
だが、襲ったのは彼ら自身ではない。
その「士魂号」とは、数日前の戦闘で大破し、彼ら自身が放棄したものだったのだ。
残骸と成り果てたはずの士魂号は、幻獣によってかりそめの生を与えられ、士魂号ゾンビとして蘇ってきていた。
しかも、士魂号ゾンビはそれ一機ではなかった。少なくとも七機の機体が敵として行動していると考えられていた。
士魂号ゾンビによる損害は、日を追うごとに右肩上がりのグラフを描き、それに引きずられるようにして、五一二一小隊を始めとする士魂号を装備する部隊への風当たりは強くなっていった。
彼らは、これ以上の損害をくい止めるべく、また自らの無実を証明すべく、士魂号ゾンビと対決することになったのであった。
***
瀬戸口が不快な現実に耐えていたころ、隊の中枢たる小隊司令室もまた、別種の現実と向かい合っていた。
小隊司令室といっても、実態はこじんまりとしたプレハブ造りにすぎないが、独立した建築物であるというだけでも、この小隊ではたいしたものであった。
窓は開け放たれており、柔らかな風が室内を遠慮がちに通り抜けて行く。その流れに、速水はふと顔を上げた。
時計を確かめ、すでに昼を回っていることにいまさらながらに気がついた彼は、背もたれに体を預けると、大きく伸びをした。司令席の椅子はスプリングをきしませながら、主の要求に不承不承ながらも従う。
そう、この席の主は現在速水であった。
「速水君、あ、すみません司令」
指揮車ドライバーにして事務官でもある加藤が、いささか慌てたような声で訂正するのを聞いて、速水は小さく苦笑を浮かべた。
「速水でいいよ。いきなり司令と呼べっていっても、すぐに変えるのは難しいでしょ?」
「そらまあ、今までの慣れちゅうもんがあるからなあ、あ、いや、ありますから」
今度こそ本格的に、速水はおかしそうに笑い声を上げた。
「だから、そんな無理しなくてもいいってば。こっちもそうかしこまられるとやりにくいよ」
「そ、そうなん? ……ほな遠慮なく。未決の書類そろったんで、悪いけど目ぇ通しといてや」
「そうそう、その調子。ただし……」
「分かってる。他に誰もいない限り、やろ?」
加藤は心得顔でウインクしてみせた。
「そういうこと」
善行もそうであったが、速水は小隊司令であることを必要以上に見せびらかす気はこれっぽっちもないようだ。権威も権力もあくまで必要十分な最低限あればよく、それで小隊が滞りなく運営できれば構わないと考えている節があった。
だが、それと公私の区別は別である。
これは加藤にも十分に理解できた。連帯と馴れ合いはまったく違うものであるし、なにより規律のない軍隊ほど色々な意味で恐ろしいものはないのだから。
――それに付け加えるなら、舞ちゃんがあまり嫉妬しない程度に、かな。
加藤とて想い人のいる身である。そのあたりの機微については分からないでもない。加藤にはいまさら舞と鞘当するつもりなどさらさらなかったが、いらぬ火種はばら撒かぬに越したことはない。
そのあたりはさすが十分に心得たものであった。
「ほんなら、まだまだ書類が待ち受けてるんで、悪いけどちゃっちゃと頼むで」
「うん。そっちもよろしく」
「まかしとき」
速水は自席に向かうと、表に『未決』と書かれた箱から書類を一枚取り出し、ざっと目を通す。
士魂号の装備補充に関する申請書だった。
彼は素早く内容を確認し、問題ないとみると押印した上で『既決』と書かれた箱に放り込んだ。不明確な点や、珍しいことだが書類の不備については加藤に質問し、明確な答えがないものについては差し戻す。そのサイクルを、素早いというほどではないが、途切れることもなく一定のペースで倦むことなく繰り返していた。
机から顔も上げずに黙々と処理を続ける速水に、加藤はひそかに感嘆の視線を向けていた。
――なんや、えらい小隊運営のことよく分かってるやん。まあ、士魂号がらみのことは当然としても、いつの間に勉強したんやろな?
普通なら何から手をつけていいかも分かりかねるはずである。そのために通常はしばらくの間引継ぎ期間が存在するわけだが、見たところ速水と善行の間にはまったくそのような時間は設けられていなかった。それだけになおのこと、速水の手際が水際だって見えるのだ。
――なんだかうちら、速水君の事勘違いしてたんやろか? どうもそんな気がするわ。
「加藤さん、さっきの補助金申請の件、申請書式は分かったのかい?」
不意に声をかけられ加藤は一瞬うろたえたが、すぐに手元を確認した。
「それは今、司令部の方へ確認の連絡入れてる。しばらくしたら返事が戻ってくるはずやから、もう少し待ってえな」
「分かった。よろしくね」
――こういうところは、善行はんとよく似てるわな。
仮に不備があっても、努力の結果のことであれば決して声を荒げず、軽く指摘することで自ら気がつくように仕向ける。賞罰は素早く、しかも後に引かない。
おそらく、彼が容赦しないのは無能ゆえに引き起こし、しかもそれを改める気がない場合であろう。加藤はなんとなくそんな気がしていた。そして同時に、そんなミスで怒られるのはごめんこうむるとも。
――こら、気ぃ入れてやらないかんな。
別に今まで気を抜いていたわけでもないが、慣れてきたこともあって単なるルーチンワークに堕していたところがあったかも知れぬ。現にかつてなら考えられないようなミスも、ふたつほど見つかっていた。
加藤は軽く頭を振ると、今初めて見るような目で、書類を確認し始めた。
彼らの「戦闘」の開始である。
***
速水が司令席にいることになった経緯を説明するには、少々時間をさかのぼる必要があった。
誰にとっても厳しいものとなった最後の士魂号ゾンビとの戦い、それがかろうじて五一二一小隊の勝利に終わった日からさほど時間をおかないある日のこと。善行は小隊会議の開催を提案した。
それだけなら小隊司令としての権限でまったく問題ないのだが、この会議がいつもと違ったのは、小隊全員に対して必ず出席するよう求められたことであろうか。
結果として、小隊メンバーの大半は朝も早くから寝ぼけ眼で参集したわけだが、善行が口を開くと、一同の眠気などはるか彼方に吹き飛んでしまった。
「私は、本日只今をもって五一二一小隊司令職を退き、関東へ転出することとなりました。後任には三番機パイロットである速水君を指名します」
突然のことに誰もが言葉を発することを忘れ、次の瞬間には蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。今回の事件にかかわる召還か、そう考えたのか、不安そうな目を見交わす者たちもいた。
だが、確かに九州軍に与えた影響は深刻であるし、この小隊をはじめ少なからぬ損害を受けたとはいえ、その分すべての士魂号ゾンビは撃破し、士魂号装備小隊一同、通称「芝村中隊」に対する嫌疑は完全に晴れたはずであった。であれば、善行がその責を負う理由などどこにもない。一部の者は陰謀説さえ考え始めたほどであった。
善行は黙ったまま、その様子を眺めている。
「静粛に」
果てしなく続くかと思われた騒ぎは、あっけなく終息した。それは場を遮った、たった一声がもたらしたものであった。
決して大きくも荒くもない声だったが、それだけで一同は言葉を発することも忘れ、声の主を呆然と見やった。あるいはそれが、普段からは想像もできないほど静かな、そして強制ではなく、むしろ自発的に命令に従わせるような、要するに善行と同種の響きを帯びていたからかもしれない。
一同が静かになったことを確かめると、声の主――速水は静かに立ち上がった。
「この件について、君たちが想像しているような事実はありません。ですから、どうかその点については安心してほしい」
先ほどとは別種の驚きに、一同は声もない。普段は春風が服を着ているようなぽややんが、よもやこのような声を出し、悠揚迫らぬ態度で一同に対しようとは想像もできなかった。ただ、ごくわずかではあるがそれを黙って見ている目があったのもまた事実であった。
「速水『新司令』の言うとおりです。私にも少し考えがあってのことです。すぐに結果が出るとはいえませんが、皆さんにも関係のあることだ、とだけは言っておきましょう。速水司令、この小隊を頼みます」
善行は「新司令」というところを特に強調すると、さっさと席に着く。それに速水は黙ってうなずいた。
この一連のやりとりが善行の挨拶であり、また新旧司令の引継ぎであったと一同が気がついたのは、しばらく後のことであった。
それだけでも小隊にとっては衝撃であったが、続いて原が立ち上がって放った言葉は、更なる混乱を招くこととなった。
「なら、私もここで言っておいたほうがいいかしらね。私も司令同様、関東への転出が決まりました。整備班長の後任には森さん、あなたにお願いするわね」
声だけ聞くなら、近所に買い物にでも行くような気楽さであったが、言われた方はたまったものではない。
「ええっ!? い、いきなりそったらこと……いえ、そんな事言われても、っていうか、あれ、本当だったんですかっ!?」
椅子を蹴倒しかねない勢いの森に、原は心底不思議そうな表情を浮かべた。ただし彼女の目を見た瞬間、森の背筋に震えが走った。
「なあに、冗談だと思ってたの? 残念ながらこの件は本気も本気よ。司令、そういうことでいいですね?」
「承知しています」
承認を与えた速水の後ろで、善行はそっと眼鏡を押し上げた。光の関係で表情までは分からない。
「ちょ、ちょっと待ってください! そんな承知したなんていきなり言われたって……」
「森さん、僕らはなにも、君に無理なことをやってくれと言ってるわけじゃないんだ」
「言ってるじゃないですか! 無理ですよ、私は先輩じゃないんですからっ!」
「その通りだよ」
「……え?」
意外な返答に森が思わず聞き返すと、速水は静かな瞳で彼女を見据えた。深く吸い込まれるような青い目に、森は思わず言葉を詰まらせた。
「その通りだ、と言ったんだよ。君は原さんではない。僕も君に原さんになってくれと頼むつもりはない。確かに今まで責任を負う立場に立ったことがないから、不安に思う気持ちがあるのは分かる。だが君だって、整備の要としてできることをやってきたはずだ」
「それは、そうだけど……」
いささか戸惑いながらも、森ははっきりとうなずいた。自分だってまったくの無力ではない。それはこれまでの整備の中で、――原の監督下であったとはいえ――自分なりにやり遂げてきたつもりではある。
速水はいつもの笑みを浮かべた。
「それで十分だよ。君には君にしかできないことがある。それを今まで通りやることで、僕を助けてほしい。そうお願いしているんだ。……それに不安なようなら言っておくけど」
速水の表情に、どこか皮肉めいたものが加わった。
「君が責任云々について心配することはない。ここは軍隊であり、軍隊である以上、命令に対する責任は最終命令権者である僕、つまり小隊司令が負うことになる。だから君がたとえどんな不始末をやらかしたとしても、それが僕の命令である以上は気にする必要はないよ」
これまたまるで、明日の天気について答えるような口調であったが、それを聞いた瞬間、森の顔が火をつけたように赤く染まった。
「ちょっと待ってよ! なによ、そのどんな不始末をやらかしても、ってのは! 私が今まで、そんな不始末をやらかしたことがあるとでもいうつもりなの!?」
「んー、僕の記憶では特にないね」
「そうでしょう!? 大体、私が自分でやったことに責任も取らないなんて思われるのは、はなはだ心外です! 少なくとも整備に対して責任を負っている以上、自らの職務は十分に果たしてみせます!」
「うん、ならこの件に関してはまったく問題はない。そう了解してもいいってことだよね?」
ここまで言われて初めて、森は自分が勢いに任せて口走った事に気がついた。慌てて周りを見回すが、あまりに見事な引っかかりっぷりに、誰もが苦笑か、仕方なさそうに肩をすくめている。
森の顔に、ますます血が上ってきた。ただし、理由は先ほどまでとだいぶ違う。
「あ、あの、あの、私……」
「自らの職務については、責任を持つんだよね?」
「あ、いや、それは、そうだけど……」
「速水君、いや、司令。申し訳ありませんが、あまりからかわないでやってもらえますか?」
原が苦笑を顔に貼りつけてたしなめるが、口調はすでに、まぎれもない上官に対するそれであった。
「森さん、司令の話にもある通り、別にあなたにたった今から全部できるようになってくれって言ってるわけじゃないの。ただ、私もあなたには今までいろいろ教えてきたつもりだし、それを思い出してほしいとは思ってる。実のところ、普通の整備じゃやらないようなことも、結構あなたには教えてるつもりなのよ?」
――生命の危険を招きかねないことも混ざってるけどね。
原は、後半は口の中だけでつぶやいたので、誰の耳にも届くことはなかった。
「そ、そうなんですか? でも……」
「森さん、僕からもお願いする。今は言えないけど、善行さんも原さんも、関東に行くのは必要あってのことなんだ。ふたりがいなくなるのは確かに厳しいけれど、僕もやるべきことは一生懸命やるつもりだ。そしてみんなにもお願いしたい。みんなの力を、僕に貸してほしい」
そして速水は、ゆっくりと立ち上がると、
「――どうか、お願いします」
深々と頭を下げた。
その姿に一同はしんと静まり返った。彼の声は先ほどまでと威厳さえ含んだそれとはまた違い、いつもの彼の素直さと、真摯な願いにあふれていたのだ。
沈黙を破ったのは、舞であった。
「……もとより言われるまでもない。我らは我らがなすべきことを十分にわきまえており、それは皆も同様だと思う。そなたは我らに、ただ命令すればいいのだ」
恋人である舞の言葉であるから、それを直ちに鵜呑みにするのは危険であるが、今までやってきたことをすればいいのならやりようもある。舞の言葉は周囲に少しずつ広がっていき、うなずくものも現れ始めた。
「司令、どうやら答えは出ているようですね。……皆さんも、よろしく頼みます」
善行の言葉に反対する者はいなかった。この瞬間をもって、速水は五一二一小隊を正式に掌握したのだ。
室内の雰囲気がなんとなく落ち着いたのを見計らい、速水は司令として、最初の「任務」を行った。
「それでは、これで朝の会議を終了します。本日の授業は通常通りなので、各自遅れないように。解散」
立ち去るメンバーに対し、速水はごくさりげなさそうに視線を送っていた。彼ら・彼女らの表情は、いまだ納得と全幅の信頼からは程遠い位置にいた。
速水の、自分自身に対する評価も似たようなものなのだから、世話はなかった。
短い期間とはいえ、苛烈な経験もくぐり抜けてきた小隊である。指揮官に対する評価の仕方も、おのずと身につけているだろう。ならば、いかに優秀なパイロットであったとはいえ、いまだなんの実績もない未知数の司令をそう簡単に信用するはずもない。
ましてや、就任早々に小隊のナンバーワンとツーの実質的脱落という事態は、普通に考えれば重大事件であり、速水自身の指導力に深刻な問題を生起せしめるはずであった。普通ならそのまま小隊が分解してもおかしくはない。
だが、「脱落」した当の本人が速水の就任を望み、彼を支持したこと、なにより速水自身の言葉によって、一旦保留されているに過ぎないのだ。
それでも、普段のぽややんとまた違う悠揚迫らぬ態度が、ある種の落ち着きを与えたのは間違いないようだ。そうでなければ今頃どうなっていたか見当もつかない。
――第一関門、突破というところか。
実際にはようやく扉にたどり着いた程度かも知れぬが、何も進まないよりはよほどましである。
何人かが立ち去り際に、速水のほうを横目でちらりと眺めていった。その目にはどこか値踏みするような光がありありと浮かんでいる。
――ま、無理もない。
新米司令と言う事実はくつがえりはしない。だが同時に、数々の戦闘をこなしていく中で、彼ら学兵は猛烈に現実的な思考を身につけるようになっていた。
指揮官の評価を素早く定めるというのもそのひとつであるが、なによりも、小隊司令を不在にするわけにはいかないという判断もある。
軍隊において、司令官が無能というのは大変に困りものであるが、それでもいなくなってしまっては、命令を下すものがいなくなり、指揮系統に多大な混乱をもたらすことになる。上級者不在時の訓練もしているとはいえ、わざわざその状態に陥る必要はなかった。
となれば、司令適性については未知数もいいところであったが、ともかく頭がいるというのは一定の安定感を彼らにもたらしていた。そもそも司令にふさわしいかどうかなど、会議室で云々していても分かるものではない。業務で、あるいは実戦で証明されるべきものであった。
その機会は、これから嫌というほどおとずれるはずである。
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