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冬支度(終話)


 天板の穴に簡単な補修を済ませると、舞の前に湯飲みが置かれる。
「その……すまぬ」
「まったくもう、買ったばかりなんだから、もう少し大切に使ってよね」
「あ、あう」
 舞は、穴があったら自分で開けた針のそれでも潜り込んでしまいそうな勢いで小さくなっていた。速水は舞を軽くにらむように見つめていたが、ふとその表情がやわらげられる。
「まったくもう……はいっ」
 いきなり出現したみかんの小山に、舞は目を丸くした。目を数度しばたたかせた後、恐る恐ると速水の方を向くと、彼は笑顔を浮かべているではないか。
「その、いいのか?」
「天板に縫い付けちゃうくらいに気になってるなら、止めるのもなんだしね。いいよ、好きなだけ食べて」
「しかし、予備が……」
「実はね」
 速水は背後から、なんでもないように木箱をもうひとつ取り出した。突然のことに珍しくも舞の目が丸くなる。
「こんなこともあろうかと思ってさ、もうひと箱買っておいたんだ。こっちを開けずにストックにするから、気にしないでもいいよ」
「そ、そうか。……その、すまぬな」
「どういたしまして」
 速水が微笑むのを見て、舞はようやくみかんの山に手を伸ばした。

 しばしの団欒、他愛のない会話が空気を満たす。それはなんということのない、だがどこか暖かい時間でもあった。
 機体の整備、訓練のこと、勉学のこと、そして町での買い物からどこのお茶がうまいかなど、それはもう脈絡のないものである。それでも会話は弾み、時おり笑い声が上がる。
 と、速水の足先に何かが触れた。やわらかい感触に、速水の胸がわずかに高鳴る。
 ――えっ? これって、もしかして?
 彼はちらりと舞を見るが、彼女はといえば、許可の下りたみかんをうれしそうにほおばっていた。
「ん? 厚志、どうかしたか?」
「あ、いやその、なんでもないんだ、ハ、ハハハ……」
「?」
 舞の頭上にはてなマークが乱舞していたが、軽く小首を傾げただけで、再びみかんに集中する。速水は背中でだけ冷や汗をかきながら、そっと胸をなでおろした。
 ――やっぱ、さっきのは気のせいかなあ。そうだよなあ、本当に触ってたら、平静でなんていられないだろうし。
 現に彼自身が常になく焦っているのだから。
 それから再び会話は続いたが、その間も速水の脳裏からは先ほどの感触と、そして舞と一緒のコタツに入っているという事実が、いまさらながらに離れなくなっていた。
 そう、ほんの数一〇センチ足を伸ばせば、舞がいる。
 奇襲じみた感じではあるが、すでに幾度となく共に夜を過ごしてきた間柄である。今さらこのくらいで何か言われるとも思えなかった。
 ……なんというか、これはやはり互いの理解が深まった結果であろうが、機会があればそれを逃さず行動しようとするあたり、速水もやっぱり男であった。
 意を決すると実行は早い。
 速水は、普段のぽややんが偽装かと思うような――ある意味においては事実であるのだが――素早さで計画を立案・整理し、いくばくかの修正を加えた上で、ただちにそれを実行に移した。
 そろり、と足を舞のほうへと伸ばしていく。
彼女はこの異変に気がついた気配はまったくなかった。速水の足は寸を刻むがごとき慎重さで、じりじりと舞に向けて足先をにじり寄らせていく。
 慎重にして大胆、繊細にして果断。
 これが彼をして、生徒会連合九州軍のトップエースに押し上げた主要因ではあるのだが、なにもこんなところで発揮するこたあないじゃないか、と思わないでもない。
 だが、男にはそれでもやらねばならぬ時がある。苦戦すると分かっていても、よしんば負けると分かっていても戦わねばならぬ時がある。
 今がその時かどうかは知らないが。
 それにしても、上では平静を装って会話を交わしつつ、下では奇襲作戦を平然と実行する。そのあたり、なんとも器用なやつであった。
 少しずつ、少しずつ、速水の足は舞に向けてにじり寄っていく。両者の間は三〇センチが二〇センチになり、一五センチになり、やがて一〇センチとなった。あとひと伸び、もうひと伸びすれば、舞の下へ……。
「厚志」
「あ、な、なに?」
 心臓が妙な具合に胸の中で跳ね回る。速水は声を裏返さずにいるのが精一杯であった。
「そなた、頭の位置がずいぶん下がっているが、段々と縮んでいるのか、それとも暑さで溶けてでもいるのか?」
 舞は不思議そうな声を上げたが、そりゃ、目の前で段々と速水が下に消え去っていくさまを見れば、疑問に思わないほうがどうかしている。
 自分に向けられた疑問に対し、速水の脳はフル回転で計算を行い、回答を出した。
「いや、なんだかコタツの中って気持ちよくってさ。ちょっと潜ってみようかな、なんてさ、ハ、ハハハ……」
「中に潜るものではない、と言っていたのはそなたではなかったか? まあ、別に構わんが……。あまり中にいると、のぼせても知らんぞ?」
「大丈夫大丈夫、僕、熱いほうが好きだから」
 そんな事実はない。ないのだが、そうでなければ怪しさ全開である。
ともあれ、しれっと下した速水の回答に一応納得したのか、舞は自分の手元に意識を戻した。
 これで計画を邪魔するものはいない。
 ……そのはずだった。
 だが彼は、ひとつ重要な要素が抜けていることにまったく気がついていなかったのだ。彼が気がつくよしもなかったが、コタツの中で舞とは別のモノが、もぞもぞとうごめいていた。先ほど、異様なまでの緊張感に包まれたせいで、一度は室外に退避していた猫たちが戻ってきていたのだ。
 それでも子猫たちは、まだ先ほどの緊張が抜けていないのかストーブのほうに集まっていたのだが、ただ一匹マイだけは、安全になったと判断したのか、一足先にコタツの下へともぐりこんでいた。そして彼女の現在位置は、ちょうど速水と舞の間である。
 ――よしっ。
 やや勢いをつけて、速水は舞の足に触れる――はずであったのだが、そこにいたのはマイであったからたまらない。やたらと柔らかな感触に、速水は怪訝な表情を浮かべた。
 ――あれ、舞ったらウールか何か履いてたっけ? も、もしかして、いきなり変なところに足を突っ込んじゃったんじゃ……って、え?
 次の瞬間、速水の足先に強烈な痛みが走った。
いきなり顔に靴下を押し付けられたマイが、思いっきり「敵」に向かって噛みついたのだ。
 普段なら速水に対して間違ってもそんなことはしないだろうが、顔を踏みつけられて怒らない猫などまずいない。ついでにあちこちまさぐられ、おまけに顔も見えず、突然のことでとっさの判断がつかないとなれば、これはもうある意味当然の反応であった。
「うあっ!?」
 これに驚いたのは舞である。
今まさにみかんを口にしようとした舞は、いきなり速水が大口を開けて飛び出したのを見て、彫像のように動きを止めてしまった。目の前の速水は、口をあけたまま動こうとしない。傍らをマイがすごい勢いでダッシュしていったが、それにも気がつかないほどであった。
 舞は速水を見て、次に自分の手元を見た。その中から考えられる状況をシミュレーションし、程なく結論を得たが、ほぼ同時に、彼女の顔が見る見る朱に染まっていく。
 ――こ、これはつまりそういうことか? こやつはそういうことを期待しているというのかそうなのか、しかしその、なんともこの表情は……、で、でも、ほかに考えようがないではないか。とすれば私のなすべきことはひとつと言うことになる。うん、そうだ間違いない!
 心臓が痛いほどにビートアップを繰り返し、顔を汗が滝のごとく伝い落ちていく。事態の急展開と自らの結論で、舞の頭脳は沸騰し、短絡し、行動を求めた。
「わ、分かった。厚志……心して食らうがよい!」

 ……姫、いささか表現が間違っておりまする。

 ともあれ舞は己の結論に従い、手にしていたみかんをひと房、速水の口の中へと押し込んだ。

 ――え?
 甘酸っぱい味覚で、速水の意識は急激に現実へと引き戻されていった。二度、三度と咀嚼するにつれ、果汁が急速に口中へと広がっていく。
 眼前では舞が、顔を完熟トマト並みに染めながら手を突き出していた。みかんを口に押し込むときに指が彼の唇に触れ、慌てて引っ込めたら今度は指先が自分の口に触れ、さらに動揺するという忙しい姿を展開している。
 彼は自分の身に何が起きたのか、いまだ把握しかねていたが、どうやら奇襲は失敗したらしいことだけはよく分かった。
 ――まあ、そうだよね。いきなりあんなことされたら誰だって……。でも、怒ってないのかな?
 彼は試しに、もう一度「あーん」と言いながら口をあけてみた。すると神速の勢いで舞の手が突き出され、みかんが押し込まれる。事態を確信した速水は、満面の笑みを浮かべた。
 最初は緊張に心臓が飛び出しそうであった舞も、その笑みを見るにつけ、徐々に落ち着きを取り戻していた。やがては速水が同じようにみかんを差し出すのを、どぎまぎしながら口で受けるのであった。
 これがいわゆるひとつの「伝説のあーん攻撃」であった。

 ……あー、なんというか、まあ。
 もう、好きにやったんさい。


   ***

 かように莫迦莫迦しくもへんてこな騒ぎは収束を迎え、再び穏やかな時間が流れ出した。
外の風は窓枠を揺さぶり、その存在を示している。速水が窓外を覗き込むと、漆黒の中にわずかに街灯の白い光が抵抗を続けていた。窓ガラスからは冷気が伝わってくる。
「外の風、すごいね」
「そうか、ではだいぶ寒いのだろうが……私はコタツに感謝せねばならぬな」
「感謝?」
「これのおかげで、私は凍えずとも済むのだからな。このようによいものがあったとは、まったく知らなかった。世界は広いものだ」
 すっかり気に入ったのか、両手までこたつぶとんの中に突っ込んで温もっている舞が、猫のように速水には見えた。
「コタツに感謝、ねえ……。じゃあ、僕には?」
 速水の口調に何かを感じ取ったのか、舞は顔を上げると彼の顔を見つめ――唐突に噴き出した。
「どうしたのさ?」
「なんだそなた、コタツに嫉妬しているのか? むろん、そなたにも感謝しているに決まっているではないか。これと引き合わせてくれたのはそなただからな。ただ……」
「ただ?」
「そなたは嘘つきだな」
 肩口まで布団にうずもれた舞から笑顔のまま言い放たれたとんでもない台詞に、速水は思わず口を尖らせた。
「嘘つきぃ? なんでさ」
「嘘つきではないか。そなたは私に面白いものがある、そう言ったな」
「そりゃ言ったけど……でも」
 舞は反論を許さない口調で、速水の言葉をさえぎった。
「これは面白いものではない。心地よいものだ」
 速水は一瞬あっけに取られたが、やがて苦笑がにじみ出てきた。舞もしてやったりという笑みを浮かべている。
「ああ、そうか。なるほどね。……じゃあさ、せっかくだから、その心地よい中でご飯にでもしようか?」
 速水の提案は、熱烈な歓迎をもって承認されたのであった。

   ***

 みかんに資金を吸い取られたか、夕食はご飯に味噌汁、合成白身魚のフライに同じく合成のキャベツというかなり簡単なものであった。それでも温もりの中、団欒とともに食すれば、そこらのレストランにも負けるものではない。
 にぎやかのうちに食事が終わり、速水が片付け物を済ませて戻ってくると、舞は下半身をコタツにうずめたまま、静か

な寝息を立てていた。
 姿勢は実に漢らしい、大の字であったが。
「あーあ……、でもまあ無理もないか。今日はいろいろな体験をした日だもんね」
 その表情は子供の成長を見守る慈父にも似た光があったが、ふとそれがゆがめられた。
 急にコタツが寒くなったような気がしたのだ。
「あれ?」
 中を覗き込んでみると、赤外線灯が消えている。故障かと思って立ち上がりかけると、再び赤外線灯が赤々と灯っているではないか。
「あれえ、おかしいなあ?」
 コタツには確かに温度調整機構があるのだが、それにしては少し切り替えがせわしなさ過ぎる。もう一度点検しようと腰を浮かしかけたところで、速水の目にとある光景が飛び込んできた。
「ああっ?」
 大声を上げかけて、慌てて口元を押さえる。よく見れば、舞の手はコタツのスイッチを握り締めており、ちょこまかとオンオフを繰り返しているではないか。
「もう、しょうがないなあ。ほら、そんなにスイッチをいじったら、壊れちゃうよ」
「ふにゃ」
 スイッチを取り上げられ、一瞬だけ寝ぼけ声で抵抗する姿勢を示した舞であったが、すぐに再び眠りの世界に落ちていったのか、静かになった。
「やれやれ……ありゃ?」
「ん、暑い……」
 天板がごとごととうごめくと思ったら、舞は今度はなんと、もぞもぞと布団から出たり入ったりを繰り返すようになってしまった。温度の微妙な変化に合わせて出入りを繰り返すこの姿には、さすがに速水も呆れてしまった。
「なんかこう、すっかり順応したというか……。これって、こたつむりっていうのかなあ?」
 ただ、呆れはしたものの、あまりとがめる気にもならぬ。
 今でこそ、このようなのんきなことをやっているが、冬が明ければまた春がやってくる。春がやってくれば――。
学兵にとっては、戦争の季節だ。
 ならば今は、温もりと平穏のときに身を任せ、楽しんだっていいではないか。ひとたび戦いの中に身を投じれば、再びそのような贅沢を味わえるかどうか分からないのだから。たとえ自ら好んで戦うとしても、その程度の安らぎはあっていいはずだった。
 ――ましてや、すべてに真剣であろうとする君のことだから、ね。
「おやすみ、舞」
 速水は舞に毛布をかけてやり、その頬に軽く口付けをすると、自らもコタツにもぐりこみ、眠りについた。

 コタツを中心とした、ささやかな世界。
 せめて今は、そのひと時が長く続かんことを。
(おわり)


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