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Tell me 〜You are not alone〜(その1)


 体力と気力は、ある一定の範囲で相互補完の状態を保っている。いささか気力が落ち込んでいようと体力にものをいわせてその場をしのぐということは可能だし、「病は気から」の言葉通り、充実した気力はある程度体力の低下を補うことができる。
 とはいうものの、それはあくまで一時しのぎでしかないこともまた確かで、それが限界を超えた場合には……。

   ***

 この日、芝村舞の体調は最悪だった。
 昨夜――いや、もう今朝――は四時まで整備にかかりきりで、夜の冷え込みのせいか体の節々が悲鳴をあげている。それをどうにかなだめつつ、降りしきる雨の中帰宅する頃には、どんよりとした空にうっすらと白さがさしこみ始めていた。
 ドアを閉めるのももどかしく、舞はそのまま一歩歩くごとに制服を次々と脱ぎ捨てていった。シャワーを浴びたかったが、節々の痛みはいっそうひどく、体は一刻も早い休息を欲していることを主張していた。
「まあ、出る前にでも浴びればよかろう……」
 ――弁当も作らねばならぬから、そのときしっかり目を覚ましたほうがよいな。
 舞はいよいよ朦朧としてきた頭でぼんやりと考えながら、一時間ほど休むつもりで下着姿のままベッドに倒れこむ。
 もぞもぞと布団に潜り込んでいるうちに、たちまち睡魔としとしとと降る雨の音が、意識を闇の中に引き込んでいった。

 次に目が覚めたとき、ここ数日来続いていた雨もどうやら降るのに飽きたらしく、部屋は清々しいまでの朝日に満たされていた。ただし部屋の持ち主は未だ夢の国への進軍から帰還していない。
 とはいうものの、朝日の効力に逆らえるわけもなく、舞は光に活力を与えられたかのようにもぞもぞと動き出した。ただし、その寝起き姿は本人の名誉のために言わないほうがいいくらいのものではあった。
「……んにゅ? 今、何時だ?」
 眠気の取れないままごそごそと時計を探し、手にとる。
 時間は――七時三二分。
 数秒間時計の盤面を睨みつけた。急激に意識が覚醒する。
「いかんっ!」
 舞は慌ててベッドから飛び起き――ようとしたが、体が全然ついてこなかった。体の痛みはますますひどくなっているし、頭痛も一向に収まろうとはしない。それに全身がなんとなく熱いにもかかわらず、体が布団とこすれたりするたびに悪寒が全身を走った。
「しまった……」
 そう呟きながらも、ここ数日間の無茶な整備と不規則な生活、おまけに昨夜の冷え込みを考えれば無理もないかも知れぬ、と頭の片隅で妙に冷静な感想を抱いた。
 だが、このまま寝ているわけにはいかない。学兵としての責務をおろそかにするわけにもいかないのだ。
 それに、と舞は思う。
 ――私が風邪をひいたなどと知れば、あやつがまたなんだかんだと言って気をもむに決まっておる。芝村たる者そのような気遣いを受けて弱さを見せるわけにはいかん。
 少なくとも速水に言わせれば「何をいまさら」であったし、彼自身芝村を名乗ることのできる身なのだが、少なくとも舞の思考はそこまで及んでいない。
 何とか起き上がり、当初の予定通りに行動すべく台所へ向かおうとしたが、足元がなんとなくふわふわして頼りない。一歩ごとに悪寒が走り、数歩歩いては壁に手をついてしまうような今の状況ではまともに料理ができるとは思えなかった。
「やむを得んな。不本意ではあるが弁当はなしだ。厚志にはあとで詫びるとしよう。ともかく出かける準備をせねば……」
 舞はそのまま浴室へと向かった。焼けつくような熱いシャワーで、少しでも頭をすっきりさせようとしたのだ。
 もちろんそれは無駄な抵抗だったのだが。

   ***

「あれ?」
 いざ出かけようとして、速水は目をぱちくりさせた。普段なら靴箱の上に控えめに置かれている弁当箱が見当たらない。
「おっかしいなあ? 舞、寝坊でもしたのかな?」
 一応周囲を捜索してみたがやはり見つからない。速水はちょっとがっかりしたが、それも仕方ないかな、とも思う。
 このところの徹夜まがいの整備続きで、舞を上回る体力を持つ自分ですら、少しでもじっとしているとふっと意識が遠ざかりそうになることがある。いくら芝村として生きる事を自らに課している舞といえども、生理的な限界だけはそうそう超えられるものではない。
「たまにはこんなこともあるよね……」
 そう言いながらも、今日こそは一言言わねばとも思う。
 とにかく舞は自らを律するあまり人に頼るということを知らなすぎる。これでも配属当初に比べればだいぶ変わってきたほうなのだが、傍で見ている速水としては、気をもむことしきり、である。
「……舞、大丈夫かな?」
 そう思ったときには、既に足は舞の家の方を向いていた。

「あれ? やっぱりいない……」
 結局会えずじまいのまま教室まで来てみたが、そこに愛しい彼女の姿を見つけることができず、速水は再び目をぱちくりさせた。
「おう速水、なにキョロキョロしてんだ?」
「あ、滝川、おはよ。ねえ、舞を見なかった?」
「芝村か? いや、今朝はまだ見てないぜ?」きょとんとした表情で滝川が答える。速水は周りに視線をめぐらせてみるが、誰も知らなさそうだ。
「そう……、うわっ!?」
「坊やが姫さんと一緒じゃないなんて珍しいじゃないか。喧嘩でもしたのか?」
 恒例となりつつある瀬戸口の抱きつきであった。
「だから、そういう趣味はないんだってば! それになんで僕が舞と喧嘩しなくちゃいけないのさ?」
 瀬戸口が何か言おうとした隙を捕らえて、右手でひじ打ちを一発お見舞いする。あまり遠慮はしていない。
 ……結構いい音を立ててめりこんだようだ。
「痛っ! ……やれやれ。まったく、お前さんは加減というものを知らんのか?」
 大げさに腹を抑えつつ、それでも飄々とした口調は崩さずに瀬戸口が離れた。
「いつものことでしょ? でも、本当に舞、どこへ……」
「私を呼んだか?」
 その声に驚いて振り向くと、そこには舞がいつものように腕を組んで立っていた。顔色は心なし悪いようだし、所々に小さな擦り傷があったが、それ以上のものではないようだ。
「お、おはよう。って舞、その傷は……?」
 呆れたような速水の口調に、舞が少々慌てながら、
「い、いや、ちとひっかけてしまっただけだ」と答えた。
「でも、こんなとこにまで傷作っちゃって……」そう言いながら頬にうっすらとできた擦り跡にそっと手を当てた。どうやら本当にこすっただけらしく、血は出ていない。
「なっ! た、たわけ! ひ、人前で何をするか!」
舞がものすごい音を立て、慌てて後ずさる。
「え? でも、傷……」こちらはそんなことはお構いなしに再び撫でようとする。放っておけば全ての傷を確かめようとするだろう。
「とっ、ともかくっ! 別に大した事ではないのだ。分かったか!?」
 多少声が裏返ったのは、まあ仕方あるまい。
「??? まあ、いいけど……。ねえ舞、今までどこに行ってたの? 家に寄ったらもう出た後みたいだったし……」
「うむ、寄る所があったのでな。そのせいで遅くなったのだ。……今日は弁当を作ることがかなわなかった。許すがいい」
 とても謝っているようには見えないが、速水はその声のわずかな変化を確かにとらえた。速水はにっこりとしながら、
「うん、いいよ。でも、舞が寄り道なんて珍しいね?」
と言った。
「まあ、たまにはな」
「……? 顔色、悪いみたいだけど本当に大丈夫?」
 速水は本当に聞きたかったことを口にした。その瞳には舞を気遣う心にあふれている。
「何を心配しておる。何でもないと言ったであろうが」
 そう聞いても疑わしげな顔をしていた速水だったが、突然何の前触れもなしに舞の額へと手を当てた。
「! な、何をする!?」
「うん、熱はないみたいだけど……、あれ? 顔が赤いよ?」
「誰のせいだと思っている! い、一度ならずも二度までもひ、人前でヘンな事を……」
「それとも、おでこのほうがよかった?」
 速水が他の人間には聞こえないくらいの小声で呟いた。舞の顔がますます赤くなる。
「たっ、たわけ!」
 そう言いながらも頭の別の部分ではひそかに安堵を覚えていた。
 裏マーケットに寄って正解だったな、と。

   ***

 少し時間をさかのぼる。
 舞は学校への途上にあった。今やはっきりと熱が自覚できる。歩行のささいな震動が全身に響き渡り、細胞の一つ一つまで揺さぶられているような気さえする。喉はいがらっぽく、唇はすっかり湿り気を失い今にもひび割れそうだ。汗が一筋流れ落ちる。吐く息はかなり熱かった。
 舞は、神経網を冷たい手で握られたような悪寒に背筋を震わせながら、ややおぼつかない足取りで歩いていった。しかし、このまま学校に着いたとしても異変を知られるのにさして時間はかかるまい。
「まさか、これほどになるとはな。我が体力もまだまだ改善の余地があるという事か」
 そんな事を考え微苦笑を浮かべながらも、何とか打開策を打ち出せないものか、残った気力を総動員して考え続けた。
 ――石津に薬をもらうか……。いや、それはまずい。あやつが言いふらすとは思えないが、万が一にも他の者に知られると面倒だ。それに、このところの雨で生活環境が悪化している。自分の責任ではないかと思い込まれてもまずい。
 なおもしばらく考え続けていたが、やがて何か思いついたのか、わずかに愁眉を開く。
「そうだな、それがいいかもしれん……」
 そうつぶやくと、舞は進路を変更した。
 
 新市街。幻獣に徐々に侵されつつある熊本市内で、今だある程度の活況を保っている市街区域の一つである。その一角、とあるビルの地下にある店は俗に「裏マーケット」と言われている。(看板に堂々と書くのもどうかと思うが)
 裏、と名のつくだけあって、そこの商品はどれも定価などおよびもつかないような高値がつけられてはいるものの、食料から生活雑貨、はては武器弾薬に至るまで揃わぬ物はないと噂されている。
 舞は、先ほどよりも更に頼りない足取りでどうにかたどり着くと、流れる汗をぬぐい、かすかに口元をほころばせた。
「ここなら、あるいは……」
 そう言いながら、薄暗い階段を一歩一歩ゆっくりと降りていった。

 店内はかなり薄暗いが、寂れてるという感じはしなかった。天井の蛍光灯がなんとも頼りなげに時々またたいている。入って右手には商品がずらりと並び、この店の品揃えの幅広さを物語っていた。
そしてその反対側、入口からもっとも奥まった一角に、いつものように店主が無表情のままカウンターに座り、何かのカタログを見ていた。
 店主が何やら大きな音と舞い上がる埃に顔を上げると、ちょうど舞が入ってくるところだった。
 あちこちに擦り傷をこしらえながら、軽く制服の埃を払うと舞はいつものポーズで店主の前に立った。
熱と擦り傷で、あまり威厳はなかったが。
「……何の用だ」
「単刀直入に言う。風邪薬はあるか?」呼吸が荒い。
「……それならそのへんの薬局にでも行け」
「ありきたりの物ではない。強力かつ即効性のあるものが必要なのだ」
 店主は少し下を向いて考えていたが、やがて顔を上げると、
「一つ、ストックがある」とだけ言った。
「ならば早く出すがよい……ゴホッ!」
 急激な咳の発作が舞に襲いかかり、彼女は思わずうずくまってしまった。少しの間、咳で息もつけなくなる。ようやく立ち上がった時には、一層の焦燥感が表情に加わっていた。
「……よかろう」

「これだ。三回分入っている」
 そう言いながら店主が出してきたのは、昔ながらの茶色い薬ビンだった。中にはちょっと大きめの黒い丸薬が三粒入っている。表にはラベルの類などは一切なく、ただコルク栓に「M」とだけ表記があった。
「……効くのか?」
「効果は保証する。風邪の全ての症状を抑え込むことができるが、切れたときの反動はつらいぞ」
「構わん。今日一日もてばよい」
「一回一粒、効果は一日というところだが、保証できん」
「何だそれは?」
 舞が怪訝な顔をすると、店主は低い声で続けた。
「個人差が激しい。ついでに連続投与すると効果が薄くなる」
 舞は腕を組みその言葉を吟味していたが、現状の打開が最優先課題であると判断したようだ。
「まあ、今日ぐらいは何とかなろう、それを気にしても仕方があるまい。……いくらだ?」
「一回分、五〇〇円だ」
「なんだと? 随分と安いではないか」
 舞が驚きの表情を隠さずに言った。てっきりそんな強力な薬ならさぞかし高いのだろうと独り決めしていたのだ。
 店主は面白くもなさそうに、
「いらんのなら、別に構わんぞ」と言うと、
「いや、もらう!」
 舞は急ぎ三回分の代金を支払った。
「ここで飲んでいくか?」
「そうだな、そうしよう」
内心では早くこの不快感から逃れたいと思いつつ、あくまで悠揚迫らぬ態度を保つよう努力しながら答えた。
 その答えに、店主はどこからともなく水を取り出した。舞は瓶から薬を取り出すと口に放りこみ、水で流しこむ。
 初めのうちはなんということもなかったが、やがて全身の倦怠感が消え、ほてっていた体が徐々に冷却されていくような感じがした。悪寒もなくなり咳も止まり、ほんの数分で今まで舞を悩ませていた諸症状がすっかり消え去っていた。
「おお……、これは、効くな。確かにお主の言った通りだ。感謝を」
「言ったことを忘れるなよ」
「うむ、承知した。ではな」
 そう言うと舞は、来たときとは比べ物にならないほど颯爽とした足取りで階段を上っていった。
その様子を店主は面白くもなさそうに眺めていたが、やがて再びカタログに目を落とした。

   ***

 最初に異変を感じたのは、ちょうど昼休みのことだった。
 もうすぐ午前の授業も終わろうという頃、舞は全身に徐々にだが再び倦怠感が忍び寄りつつあることを自覚した。どうかすると本人すら風邪を引いていた事を忘れ去りかけていたぐらいだったので、それを意識したとたん、自分の心臓の鼓動がやけに大きくなったような錯覚に陥った。
(い、いかん……)額にはうっすらと汗が浮かび始めている。
 その時、終業のチャイムが教室内に鳴り響いた。
「よーっし、午前中の授業終わり、っと。今の所復習しとけよ」
 そう言いながら本田が去ると、教室内がたちまちほっとした雰囲気に包まれる。
「舞、よかったらお昼一緒に……」そう言いかけた速水を遮るように、
「厚志、すまぬがちと用ができた。食事は誰か別の者と取るがよい。ではな」
 そう言い残すと、舞は駆け足で外へと出ていった。後には速水が一人ぽつんと取り残される。
「いったい、何が……? また言い損ねちゃったし」
 明らかに舞の様子が違っている事に戸惑いを隠せなかった。誰かが昼食に誘う声を半ば上の空で聞きながら、速水はそっと眉をひそめた。
 
 女子高校舎の倉庫はひっそりとしていた。誰も昼休みからこんな所にこようなどとはそうは思うまい。その薄暗い部屋の中で舞は半ば忘れ去られたように置かれているソファーに身を横たえていた。症状は刻一刻と悪化しているのがひしひしと感じられる。
「早過ぎる……。あの親父、嘘をついたのではあるまいな?」
 そう口に出してはみたものの、理性はそれを否定する。最初にあれだけの効果を発揮した物に嘘もあるまいし、嘘をついたところで何のメリットもない。
 となれば個人差というやつだろうか? これでは、一回で一日持つどころの騒ぎではない。
とはいうものの、薬が切れれば無理に抑えた反動がやってくるとも言っていた。いくら考えても、さして選択肢があるわけではなかったのだ。
「仕方が、ないか……」
 そう呟くと、舞は懐から薬を取り出し、予め用意しておいたミネラルウォーターで一気に薬を飲み下した。
 それから少しの間、ソファーに横たわったままやや苦しげな息をついていたが、やがて薬が効いてきたのか、やすらかな寝息を立て始めた。

 二粒目の効果が切れたのは三時ごろだった。
 舞は、この世でない何者かを呪詛しつつ、最後の一粒を口に含んだ。
(つづく)


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