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星夜見(ほしよみ)(終話)


 新市街をふたりは並んで歩いていく。
 傍から見ればそれは――中身もそうだが――仲睦まじいカップル以外の何者にも見えないだろう。その姿はある意味平和そのものであったが、新市街の姿はそれに似合うかといえば、いささか首を傾げざるを得なかった。
 通りはいくつかの店が閉鎖され、さらにいくつかの店は焼けたり、窓ガラスが割れたりといった被害が片付けられないまま残されている所も多く、戦争の爪痕ははっきりと残されている。
 だが同時に、人々はたくましくもあった。閉鎖された店の前には露店が並んだりと、それでもまだまだ往時の十分な活気を残していた。
 戦争の暗い影はあちこちに残っていても、それでも人は生きていかねばならぬ。どんな非常事態でも――それ以上状況が変わらなければという但し書きが着くが――人は三日もあれば慣れるという良い例かもしれぬ。
 そんな中を、ふたりは歩いていく。ひとりはゆったりと、そしてもうひとりは全身を緊張させながら。
 速水に手を引かれ、舞は先ほどから押し黙ったまま一言も口をきこうとしない。こういった場合は何か会話をしたほうがいいのは分かっていたが、何かしゃべったら、心臓が飛び出してしまいそうな気がして、とても口を開けられたものではなかった。
「舞、どうかしたの?」
「な、なんでもないっ!」
 ――そ、そなたのせいだっ! そなたがその、て、手を握ったりするから……。
 彼女の手を押し包むあたたかな温もり。彼女の神経は完全にそこに集中しており、周囲の様子などさっぱり分からない。
 と、不意に速水が足を止め、舞は危うくその背中にぶつかりそうになった。
「うわっ!?」
「あ、厚志っ、なにを急に……」
「あ、いや、着いたよ」
「え? 一体、どこに……っ!」
 視線を上げた舞は、思わずその場に硬直した。着いたのは、彼女自身最も縁のないと思っていた場所だった。
 窓からちらりと見えたアクセサリに気がついた瞬間、舞は思わず言葉を失っていた。窓の一部が割れて、シートで塞がれたりしてはいたものの、店としての雰囲気は失っていない。
「あ、厚志。これは……」
「こんなところも、たまにはいいんじゃないかと思ってさ。……じゃ、入ろうか?」
 速水の言葉に、舞の鼓動は確実に早くなった。
「え? だ、だがしかし、いや、私は、その……」
「何を遠慮してるのさ? さあ、入った入った」
「あっ、厚志っ!? そ、そんなに背中を押すなっ……」
 なんとも賑やかしい入店に、思わず周囲にいた数名が笑いを誘われた。
 だが、悪意はない。
 どうやら、こんな世界にも日常があるのだと知らされるのは、悪い気分ではなかったようだ。

「わ、わああ……」
 そう言ったきり、再び舞は絶句してしまった。
 さほど大きな店構えではなかったが、店内には先ほどのアクセサリのほか、ぬいぐるみやマスコット、キーホルダー、かわいらしいノートセットやラッピング用品など、一体どこから集めたのかと思いたくなるほどに品揃えが充実していた。
 いささか狭い陳列棚の間を右に左にと忙しく歩き回る様は、まるで幼児のようである。速水はそんな彼女の様子を少し離れたところからほほえましく見守っていた。
 と、舞の足が、あるところでぴたりと止まる。目の前には愛くるしい猫のぬいぐるみがあり、つぶらな瞳で舞のことを見上げていた。
「う、くうっ……」
 うめきにも似た声を上げると、舞はぬいぐるみからやや距離をとる。額に浮かんだ汗が、そっと頬を伝い落ちた。顔は完全に上気し、心臓は既に暴走機関車状態であった。
 舞は、一歩、また一歩と慎重に距離を詰める。速水の家にいるアメリカンショートヘアーを模したようなぬいぐるみは、見れば見るほど彼女に何かを訴えかけてくるようでもある。
「う、うう……」
 足元に汗がしみを作る。わずかに腰を落とし、にじり足で舞はなおも接近を続けていた。何事かと周囲にいた数少ない客がギャラリーと化して興味深げな視線を向けていたが、それにも舞は気がついていない。
 一歩進むごとに、ぬいぐるみの姿が徐々に大きくなっていく。愛らしい瞳、柔らかそうな毛並み、子猫らしい毛玉のような体躯――うっかりそれを手にしてしまったら、自分は粉々に吹っ飛んでしまうのではないか、そんな莫迦げた考えさえ脳裏を掠めた。
 だが、手は止まらない。
 ――あ、あと一歩……。そうすれば、あれに、手が……。
 震える指先が、あとほんの少しで手にかかるまさにその瞬間、件のぬいぐるみがひょい、と宙に持ち上げられた。
「!?」
「舞、このぬいぐるみ気に入ったの? はいっ」
 驚愕とともに振り向くと、ぽん、と無造作といってもいいほどの気楽さでぬいぐるみが手の中に押し込まれる。
「あ、ああっ……!?」
 望むものが何の前触れもなく自分のものになると、とっさの行動などできないものである。彼女もまた例外ではなく、意味もなくわたわたとしていたが、本物にも似た柔らかな手触りに、たちまち陶然となってしまう。
「気に入ったみたいだね。良かったらそれ、買おうか?」
「なっ、ま、待て、厚志!」
「どうしたの? だって、気に入ったんでしょう、それ?」
「あ、その、それはまあ、こういうのは……嫌ではないが」
 舞の表情には、明らかに迷いの色があった。速水は黙ったままわずかに首をかしげることで先を促した。
 舞の言葉がとつとつと続く。
「猫は……守りきれずに殺すから、飼うな、と言われたことがある。ここに来てからはだいぶ変った。ブータとも出会ったし、そなたの家のマイもいる。だが……いつも思うのだ、芝村たるものがそのようなものに現を抜かしていいのか、と。守るべき世界があるというのに、このようなことをしていいのか……」
 柔らかな手触りに、不意に舞の胸が苦しくなる。名残惜しげに元の棚に戻そうとした手がそっと止められた。
「?」
「うーん、なんていうか、そこまで考え込むことじゃないと思うけどなぁ。でもさ、これだって君の言う世界の一部だよ? 守るんでしょう、これを? 守りたいのなら、そばに置いておく、ってのも手段のひとつだと思うよ?」
「う、そ、それはそうだが……」
「それにさ」
 不意に速水がこぼれるような笑顔を浮かべた。
「このぬいぐるみも、君のことを気に入ってるように見えるんだよね、僕には」
 ――それに、君もね。
 最後の言葉は喉の奥に押し込んで、しっかりとぬいぐるみを抱き直させる。舞はしばらくの間、ぬいぐるみの眼を覗き込んでいた。
 ――そなた、来るか?
 ぬいぐるみの瞳がわずかにきらめいたような気がした。
 舞の口元がかすかにほころんだのを、速水は確かに見た。
「じゃ、決まりだね。すみません、これをお願いします」
「いい、私が持って行く」
 ぬいぐるみをしっかりと抱きしめたまま、決然たる足取りで舞はカウンターへと歩いていった。

「どうかな、舞。疲れたりしていない?」
「大丈夫だ」
 そういいながら、舞は傍らにちらりと視線を落とした。そこに置かれた紙袋からは、先ほどのぬいぐるみがちょこんと顔を出している。舞がそのまま抱きしめていきそうになったので、慌てて袋に入れてもらったのだ。
 速水は黙ったまま、そんな舞を見つめている。彼女の一挙手一投足の全てから眼が離せない、そんな感じだ。
 ふたりがいるのはとある喫茶店であった。いささか古めかしいつくりではあるが、照明の抑えられた店内は静かな雰囲気に満ち満ちている。窓から差し込む柔らかな光が良いアクセントとなっていた。
「お待たせいたしました」
 ウェイターがふたりの前に静かにカップを置いていく。一緒に盆に乗っていたポットを取ると、カップに紅茶を注いでいった。
 ウェイターが一礼して去ったのを見計らって、速水はカップを取り上げた。舞もつられたように、慌ててカップを持ち上げる。
「じゃ、ちょっとここで一休み、ね?」
「う、うむ」
 勧められるままに、舞は紅茶を口に含んだ。同時に舞の眼がかすかに見開かれる。
 紅茶はそこら辺に良く出回っている合成ではない、産地ははっきりとは分からないが、間違いなく本物であった。清冽で深みのある香りに、舞はほう、と息をついた。
「どう?」
「うむ、うまいな。……こう言ってはなんだが、昨今の状況下、よくこんなものが手に入ったな」
「ここの親父さんが頑固者でね、紅茶だけは本物じゃないと駄目なんだって言って、今も頑張ってるんだって。国内でほんの少しだけ生産されてるらしいんだけど、そこの農家の人と知り合いなんだってさ」
「そうか。……それにしてもそなた、良くそんなことを知っているな?」
「ああ、ちょっと話を聞いたんだ」
 ちょっとどころではなかった。舞とデートに行くと決めたその瞬間、そしてコースが決まったとほぼ同時に、彼は綿密なリサーチを繰り返していたのだ。
 訓練や整備、そして出撃といった激務のどこにそんな余裕があったのか分からないが、それでも彼はわずかな時間の隙間を縫ってデータを検索し、取捨選択し、実際に訪れるところには下見までするという用意周到さを発揮していた。
 実にこまめなやつである。いや、ここまでくるとある意味執念と言ったほうがしっくりきそうだ。
 ともあれ、速水の説明にとりあえず納得したのか、舞は再びカップを口に運んだ。いつの間にか上気していた頬も元に戻り、表情にもしぐさにも落ち着きが生まれていた。
 ――さっきも可愛かったけど、舞はやっぱりこういうのもいいなあ。
 対照的に速水ときたら、さっきから緩みっぱなしの頬を引き締めるのに必死である。
 ひと時紅茶を楽しんだあと、速水はカップをおくと、
「さて、そろそろ落ち着いたかな?」
「う、うむ。それで、次はどこへ行くのだ?」
 舞は少し頬を赤らめながら、それでも比較的落ち着いた声で訪ねた。速見はくすりと笑みを浮かべた。
「お待たせ。次はメインイベントだよ。今からなら、ゆっくり行っても次の上映には十分間に合うだろうから、そろそろ出ようか」
「わ、分かった」
 舞は席から立ち上がり、傍らの袋を大事そうに取り上げた。ふと前を見ると、速水が笑顔とともに手を差し出している。
 舞の心臓が強く一拍した。頬の赤みが強くなる。
 わずかに逡巡したあと、舞は彼の差し出した手をそっと握り返した。再びあたたかな温もりに包まれたが、もう、慌てることはなかった。
「じゃ、行こうか」
「うむ」

   ***

 辺りは闇に包まれていたが、暗いというばかりではない。人工とはいえ星明りが、あたりをほのかに照らし出していた。
『天頂近くにこと座のアルファ星ベガ、わし座のアルファ星アルタイル、はくちょう座のアルファ星デネブが見えますが、この三つの星を結んで描かれる三角形が、通称『夏の大三角』あるいは『夏の大三角形』と呼ばれています。このうちベガとアルタイルは、七夕の伝説における『織姫』と『彦星』となっています……」
 ナレーターの声が静かに流れていく。夏の空を模した映像は、通常よりもかなり速いスピードでその姿を変えていった。
 辺りに客はあまりいない。このご時世ならば無理もないが、理由はそればかりではなかった。
 ――ま、邪魔が入らないからいいけどね。
 天に目を向けながら、速水はひとりほくそえむ。その気分のままに隣に声をかけようとして、彼は動きを止めた。
 舞は、まっすぐ、人工の星を見ていた。そのおもてには何の感情も浮かんではいない。
 身じろぎもせずに視線を送るその姿に、速水も再び天に目を向けた。
 と、傍らの気配がわずかに動いたかと思うと、やわらかいチャイムの音が、外にではなく脳の中に聞こえてきた。速水が多目的結晶に意識を集中すると、メールが届いていた。
 差出人は、舞だった。
『すまぬ、つい集中してしまった。そなたのことを忘れていたわけではない、許せ』
『別に気にしなくてもいいけど、どうかしたの?』
 返信には、やや間があった。
『なんでもない、気にするな』
 それきり舞は、再び星に意識を戻したようだ。
 速水も、あえてそれ以上メールは送らなかったが、プラネタリウムのプログラムがすべて終わるまでの間、何事かをじっと考え続けていた。

 プラネタリウムを出ると、あたりはすっかり茜色に染め上げられ、早くも太陽は山の端にかかりそうになっていた。長くなった影を引き連れながら、ふたりは連れ立って家路についたが、先ほどまでとは違い、なんとはない沈黙がふたりを包んでいた。
 しばらくの間、無言のまま歩いていたふたりであったが、やがて舞が、
「厚志、今日は楽しかったぞ。感謝する」
 とつぶやくように言った。
 だが、速水はあまり嬉しそうには見えなかった。わずかに眉を寄せたまま、舞をじっと見ている。舞は反応がないことをいぶかしみ、しばし考え――唐突に原因に行き当たった。
「もしかして、先ほどのプラネタリウムのことか?」
「うん」
 即答に、舞はわずかに苦笑した。
「そこまで気に病ませていたとは、すまなかった。本当にたいしたことではないのだが……。話をしてもよいか?」
 速水は小さくうなずいた。
「……父のことを、思い出していたのだ」
「お父さんの?」
 速水が意外そうな表情を浮かべた。
 ――そういえば、こやつには話したことはなかったか。
 いささか余計なことを言ったか、と思わなくもなかったが、言葉は言霊、ひとたび口を離れてしまえば取り戻すことはできぬ。舞は一息つくと、静かな声で話し始めた。
「父は、星が好きだった。よく私を連れて、星空を見に行った。だから私も、自然と星が好きになった」
 いつの間にか、ふたりの足が止まっていた。速水は一言も言わず、真剣な表情で舞の言葉に聞き入っている。
「……そう、あれは好きというよりも恋焦がれていた、といったほうがいいのかも知れぬ。例えるなら堕天使が、かつて自らがいた、そして戻るべき天を求めてやまぬように。今考えると、そんな気もする」
「……」
「あの星々を見ていたら、ついそんなことを考えてしまったのだ。……すまぬ」
「別に、謝ることじゃないよ。そうか、そんなことがあったんだね」
「うむ……」
 舞が、いつの間にかうつむいていた顔を上げると、そこには速水の笑顔があった。先ほどまでとはまったく違う、柔らかな笑顔だった。
 不意に手を取られ、舞の心臓が再びダンスを踊り始める。
「舞」
「なっ、なんだっ?」
「僕たちも、星空を見てみようか? 人工の星じゃなく、本当の空を。よかったら、もう少し付き合ってくれないかな?」
 意外な提案に、舞は一瞬なんと答えるべきか迷ったが、やがてこくんとうなずくと、再び歩き始めた。

   ***

 その日の夜。水前寺公園。
 山水を模して作られた広場には芝生が敷き詰められているが、その中にあるわずかにこんもりとした丘に、ふたりは陣取っていた。
 ここは熊本市の中心部にもほど近く、普通なら星を見ることなど思いもよらないであろうが、戦局の影響もあってか、市街地の光はひどく弱々しく、天を侵食するほどのことはなかった。それに、エネルギー供給や灯火管制――どこまで効果があるものか、はなはだ疑問ではあったが――の関係もあり、もう少しすれば最低限の照明を残し、すべて消されるはずであった。
そうなれば、まったく何の問題もなく非常に済んだ空に銀の粉をまいたように星々が見られるはずであった。既にユーラシア大陸までが幻獣の手に落ち、人類の工業生産力が激減している現在、大気はかつての清浄さを取り戻していたのだ。
たとえ戦火の炎が天を焦がし、煙が流されようとも、大きな変化は見受けられなかった。
 人類が滅びつつあることが星空観測に最適というのはなんとも皮肉な話ではあったが、少なくとも今夜はそんなことは関係ない。天を眺めることができるのなら、それでよかった。今日は月も――元からある月も――出ないはずだから、星空を堪能するには絶好の機会であるはずだった。
 これでは、プラネタリウムがあまり流行らないのも、無理はないのかも知れぬ。
 ――そういえば、プラネタリウムでは黒い月のことは何も言ってなかったっけな。
 幻獣の襲来とともに、突如天にかかったもうひとつの謎の月。すべての災厄の元凶にしか思えない月など、本来娯楽であり、楽しみをもたらすべきプラネタリウムには似つかわしくない、そういうことであろうか。
 ともあれ、今日はどちらの月も邪魔はしない。ただひとつ気になるのは、綿のような雲がだいぶ空のあちこちに出ていることであった。
「大丈夫かな……」
「ともかく待とう。以前にも言ったであろうが。物事にはすべてタイミングがある。今は、待つときだ」
「そうだね」

 やがて、町の明かりがふっと落ちた。公園の中もわずかに残された常夜灯以外、あたりを照らすものは何もない。
なおもしばらく待ってみるが、空が晴れる気配はなかった。
「今日は無理みたいだなあ……。残念だったね、舞」
「気にするでない。このようなときはこう思えば良いのだ」
 残念そうにしているかと思いきや、舞は意外としっかりとした表情のまま、朗々たる声で語り始めた。

 天に在りし星どもは、来るべき時に備えてあり。
 天空の要たる極北の星、皆に告げり。
 『この時は我等の調整(そなえ)のとき。すべての星よ位置につけ。来るべき時を待て』
 地に在りし我等は、来るべきときを静かに待たん
 
「父が教えてくれたものでな。我が父は娘をたぶらかすような輩であったが、これだけは……良いと……思うのだ」
 しばらくふたりは、無言で空を見詰める。
 舞にとっては父の思い出を、速水にとっては、今の舞との思い出を確認する場となりそうだ。
 意識は徐々に、現在からこれからのことに移っていく。
 ふと、傍らを見やった舞の胸がちくりと痛んだ。そこでは速水がじっと天を見詰めていた。
 青い瞳が、天に輝く星のように一瞬きらめいた。その瞳が、父と同じように見えた。
 先ほど速水には語らなかった、黙りこくってしまったもうひとつの理由が頭をもたげてきた。
 ――父は、私の望みを知る父は、その後間もなくして姿を

消した。厚志よ、そなたは……どうだ?
 彼は、舞とともに歩むと誓った速水は、舞の望みをともにかなえたいと宣言した速水は、どうするのであろうか?
 我知らず、舞はそっと速水の腕をつかんでいた。
「舞……?」
 驚いたような声に、初めて舞は自分のしたことに気がつき、真っ赤になる。が、手を離そうとはしなかったし、口からこぼれた言葉は、いささか弱々しくはあったが、明らかな意思が込められていた。
「厚志、どこへも行くでないぞ」
「どうしたの、突然? 僕はどこへも行かないよ」
「ああ、そうではない……そうではないのだ」
 うまく説明できない。胸の中であらゆる言葉と意味がぶつかり合い、雲散霧消してしまったみたいなような感じだ。まったくもどかしいことではあったが、理論に基づかない想像なのだから、それも無理はないのかもしれない。
 ――そなたもまた、父と同じように、いつか消えてしまうのか? 私が、望みを話したから。姿を消してしまった父の話をしたから。
 根拠など何もない、愚かしい不安であるとは分かっているが、今の舞にはそれをとめるすべはない。
 体がかすかに震える。
 ――弱くなったのか、私は。
 そうかもしれない、と思う。速水と出会ってからは調子の狂いっぱなしである。
 だが、彼とともに歩むことで、また舞も自らの信じる道を進めているのも確かなのだ。
 消して弱くなったわけではない、そう、信じている。
 万民を守る。かつて誓ったその言葉に嘘はない。強いて言うならば、ただそこに、もっとも大きなひとりが加わっているだけなのだ。
 ――なんとも欲張りなことだな、私も。
 いささか自らの思考にとらわれすぎていたせいか、速水が何か行動を起こしたことに、舞はまったく気がついていなかった。
「舞」
「なん……ひゃうっ!?」
 速水に包み込まれ、舞の声が思わず裏返った。風はそろそろ涼しさを増してきているというのに、彼女の全身からどっと汗が噴き出した。
「な、あ、あちゅし、いや厚志、な、何を……?」
「君が何を心配しているのか分からないけどさ、僕は君を離さない。そう、前に言わなかったっけ?」
「そ、それはそうだが……」
「君が、君である限り。僕はどこへも行かない。君とともに歩む。そう決めたんだから。忘れて、ないよね?」
――君の心の中では、まだお父さんが大きな位置を占めているんだね。ちょっと、妬けちゃうかな。でも、いつかは僕が……。そうなれるかな? なれるといい……いや、なってみせる、絶対に。
 速水の言葉がひとつひとつ、温かい何かとなって胸に染み込んでいく。
「まったく、そなたは物好きだ、いや、はっきりとヘンな奴だ。こ、こんな私と、芝村たる私と共に歩んでいこうなどと公言しおってからに……」
「うん、僕もそう思う。まったく自分でもあきれてるよ。なんでなんだろう? って」
 あまりといえばあまりな言葉に、舞が一瞬大きく目を見開いた。闇の中でよかったかもしれない。
 速水は表情ひとつ変えずに言葉を継いだ。
「でもさ、いくら考えても答えはひとつなんだ。『それでいいじゃないか。何が不満なんだ?』ってね。で、僕は答えるんだ。『不満なんてない。それが僕の望みだ』って……。え? い、いたたたたたっ!」
 いきなりほっぺたを掴まれ、速水が思わず叫びをあげた。舞の顔にはいささか怒りの色があった。
「あ、厚志っ! そなたはまた私をからかったな!」
「い、いひゃい、いひゃ、ほふぇんよ、ふぁい〜〜〜!!」
 何がなんだかサッパリ分からない。
 一通りうりうりとお仕置きが済むと、今度は珍しいことに舞がしっかりと抱き返した。
「だ、だが、しかと聞いたからな! そなたの……心、しっかりと聞いたからな! いまさら違うなどと言うなよ。またもやたばかったのなら、そのときは芝村の地獄へ永遠に叩き落してやる! そなたはずっと、わ、私のそばにいるのが一番いいのだ。よいな!」
 言葉とは裏腹に、揺れる瞳で舞は速水を見据えていた。
 意外な表情とセリフに一瞬目を丸くはしたものの、速水も、真剣な瞳でうなずき返す。
「もちろん」
 ――ああもう、なんて表情をするんだい? そんな顔をされたら、もう、降伏するしかないじゃないか。
 もちろんそれは、心の底から喜んでの降伏であった。答えながら速水は、舞の肩を優しく抱き寄せる。舞は一瞬驚いた顔をしたが、やがてそっと目を閉じた。
 いつの間にか現れた星明りの下、ふたりの影がそっと寄り添って――

 突如、ふたりの体の中で、背筋を凍らせるような警報が鳴り響いた。
『201V1、201V1、全部隊は現在の作業を直ちに終了し、集合せよ。繰り返す……』
「厚志、行くぞ!」
 突如舞は、スイッチが切り替わったかのようにいつもの鋭い瞳を取り戻すと、素早く立ち上がった。
「あ、あ、ああ〜……」
「な、なんだ厚志、その情けない声は! しゃんとせんか、しゃんと!」
「だ、だってぇ〜……!」
 ――せ、せっかく、あと少しだったのにっ!
 まあ、気持ちはわからないでもないが、打ち捨てられた子犬のような瞳はどうにかならないものか。
 潤みながら自分を見つめる目に、舞は、思わずひるみを覚えたが、やがて眦を軽く吊り上げると速水を乱暴に引き立たせた。
「わ、わわっ!?」
「何をのんきなことを言っている、今我らにとってなすべきことは何か、わかっているはずだ!」
「う、うん……」
「ならば良い。行くぞ!」
 舞は駆け出し始め――その場でふと足を止めた。
「?」
 ともかくも後に続こうとした速水が、出鼻をくじかれた格好で立ち止まると、舞は前を向いたまま、おずおずと速水のほうへと手を差し出した。
「そ、それはそれとして、だ……。わが耳はそなたの言葉を聴き、わが心はそなたの意思を確かに理解した。私とともに歩むと誓ってくれたそなたに、深く感謝する……。行くぞ」
 そこで舞は初めて後ろを振り返った。星明りがわずかに、舞のはにかんだような笑顔を浮かび上がらせる。
 速水は一瞬だが呆然とし、それから大きくうなずくと彼女の手をとった。
「うん。行こう、舞」
 また生き残らなければならない。今日の約束を果たすため、そして約束をこれからも果たし続ける、そのために。
 ふたりは想いも新たに、丘を駆け下っていった。

   ***

 古来、絢爛舞踏は己の使命を果たして後、いずくともなく姿を消すと言われていた。だが後にその俗説は一部が覆されることとなる。
 新たに誕生した五人目の絢爛舞踏は、使命を、己の愛するものとの約束を果たした後も長くこの地に留まり、人々と共に歩む道を選んだという。

 そう、誓いは果たされたのだ。
(おわり)


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