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シャンプー(終話)


 長すぎる沈黙の後、ようやくダメージから立ち直った舞は、意を決して再びデータを調べ始めたが、記録されていたのはいずれも似たり寄ったりな場面か、なんの役にもたたなそうな場面ばかりであった。バッテリーの消耗を抑えるため、まったく無音のときは録音しない仕様になっているとはいえ、流れてくる内容はあまりに意図的でありすぎた。
「く、くそうっ、これは一体、何が……もしや?」
 その瞬間場面が変わったのか、レシーバーからは新たな音が聞こえてきた。何やらドアを閉める音、そして、服をごそごそした後に、ファスナーを下げる音……。
「!」
 再び舞はレシーバーを放り出したが、レシーバーからはなにやら水を流すような音がしっかりと流れてきていた。
「あ、あの莫迦者がっ……! くそっ、あ奴め、このことを知っていたな!」
 確たる証拠は何もなかったが、ここまで露骨かつ意図的な選択性を認めるとなれば、そう断言せざるを得なかった。
「ふむ……。厚志め、我がカダヤながら、まったく油断も隙もない奴よ」
 ……その台詞はもしかして、鏡にでも向かって言ったほうがいいのではなかろうか?

   ***

 かくして、盗聴記録から事実をつかむ作戦は失敗に終わったが、これは同時に速水が何もしていないという証拠にもならないことを示していた。
「いや、むしろ盗聴器を逆用して、誤情報を流そうとしているのではないか?」
 喉の渇きを覚え、紅茶を流し込んでいる間にも、そんな疑惑さえ浮かびかけたが、それにしては内容が、まあ、その、ちょっとあまりにアレでありすぎる。
 それに、莫迦正直にそんなことを言ったとしても、当人はうっすら苦笑するだけで、何も答えないのは確実であった。残念ながら、この方面では速水のほうが二枚も三枚も上手であると認めざるを得ない。
「くっ……、しかしこれでは埒が明かん。最善の方法が使えぬとあれば、次善の策を用いるのみ!」
 あれは、最善だったのか。
 まあ、本来なら気づかれないという意味で最善なのだろうが、どう考えてもばればれという時点で、次善の策とやらもどこまで期待できるものか、いささか怪しいものであった。
「……で、大丈夫なはずだ」
 さすがの舞も、いささか自信なさげに補足した。

 昼もだいぶ過ぎ、あたりにどことなくのどかな雰囲気が流れている。もちろんそれは戦いの前のかりそめの姿に過ぎないのだが、それでも人間、食うだけ食えば多少は気もおおらかになろうというものである。
 さらにこの後は、小隊の状況を鑑みて自習になることが決定となっている。舞の「次善の策」にとって、都合のいい条件が出揃っていた。
「……あやつめ、どこへ行く気だ?」
 舞は女子校校舎の壁際に身を潜め、そっと視線を彼方に流した。視線の先には速水が、どことなくふらついた様子で歩いていた。
「い、いったいあやつは何をされたのだ、まったく……」
 先ほどの、ある意味めちゃくちゃ男臭いやり取りを思い出し、舞は赤面しながら冷や汗を流すというたいそう器用な真似をやらかしていたが、やがて気を取り直したのか、そっと後をつけ始めた。
 つまり、尾行である。
 ……いっそのこと、カダヤじゃなくて、ストーカーと呼び変えたほうがよろしいのではなかろうか?
 舞は速水の足元に視線を落としつつ、ある程度の距離をおきながら歩いていくが、なにぶん同じ学校の中、それほどに行く先に選択肢があるわけでもなく、同時に隠れる場所もあるわけではない。
 それよりなにより、先ほどから女子高の生徒が舞の方を見て何かささやき交わしているのだが、当の本人はまったく気がついていなかった。
 そんな背後の様子に気がついたのかどうか、速水は手になにやら包みを持ったまま、何かを探すようにあちらこちらをきょろきょろと首をめぐらせている。こちらに視線が向きそうになるたびに舞は急ぎ物陰に隠れるのだが、幸い発見された様子はなさそうだった。
 結果、尾行はそのまま継続されることになったのだが、ほとんど無目的かと思われるほどの速水の迷走ぶりに、舞の苦労は並大抵のものではなかった。
 それほどまでに努力を傾注しているにもかかわらず、一向に核心に近づきそうな様子はかけらも見られない。一度だけ女子に話しかける姿を見たのは見たが、相手がののみとあっては、いくらなんでも嫌疑をかけるのも不自然であるように思われた。
 ――分からぬ。あやつは一体何をしているのだ?
 その分からぬ行動に、分からぬ尾行をしているほうもなかなかのものであるが、かように時間ばかりが過ぎていくというのに、速水にさして怪しい行動が見えるわけでもなく、事態はまったく進展しない。
 このような状況下でさすがに舞が焦りを覚え始めたころ、まったく不意をつく形で背後に人の気配が現れた。
「おい、姫さん? こんなところで何を……ぶはぁっ!?」
 予想もしなかった「攻撃」に、舞の背中――どころかポニーテールの先までがすべて総毛立った。かと思うと彼女の体は自然に反応を起こし、声が降ってきた方向に向けて的確な一撃を放っていた。
 ――なんで俺が、こんな目にあわなきゃいけないんだ?
 瀬戸口は傾いていく視界と薄れかける意識の中で、かろうじてそれだけを思考にまとめることができた。
 もともと、声をかけた動機など大したものではない。ただ、あまりにも怪しい行動をとり続ける速水を何気なく追いかけていたら、それに輪をかけて怪しい行動をとる舞が見えたから、に過ぎなかった。
 だから、声をかけた瞬間もさして警戒するでもなく、まったくいつものとおりにしたにすぎなかった。まさかその瞬間、下から這い登るように突き出された拳が、自らの鳩尾に直撃するとは思いもしなかったのだ。
 間、髪を入れぬ攻撃に、瀬戸口の長身がぐらりと揺れ、その場にひざまづく。瀬戸口の頭上から、明らかに怒りを含んだ声が降ってきた。
「莫迦者! そのように騒いだら厚志に気づかれてしまうではないか!」
「う、うう……。いや、どっちかって言うとだな、お前さんの方が十分騒がしい気がするんだが……」
 反逆を主張する腹に手をやりながら、それでも突っ込みを返すあたり、瀬戸口も結構頑丈なのかもしれない。多少ふらつきはしたものの、すぐに立ち上がると、どうにか笑みを浮かべることに成功した。
 その言葉と表情にはっとしたのか、あわてて周囲を見回すが、すぐに物陰に隠れたせいか、少なくとも速水に気づかれた様子はない。ついでといってはなんだが、女子高生徒も蜘蛛の子を散らすように消え去っていた。
「ああ、麗しのお嬢さん方が……。まあ、そんなことを言ってる場合じゃないか。話を戻すが、お前さん、こんなところで何をやってたんだ? まあ、大体察しはつくが……」
「知れたこと。速水の様子を探っていたのだ」
 ――あんな、ばればれの尾行でか?
 喉まででかかった言葉を、ようやくのことで瀬戸口は抑え込んだ。うっかりそんなことを言えば、今度こそ人生にとどめをさされかねない。まあ、速水も先ほどの「ちょっとした質問」のせいか、そうでないのかは知らないが、周囲に気を配っている余裕なぞなさそうだから、まず気づきはしないだろう。
「で?」
「分からぬか? 鈍い奴だな。厚志のう、浮気の現場を押さえるのだ!」
 自分で言っておきながら、舞は胸に強い痛みが走るのが分かった。
「はあ? しかし……」
 一瞬何を言っているのだ、とげんなりした表情を浮かべた瀬戸口であったが、ふと口をつぐむと、しかめつらしい表情に切り替えて、小さくうなずいてみせた。
「ああ、そういえばさっき俺たちも聞いてみたが……」
「な、なんだっ!?」
 噛み付きそうな舞の勢いに一歩引きつつ、瀬戸口は託宣にも似た口調で重々しく告げた。
「あいつ、何も言わなかったな」
 嘘である。
 無論、本人にもなぜ舞が怒っているのか、については理解していないが、その手がかりらしき話は聞いていた。もっとも、それを聞いたがために、そこにいた男子全員がよけいに「質問」を厳しくしたのも事実であったが……。
 そのときの様子を思い出したのか、瀬戸口が再びげんなりとしているのにも、舞は気がつかない様子であった。
「そ、そうか……」
 青菜に塩、とはまさにこのことか。
 あきらかに肩を落とした舞に気づくと、瀬戸口は彼女に見えないように、こっそりと口元にだけ笑みを浮かべた。
「まあ、そんなわけでな。姫さんが真実を知りたいって言うのなら、手伝うのもやぶさかでないが……」
「本当かっ!? そ、そういうことなら感謝する。……その、先ほどはすまなかったな」
 意外なほどの素直な謝罪に内心驚きつつ、瀬戸口は表情一つ変えずにうなずいて見せた。
 かくして、怪しいひとりが怪しいふたりになったわけだが、舞のあとについていきながら、瀬戸口は多目的結晶に向かって時々なにやら操作を繰り返していた。

   ***

 さらに二時間が経過したが、結果から言えば、ふたりの行動はまったくの徒労に終わった。
 速水は傷ついた体――もしかしたら心も――をいたわるようにしつつ、相変わらず包みを手にあちこちふらふらと移動していたのだが、これといって誰か怪しい者と接触する様子もない。
 それにしても、ばればれとかなんとか言われつつ、二時間もの間尾行がばれなかったのは、相当に心ここにあらず、ということの現れであろうか。
 ――なれば、なんのために?
 舞は、考えれば考えるほど分からなくなってしまった。
 それが、単なる考えすぎであるとも気づかないほどに。

 速水がよたこらと一組教室に入るのを見届けると、舞はすぐさま小隊司令室の陰から飛び出し、後を追いかけようとして――そこでふと足を止めた。
「ん? どうした、姫さん」
 ぶつかりそうになり、慌てて避けた瀬戸口の呼びかけにも応じず、舞はその場でうつむいたまま立ち尽くしていたが、やがて顔を上げると瀬戸口に睨むような視線を向けた。
 一瞬、何を怒っているのかとも思ったが、良く見れば彼女の視線は彼ではない、どこか遠くに合わされていた。何が起こったのかと瀬戸口が怪訝な表情を返すと、舞は、
「瀬戸口よ」
 と、つぶやくように言った。それは、誰も聞いたことがないほどにどこか弱々しい響きを帯びていた。
「ん、なんだい姫さん?」
「……私は、私は一体何をやっているのだろうな? このような姿、まったくもって芝村らしくない。それは分かっているのだが……」
 静寂が訪れ、またとつとつと言葉が続く。
「莫迦莫迦しいにも程がある。これではまったくひとり芝居ではないか。忌々しくも、私はここまで愚かしい女だったのか? まったく、なんて……」
 もしかしたら、自らがその言葉を口に上せているということすら気がついていないのかもしれない。彼女の目はなにも見ず、耳はなにも聞いていない。
 やがて舞は、何かを堪えるように己をかき抱いた。
 突然のことに呆然とした表情を浮かべた瀬戸口であったが、彼女の肩がかすかに震えているのを認めると、やれやれといったように息をついた。
 ――ふむ、ここらが潮時かな?
 行動の時が来たようだ。
 瀬戸口はいかにも軽そうに舞の肩をぽんとたたいた。いきなりのことに彼女がびっくりしたように顔を上げると、瀬戸口は口元をにやりと歪めた。
「何をやってるかって? そりゃ、好きな男の追っかけに決まってるじゃないか」
「な、なっ!?」
「いやー、速水のやつも幸せ者だよな。わざわざここまでしてもらえるやつなんてそうはいないって事、あいつ分かってんのかね? あのぽややんのスカポンタン。気がついているのかいないのかわからないぼんやり小僧は」
「ちょ、ちょっとまて瀬戸口、それは、その、私が……」
「だがな」
 急に口調が変わった。いや、軽いのは同じなのだが、そこにはどこか、何かを投げ捨てるような響きがあったように舞には感じられた。
「多分分かってないぜ、あいつは。まあなー、なんていうか結構ぽややんなところがほかの女生徒にも人気もあるし、あいつ自身は意識してなさそうだけどほっといてもみんな寄ってくしな。姫さん、あいつを追っかけててもいいことないんじゃないか?」
「!?」
 反論しようとしたところで急に瀬戸口の顔がアップになり、舞は思わず息を詰めた。というか、あまりに畳み掛けるように言われて思考が追いつかなくなりかけていたかもしれない。
「どうだ、もしかしてあいつに嫌気が差したか? なんならいっそ俺にでも乗り換えるか?」
「なっ!?」
 舞の頭に血が上った。と、次の瞬間、甲高い音が辺りに響き渡った。瀬戸口の顔は後ろを向くかというほどにひん曲がり、体のバランスを大きく崩す。
「ってえ〜、こいつは効いたぁ……」
「き、貴様に何が分かる! 貴様なぞなにも知らないくせに、勝手なことを言うな! わ、わがカダヤを、カダヤのことを莫迦にするやつは許さん!」
「お説ごもっとも。だけどな、今は何も分かっていないのは、お前さんも同じだと思うぜ?」
 何気なさそうな一言だったが、その言葉は舞の胸を容赦なく貫いた。恨めし気といってもいい目で瀬戸口を見上げ――そこで舞はぽかんとした表情を浮かべた。
 なんと、瀬戸口は笑っているではないか。舞が容赦なく張った左頬はいささか赤くなってるが、とっさに上体をひねったせいか、たいしたダメージでもないようだ。
「やれやれ、ようやく動いたな。うじうじ悩むなんてお前さんらしくないぞ。行動してこその芝村だろうが」
「そ、それは、そうだが……」
「それにな」
 瀬戸口の声は、意外なほど優しげなものに変わっていた。
「俺の見るところ、答えも出てるようなんだがな」
「な、なにがだ?」
「後ろからじゃなにも分からないって事が分かったんだ。なら、直接捕まえて聞いてこいよ。つまりは、そういうことになるんじゃないのか?」
 舞は一瞬呆然とした表情を浮かべていたが、やがていささか無理はあるものの、笑みを浮かべて見せた。
 いつもの芝村の笑みだな、と瀬戸口は思った。
「……それもそうだな。ではそのようにしてみよう。……瀬戸口よ、感謝する」
「なんの。姫さんにいつまでもしょげられてたら、むしろあいつの方が怖いんでな」
「ふ。ではな」
 意を決した表情で、舞が一組教室に飛び込んでいくのを見て、瀬戸口はふっと笑みを浮かべた。
「ま、頑張りな、姫さん。……まあ、結果は分かってるがな」
 瀬戸口が顔を上げると、二組教室の中から壬生屋が顔を出し、大きく○のサインを出していた。ただし、その表情はどこかふくれているようにも見えた。
 瀬戸口は拝むようなしぐさで頭を下げると、先ほど殴られた頬を軽くなでた。
 ――何をやるにもまっすぐで純粋、か。芝村ってやつはもっとこう、あれこれとぐねぐねした奴ばっかりだと思っていたんだがな。
 そういう意味では準竜師は十分に得体が知れなくもあるが、最近瀬戸口は彼に対しても多少印象を改めつつある。確かに必要とあらば陰謀を行うことも厭わないであろうが、彼には彼なりに、信ずるべき何かがある、そんな気がしてきたのだ。
 ――芝村のイレギュラーども、か。まあ、俺にしてみりゃああいう奴らのほうがよほど付き合いやすいね。それにしても、俺が芝村に、芝村のなんたるかを説く日が来ようとはね。
「……長生きは、してみるもんだ」
 瀬戸口は軽く体を伸ばすと、なにやら騒がしくなり始めた一組教室に背を向けた。
「さて、これで準備はよし、と。……速水、お前さんはもとよりそのつもりだろうが、姫さんをもっとしっかりつなぎとめておいてやれよ?」
 ――そうでないと、うっかり惚れちまいそうだったからな。
 彼は飄々とした足取りで、その場を立ち去った。
 顛末に興味がないではなかったが、もう十分付き合ったことでもあるし、これ以上の騒ぎに巻き込まれるのは真っ平ごめんであった。それに、先ほど殴られた分でこれでチャラ、という気分もある。
 いずれにしても、後のことを考えれば、彼のとった行動はこれもまた大変に賢明な判断であったといえよう。

   ***

 ドアがはじけ飛びそうな勢いで開かれたかと思うと、舞は弾丸のような勢いで一組教室に飛び込んだ。
 ……なんというか、最初からそうすれば早かったのでは、などと言ってはいけない。たとえいささか迂遠な道のりであったとしても、それもまた、世界の選択なのだから。
「厚志っ!!」
 幸いというべきか、教室内には速水以外誰もいなかった。速水はぼんやりと席に座っていたが、突然の出来事に慌てて席を立つ。
「ま、舞っ!? 一体、どこに行ってたのさ?」
「そんなことはどうでもよい。厚志、そなたに今一度尋ねることがある!」
 舞は、自分の鼓動がどんどん早くなっていくのが分かった。
 息が詰まり、胸が苦しい。うまく言葉が出てこない。
 だが、ここで聞かねば、自分はきっと後悔する。いや、もしかしたら聞いても後悔するのかもしれないが、同じことならやって後悔すべきであった。
 やがて舞は、心の中で最後の助走板を踏み切った。
「そなた、私に対し、なんらやましい事はないとこの場で誓えるか!」
「え? そりゃもちろん。そんなやましい事なんて……」
 いきなりの問いに速水は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、言葉自体に迷いはなかった。
「なれば、その香りは一体なんだ!」
「香り? ……そういえば朝も言ってたけど、一体何のこと? さっぱり意味が分からないんだけど」
「とぼけるな! そ、そなたの髪から匂ってくる、その香りのことだ!」
 ――やはり、偽るのか。偽りなしといったその口で、偽るというのか、厚志!
 不意に舞の視界が揺れ、にじんだ。熱いものが一筋、頬を伝っていくのが分かった。
 だがこのとき、速水もまた困惑の表情を浮かべていた。
 ――か、香りって言われたってなあ。一体なんのことを言われてるのか分かんなきゃ、どうしようもないし……。
 彼は体のあちこちに手をやっていたが、ふと手が髪の毛に触れたとき、はっとしたような表情を浮かべた。もちろん舞がそれを見逃すはずもなく、彼女の視線はますますきついものとなる。
 だが、次に速水がとった行動は実に意外なものだった。なんと、笑い始めたのである。
「あははっ。あー、なるほどね。こういうことかぁ。なるほどなるほど。あはは……」
「な、なにがおかしいっ! わ、私を愚弄するか!」
「だって、本当におかしいんだもん」
「なんだ……!?」
 臨界寸前になって怒鳴りつけようとしたまさにそのとき、速水の体がゆらり、と動いた。いや、動きの「起こり」を彼女は目に捉えることができなかったのだ。
「!?」
 だから、舞が気がついたときには、彼女はしっかりと速水の腕の中に抱きしめられていた。おまけにポニーテールを留めているゴムまではずされているという手並みの早さである。
「にゃ、にゃにを、いや何をするっ!?」
 次の瞬間、舞の鼻先に何かが差し出された。
それは、自分の髪の毛だった。
「!?」
「はい、証拠」
 鼻腔に流れ込んできた香りに、舞の疑問はすべて氷解した。

 抱きしめられた驚きと、あまりにあっけない、意外な理由に、舞の硬直はなかなか解けそうになかったが、やがて蚊の鳴くような「離せ」という声に、速水は少しだけ抱きしめていた手を緩めた。
「さて、と。これで納得してもらえたかな?」
「う、うむ……」
 先ほどまでの怒りはどこへやら、舞はものすごくばつの悪そうな表情を浮かべながら、速水の腕の中で小さく縮こまってしまっていた。
 彼が差し出した自身の髪の毛からは、大分褪せはしたものの、速水の髪と同じ香りがした。
 何のことはない、香りの正体は舞のシャンプー、それも、

速水の家に置いてあるものの香りであったのだ。
 意外といえば意外だが、莫迦莫迦しくも単純なこの結末に、なんと言ったらいいのか舞はまったく分からなくなっていた。速水に抱きしめられるがままになっていると、彼女の耳に、まるで子供に語りかけるような速水の声が流れ込んできた。
「まったく……。最近買ったばかりだから無理もないけどさ、自分のシャンプーの香りくらい覚えておいてよ。昨日僕のが切れちゃって、朝ちょっと借りたんだよ」
 どうやら、出掛けの朝シャンのようである。
 速水君ったら、おしゃれ。
 というか、まあ確かにあの夜の過ごし方では、体もさっぱりとさせたくもなろうが。
「し、しかしその、ゆ、夕べとは香りも違ってたし……。そ、それならそうと、さっさと言えばいいではないか!」
「えー、ひとつよろしいでしょうか? 言う暇なんてこれっぽっちも与えてくれなかったのは、どこの誰でしたっけねえ? おまけに午後中、どこに行っていたのか知らないけど、さっぱり姿を見せなかったし」
「あ、あう。そ、それはっ」
 まさかずっと後ろを尾けていました、などと言えるはずもない。舞が黙りこくってしまうと、速水はやれやれといったように苦笑を浮かべた。
「まあいいや。ともかく納得してくれた?」
「う、うむ……」
 舞は、彼の腕の中で小さくこくりとうなずいた。

   ***

 とりあえず一段落したところで、速水は自分の席からなにやら包みを取り出した。そういえば午後中ずっと手に持っていたことを、舞は思い出した。
「それは?」
 速水が広げたのは、弁当の包みであった。中には速水お手製のサンドイッチがいくつも並べられていた。
「わ、わあ……」
「一緒に食べようと思ったのにさ、舞ったらちっとも姿を見せないんだもん。ちょっと湿気っちゃったかもしれないけど、今から食べようか?」
「そ、そうか……。それなら、馳走になるとしようか」
 ようやく舞の表情も少しほころんできた。
 さて、このままいけばすべては一件落着、世はなべてこともなし、と行くかと思われたのだが、そうは問屋が卸さない。
 運命の足音は、すぐそこまで近づいてきていた。
「それでは、いただきま〜……」
『ちょっと待った!』
 意外なほどの大音声にさえぎられ、速水は思わず声のしたほうを振り返り――あんぐりと口をあけてしまった。
 なんとそこには、二組メンバーを中心として、小隊女子のほとんどが勢ぞろいしていたではないか。
「な、なんだっ!? そなたたち、一体どこから……」
「ずーっと隣にいたわよ。ええ、あなたたちがここに来る前からずっとね」
 原が代表して答えるのを聞いて、今度は舞のあごが落ちかけた。
「な、なんだとっ!? ……厚志」
 ゆらり、と舞が立ち上がるのを見て、速水は生命のアラームが最大級でがなりたてる音を確かに聞いた。
「ま、舞っ!? ちょっと待って、今回僕は無関係、なんにも知らないよっ!?」
「速水君の言ってる事は本当よ。これは私たちの問題。……ねえ芝村さん?」
「な、なんだっ?」
 ――まずい。何がまずいか分からんが、とにかくまずいっ!
 舞の行動は、残念ながら一歩だけ遅かった。
 なんか今回、舞の行動は遅れっぱなしである。やはり夕べのことで「体が痛い」なのだろうか?
どうでもいいことではあるが。
 それはさておき、いつの間にやら舞はヨーコと田代にがっちりと押さえられていた。
 速水には、なんだかとってもものすごくデジャ・ヴュな光景であった。
「な、何をするっ!? は、離せっ!」
「まーいちゃん」
 加藤が舞の前に立つと、にやりと笑みを浮かべた。
「な、なんだ祭?」
「んふふふふふふ〜」
「だ、だからっ、なんだそのヘンな笑い声はっ!?」
「なーんで速水君、舞ちゃんと同じシャンプー使えるんやろな〜。それに、夕べは違うって、なんのコトやろねえ〜? うち、そのあたりがとっても気になるんだけどなあ〜」
 舞の全身が硬直する。あちらこちらからものすごい勢いでいやな汗が噴出してきていた。
「これはちょっと、いろいろとお尋ねしたいことがあるんやけどな〜。ま、ちょっとこっちに来てもらおか?」
 見れば、周囲の女性陣は、誰もが笑っていた。笑っていたけど、目は笑っていなかった。
 そういえば、朝のマシンガン乱射で、相当数の弾丸は二組教室へも飛び込んでいたそうな。
「なっ!? き、きしゃまら、いや貴様ら何をするっ! 離せ、離せぇっ!?」
 ――せ、せっかく厚志と仲直りできたのに、それにサンドイッチがっ!
 彼女の心の叫びなど、誰にも聞こえるはずがない。
『だーめっ』
 あまりに見事なハモり声に、舞は今、とんでもない危機に陥ったことをようやく自覚していた。
 が、まあ、心配することはあるまい。危機に陥ったのは、彼女ひとりではないのだから。
「そうそう、この件については、速水君にもちょっと聞きたいことがあるから、一緒に来てもらおうかしら。ああ、サンドイッチのことなら心配しないで、私たちがおいしくいただくから、ね」
「えっ!? ぼ、僕もですかっ? またあっ!?」
 気がついたときには、速水のわき腹に原の特大カッターナイフが、首筋には萌の五寸釘がぴたりと押し当てられていた。
 いやな汗をかく者、ふたりに増加。
「うふふ、じゃあ行きましょうか? ……じっくりトロトロ、自白させてあげるから、楽しみよネェ?」
 原さん、怖いです。
 それからしばらく、ふたりの抵抗する物音が聞こえていたような気もするが、やがてそれはハンガーの奥に飲み込まれ、ふい、と消えていった。

 小隊司令室のはずれでは、ののみがその珍妙な一行を不思議そうに見つめている。
「ふええ。たかちゃん、みんないったいなにをやってるのかな? なんだかおこってるような、たのしそうなふしぎなこころなのよ?」
「ああ、あれは多分、みんなにとっては楽しいことなのさ」
「ふうん……?」
 なおも首をかしげているののみの頭を、瀬戸口は優しくぽん、ぽん、とたたいた。
「さ、俺たちもどこかに遊びに行こうか?」
「んー、うんっ」
 まだ気にならないでもなかったが、遊びの誘惑には勝てなかったのか、ののみは大きくうなずいた。
 やがてふたりは、一行が消えた反対側へとゆっくりと歩いていき、やがて見えなくなった。

   ***

 色恋話は、ひとによってはいつ聞いても楽しいものだが、それが周囲に迷惑を及ぼすとなれば話は別である。

 仲良きことは美しきかな。
 ただし、バカップルはほどほどに。
(おわり)


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