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料理と愛情(その2)


〜ケース2〜

 熊本市内にとあるアパートが建っている。
 建築学の限界に挑戦しつづけているような築六〇年の古式ゆかしい――平たく言ってしまえば超オンボロアパートでは、ただ一ヶ所だけ明かりが灯り、生活の存在を主張していた。
 そこにただひとり住まうは少女がひとり。
 芝村の末姫、舞であった。
 この事実を聞かされた者は、たいてい困惑の表情を浮かべることが多い。権力者――本人たちはもう少し違うものだと考えているようだが――である芝村一族が、何を好きこのんでこんなところに、というわけだ。
 事実、五一二一小隊のメンバーも似たような質問をしたことがあったが、舞の答えは簡単明瞭、というよりも、かなりあっさりとしたものだった。
「ひとりの方が気楽だ」
 もともと、交渉事をやらせればたいていの場合戦闘的決裂という事態に陥ることが多いのを考えれば、ある意味これは妥当な考えであるとも言える。
 また、いざ敵の襲撃という場合に周囲を巻き込まず、同時に遠慮なく反撃できるという点が考慮されているのは……まあ、なにをかいわんや、である。

 ともあれ、ある意味彼女の要塞であるアパートの一室、その中枢たる台所に舞は立っていた。
 服は制服のままだったが、台所に立つにふさわしく、胸元に猫さんアップリケのついたエプロンを着用に及んでいる。
 目の前のコンロに据え付けられているのは土鍋のようだ。中では湯が張られ、だし昆布がゆらゆらと漂っている。
 舞は傍らに置いてあった豆腐を手に乗せると、包丁をゆっくりと差し入れていく。
 ……鍋物だというのに背筋が寒くなるので、包丁を引こうとするのはぜひやめてもらいたいものだが、どうにか豆腐に変な色がつくこともなく、無事に湯の中に没していく。
 火を弱火にすると、舞は土鍋の蓋をそっと閉めた。あとはこのまま少し置いておけばいい。
「もうすぐ、来るはずだが……」
 ちらりと時間を確認する。もう少しで約束の時間だった。
「準備は良いな。も、もうすぐだ……」
 急に鼓動が強くなったような気がして、舞は思わず胸に手を当てた。もう幾度となく繰り返されてきた瞬間であっても、舞はいまだに慣れることができなかった。
「お、落ち着け、落ち着くのだ。……ふう」
 ようやく動悸も収まり、舞はほっと息をついたが、それはほどなくしてため息に変わる。
「問題は、これからだな……」
 舞の呟きが、台所にこだました。

   ***

 九州は、列島の中では南部に位置するとはいえ、この季節になればさすがに寒さと無縁でいるというわけにもいかなくなってくる。
 空には鉛色の雲が低く垂れ込め、せっかくの天の恵みを通すものかと踏ん張っていた。木枯らしがすっかり裸になった木々の間を吹き抜け、枝を寂しげに揺らしていく。
 道行く人々がコートの襟を立て、足早に歩いていく中を、灰色をベースとした制服を着込んだ少年が、いささか場違いなほどの弾んだ足取りで歩いていた。
 鼻歌すら歌いそうな――いや、実際歌っていた――少年を見て、何人かはその足取りに苦笑し、そしてもう何人かは彼の顔と瞳を見て、思わずその場に立ち尽くす。
 優しげな顔立ちに青い瞳、そしていささか癖のある黒い髪。それらが形作る雰囲気は、ある意味冬景色の対局にありそうな朗らかさに満ちていた。
「ふん、ふ、ふ、ふ〜ん……♪」
 彼らのうちかなりの人数が、軽やかなステップを刻みながら歩み去る少年が着用している、灰色っぽい制服に気がついていた。
 生徒会連合――学兵の制服は、ここしばらくの間に熊本市民にとってかなり見慣れたものになっていたから、それも当然である。
 それに気がついた市民たちは、何事かを納得した表情になると、あたたかな視線を向けながら少年を見送った。年配の者のなかには、彼の後ろ姿に一礼を捧げる者さえいた。
 それも道理で、この春に始まった幻獣との戦争――第三次防衛戦は、彼ら学兵の活躍なかりせば、間違いなく人類の敗北で幕を閉じていたであろうと言われている。
 自分たちが今ここにあるのは誰の功績か――それを考えれば当然の反応であったし、ならば、ようやく訪れた自然休戦期まで生き残ることができた少年が、少々浮かれていたところで大目に見る気にもなろう。
 なにしろ彼らは、それだけのことを成し遂げたのだから。
 だが、この時の市民たちは、自分がまさかとんでもない勘違いをしていようとは夢にも思っていなかった。
 少年――速水がうかれてみえたのは、まったく別の理由からであった。
「ふん、ふふん、ふんっ♪」
 ……とうとうスキップまで始めてるし。

 放っておいたら空の彼方まで飛び出しかねない勢いで浮かれていた速水は、ようやくのことで多少勢いを弱めると、ふと顔を上げた。
 舞のアパートは、すぐ目の前だった。
 速水は服装をチェックすると、一段一段慎重に階段を上り始めた。そうでないと踏み抜きそうだったのだ。
「ま〜いっ。来たよ〜」
 頭のネジがどこか外れているのではないか、と疑いたくなるほどの明るい声に、ドアの内側でかすかに反応があった。
『あ、厚志かっ? ま、待て、今カギを開ける!』
 ノブがカチャカチャ言うのを聞きながら、速水はじっと舞が迎え入れてくれるのを待っていた。
 ――合鍵、僕も持ってるんだけどなあ……。
 いつもそう思わなくもないが、舞が中にいる時には必ず彼女がドアを開ける、というのが最近の不文律となっている。
 何事にも完璧を期したい彼女らしいといえよう。
「僕としては、他にもいろいろ楽しいことがあるから、ぜひ開けたいんだけど、ね」
 そうは思うが、あえて手は出さない。
 楽しい思いをしたその後に、命の危機にさらされるのは、さすがにもう懲りたようだ。
「ま、待たせたな。入るがよい」
「おじゃましまーす」
 ようやくドアが開いて、速水は室内へと招待された。とたんにふわりと湿って重たい、だがどこか心和む炊ぎ(かしぎ)の湯気が彼を包む。
「ふーん、今日は鍋物……かな?」
「そ、そうだ。さすがだな。もう出来上がるから席について待つがよい」
「うん、わかった」
 速水はおとなしくテーブルで、料理が来るのを待っている。
 舞が料理をする時は、明らかに彼女からの指示がない限り、速水は全く動こうとしない。いや、絶対に動かないと決めているかのようであった。
 精一杯の努力に余計な口出しで水を差すほど、彼は恥知らずではなかった。
 もっとも、舞に万一のことがあったり、手に負えないようなことがあったりすれば、実に素早くスイッチが切り替わることもまた疑いなかったのだが。

   ***

「できたぞ」
 舞の声に、速水は目に見えない尻尾を振りながら席に着く。やがて、両手に耐熱手袋をした舞が、卓上コンロの上に本日の成果をゆっくりと置いた。
「わあ……」
 速水の口から、思わず感嘆の声が漏れた。
 彼の目の前では、土鍋が温かそうな音と共に湯気を上げて彼を出迎えている。その中では豆腐がことことと揺れ動いていた。
 多少投入が早かったかもしれないが、幸いにも火力は調整されていたため、「す」が入る事態は避けられている。
 冬のさなかに、あったかお鍋。凍えた体を心からあっためてくれる、なんともありがたいメニューである。
 ……速水のばあい、ほうっておいてもぽっかぽかな気もするのだが、それはまあさておいて。
「わあ、おいしそう。湯豆腐なんて久しぶりだね」
「うむ、珍しくかなりの出物があってな。ひょっとしたら合成かも知れぬが……」
「いいじゃない、豆腐に変わりはないんだから。贅沢言ってたら罰があたるよ」
「……それもそうだな」
 速水があまりにもお気楽な調子で言うものだから、舞もつられて思わず苦笑を返してしまったが、そこには一面、猛烈に現実的な理由も込められている。
 今は冬季自然休戦期の真っ只中である。
 戦闘の危険は一時的にせよ遠くに去り、人類が優勢だったこともあって多少の余裕はなくもなかったが、簡単に改善してくれないのが食糧事情であった。
 天然・合成問わず、全国の食料生産設備が休日返上でフル稼働した結果、どうにか全国的に飢餓線を踏み越える事態だけは避けられたものの、自由に食材を調達することはとてもかなわなかったのだ。
 春、学兵たちの間で交わされていたぼやきは、いまだ過去のものとはなっていなかった――そう言い換えてもいい。口にするものに不自由しないだけ、まだましなのだ。
「それもそうだな。……よし、もうそろそろいいぞ」
「うんっ、いっただっきまーす!」
 喜び勇んで鍋に箸を入れる速水の表情は、これでもかというくらいに喜びと笑みに満ち溢れている。最近は多少耐性がついたかと思い始めていた舞ですら、その表情には思わず笑みを誘われてしまった。
 鍋から豆腐をすくい、ポン酢の入った小鉢にそっと沈ませる。薬味はとうの昔に投入済みであったから、あとは箸で適当な大きさに切り分けると、速水は湯気を立てているそれを口の中へと放り込んだ。
「ほふっ、ほふっ、あっ、あちちっ……、あつっ! ……ふう、熱かったぁ」
「何をやっているのだ、そなたは。そんなに慌てずとも鍋は逃げたりせん」
 顔を真っ赤にしながら瞬間百面相を繰り返す速水に、舞は慌てて水を差し出しつつも呆れた表情を浮かべてたしなめた。だが、ようやく落ち着いた当の本人は、にっこりと笑みを浮かべながらこう言うではないか。
「う、うん、でもさ、とってもおいしそうだったものだから、つい焦っちゃってね……。予想通り、とってもおいしいよ」
「そっ、そうか……?」
「うんっ」
 真剣な表情と、全てを吸い込まれてしまいそうな蒼い瞳に、舞は思わず顔を赤らめて俯いてしまう。速水は、そんな彼女を見ながら、いとおしげな笑みを浮かべると再び鍋の攻略にとりかかった。
 一方の舞はというと、顔を朱に染めたまま、自らもちょこちょこと豆腐を口にするのだが、思ったほどには悪くなかったので内心ほっとしていた。
 だが同時に、内心では別の懸念が頭をもたげ始めていた。
 ――今日はこれでなんとかなったが……。あ、明日はどうしたらよいのだ?
 この状態をいつまで続けられるのか、舞にはさっぱり見当がつかなかった。

 しばらくの間は鍋をつつき、舌鼓をうち、たわいのない会話を交わすといった、まさに「夕食の団欒」と呼ばれるべき時間が過ぎていった。
 しばらくして、ようやく鍋の底が見え始めてきた頃。
 速水はいささか名残惜しげに、最後のひとすくいとばかりに鍋をつついていたのだが、ふと、その中に残っているものを見て苦笑を浮かべていた。
 ――あ、これ使ったんだ。……なーんだ、舞ったら気がついてなかったのか。今さら言うのもなんだし……まあいいや。
 速水は何も言わずに、最後の豆腐を賞味すると箸をおいた。
「ごちそうさまーっ」
「う、うむ。粗末であった」
「とんでもない。おいしかったよ?」
「……そっ、そうか」
 ある意味、すでに「食後の挨拶」と化した感のあるやりとりを繰り返しつつ、ふたりはテーブルの上を片付け始める。
 速水は鍋を台所へと移動させようとしたのだが、制止の声が背後から飛んできた。
「舞?」
「あ、そのだな。そ、それは動かさずとも良いぞ」
「え? 洗わなくていいの?」
「う、うむ……」
 速水はしばし首をひねっていたが、やがてなんらかの了解に達したのか、舞に向かってうなずいて見せた。
「な、なんだ?」」
「そっか。おだしがいっぱい出てるしね。わかった、じゃあ、ここに置いとくね?」
「う、うむ。すまぬな」
 ――舞も、ずいぶんこういうところを気をつけるようになったなあ。
 速水は感心することしきりであった。何事であれ、成長するというのは喜ばしいことである。
 成長して嬉しくないのは、腹回りくらいのものであろうか。
 ともあれ、すっかりくちくなった腹を抱えてソファーに身を沈める速水をよそに、舞は鍋に視線を注いだまま、じっと何事かを考え込んでいた。

 その後、ふたりがどうやって過ごしたかって?
 それを聞くのは、それこそ野暮というものであろう。

   ***

「舞〜、また来たよ〜」
 今日も今日とてオンボロアパート、明るい速水の声が玄関にこだまする。
 本人はいっそのことこちらに定住したいようであったが、それは今のところ、この部屋の所有者によってかたくなに拒否され続けていた。
 ……もっとも、週末や休日は事実上すでにそうなっているに等しかったが、舞自身は気がついていないのか、それとも黙認しているのか――。
 ともあれ、部隊において深夜の作業がほとんどなくなった現在、「いったん家に帰る→荷物を置く→猫の世話→舞の家へ直行」という行動パターンがほぼ確定しつつあったのだ。
『あ、開いておるぞ。入るがよい』
「おじゃましまー……す」
 中からの声に誘われて、室内へと足を踏み入れた速水であったが、その足が土間で止まる。
 そこからは台所が一望できるのだが、コンロの上では、今日も土鍋がでんと鎮座ましましていた。
「わあ……。今日もお鍋かな?」
「う、うむ。今日は寄せ鍋にしてみたぞ」
 舞が蓋を持ち上げると、鍋の中では豆腐や野菜、それに合成ではあろうが鶏肉などがうまそうな湯気を上げていた。だしがよく出ているのか、肉と野菜から生まれ出るエキスのいい匂いが鼻を突く。
「そうなんだ……」
「なんだ、不服か?」
 あまり盛り上がらない様子の速水に、舞はいささか不機嫌そうな声をあげた。だが、口調とは裏腹に、彼女の表情にはどこか探るような、怯えにもにた雰囲気があった。
「え? と、とんでもない! いやー、ちょうど寄せ鍋が食べたいと思っていたところだったんだ!」
「そ、そうか。それならよいのだ」
 ――でも、なに続けなくたっていいと思うんだけど……。結構、大変だったろうに。
 舞の背後では、かつて野菜と呼ばれしものの残骸が――かつてよりははるかに少なくなったものの――力なく横たわっていた。
 とはいうものの、別に料理自身に不満があるわけではなかったので、速水は自ら鍋を持ち上げると、テーブルの上にセットした。
「それじゃ、いただきまーす!」
「う、うむ」
 今日の鍋の味も、確実に上達のあとが見受けられるものであったが、それでも舞の表情は晴れなかった。
 ――あ、明日。明日は一体どうすれば……?

   ***

 さらにその次の日。
 今日は土曜日ということもあって、速水は早々に家のことを済ませると、舞の家にどっかりと陣取っていた。
 ただしそれは、落ち着いていた、というのと同義ではない。
「舞〜、一体どうやったら一週間でここまで汚すことができるのさ?」
 もはやおなじみとなりつつある姉さん被り姿の速水に、舞は台所から顔を赤くしつつ、精一杯の抵抗を試みた。
「うっ、うるさいっ! 私だって、その、いろいろと都合というものがあるのだ!」
「都合、ねえ?」
 ――ほとんど同じ時間に帰って、夕食を一緒に摂って、そのあと一緒にいるのに?
 このところ、夜のお泊り攻防戦は速水の連敗で終わっているので、彼女には夜、比較的自由な時間があるはずだった。
 その間に一体何をどうやったらここまで混沌を作り出せるのか……。聞いてみたいような、決して聞きたくないような、速水の胸中はなんとも複雑であった。
「とりあえずさ、こっちは僕が片付けるから、舞は食事の支度に専念してよ」
「う、うむ……」
 その言葉にうなずきかけた舞であったが、次の瞬間、そのプランにはとんでもない問題があることに気がついた。
「ちょっと待て! す、すべて掃除するつもりか?」
「え? もちろん。だってこのままじゃ、僕の居場所がまたなくなっちゃうもの」
 脱ぎっぱなしの洗濯物、ゴミ箱からあふれ出しかけている投棄物の数々――。
 かろうじてきれいなのはテーブル周辺だけ、という現状を突きつけられては、舞としてはぐうの音も出ない。
「あ、う、ぐ、そ、その……わかった」
「はい、じゃあそっちで頑張ってね。あ、ほこりが飛ぶといけないから、ここは閉めるからね〜」
 なんだか妙に嬉しげな声と共に、引き戸は無情にも閉められてしまった。舞はその前で、がっくりと手をつきながら無念そうに呟いた。
「ふ、不覚だ……。せめて下着は分けておくべきであったかもしれぬ」
 俗に言う、「後の祭り」というやつである。
 ……それ以前の問題として、これまでで散々懲りていたのではなかったろうか?
 諦めて台所に向かう舞の前には、歴戦の勇者・土鍋が鎮座ましましていた。

   ***

 数十分にわたる激闘の末、速水はどうにかテーブル周辺の秩序回復に成功していた。その他の戦線については……。
「ま、いいや。とりあえずの居場所はできたし……」
 いかな熟練の業をもってしても、結局速水はひとりしかおらぬ。不可能なこともあろうというものだ。
 妥協、折衷案といった言葉が脳内を掠めたそのとき、引き戸が開いて、舞が顔を出した。
「で、できたぞ」
「あ、ちょうどよかった。こっちもとりあえず……」
 振り返った速水の表情が、確かに一瞬硬直した。彼の視線は舞の胸元あたりに抱えられた物体に注がれていた。
「そ、そうか。では、ガスコンロを準備してくれぬか?」
「……ふぁーい」
 めちゃくちゃ力ない返事であった。


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