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追憶(終話)


 何があろうと、夜明けは必ずやって来る。
 それが幸いなのかどうかはよく分からないが、薄く差し込む朝日に舞はゆっくりと目を開いた。
 いささか寝乱れた髪をかきあげ、ぼんやりとしたまま上半身を起こす。しばらくの間、まるで床に世界の真理があるかのように視線を落としていると、昨日のことが徐々に思い出されてくる。
 ――まったく、どうかしている。
 小さく息をつくと、舞は一夜の楽園からもぞもぞと這い出した。身づくろいもしなければいけないし、弁当も作らなければならぬ。あまり時間はないはずだった。
 シャワーを済ませ、多少さっぱりしたところで、舞はとりあえず朝食をとることにした。
 以前、それを怠ったために騒ぎになったこともあったので、どんなに時間がなくても、せめて牛乳の一杯でも飲んでから出かけるのが習慣となっていたのだ。
 一日の活力は朝食から、である。
 そう思いながら冷蔵庫を開けたのだが、どことない違和感に舞は眉をひそめた。
「……昨日買ったのは、これだけか?」
 冷蔵庫の中は、冷蔵能力の限界に挑戦するがごとくにぎっちりと食材が詰まっていた。それは間違いない。
 だが、どこかおかしい。
 しかしそれが一体何なのか、舞には分からなかった。

   ***

 朝のすがすがしい空気の中、舞の足取りはどことなく重たげであった。まだ昨日の想いを引きずっているのか、表情はいささかここにあらず、といった感じである。
 だから、彼女にしては珍しいことに、背後から接近する影にまったく気がつかなかったのだ。
「おはよう!」
「!」
 背後からの声に慌てて振り向けば、そこには速水がいつもの笑顔で立っていた。舞は驚きを面に表すまいと努力しつつ、極力平静な声を保とうとした。
「し、芝村に挨拶は……、その、お、おはよう、だ」
 速水は嬉しそうに頷いたが、うっすらと目の周りにくまらしきものが浮かんでいる。
「あ、厚志よ。そなた、何かあったのか?」
「ん? いや別に?」
「そ、そうか。その……だな」
「あ、ごめん。ちょっと僕、今日は用事があるんで、先に行くね、じゃ!」
「あ……」
 舞が引き止める暇があらばこそ、速水は軽やかな足取りであっという間に姿を消してしまった。
 行き場のなくなってしまった手が、だらりと下がる。
「昨日のことは……、あやつにとっては、大したことではなかったのかもしれんな……」
 そのとおりだろう、とは舞自身も思う。
 だが、どことなく体の中を風が吹き抜けていくような、そんな想いを押しとどめることはできそうになかった。
「ともかく、行くか」
 ひとたびは軽くなったと思った足取りは、再び重いものへと変わっていた。

   ***

 特に出撃がかかることもなく、無事に午前の授業が終わると、あたりの空気は一挙に緩んだものとなった。
 なんといっても育ち盛りの男女であれば、昼食は大きな楽しみのひとつである。ある者は弁当を取り出し、またある者は購買で買ったパンを手に、あるいは食堂に、味のれんにと楽しげに散っていく。
 速水と舞も、めいめいが弁当を手に、グラウンドの一隅にある芝生の上に座り込んでいた。
 天気のいい時、そこはふたりの指定席のようなものだった。
 速水は相変わらず嬉しそうに弁当をぱくついているが、舞の箸はなかなか進んでいない。
「ああ、おいしかった! ……あれ? 舞、どうしたの?」
「ん、いや、ちと考え事をしていたのだ。なんだ、そなたはもう食べ終わったのか?」
「うんっ、とってもおいしかったよ、ありがとう!」
「そ、そうか。それならよい」
 心からの笑顔を向けられて、舞は思わず胸が高鳴るのを感じていた。胸のもやもやも、このときばかりはきれいに晴れたような気がするほどだ。
「さて、と……」
 不意に速水が弁当箱を手に立ち上がった。
「どうした?」
「うん、さっき本田先生に呼ばれていたのを思い出しちゃった。ちょっと行ってくるね」
「そ、そうか……。ではな」
「また後でねーっ」
 舞は彼を見送った後、またぼそぼそと弁当に箸を進めたのだが、その動きがふととまった。
「……本田は、昼から出かけたのではなかったか?」

   ***

 舞の疑問は正しかった。速水の目的地はいささか違うところにあったのだ。
「早いところ見つけておかないとなあ……あ、いた。加藤さーん!」
 小隊の敏腕事務官としてならしている加藤は、驚いたような表情で振り返る。トレードマークのおはねがぴょこりと揺れた。
「なんや? 速水くん、昼休みに呼びに来るなんて珍しな。お昼なら、うちもうすませてもうたで?」
「ああ、お昼の誘いじゃないんだ。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど……」
「お願い? なんや?」
 速水の願い事など珍しいことであったから、加藤にしてみればますます意外である。
 何事かとそばによると、速水が加藤の耳元で何事かをささやいた。
「……なんやて?」
 加藤の目が大きく見開かれる。それは確かにお願いもお願い、だが、とびきり奇天烈なお願いでもあった。
「加藤さんのところになら、ストックがあるんじゃないかと思ってさ」
「んー、まあ、なくはないで。倉庫を探せば、確かストックが……行ってみよか?」
「お願い」
 ふたりは連れ立って、女子高の校舎へと向かった。加藤は何か用事があったはずだが、それは彼女の脳裏からはきれいさっぱり消えうせている。
 儲けのチャンスを逃がすようでは商売人とはいえないから、それは当然の反応であった。

「はい、こんなんでええかな?」
 加藤が秘密の倉庫から引っ張り出してきたのは、カラフルなトレイだった。中はいくつか仕切りが入っており、区切りやすいようになっている。
「うん、上等。じゃあ、これで」
「おっ、こらすまんね。また何か用があったら、遠慮のう呼んでな」
「うん、ありがとう。じゃねっ」
 厚手の袋に入れられたトレイを抱えるようにして、速水は足早に立ち去っていった。
「ののみちゃんに、ねえ……。速水くん、やっぱええとこあるわなぁ」
 加藤は感心したように呟くと、残り物の後片付けを始めるのであった。

「これで、大体準備はよし、っと。後は……」
 グラウンドに戻ってきた速水は、あたりをきょろきょろと見回した。
「あ、いたいた。ののみちゃん」
「ふえ?」
 リボンでまとめられた髪がふわふわと揺れる。ののみはちょうど瀬戸口に連れられて校外へと向かうところだった。
「どうした、速水? なんか用か?」
「あー、まあ、ちょっと……」
 正直、瀬戸口と一緒というのも予想しなかったわけではない。速水は当初の予定通りに話を切り出すことにした。
「実は、ののみちゃんにちょっとお願いしたいことがあるんだけど……」
「ふえぇ? なあに?」
「それは、俺が聞いてもいい話なのか?」
「瀬戸口君に黙って勝手なことをしたら、後で何を言われるか分からないしね」
 きっぱり、かつ迷いのない返答に、瀬戸口は大きな苦笑を浮かべた。
「なるほどな。ほんじゃ、話というのを聞かせてもらいましょうかね?」
「うん、実は……」

 話自体は簡単なものだった。
「はー、なるほどね……。お前さんもまあ、よくやるよ」
 瀬戸口の呆れたような口調に、速水は頭を掻いてみせた。
「まあ、そうかもしれないけど……。で、いいのかな?」
「ああ、俺は構わんよ。ののみはどうだ?」
「うんっ! ののみ、がんばるからね!」
 両の拳を固めながら、ののみが力強く宣言するのを見て、速水たちの顔に思わず苦笑が浮かんだ。
「うん、それじゃよろしく頼むね。じゃ、後で」
 立ち去っていく速水を見て、ののみがにこにこと笑顔を浮かべている。
「どうしたののみ、そんなに楽しみなのか?」
「ううん、それもあるけどね、あっちゃん、とってもうれしそうなのよ。だから、ののみもうれしいの」
「そうか……、よかったなぁ」
「うんっ!」
「……ま、仲良きことは美しきかな、ってな。お前さんらしいやり方だよ、速水」
 ののみの頭を軽く撫でながら、瀬戸口はそっと呟いた。

   ***

 舞にとっての異変は、放課後に訪れた。
 チャイムが鳴り今日の授業が終わる。
 ここ数日は特に出撃もなく、機体の銚子は絶好調といってよかったから、この後の整備などあってなきがごとしのものである。
 となれば、みんなが緊張を持続できるはずもなく、教室の中は一気にくつろいだ雰囲気になっている。
 そんな中、舞が教科書を片づけていると、風に乗って信じられないような一言が流れ込んできた。
「ねーねーあっちゃん、ののみね、お子様ランチが食べたいのよ」
 ――な、なんだとっ!?
 なんだかやけに棒読みくさかったが、台詞の内容があまりにも衝撃的だったために、舞はそこまで気が回っていない。
 それだけでも十分信じられないことであったのだが、更に信じられない一言もそれにかぶさってきた。
「うん、いいよ。じゃあ一緒に行こうか?」
 突如教室に轟音が走った。
 音源の方向を見れば、舞が椅子や机ごと横にひっくりこけていた。
 実に器用である。
「舞っ! 大丈夫!?」
「だ、大丈夫だ。大丈夫だが……」
 ――お、お子様ランチ!? ののみが!?
「よかった……。あ、舞。悪いけど今日はちょっと用事ができちゃったから、先に帰るね」
 半ば呆然としてる舞を置き去りにして、速水と、そしてののみはさっさと教室から出て行ってしまった。
 後に残されたは、呆気にとられていた舞ばかり。
 彼女はしばしの間なすすべもなく、速水たちの後ろ姿を見送るばかりであったが、やがて妙に腹の底で、何かが熱くなってきた。眉が急角度につりあがり、口元が真一文字に引き絞られる。
 ――ゆ、許せん。なぜにののみが厚志にお子様ランチなぞ頼むのだ? ましてや厚志はなぜそれを受け入れた!? わ、私の話を聞いていながら、あやつはなぜそのようなことができるのだ!
 普段とは別の理由で顔が赤くなっていく。周りにいた人間が次第に距離を取り始めた。
 だがそこで、彼女ははっと我にかえった。確かに速水に対してはわからないでもない。だがなぜこうもののみに対してまで許せなく思うのか?
 ――お子様ランチを頼めるののみに嫉妬しているのか? ま、まさか!
 だが、残念ながら脳の隅々まで検索しても、それを否定する材料は見つからなかった。それに恐らく、理由はもうひとつあるのだろうが、それはあえて考えないこととした。
「と、ともかく、今は行動あるのみ!」
 舞はカバンを引っつかむと、ドアから飛び出す。見れば、速水たちはちょうど校門に向かって、ゆっくりと歩き出したところであった。
 ――逃がさん!
 追いかけてどうしようというのか、それは舞にも分からない。だが、何かをせずにはいられなかったのだ。
 舞が出て行ったあと、教室に残っていた瀬戸口は、ドアのほうを見ながらふっと笑みを浮かべた。
「やれやれ、世話のかかることだねえ。……速水、この貸しは大きいからな?」

「……でね、……なのよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ……」
 風に乗って、速水とののみの会話が切れ切れに舞に耳へと流れ込んでくる。
 連れだって歩くふたりを、舞はやや距離をとって尾行する。
 この手の行動はお手の物だったので、ふたりには気づかれていないはずだった。それが証拠に、彼らは特に急ぐでもなく、変わらずゆっくりとした歩調で歩いている。
 舞は胸の中で荒れ狂う嵐をどうにか抑えつつ、表面上は比較的冷静に追尾を続けていた。そのわりには服のあちこちが汚れているような気がするのだが、それはまあ、見ないことにしてあげた方がいいだろう。
 前方で笑い声が上がった。何がおかしかったのだろうか。
 ふたりの会話が耳を震わすたび、仲良く歩いている姿を見るたびに、なぜか舞の胸は痛みを覚えた。
 ――一体、私は何をやっているのだ?
 胸に別種の痛みが走る。
 こんなのは芝村らしくないということはよく分かっている。だが、幼き日の思い出も絡んでいるとあっては、今は動きを止めることなどとてもできそうになかった。

 舞は絶対の自信があったようだが、一方の速水は、むろん舞の尾行に気づいていた。普通の意味でつきあった時間はさして長くはないが、そのくらいの事はわかる。
 というよりも、舞自身は気がついていないようだが、すでに彼女の行動は尾行の体をなしていなかった。
 あと少しで自宅にたどり着くというところで、彼はののみにささやいた。
「じゃあ、次の角で。いいね?」
「うん、わかったのよ」
 ふたりは小さくうなずくと、一瞬だけ後ろを振り返った。
「!?」
 気がつかれたかと舞が姿を隠したその瞬間、ふたりは揃ってダッシュを始めたではないか。
「ま、待てッ!!」
 思わず声が出たが、もう構いはしない。
 舞は慌てて追いかけるが、ふたりの姿はあっという間に夕闇の中に消えてしまった。
「しまった……。逃げられたか」
 ――これで、真相を知ることはかなわなくなったか。
 ふと顔を上げれば、見慣れた建物が目に入る。
 そこはなんと、速水のアパートの前であった。よく見れば、速水の部屋には明かりが灯り、中に人影らしきものがゆらめいている。
 ――新市街に行くのではないか? なぜだ?
 なおも状況を確かめようと舞が一歩を踏み出したそのとき、思いっきり大きな声が背後から飛んできた。
「えへへー、まいちゃん、つーかまーえたっ!」
「ひゃあっ!?」
 驚いた舞が振り返ると、なんと、先に行ったはずのののみが、舞の腕をしっかりと捕らえてニコニコと笑っているではないか。
「の、ののみ?」
「まいちゃん、もうびこーはおしまいなのよ。これからののみといっしょにいくのよ!」
「気、気づいていたのか!? ……いや、それよりも、行くとはどこへだ?」
「いいから、ののみについてくるの!」
 有無を言わせずに、小さいことは思えぬ力でののみは舞を引っ張っていく。
「お、おい、ののみ! こ、こっちは……!」
 そう、行き先は――速水の部屋だった。

 ドアを開けたとたんに、優しい明かりと暖かい空気が舞を包んだ。
 そして、優しい言葉と望んでいたものの姿もまた。
「お帰り、舞。用意はできてるよ」
「用意、だと? ……! こ、これはっ……」
 舞は、驚愕に大きく目を見開いた。
 台所にはエプロン姿の速水、そしてテーブルの上には――。
 お子様のお口の永遠の友、お子様ランチが鎮座ましましているではないか。トレイも実にカラフルで、まるで店のものそのものである。
 舞が呆然と呆けているのを見て、速水は心の底から楽しげな、だが決して莫迦にはしていない笑い声を上げた。
「なんだか、舞が食べたそうだったからね。でも、君だけじゃひょっとしたら来てくれないかもしれないから、ののみちゃんにも手伝ってもらったってわけ」
「まいちゃん、ごめんなさぁい。……えへへー、でもののみもね、おこさまらんちははじめてなのよ」
「そ、そうか、そうだったのか……」
 何か言いたいはずなのに、言葉が喉から出てこない。胸がつまり、かすかに視界がにじんだ。
 速水とののみは両脇から舞を支えるようにして席につかせると、自分たちもそれぞれの椅子に座った。
 多少我に返ってみると、舞の目の前には、あれほどまでに恋い焦がれたお子様ランチが彼女を待ち受けている。
「あ、厚志、ののみ……」
「さっ、あまり冷めないうちに食べよ? ……それじゃ、いただきます」
「いっただっきまぁーすっ!」
「い、いただきます……」
 三者三様の挨拶を終え、楽しい食事の時間が始まる。
 舞はスプーンを手にとると、恐る恐るチキンライスに差し入れた。プリン状にかたどられ、ご丁寧にてっぺんには五一二一小隊の旗が立つライスは、わずかな抵抗の後にスプーンにすくい取られた。
「あ……」
「どうしたの、舞? どうぞ」
「う、うむ」
 意を決して、舞はスプーンを口に運ぶ。
 口に中でほろりとライスがほぐれ、ケチャップの味がいっぱいに広がっていった。
 ――これが、お子様ランチの味なのか。ついに、私は……。
 不意に、舞の目から涙がこぼれた。涙が彼女の頬を音もなく伝っていくのを見て、速水たちは思わず立ち上がる。
「ふええ、まいちゃんどうしたの?」
「ま、舞? もしかして、味付けが変だった?」
「い、いや違う。なんでもないのだ」
 涙をぬぐいながら、舞は笑顔を浮かべた。何のてらいもない、実に素直な笑顔だった。
 ――父の言ったことは本当だった。カダヤが、お子様ランチを私の元へと運んできてくれた……。最初から、素直に言えばよかったのだ。すまぬ、厚志、ののみ。
「うまいな、これは……」
「うんっ、とってもおいしいのよ!」
「あはっ、よかった。まだあるから、ゆっくり食べてってね」
「はーいっ!」
 ののみの声を聞きながら、もう一口ケチャップライスを口に運ぶ。
 舞は、遠き日の幼き自分が喜んでいるような、ふとそんな気がしたのであった。

 夢は、信じていればいつかかなうものなのである。

(おわり)



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