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追憶(その1)


 三つ子の魂、百までも。
 幼き日の思い出、それは今も色あせずに……。

 だが、こういう想いの持たせ方はいかがなものか?

   ***

 戦乱の渦中に放り込まれた九州にも、春はやってくる。最前線たる熊本市も、どうにか四月を迎えることができた。
 戦いに明け暮れる毎日とはいえど、この季節になれば若葉も芽を吹き、人類の運命などには関係なく、全ての生き物が生命の喜びを謳歌し始める。
 そうなればさすがに随分と空気も緩み、のどかな雰囲気のひとつも出てこようというものである。
 そんななか、ここは新市街。
 幻獣との戦争の影響を受けて、いささか閑散とした雰囲気があるのは否めないが、それでもそれなりの人出がある賑やかな通りを、ふたりの学兵が歩いていた。
 ひとりは少年、その容貌を一言で言うならば、まさに春風駘蕩、春風に服を着せたらこうなるのではないか、という雰囲気をたたえている。
 もうひとりは少女、おそらくはかなり長いであろう髪をポニーテールにまとめた少女が、少年のやや後ろを歩いていく。
 ふたりの関係については、その姿を見るだけで十分だろう。
 彼らはしっかりと手をつなぎながら、新市街をゆっくりと散策していたのだから。
 もっともこの「手をつなぐ」というのは、どうも少年の方から積極的にしかけているようだ。そのせいかどうか、女性の頬は、さっきから完熟トマトにも負けないほどに赤くなりっぱなしである。
 少年の名は、速水厚志という。
 彼はちょっと後ろを振り向くと、少女の様子を確かめ――予想通りなのを見て、小さく微笑んだ。
「舞、ずいぶん歩いたし、ちょっとお茶でも……ああ、もうこんな時間かぁ。ちょうどお昼だし、どこかで軽くご飯でも食べない?」
 雰囲気を裏切らないぽややんとした声に、少女――芝村一族、その末姫たる舞は、できの悪い人形のようにがくがくとうなずいた。
「う、うむむ、そそ、そうだな」
 舞は、普段の威厳などなんのその、うろたえきった声でようやくのことで返事を返す。
 彼女の頬はしっかりと赤らんでおり、先ほどからあちこちに視線を走らせたり襟元を直したり、汗を拭いてみたりとなんとも落ち着きのないことおびただしい。なによりも、しっかりとつながれた手から伝わる温もりが、彼女から落ち着きというものを奪い去っていた。
 もしここに五一二一小隊のメンバーがいて、舞の姿を見ることがかなうとすれば――もっとも、そんなことをすれば数秒後には「芝村の地獄」に叩き落されかねないが――、普段は傲岸不遜、独立不羈という言葉がもっともふさわしい彼女のあまりの落差に、顎を地に落としたかもしれぬ。
 実際の話、彼女はこういうことに関してはまったく慣れていなかった。
 まあ、速水とつきあいだしたのはせいぜい二週間前なのだから、慣れろという方が無理なのかもしれない。
 そんな彼女の姿に、速水は、今度は心の中でだけ笑い声をあげた。
 ――もう、舞ったら、本当にこういうことに慣れてないんだからなあ。
 あまりうろたえさせると本当に拳が飛んできかねないので、速水は歩く速度を緩めると、舞の顔を覗き込みながら確かめるように言った。
「お店なんだけどさ、僕が決めてもいいかな?」
「っ! よよよ、よかろう。そ、そなたにこの件は委託することとしようっ!」
 深くきらめく青い瞳に見つめられ、舞の頬はさらに赤味を増していく。頭から湯気が出ているのではないかと心配になるほどだ。
それにしても、およそ芝村がひとにものを頼むなど、かの一族を表層的な事柄でしか知らぬ者には驚天動地な出来事であろう。
 だが速水は、少なくとも舞の心の一端に触れ、彼女の想いを理解していた。少なくとも、そう信じていた。
 だから、やたらとしかめつらしい彼女の物言いも、その真意を全く誤解することなく受け止めることができたのだ。
「うん、分かった。そんなに大した店じゃないけど、メニューがいろいろあるから、多分舞の気に入るものもあると思うよ。行ってみよう」
 そういうや、速水は舞の手をしっかりと握ると、早足で駆け出した。
 これでは舞もたまったものではない。ようやく落ち着いたかと思った頬が、再び熱を持ってくる。
「ひゃんっ!? こここ、こらっ! 厚志、そ、そんなに引っ張るでない!」
「ほら、早く!」
 そんなふたりの姿を、道行き、すれ違う人々はほほえましげな表情を浮かべながら見つめていた。
 戦争という現実に似つかわしくないふたりの態度は、それだからこそありえるべき未来の象徴として見えたのかもしれなかった。
 明日の見えぬこの時代だからこそ、信じられることがひとつぐらいはあってもいいはずだった。

   ***

 速水が目指していた店は、同じ新市街の中にあった。
 外観も内装も、ついでに言ってしまえばメニューもだが、要するにごく普通のファミリーレストランでしかなかったのだが、このご時世に、しかも戦場のまっただなかと言ってもいいような場所で、閉鎖することもなく、ましてやメニューのほとんどを継続させたままに営業できているのは、一種の奇跡といってよかった。
 噂によれば、経営者が軍中枢とそれなりのつながりを持っているために、食材も経営についてもある程度の融通が利くのだという。営業を続けてこられたのもさもありなん、と思わせるような話であった。
 ともあれ営業しているなら、文句のあろうはずがない。
 速水がドアに手をかけるとベルが小さく鳴り、ウェイトレスが振り返った。
「ふたりなんですけど、空いてますか?」
「はい。こちらへどうぞ」
 ウェイトレスは速水たちを――ことに、舞を――見ると、小さく微笑んでふたりを案内した。舞はまだ落ち着きを取り戻すことができないのか、しきりとあちこちを眺めている。
「ほら、舞。こっちだって。そんなに慌てなくても大丈夫だから、ね?」
 慌てさせている張本人、自覚なんてもの、まるでなし。
 ――だ、誰のせいだと思っているのだ!
「わ、分かっておる! 子、子ども扱いするなっ」
 声がいささか大きかったせいか、近くにいた数人がこちらを振り向きかけ、小さく忍び笑いをもらす。それが聞こえたのか、舞の頬はさらに赤みを増した。
 速水は笑い声をした方に軽く視線を走らせた。舞を座らせると、自分もゆっくりと席につく。
 なぜか、彼らの通り過ぎたあたりのテーブルに座っていた客が次々と帰り支度をはじめたようだが、そんなことは速水の関知するところではなかった。
「はい、メニュー。舞は何にする?」
「う、うむ、そうだな……」
 舞は慌ててメニューを覗きこむが、正直なところ心臓をなだめるのに忙しく、メニューが全く頭に入ってこない。
 ――こ、これではいかんっ! お、落ち着け、落ち着くのだ芝村舞!
 一生懸命自分に喝を入れてみるのだが、そうすればするほどに、頭の中が真っ白になっていくような気がする。彼女の手は細かく震え、持っているメニューはとても一枚には見えなかった。
 相変わらず緊張気味の舞の姿に、速水は思わず笑みを浮かべたが、どうも舞はそれを別の意味にとったらしい。顔どころか耳までもがこれ以上赤くなるところがない、というほどに鮮やかな朱に染まっていく。
 一言で言えば、臨界寸前であった。
 さすがにまずいと思ったが、速水が何か口を開こうとしたその時、舞の目にある文字が飛び込んできた。
 ――こ、これはっ!?
 舞の目つきが突然変わった。
 一瞬にして表情はこれ以上ないほどに真剣になり、一心不乱にメニューに視線を走らせている。
「?」
 舞の変わりように、速水は思わず声をかけようとしたのだが、あいにくとそれは不発に終わってしまった。
「ご注文はお決まりになりましたか?」
 間の悪い、と思いつつも、速水は何事もなかったかのように振り返った。表情はいつもの笑顔に戻っていたが、そこには舞に向けられるそれとはどこか違った笑みだった。
「あ、じゃあ僕はこのAランチを……舞は?」
 五秒経過。
 返事は、ない。
「……まーい?」
 速水が声をかけたのにも答えず、舞はまだメニューをじっと見つめていた。先ほどまでの赤みはややおさまったようだが、代わりに額に汗が浮かんでいる。
 ぱっと見たら、これから敵討ちに行くといっても通用してしまいそうなほど、彼女の表情は鋭いものとなっていた。
 ……まあ、ある意味それは正しかったのかもしれないが。
 妙な沈黙が訪れてしまったテーブルに、ウェイトレスも声をかけたものかどうか、いささかひきつった笑みと共に、助けを求めるように速水を見た。
「舞? 舞ったら!」
「あ、あえ? ……な、なんだ、厚志?」
 どこに魂をとばしていたかと言いたくなる反応に苦笑しつつ、速水はメニューを指さした。
「その、さ。注文は何か、って」
「え?」
 それでようやく舞は、自分がいかに間抜けな姿をさらしていたかに思い至った。不自然なほどの咳を大きく数回すると、ウェイトレスに向き直った。
「そ、それで、注文だったな?」
「はい。何になさいますか?」
「うむ、で、では……これをもらおう」
 舞の指がメニューを指し示すと、ウェイトレスの動きが再び止まった。
「……は? あの、お客様?」
 今度はウェイトレスが間抜けな声をあげる番であった。
「なんだ、分からなかったか? これだ、このお子様ランチを食すると言っているのだ」
 ひょっとしたら聞こえなかったのかと、舞としては丁寧に説明したつもりだったが、その声が聞こえた瞬間、レストランの中はしんと静まりかえり――次の瞬間にはあちこちから押し殺したような笑いがもれた。
「ま、舞?」
「なんだ、厚志まで何を変な顔をしているのだ? わ、私はなにか、おかしな言い方でもしたのか?」
「い、いや、言い方は変じゃないけれど……」
 速水が否定すると、舞は至極真面目な顔で頷いた。
「そうであろう? ならば問題はないではないか」
 ――いや、問題はそこじゃなくってね……。
 彼女の表情から察するに、状況説明するのは大変に難しそうである。それでもその難事をなんとか説明しようとした矢先、ウェイトレスが笑いをこらえながら口を開いた。
 彼女にすれば、極力職務に忠実であろうとしただけであったかもしれないが、それはある意味、導火線に火をつけたに等しかった。
「あ、あの、お客様……。なにか、その、お間違えになられているのでは……」
「なにを言うか、私は間違ってなどおらぬ。このお子様ランチを所望しているのだ!」
 舞のいささかいきり立ったような声に、ついに耐え切れなくなったのか、再びあちこちで笑い声が上がり始めた。
「貴様ら、何がおかしい!?」
 舞がいくら怒りをあらわにしても笑い声は収まらない。それどころか、ますます大きくなる気配すらあった。
「あ、あのっ! すみません、もう出ますからっ!」
 事態は収拾不可能と見た速水は、舞の手をつかむと出口に向かって駆け出した。
「あっ! こら厚志、何をする、離せっ! 私はただ、お子様ランチを……!」
 舞がなんと言おうと、速水の足は止まらない。たちまちのうちに舞は店から引きずりだされてしまった。
「厚志っ!」
「舞、ごめん! 後でいくらでも謝るから、今はついてきて、お願いっ!」
「くっ、あ、厚志ーっ!」
 舞いも必死の抵抗を試みるが、いかんせん最近ははっきりと体力差が出てきたせいもあり、速水の足は止まらない。
 叫び声もむなしく、舞は引きずられたまま新市街の向こうに姿を消した。

 その頃レストランでは、遠慮のない笑い声が店内に響き渡っていた。

   ***

 力いっぱい駆けながら、速水は新市街のほど近くにある公園に駆け込んだ。幸い、あたりに人影はないようだ。
「はあっ、はあっ、こ、この辺まで来ればいいかな……」
 いかに体力が増えたといっても、全力疾走はそれなりにきついものがある。……それだけが息切れの原因ではないようだが。
 ようやく一息ついたところで、速水は背中の方から幾本もの槍が刺さってくるような痛みを感じた。
 覚悟を決めたところで、速水はそれでも顔は笑顔のまま振り返る。
「さあ厚志、説明してもらおうか。返答次第によっては、そなたといえど容赦はせんぞ!」
 舞も相当走らされたはずだが、怒りの方が遥かに上回っているのか、腕を組み、仁王立ちのまま速水をにらみつけている。その眼光は、もし目だけで人が殺せるものならば、間違いなく速水を一撃のもとにうち倒していたであろうほどの鋭さに満ちていた。
 悪鬼すら一撃で懐柔できそうな「笑顔装甲」があっという間にはげていくのを感じつつ、速水はそれでも最後の抵抗を試みるべく口を開いた。
「そ、その前に、僕からもひとつ、聞きたいことがあるんだけど……いいかな?」
 声が震えなかっただけ、大したものである。
「……少し待ってやる。息を整えよ」
 彼女の声は、どちらかといえば死刑執行前に最後の願いをかなえる看守のような響きを帯びていたが、それでも速水はどうにか呼吸を平常に戻すことに成功した。
「ありがとう……。あのさ、舞? さっきのお店だけど、お子様ランチを頼んだのは、どうして?」
「どうして、だと? なにを莫迦なことを言っているのだ、食するために決まっているではないか!」
 舞の眉が一層急角度に跳ね上がった。彼女の背後から、なにかがゆらめきたっているように見えるのは、決して幻覚ではあるまい。
「ち、違うよ! 莫迦にしてるわけじゃなくて! どうしてあの時、あの場所で頼もうと思ったのか、ってこと!」
 すでに落ち着きもへったくれもなくなりかけていたが、それでも速水の必死の叫びは、それなりの効果があったようだ。
「……どういうことだ?」
 舞が怪訝な表情を浮かべる。
 自分をからかっているにしてはあまりにも真剣な速水の表情に、舞の中で疑問が生まれた。
「だ、だってさ、普通はお子様ランチっていえば、小さい子が食べるものじゃない。なのに……」
 と、その時だった。舞の表情がひときわ厳しくなったと思うと、彼の声を遮った。
「ま、待て厚志! お子様ランチが……小さい子の食するものだと?」
「え? 当たり前じゃない。何をそんなに……舞?」
 速水としては、単に話の前振りにでもなればという程度のつもりだったのだが、あまりの反応の激しさに、そして舞の表情が劇的に変化するのを見て、彼は呆然としてしまった。
 舞は、まるで信じられないことを聞いたかのように表情を引きつらせ、細かく震えているではないか。
「ま、舞っ!? どうしたの!?」
「あ、厚志よ。それは、それは本当のことなのか……?」
 声までが、先ほどまでの怒りが嘘のように弱々しい。速水がうなずくと、舞はがっくりとベンチに座り込んだ。
「わあっ! ま、舞、しっかりしてっ!」
「だ、大丈夫、大丈夫だ……」
「大丈夫だ、って……、顔が真っ青じゃない!」
「い、いや、あまりにも、予想外で……。まただ、またやられたのか……」
 舞はか細い声で、そう呟くばかりだった。
「……? 何か、わけがあるみたいだね。よかったら、聞かせてもらえないかな?」
 速水は舞の傍らに座ると、いたわるように背中をさすった。それでようやく少しは落ち着いたのか、舞はようやくのことで顔を上げたのだが、その表情は彼女には非常に珍しい、どことなくさびしげな笑みだった。
「すまぬ……。もう大丈夫だ」
「一体、どうしたの?」
 今までに見たこともない舞の表情に、速水は自分の心臓が握られているような痛みを覚えた。彼は黙って立ち上がると、近くの自動販売機でジュースを買い込み、それを舞に渡した。
「うむ……」
 それを一口、二口と飲んで口を湿らせると、舞はいささか俯き気味のまま、ぽつ、ぽつと言葉すくなに話し始めた。

   ***

 ――私がまだ幼かった頃、そう、それは私が芝村として何をなすべきか、それすらわかっていなかった頃のことになるが、その頃我が父は、滅多に共にいることがなかった。
 何の用があったのか、私は知らぬ。
 それはよほどに重大な用であったのかもしれぬし、実はどうでもいいことだったのかもしれぬが、ともかく父は、ひとたび姿を消したとなれば、どこに行ったやら、何をしているのやら、皆目見当のつかぬありさまだったのだ。
 先にも言ったが、その頃の私は、末姫などと呼ばれてはいたが、まだ芝村として何をすべきかも分からぬ、ただの人間でしかなかった。
 だから……父がいないのはたまらなく寂しかった。大声で泣き喚いたことも一度や二度ではなかったかもしれぬ。
 私にはさまざまなものが与えられていたが、同時に決して与えられないものもあったのだ。

 舞は、話を続ける。
 速水は心配そうな表情を浮かべはしたが、今はまず話を聞くのが先だと感じたか、ジュースを一口飲むと、黙って先を促した。

 ――そんなある日のことだった。一体どうしたわけか、父がしばらく家にいると言い出したのだ。
 これも皆目理由など分からなかったが、その時はただひたすら嬉しかったことを覚えている。もっとも、それなりに節度ある態度を要求されていたから、あくまで控えめに、ではあったがな。
 そして、それからしばらく経ったある日のことだ。
 意外な出来事は、ひとたび起こると続くものらしい。
 父は私を連れて、外へ出かけると言い出したのだ。
 そんなことなど今までまったくなかったから、私はそれは驚いたものだ。だが同時に、どこかひどく心が弾んでいたのも確かだった。

 ――町に出た我らは、まるでただの人間のように町をぶらついていた。外出することなど滅多になく、あったとしても車の分厚い窓ガラス越しにしか見たことのない世界だったから、自分で歩くというのはたいそう新鮮な体験だった。

 舞は、手にした缶ジュースを再び傾ける。小さく息をつくと、缶をぎゅっと握り締めた。
「そのあたりに、何か関係がありそうだね? あのさ、もしこれ以上はつらいんだったら、無理に話さなくても……」
 だが舞は、これだけははっきりと首を振った。
「いや、話す。今がちょうどいい機会かも知れぬ。聞くが良い……いや、聞いてくれ」
 舞がこのような物言いをするのは珍しかったから、速水は黙ってかしこまったまま、話の続きを待った。
 ……もっとも彼は、はなっから話を打ち切らせるつもりなどなかったのだが。

 ――道行く者どもも、町並みも、全てが珍しく、楽しかった。それに……父と歩くことなど全くなかったから、それが驚きでもあり、嬉しくもあった。

 ここで速水の眉が、ぴくりと動いた。

 ――その時だった。たぶんどこかのレストランだったと思うのだが、その前を歩き去ろうとした時、私の目ははショーウィンドウに釘付けとなってしまったのだ。その中にあったものこそが……。

「……お子様ランチのウィンドウディスプレイだった。ってわけだね?」
 舞は、黙って頷いた。

 ――私はどうしてもそれから目を話すことができなかった。
 スパゲッティ、ポテトサラダ、ミニオムライス、そしてケチャップライスとその上に立つ小旗。
 その当時は名も知らぬそれらはなんと華やかであり、暖かであり、そして食指をそそる存在であったろうか。
「どうした、舞?」
 いぶかしげな口調で振り返った父に、私は思い切ってこう言ったのだ。
「父様、舞はこれを食べてみたいのです」と。
 だが、帰ってきたのは拒絶だった。父は黙って首を振るだけだった。
「どうしてですか?」
「舞よ、それはそなたが食するには早すぎる。待つがよい。何事にもタイミングというものがある」
「いつまで待てばよいのですか?」
 私はなんでもないような口調で尋ねた。たぶん、そうだったと思うが自信はない。私の声の中に含まれた何かに気がついたのか、父は立ち止まったままこっちを見ていた。
 ひょっとしたら怒られるのかもしれない、そうも思った。芝村たるものにあまりにもふさわしくない態度だった、当時ですらそう思えたからな。
 だが父は、しばし考えるそぶりをした後に、神託でも告げるような口ぶりでこう言ったのだ。
「そうだな、そなたがもう少し大きくなったら、カダヤとでも共に食すがよかろうさ」
「かだや……?」

「む、むろんその時には意味など分からなかった。ただ父はそう言ったのだ、ほ、本当だぞっ!」
「いや、僕、何も言ってないんだけど……」
 速水の表情に、舞は浮かしかけていた腰を慌てて降ろした。
「そ、そうか……」

 ――と、ともかく父はこうも言ったのだ。
「まだ分からなくてもよい。いずれ分かることだ。……さあ、行くぞ」
 あとはもう、とりつくしまもない。
 父は私を連れて、その場を立ち去ったのだ。
 後ろ髪を引かれる思いがなかったといえば嘘になる。よく涙をこぼさなかったものだと今にして思う。
 だが、泣きはしない、抗議もせぬ。
 幼いとはいえ、芝村として何を為すべきか分からずとも、何をしてはならぬかはおぼろげながらに知っていた。
 常なる子なら罪にもならぬ我儘が、いかなる事態をもたらすかについても理解していた。だから、何も言わなかった。
 口元を一文字に引き締め、目を潤ませはしたが、黙って耐えたのだ。
 私の視界から、お子様ランチの姿が徐々に消え去っていく。それが、私がお子様ランチを見た最後だった。
 だが、そのことは今になっても忘れることはできぬ。

「……いささか長くなってしまったな。これで真相は全てだ。……厚志?」
 語り終えた舞が傍らを見れば、速水は頭痛がするのか、こめかみの辺りをしきりに揉んでいた。
「あー、いや、大丈夫。もうおさまったから。……なるほどね、それで僕が――カダヤたる僕が一緒だから……」
「そそそ、そうだ。い、今こそかねてからの懸案を実行に移すべき、と思ったのだ。……それなのに」
 再び舞は、まるでしおれた野菜のようにしゅんとなってしまった。
「舞が悪いんじゃないよ。びっくりはしたけど、そういうことならまあ、仕方がないかなあ」
「そう、思うのか?」
「うん!」
 速水の瞳には、真剣な光が浮かんでいた。
「そうか……。すまぬ。それにしても父め、私のこんなざまを見て、今ごろ高笑いをしているだろう、いや、きっとそうに違いない!」
 そう言いながらも、舞の表情には怒りだけではない何かが浮かび上がっていた。
 どうも舞が欲したのは、お子様ランチだけでもないようだ。
 振り上げた拳にもどこか力が入らないのか、ひとたびは立ち上がりかけた舞は、再びベンチに座り込んでしまった。
「……いや、やはり私が愚かだったのだろう。あの父の言うことを、疑いもせずに素直に信じ込んでしまったのだからな。あの、父の……」
 ――お義父さんも、なんの理由があるんだか知らないけど、頼むから、嘘つくんならもうちょっと罪のないものにしてほしいなあ。……舞も、かわいそうに。
 舞の背中をさすりながら、速水は心の中で悪態をついた。
 さりげなく、舞の父を「お義父さん」と呼んだのは、舞にも内緒である。
 ともあれ、彼女から改めて自分のことを「カダヤ」と呼ばれたのはなんとも気分のいいものであったが、それ以上にもし父とやらがこの場にいたら、説教のひとつもしてやりたい気分だった。

 どこかで、カラスが一声鳴いた。


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