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瞬恋(その3)


 西の空が真っ赤に燃えている。
 夕日はまさに本日の役目を終え、地の向こう側へと没していこうとしていた。空はまだそれなりに明るかったが、それもつかの間のこと、藍色の闇が急速にすべてを埋め尽くそうとしている。気の早い星がひとつ、ふたつと天空のそこかしこで瞬き始めていた。
「ああ、楽しかった。……滝川さん、今日はどうもありがとうございました」
「あ、ああ、こちらこそ……」
「わあ、いい風……」
 滝川たちの傍らを、一陣の風がふいと吹き抜けていった。風の冷たさがほてった頬に心地よい。
 その時、不意に未来は視線を遠くに走らせると、呟くように言った。
「滝川さん、あなたはここが、この街が好きですか?」
「ここが?」
 暮れなずむ市街地、遠くに青く浮かび上がる山並み、そして天に輝く星々。それらは戦争のさなかとは思えぬ、穏やかな表情を見せている。
「ええ、私はここが好き。例えもう動くことがかなわなかったとしても、風の運んでくるこの地のすべてが好き」
「……動けなかったとしても?」
「あっ……。変なこと言っちゃいましたね。そ、それより滝川さんはどうですか?」
 未来は一瞬口元に手を当て、それから、明るい声で言った。滝川はしばし考え込み、己の感想を素直に口にする。
「俺かい? ……良く、わかんねえな。だって俺、ここに戦争をやりに来てるわけだし。でも……」
「でも?」
 心臓が痛いほどに高鳴っている。滝川は全身から勇気を振り絞って、次の言葉をようやく喉から押し出した。
「た、多分、君と一緒、なら……」
 未来は驚いたような表情を浮かべたが、やがてそれが微笑みにかわる。彼女の目元がかすかにきらめいたように見えた。
「あのさ、松崎さん」
「未来」
「え?」
「もし良ければ……名前で呼んでもらえませんか? あなたがもし嫌でなければ……」
 滝川の顔は、完熟トマトに負けぬほど赤くなっていた。
「い、嫌だなんてとんでもない。ただ、その……て、照れ臭くってさ。ほら俺、こういうことって慣れてないし……」
 未来は一瞬だけ寂しげな表情を浮かべたが、それはすぐ笑顔の陰に隠れてしまった。
「仕方ないですね。でも私、待ってますから」
「そ、それじゃあ松崎さんは、俺のことを名前で呼べるんですか?」
「私が、あなたをですか?」
 滝川は黙って頷いた。未来は顔を上げると、小さく、だが迷いのない口調で、
「もちろんですよ。……陽平さん」と言った。
「み……松崎さん」
「……はい、なんですか?」
「どうして俺に、俺なんかに、こんなに構ってくれるんです? さっきからドジばかりで、失礼なことだってたくさんしただろうこの俺なんかに、どうして良くしてくれるんですか?」
「……嬉しかったから」
「嬉しい?」
「陽平さん、あなたが私に気がついてくれたとき、私、本当に嬉しかった。あの時に私は今いる『私』になれたんだって……そう、思うんです」
「え? それって一体……」
「ううん、なんでもないんです」
 未来は、ポツリと呟いた。
「陽平さん」
「な、何?」
「私のこと……好きですか?」
 どことなく挑戦するような、不安に満ちたような声で、未来は言った。滝川はいきなりのことで戸惑いを隠せなかったが、いまさら己を偽ることはできなかった。
「……好きだ。君のことが好きだ。ええい、もう言っちまえ。初めて見かけた時から君のことが好きだった、一目ぼれってやつだと思うけど良く分からない。でも、君を見失いたくなかった。だから追いかけた。それに……」
「それに?」
「俺は学兵だ。何だかんだ言われても戦争をやってる。ひょっとしたら明日には死ぬかもしれない。だから、今言わないで後悔なんかしたくない。君のことが好きだ。どうしようもなく、大好きなんだ!」
「……ありがとう、陽平さん」
 未来は頬にこぼれる涙に構わず、滝川をそっと抱き締めた。むせ返るほどの彼女の香りと、体に感じる柔らかな膨らみに硬直している滝川の耳に、彼女の言葉が流れ込んできた。
「だとすると、私はあなたにひどいことをしたのかもしれない……。陽平さん、もしあなたの言葉が本当ならば、次のお休みの時に、私の家にきてください」
「き、君の? それって……」
「来ればすべて分かります。住所はここに、……それでは」
「え?」
 滝川が頬に感じた柔らかい感触に呆然としている隙に、未来は彼の手にそっと紙片を滑り込ませると、身を翻してその場から立ち去った。
 滝川が呆然としていたのはほんの一瞬のことだったが、気がついた時には未来の姿はどこにも見えなかった。
「あ、あれっ? おーい、どこいっちまったんだよ!」
 夢かとも思ったが、先程の感触も残り香もいまだ彼と共にあったし、手には彼女のくれた紙片が、間違いなくしっかりと握られていた。
「どうしたんだってんだ? 一体……」

   ***

 以上の行程は、奥様戦隊によって一言一句余すところなく記録されていた。彼らは全て終わったと判断した直後に脱兎のごとく現場から転進、情報の確認に入った。
その時点では、今回の作戦は近来まれに見る大成功と判断されていたが、現実はそうはならなかった。結果からいえば、奥様戦隊の活動は大失敗に終わったのだ。
 一体どういうツテをたどったものかは知らないが、女子高校舎、その一角にある写真部部室では、奥様戦隊が赤黒く照らし出された室内で、不景気な顔を突き合わせていた。
「……で?」
 原の声は静かだったが、内心までそうであると信じている者はいなかった。男どもは自分の背筋に刃のきらめきがないことを一瞬だけ確認した後、そっとため息をついた。
「不覚、としか言いようがありませんね。それにしても、まさかこうなるとは……」
 ある種の覚悟を固めた者に特有な、むしろさっぱりした表情を浮かべながら、バットの中から写真を取り上げた。
 そこには、滝川が写っていたが、少女の姿はどこにもない。
「まあ、なんていうか見事なものよね。まさかここまで狙って外すことができるとはね……。若宮くん、あなたの方は?」
「……はっ」
 将軍に対峙した時よりも厳粛な表情を浮かべたまま、若宮は手元の写真を差し出した。
 結果は同じだった。
「ふうん……」
 沈黙が場に落ちる。男たちは、ひょっとしたら今、自分は自らの死刑執行令状にサインしてしまったのではないか、とふと思った。
 だが、意に反して、原は大きく息をつくと、肩をすくめて見せるではないか。
室内の空気が見る見る緩んでいき、男たちがあっけにとられる中、原は苦笑さえ浮かべながら言葉を継いだ。
「私も、あんまり偉そうなことは言えないのよね。結果がこれじゃあね……」
 原は、自らが操るデジカメを差し出すと、画面を再生して見せた。データはどれもノイズばかりで、かろうじて数枚に滝川とおぼしき姿が確認できただけであった。
「ひょっとして、昨日の分全部ですか?」
「正確には、あのふたりを撮ろうとした分が全部、ね。ついでにさっきためし撮りしてみたけど、嫌になるくらいきれいに写ってたわよ」
「三人揃って討ち死にですか……。初めてじゃないですかね、こんなことは?」
「少なくとも自分は、記憶にありませんね」
「同じく、よ」
 彼らにとって、初の完敗。
やはりそれはショックであったのか、聞く者の背筋に寒気を走らせる奥様言葉はすっかり影をひそめている。
 ……それはそれで、世界平和のためにはまったく喜ばしいことであった。
 やがて善行は諦めたように立ち上がると、中指で眼鏡をそっと直した。
「さて、いつまでもここにいても仕方がないし、戻るとしましょうか?」
 その言葉に後のふたりも立ち上がると、手早く機材を片付け始めた。さすがにこのあたりは手馴れたもので、数分もしないうちに室内で何か作業をした形跡は全て消え去っていた。
 立ち去り際に、善行は室内を振り返ると、不思議そうにつぶやいた。
「おかしいですねえ、このアングルなら写らないなんて事はないはずですが……?」
 室内は、再び静けさを取り戻した。

   ***

 数日後、滝川は未来に渡された住所を頼りに、彼女の家へと向かっていた。
 また彼女と会える、そのこと自体は大変に喜ばしいことであったが、滝川の胸中には幾つかの疑問が湧いている。あまりにも唐突な彼女の誘い、それに彼女の住所。
――このあたりは、もうだいぶ前に全員疎開させられたはずだけどな……?
それよりなにより、別れ際の未来の、あまりにさびしげな響きを帯びた声が、いまだ彼の耳から離れなかった。
「……まあ、いいさ」
 彼女は来れば分かるといった。ならば今はそれを信じる以外に何ができるというのか?
滝川はいささか足を速めると、目的地へと急ぐのだった。

 滝川は、地図と未来がくれた住所を何度も見返した。間違いなく目的地は目の前のはずなのであるが、彼の目の前には古びた廃屋があるだけだった。表に出ている看板から察するに、何らかの医療施設らしい。
「ここで、本当にいいんだよ、な?」
 ともかく入ろうかどうしようか、いささか逡巡を繰り返していた滝川の耳に、ここで聞くはずのない信じられない声が聞こえたのは、そんなときだった。
「これは、だいぶ傷んでいるな」
「なっ!? し、芝村!?」
 心臓が飛び出すような思いで振り向けば、そこには確かに舞が、何事か思案げな表情で立っているではないか。その後ろには速水が申し訳なさそうについていた。
 それだけではなかった。
「戦闘の影響もあるようですね」
「壬生屋!? な、何でお前たちがここにいるんだよ?」
 当然の疑問に、舞はあっさりと答えた。
「お前の挙動があまりに不審だったのでな、後をつけさせてもらった」
 これについては本人も自覚がないわけではなかったので、一言もない。
「俺は余計なお世話だからやめときなって言ったんだがね。このお嬢さん方ときたら、言うことなんて聞きやしない」
「し、師匠!……」
 この状況に、滝川はもう言葉もない。さすが、あの司令にしてこの部下ありというところであろうか。
「中を、見てみるか」
 表情を元に戻した舞の言葉に、一同は中の探索を決意した。

 中も、外と負けず劣らずに荒れてはいたが、意外なほどの生活感が残っていた。医療施設特有の消毒臭は避けようがなかったが、それでもパステルグリーンに塗られた室内は、意外なほどの穏やかさをたたえていた。
 が、ここも戦闘の影響をまったく受けなかったわけではなさそうだ。いくつかの窓は無残にも割られ、ある部屋では大量の血痕が発見された。もしそれが一人の人間によって作られたのなら、とても生きてはいられない量だった。
 ――一体、君は俺に何を見せたいんだ?
 と、滝川の足がふっと止まった。
「どうしたの?」
 速水の声に、滝川は黙って指差した。ドアの表札には「松崎未来」とはっきりと書かれていた。

 中を一目見て、滝川の足は凍りついた。そこには確かに未来が眠っていたのだ。
「松崎さん!」
 思わず駆け寄った滝川が彼女の手に触れ――あまりの冷たさに思わず身を震わせた。
 死んでいた。
死んでから相当に経つようだが、一体何がどのような具合になっているのか、ほとんど腐敗もせず、まるで眠っているようでもある。だが、彼女の皮膚にはうっすらと埃が積もり、顔色は紙よりもまだ白かった。彼女の腕には見覚えのあるパステルグリーンのワンピースと白い帽子が、そして、テーブルには使い込まれた様子のティーポットが置かれていた。
「そうだったんだ……」
「厚志、そなたもしかして知っていたのか?」
 舞の詰問にも似た声に、速水は小さく首を振った。
「ううん、死んでるとは思わなかったけど、でも、どこか普通の世の人とは違うな、って感じはしたんだ。幻視の能力で」
 何かに思い当たったのか、滝川以外が頷いた。
 全てのこの世ならざるものを見るという幻視能力。それならば何かを感じても不思議ではなかった。
「ひょっとして、何とかして、自分がここで死んでいることを知らせたかったのかな……」
「それだけじゃなさそうだぜ」
「瀬戸口君?」
「その子の日記らしいものがあった。どうもこの子は元々病弱だったらしいな。あまり外に出られず、付き合うのは同じ施設の奴ばかりで、外へかなりの憧れを持っていたらしいな」
 彼が開いたページには、線の細い、丁寧な字でこう書かれていた。
 ――いつか、お気に入りのワンピースと白い帽子で、思いっきり外を歩いてみたい。いろんなものを感じ、いろんな人と出会って、いろんな話をしてみたい。
「滝川、この子はお前さんと出会って、初めて私になれた、って言ってたんだな?」
「え、ええ……」
「ひとりで死んだこの子は、死んでからも誰にも認識されなかった……。滝川、お前はそれに気がついたのさ。だからあの子はみんなにも認識されるようになった。……嬉しかったろうな。たとえ魂になった後とはいえ、お前さんは、この子の世界を開いてやったのさ。大した奴だよ」
 瀬戸口の言葉に、諧謔の響きはまったくなかった。背後で壬生屋がかすかにすすり泣く声が聞こえる。
 滝川はよろよろと彼女の傍らにひざまづくと、蝋のような彼女の手をとった。彼女の手には、もはやあの時の、全てを包むようなぬくもりはない。
 だが、滝川は忘れていない。
未来の困った顔を、穏やかな笑顔を、笑い声を、そして今も鮮明に思い出せるあの手の温もりや香りを……。
 目の前の死体は何かの間違いだ、滝川はそう思い込もうとしたが、それはできなかった。彼の心が、これが事実であると受け入れていたのである。
 彼女は美しかった。死体となってもなお美しかった。なぜだろうと滝川は考え、すぐに理解した。
彼が見たのは、彼女の姿形だけではなかったから。あの時滝川は、優しく美しい彼女の魂とともにあったから。
「松崎さん、君はここに来れば全てが分かると言った……。 はっきりと分かったよ。やっぱり俺は、俺は……君が好きだ」
 胸が詰まる。滝川は無理やりに言葉を押し出した。
「生きていようと、たとえ死んでいようとそんなことは関係ない。俺は、俺は君の、ことが……」
 後はもう言葉にならぬ。滝川はその場に突っ伏すと、人目もはばからずに泣き始めた。その背後では、壬生屋を瀬戸口がそっと抱きかかえてやっている。
 舞も、そして速水も何も言わなかった。
 男が、愛する者のために涙するとき、いかなる言葉を用いることも不実であるような、そんな気がしたのだ。
 訪れる者とてなかった廃屋に、滝川の慟哭がこだました。


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