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瞬恋(その2)


 それから数日後、滝川は再び新市街をぶらついていた。
所在無げな足取りで、制服姿で歩いているところなどなんとなくデジャ・ビュすら感じさせるが、さすがに手に袋はもっていない。
 彼の財布の氷河期は、いまだ去ったわけではなかった。
「はあーあ、なんか前にもあったな、こういうの……」
 脳裏に、ふっと人影がよぎった。滝川の胸は一瞬だけ高鳴ったが、彼は小さく首を振ると苦笑を浮かべた。
 ――向こうは、覚えちゃいないさ。調べようもないしな。
 ため息交じりで空を見上げれば、今日は久しぶりに雲も切れ、青空がのぞき始めていた。このままいけばきれいな夕焼けが見られるかもしれない。
「はあーあ、これからどうしたもんかな……。今日も速水はお出かけらしいし、まったく、そんなに楽しいもんかね?」
 ……ここまでくると、既に立派なひがみである。
 と、その時、背後から小さな声がかかった。
「あの……」
「茜は呼んでもなあ、あいつもなんだかんだ休みは忙しいとか言ってやがるし。……ま、まさかあいつまで!?」
 どうやら己の想念に夢中になって、耳がお休みしているらしい。背後の声は戸惑ったように繰り返すが、それは一向に滝川には届いていなかった。
「あ、あの……」
「まいったなあ、じゃあ俺だけかよ? あーあ、なんでこうも俺には縁がないのかな……」
「す、すみませんっ」
 先ほどよりはやや大きめな声は、ようやくのことで滝川の耳に届いた。彼にとっては紛れもなく聞き覚えのある声だったのだが、まだ考えに気を取られていた彼は、何の気なしに振り返った。
「あん? ……!?」
 一瞬で顔に血が上り、心臓の鼓動がタップダンスを刻み始める。滝川はバネ仕掛けの人形にも似た勢いで振り返ると、直立不動の姿勢を取った。
「ああ、よかった……」
 黒い大きな瞳に長い髪、白い帽子にワンピース。
 紛れもなく、数日前の少女であった。
「あ、あああんたは……」
「覚えていてくれましたか? 先日は、お世話になりました」
 少女はにっこりと微笑むと、ひょこりと頭を下げた。そのはずみか、滝川のもとにふわり、と花にも似た香りが漂い、彼の鼻腔をくすぐっていく。背中の汗がいっそうひどくなったのを、滝川は自覚していた。
「い、いやあのその、な、なんてことないさ」
「本当に助かりました。……ありがとう」
 少女が頭を下げるのへ、滝川も慌てて礼を返す。胸の騒動はどんどんひどくなっていく。
「申し遅れました。私、松崎未来(まつざき みき)と申します。あの時は名乗りもせずに失礼しました」
「あ、お、俺は滝川、滝川陽平。いや、そんなこと……。お、俺だって名乗りもしないで、召集だからって、あ、あんた……いや君を放り出して行っちゃったんだから……」
「いえ、学兵さんなら当然のことでしょうし……。お気遣いありがとうございます。あなたって、優しいんですね」
「や、優しい? 俺が?」
「はいっ。……あの、どうかしましたか?」
「い、いや、別に何もっ?」
 嘘である。
今、滝川の全身を、いいようのない歓喜が走り抜けていた。
 なにしろ、今まで女の子にそんなことを言われたことがなかったのだから、無理もないことである。
 だが、それはより大きな驚きの序章でしかなかった。彼女――未来は、少しだけ表情を改め、同時にうっすらと頬を染めながらこう言ったのである。
「何か御礼をと思ったんですが、思いつかなくて……」
「え、い、いやそんな気を使わなくっても」
 声にどこか期待をにじませつつ滝川はそう言ったのだが、彼の期待はいい意味で裏切られることとなる。彼女は、頬の赤みを増しながら、蚊の鳴くような声でこう言ったのだ。
「あの……、これからお時間、ありますか?」
「え? ま、まあ、暇っちゃあ暇だけど……」
「その、もしよかったら、お茶でも一緒にいかがですか?」
「……え、ええっ!?」
 ――い、一体今日はどうなっているんだ!?
 はっとした表情を浮かべ、滝川は慌てて周囲を見回した。
 怪しい人影は、なかった。ついでに空も見上げてみたが、すっかり雲も晴れていい天気である。
「……ご迷惑でしょうか?」
 未来の表情にふっと翳が差した。
 それを見て、滝川は慌てて音がしそうな勢いで首を振ると、彼女はまるで光が差したような笑顔を浮かべた。
「よかった……。さっ、行きましょう」
 そっと先に立って歩き出した未来を追いかけるように、滝川はふらふらと歩き出したが、足元はどう贔屓目に見ても地に着いているのか、大変に怪しいものだった。
 ――ああ。俺、もう死んでもいいかも。
 彼にとって、理想郷は今目の前にあった。

 ところで、先ほど滝川は懸命になって周囲を見回していたようだが、あいにく彼とて千里眼ではない。それに、やはりかなり慌てていたと見えて、かなりのものを見逃していた。
 そのうちのひとつがこのふたりだったというのは、ひょっとしたら目が入力することを拒否したのかもしれないが……。
 滝川たちが立ち去った通りの曲がり角から、ふたつの人影がひょっこりと顔を出した。現在五一二一小隊の噂の中心――嵐の中心と呼ぶ者もいるが――である速水と舞であった。
 彼らがなぜここにいるかなどと野暮なことは言うまい。ちなみに、今はふたりともしっかり私服であった。
「……厚志よ」
 舞の声は、妙に抑揚がなかった。
「何? 舞」
「ひょっとしたら我らは、なんというかこう『奇跡』という言葉が具現化した瞬間に立ち会ったのではないか?」
 あまりに的確、かつ身も蓋もない表現に、速水はただ苦笑を浮かべるだけだった。「奇跡」という意味では自分たち、ことに舞についても話に不足はないのだが、むろん彼は賢明にもそのことに触れる気はまったくない。
「さあね……。でも、なんだか滝川嬉しそうだなあ……。この間言ってた女の子って、彼女のことだったんだね」
「む」
 舞が面白くなさそうな、同時にどこかすまなそうな表情を浮かべた。もっとも後者は、余人ならば電子顕微鏡ででも観測しなければ気がつかないほどのものであったろうが。
 速水は顎にわずかに残る切り傷をわざとらしく撫でつけながら、滝川たちの消えた方向を眺めやった。
 と、次の瞬間、速水の表情がかすかに怪訝なものに変わった。目を凝らし、細め、かすかに眉をひそめる。
 ――あれ? 今のってもしかして……。
「……、……!」
 何かが耳元で聞こえているような気がするが、速水は滝川たちの去った方向から離れない。
「……厚志!」
「え? うわっ!?」
 はっと我に返った速水の目の前にあったのは、すっかりご機嫌斜めになった舞の顔であった。眉の傾き具合と瞳の炎が、彼の心に最大級のアラームを発生させる。
 ――まずい。
 と思った次の瞬間、舞の親指は速水の口の中に突っ込まれ、彼の頬を内側から遠慮なくねじりあげていた。
「私を無視するとはいい度胸だ。そ、そんなにあの女……いや、あやつらのことが気になるか!」
「いひゃ、いひゃいっへは、まひ、やへへ〜っ!?」
 例によって、何を言っているのかさっぱり分からない。
 舞はなおも文字通り手を緩めることはなかったが、速水の目に涙が浮かんだのを見て、ようやくその手を引っ込めた。
 ちなみに、こういうことを公衆の面前で臆面もなくやるからバカップルと呼ばれることに、果たして舞は気がついているのだろうか?
「まったく、ちょっと気を許せばすぐこれだ! 油断も隙もあったものではないな」
「ひ、ひどいよ〜舞。滝川に彼女なんて珍しいって言い出したのは、舞のほうが先なのに……」
「やかましい! それとこれとは別であろうが!」
「う、うん、ごめん。さて、と。じゃあ僕たちは……」
「追おう」
「……え?」
 舞の意外な、だが断固とした声に、速水は我ながら間の抜けた声を上げた。
「追う、の? なんで?」
「相変わらずぽややんだな、そなたは。考えてもみろ、あの女が何の目的もなく近づいたと、そなたは断言できるのか?」
「そ、それは……」
 思わず口ごもった速水に、舞はさらにたたみかける。
「むろん、言えまい? 奴もこういったことに不慣れな以上、万一何かあれば、おそらくは無防備のまま罠にかかるのがオチというものだ。なれば、それを妨害できるのは我らだけだ。違うか?」
「う、うん……」
 ――ごめん、滝川。フォローの言葉が出てこないよ……。
 速水は友のために、心の中でのみ涙を流した。
「じゃ、じゃあ、とりあえず、滝川たちを追いかけるんだね?」
「うむ、あやつらが一体何をするのか見届けねばならん。行くぞ、厚志」
 そういうやいなや、舞はあっという間に角から飛び出すと走り出した。
「あっ、待ってよ、舞!」
 速水も走り出しながら、速水はそっとため息をついた。
 ――やれやれ、これで今日のデートはおじゃんかぁ……。
 速水の心は、只今土砂降り状態である。
 一方の舞は、滝川たちを視界の端ぎりぎりに収めつつ、そっと安堵の息をついていた。心なしか顔が朱に染まっている。
 ――これで今日は、あやつに振り回されずにすみそうだな。なんというか、その、そういうのも嫌いというわけでは決してないのだが、その、あやつは少々強引で、その……。
 つい先日の出来事が脳裏をよぎる。頬の熱が急に強くなったのを感じながら、舞は慌てて口元を押さえた。
 ――そ、それにだ、もしあやつらが本当に、その、こ、恋人同士とか言うのであれば、ぜひ観察しておく必要があるからな。こ、これは決して興味本位ではないっ! こ、今後の、そう、今後のために必要なことなのだっ!
 ……なんだかんだと言い訳を並べているが、いかに芝村といえど、彼女も年相応の女の子であった。

 そして、彼らも姿を消したさらにその後方では……。
「見ました? 原の奥様」
「ええ、見ましたとも若宮の奥様。メインターゲットも初々しくってよろしかったですが、まさかこんなサプライズが用意されているとは……。いかがなさいますの、善行の奥様?」
 私服姿の彼らは、そのままでいればちょっとした遊び仲間といった風情に見えなくもなかったが、雲衝くような巨漢と女性が奥様言葉で話しているのは十分異様であったし、そこに髭眼鏡の奥様言葉が加わることで、そこは一種の異次元と化していた。
 通行人もいないではなかったが、彼らは皆慎重に視線をそらしつつ、足早に駆け去っていく。
「そうですわね、あたくしとしてはせっかくのチャンスを逃すべきではないと思いますの。いかがかしら?」
 髭眼鏡――五一二一小隊司令にして奥様戦隊隊長である善行は、中指で眼鏡を押し上げながら速水たちの消えたほうを見つめていた。
 それを聞いたふたりは、無言のまま親指を立てた。
「分かりましたわ。――作戦変更、緊急プランAを発動する。目標、滝川百翼長」
 冷静な指揮官の片鱗を見せつつ、彼らは音もなく移動を開始する。小隊内の色恋沙汰に関することで知らぬことなく、素見(ひやかし)のためなら命も賭ける。そして、常にきわめて多大なる戦果を上げ続けてきた奥様戦隊にとって、この程度は朝飯前であった。
 ……それにしても、滝川の目は節穴であろうか?
 まあ、人間誰しも、恋に落ちれば似たようなものであろう。

   ***

 新市街の一角に、いまだ営業を続けている喫茶店が一軒残っていた。戦時中とは思えぬ落ち着いた雰囲気をかもしているそこは、合成品とはいえ各種コーヒーやリーフを取り揃えていることで有名であった。
 ただし、そこを見つけたのは滝川であった。
 別に彼がそういったことに詳しかったわけではない。お茶に誘ったものの、未来が肝心の店を見つけられずにまごついていたのを、たまたま目に入ったので教えたのだった。
 彼女は非常に喜んで店のドアをくぐったのだが、いざメニューを選ぶ段になると、またもや彼女の表情に戸惑いが浮かぶ。どうやら、メニューが決められないようであった。
 ――ホントに、お出かけってもんをしたことがないんだろうな。どっかのいいとこのお嬢様なのかな?
 滝川は、未来の言葉と行動のギャップになんとなくおかしみと、親しみを感じていた。先ほどまでの緊張がほんの少しほどけ、心が落ち着いていく。
 普段は空気を読めない男の名をほしいままにする彼が助け舟を出すことができたのは、そのおかげであったろう。
 彼は必死にメニューを読みあさる。彼とてこんなところに入ったことなど――ましてや女性と一緒に――あるわけもなかったが、いくらなんでも飲み物ぐらいは多少分かる。
「ま、松崎さんは、コーヒーと紅茶、どっちがいいっすか?」
「えっ? ……あ、そ、そうしたら、あの、お茶で」
「じゃあ、お、俺が選んでもいいですか?」
「あ、その……。お、お願いします」
 未来は、耳元まで赤くなりながら俯いてしまう。そんな姿もかわいいと思いながら、メニューに目を落とす。
 ――落ち着け、今こそあの本で覚えたことを使うときだ!
 滝川はメニューを必死で見ながら、ある文言を見つけ出すと、ウェイトレスに言った。
「この『本日のお勧め』ってのは、今日は何すか?」
「本日はダージリンとなっております。残念ながら合成ですが、本物にも負けない味と香りが出せていると思いますよ」
「……じゃあ、それをふたつ」
 やがてカップがふたつ、それぞれのティーポットと共に運ばれてきた。なるほど確かに清冽さと甘味の混交した香りがあたりに立ち込めた。
「わあ、いい香り。滝川さんって、よくご存知なんですね」
 未来が胸の前に手を合わせ、自分をじっと見つめているのに気がつき、滝川は心の中で小さく苦笑した。
 ――まさか、あの本が役に立つとは思わなかったなぁ。
 それはかつて、瀬戸口がいささかのため息交じりと共に彼に渡した本であった。
「お前さんならまずはこの辺から始めるのが妥当だろうよ……ま、頑張りな」
 そう言って手渡された本には、このように書かれていた。
 曰く、「メニューに迷ったら店に任せ、さも知ってるかのようにふるまうべし」。
 ……なんというか、すでにこれはアドバイスではないという気もするが、それが通用してしまうあたり、このふたり、只者ではないのかもしれない。いろんな意味で。
 滝川が、さて次はどうしたものかと考えていると、不意に未来がティーポットを取り上げ、紅茶を注ぎ始めた。その手つきはじつに丁寧で、いかにも使い慣れているようでもある。
「はー……」
 てきぱきと注がれていくお茶に感心していると、未来が照れくさそうに、
「こういうところのことはよく知らないんですけど、お茶だけはよく淹れてましたから。……安物ですけどね」
 と言った。その微笑みがなんだか眩しくて、滝川は思わず目を伏せた。
 やがてカップはルビーにも似た液体で満たされた。
「あの、おいくつですか?」
「えっ? お、俺? じゅ、一四だけど……」
 不意の質問に慌てて応えると、未来はどことなく困ったような表情で滝川を見つめていた。
 ――え? な、なんだ?
「あの、お砂糖のことなんですけど……」
 彼女の手にあるスプーンを見て、滝川は顔から火がでたような気がした。
「あ、そ、その、ふたつでっ!」
 ――や、やっちまった……。
 ちょっとした得点でいい気になっていたしっぺ返しを喰らい、滝川はすっかりしおれてしまっていたが、未来は笑みを浮かべると、特に気にする風でもなく砂糖を注ぎいれた。
 自らのカップにも少しだけ砂糖を加え、丁寧にスプーンをまわす。滝川も慌てて紅茶をかき混ぜた。
「では、いただきます」
「あ、はい、どうぞ」
 他になんと言ったらいいのか思いつかず、とりあえず滝川はそれだけ言うと、カップを口につけた。
 なるほど、紅茶は店が断言するだけあって、香りも味もなかなかのものだった。普段は缶入り紅茶しか飲んでいない滝川も、そのくらいのことは分かる。
「おいしい……」
 未来の満足げな声に、滝川の顔も思わずほころんだ。なんだか暖かい空気にあたりを包まれたような、そんな気がする。
「ご、ごめん、変なこと言っちゃって。俺ってドジだから、こういう勘違いとかすぐやらかしちまうんだよな……。ホント、ごめん」
「いいえ、私の尋ね方も悪かったんですから、気にすることはないですよ。それに」
「?」
「また、助けられちゃいましたね。……ありがとう」
 何を言われているか、滝川は誤解などしなかった。
再び顔が熱くなるのを感じながら、滝川は照れくさそうに頭を掻いた。
「へ、へへへ……」
「ふふっ」
 それからしばらくの間は、他愛なくもなごやかな会話が続いていた。
おそらく初めて聞くであろう滝川の趣味にも彼女は真剣な表情で聞き入り、相槌を返すし、未来が話す時は、滝川はもう全身を耳にして一生懸命に聞き取って、ともかく頷いてみせた。それが嬉しいのか、未来はそのたびに笑顔を浮かべ、滝川もつられるように笑みを浮かべる。
 話が弾むうちに、ふたりのカップが空になった。
「あ、じゃあおかわりを入れましょうか?」
「いや、今度は俺が……」
 ふたりが同時に差し出した手が、ポットの上で交差した。
「あ……」
 手の下にある柔らかく、あたたかな感触に、滝川は思わず未来を見た。彼女も一瞬驚いたようであったが、やがて頬を染めながらやわらかな笑みを浮かべ、滝川を見つめ返した。
 手を離すべきなのは分かっていた。すぐにでも実行したほうがいいのも理解している。
 だが、できなかった。
 まさか自分がそのような立場に立とうとは夢想だにしてもいなかったゆえか、滝川の手は頭脳に反旗を翻していた。
「滝川さん」
「ななな、なにっ?」
 見事に裏返った声にまた笑みを浮かべつつ、未来はそっと言った。
「おかわり、いかがですか?」
 その言葉にようやく我に返った滝川は、慌てて彼女の手を離した。内心、自分はなんということをしてしまったのだろうかと思う。
 ――ああ、これでもう終わりだよなあ。偶然とはいえいきなり手を握って、しかも離さなかったなんて。
 後悔が雪崩を打って滝川の胸中を駆け下りた。だが、一度してしまったことは元には戻らぬ。
「滝川さん」
 ――ああ、呆れたろうな、彼女。
「滝川さん?」
 自分を呼ぶ静かな声に、滝川がのろのろと顔を上げると、そこには意外な光景が広がっているではないか。
 カップにはちゃんとお代わりが注がれ、ティーポットを置いた未来は微笑んだまま、滝川をじっと見つめている。そして彼女の手は手のひらを上にして、そっと差し出されているではないか。
「――え?」
 彼女は微笑んだまま答えなかったが、その意図するところはあまりにも明白で、いかに滝川が鈍いといえども間違えようはなかった。
 滝川はしばらく明後日の方向を向いたり、咳払いなどしていたが、やがてどうにか前を向き直ると、手をズボンにしきりにこすりつけてから、自らの手を彼女の手に重ねたのだ。
 あたたかく、やわらかな感触と、先ほど感じた彼女の香り、そして自分を見つめる瞳の光に、滝川は心の底から温かい何かがわきあがってくるような、そんな感じがしていた。
「ほらっ、手のひらを合わせたほうが、あたたかいですよ」
「あ、そ、そうですね、はは……」
「ふふっ」
 今度はしばらく、ふたりの手は離れそうになかった。

 滝川たちのテーブルから少し離れたところで、何かを打ちつけるような小さな音がした。
 見れば、速水たちがテーブルに突っ伏したまま肩を震わせている。先に起き上がったのは速水のほうであった。さすがに周囲を――特に滝川を――おもんぱかってか、速水の声は小さなものだった。
「あたた……。で、でも滝川もなんかいい雰囲気じゃない、って、舞、どうしたの?」
 舞は頭をテーブルにつけ、何かに耐えるように自らの体を抱きしめ、動こうとはしなかった。
「舞?」
「……ゆい」
「え?」
「ぜ、全身が体の内側からくすぐられているようにかゆいっ」
 顔を真っ赤にしながら、ようやくのことで舞が起き上がったが、動悸のほうはいまだ収まっていないようだ。
 舞はしばらく呼吸を整えることに専念していたが、やがて真剣な表情で速水に向き直る。
「厚志」
「な、なに?」
「すまぬ、私はそなたを誤解していた」
「……は?」
 話の出口が見えず、速水は間抜けな声をあげたが、舞はそんなものにお構いなしで話を続けた。
「私は今まで、そなたが私に、その、あれこれとするのをなんと強引なと思っていた。人目もはばからずに人前で何をするのだ、とな。だが、今ここへ来てそれは過ちだとわかった。あの滝川でさえ、ひ、人前で堂々とあ、あのようなことをするとは……。こ、これはカダヤとしてむしろ自然なのではなかろうか、と」
「そ、そうだよ? だからいつも言ってるじゃない。別に恥ずかしがることじゃないって」
「う、うむ……。その意見にはまだ素直には頷けぬが、目の前に証拠があってはいかんともしがたい。だ、だがな厚志、それでも、その……。あまり、派手にはするな……」
「もちろん。さ、それが分かったのなら、もう十分でしょ? あまり向こうの邪魔になったら悪いし、もう帰ろうよ」
「そ、そうだな……」
 舞がふらふらと立ち上がるのを誘導しながら、速水は笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
 ――なんだか良く分からないけど……。どうも滝川のおかげみたい。ありがとう、滝川。
 速水はまだ手を握り合っているふたりにそっと目礼すると、そそくさとその場を後にした。
 むろん、彼の計画するデートに復帰するためである。
これから後、舞はふたりの間にある「大胆」という言葉の定義の違いに悪戦苦闘することになるのであるが、それはまた、別のお話である。


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