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浮気(終話)


 ちょうどその頃、舞は家路への道をひた走っていた。
 いくつもの角を曲がり、やがてどぶ川特有の臭いを感じるようになり始めた頃、暗闇の中から染み出したように古い、木造二階建ての建物が姿を現した。
 一説には築六〇年とも言われているこのアパートこそが、舞の住まいであった。
 芝村という彼女の姿を知る者には意外の念を抑え切れない事実ではあるが、華美とか贅沢という概念とは無縁の本人にしてみれば、雨露をしのげる当座の宿として使えればいい、という程度の認識しかなかったから、実のところどうでもいい話ではあった。
 いつ抜けてもおかしくないような軋み音をあげる階段を上り、二階の一室に上がりこみ、電気をつける。
 内装も、概観を裏切らない実に歴史を経た様相であったが、それを別にしても、室内を一言で表現するのならば「混沌」の一語に尽きた。
もっとも、その原因の最たるものは当の居住者によるエントロピーの増大――平たく言えば散らかし方にあるのだから、誰に文句を言う筋合いでもない。
 だから今、自分が探しているはずの物が見つからずに焦りの色を浮かべているのも、至極当然の成り行きであった。
「む、確かあれはこの辺にしまいこんでいたはずだが……、いや、もしかしてこっちか?」
 舞が周辺を捜索するたびに、レーションの空きパックが散らかり、脱ぎっぱなしの靴下が宙を舞い、積み上げただけの本が雪崩のごとくに崩れ落ちた。
 ……決して性差別をするわけではないが、これが本当に花も恥じらう少女の住まう部屋であるかどうかは、いささか論評を加えたいところである。
「……あった!」
 ようやくのことで舞が取り出したのは、一〇〇メートル先でも新聞が読めるほどの光量を持つ懐中電灯であった。
「これがないと、どうにもならんからな……。あとは……」
 舞は、これは奇跡的に簡単に見つけ出せたバッグにあれこれと詰め込むと、いっそう乱雑になった部屋のさまざまなものをかき分けるように玄関にたどり着き、そのままの勢いで外へと飛び出した。
どうにか鍵を閉め、踏み抜きかねない勢いで階段を駆け下りると、そのまま休むことなく飛び出していく。
 防音対策などなきに等しいこのようなアパートでこれだけの騒ぎをして、なおかつ苦情の一件もないのは奇跡と思えるかもしれないが、なんのことはない、舞以外に住む者がいないだけの話であった。
 小隊の一部でささやかれているところによれば、何者が襲いかかってきても遠慮なく撃退できるだからだとか、夜な夜な怪しい実験をやらかしても人目につく心配などないからだ、などと勝手なことが言われていたが、事実を確かめようとする者はいなかった。
 誰だって、命は惜しい。

 薄暗い街灯が、途切れ途切れに舞の行く先を照らし出していた。舞は薄ぼんやりとした光の輪の中に影を落としつつ、息の続く限りの速度をもって夜の市内をひた走った。
 やがて、視界の隅にこのようなご時世でもいまだ賑やかさを失わぬ新市街が見えてきた。灯火は平時にとても及ばぬとはいっても、今まで通ってきたところに比べれば光の洪水にも等しかった。
 舞は目を細めながらしばしその場に立ち止まっていたが、やがて新市街を横切るように再び走り出した。光は去り、あたりは再び闇の中に沈みこむ。
 とても暗かった。
 舞の住むあたりも暗いといえば暗かったが、少なくともあのあたりはまだひとの気配があった。今、周囲の建物からは窓から漏れる明かりすらなく、月も出ていない今夜などは、周囲は鼻をつままれてもわからぬような状況であった。
 舞はいったん立ち止まると、手元のバッグから例の懐中電灯を取り出した。鋭い光芒が闇を切り裂いていくが、それもここでは大海の中のひと針程度のものでしかない。
 果たしてここで目的地を見つけられるものかどうか、さすがの舞にもいささか断定しかねるところがあった。
 ――だが、私は行かねばならぬ。行って会わねばばならぬのだ。私自身のためにも。
 舞はきっと闇を見据えると、いささか速度を落とし、だが断固とした足取りで、動くものとてない廃墟と化した町並みを歩いていった。
 不意に、舞のお腹が小さく鳴った。彼女は慌てて立ち止まり周囲を見回したが、当然のことながら聞くものなどいはしない。闇の中とて赤らんだ顔を誰にも見られないことに、彼女は心から感謝した。
 同時に、速水の顔が思い浮かぶ。舞はかすかに眉を下げると、口には出さずに小さく呟いた。
「厚志、そなたがせっかく誘ってくれたのを断ることになってしまって、すまぬ。だが、私は行かねばならぬのだ。……許せ」
 と、その時、彼方から何かが聞こえてきた。舞は耳を澄まし、小さく頷くと、そちらに向けて分け入っていった。

 その夜、舞が家に戻った形跡はなかった。

   ***

 どこか、ふたりの間の歯車が軋み始めていることが知れ渡るのに、さして時間は必要ではなかった。
 舞が速水の誘いを断って姿を消した翌日、彼女はメールを一通教官である本田に送ったきりで、その日一日教室には姿を現さなかった。
「あー、芝村だが、今日は体調が悪いそうで休むとのことだ。……しかし、昨日見た時には元気そうだったんだがな? まあいい、おめーらも体調管理には気をつけろよ。軍人は体が資本だからな」
 いささか気の抜けた返事の後、いつもの通り授業は始まったが、速水は正直それどころではなかった。本田の言うとおり、彼女は昨日まではどこにも体調に問題はなかったはずだった。それは、神経接続による操縦が必須ともいえる士魂号に乗っていれば、ほぼ確信できることでもあった。
ことに複座型の場合、基本的な生体データは共有しているに等しい状態であったから間違いなかった。
 とすれば、別れた後に彼女の身に何かあったとも考えられるが、本田は特に変わったこととは受け止めていないようだ。
 分からなかった。少なくともこんなことは一度もなかっただけに、速水は混乱していたといってもいい。
 ――なんで? 一体どうしちゃったのさ、舞……。
 授業は、まったく頭に入らなかった。

 幸い、その日は出撃がなかった関係もあって、速水は早々に整備を切り上げると学校を後にした。彼の足は自然と舞の家に向かっており、手に提げた袋の中では、途中の店で買った果物――今ではかなりの貴重品だ――が揺れていた。
 そろそろあたりが夕闇の中に沈みこもうとする頃、速水は目指すアパートを視界にとらえた。目指す一室に明かりが灯っているのを見て、思わず息をつく。
 階段を上りドアの前に立つと、速水は一瞬躊躇した後にドアを控えめに叩いた。
「舞、僕だけど……。具合悪いって聞いたけど、大丈夫?」
『あ、厚志かっ!?』
 いささか慌てた声と同時に、なにやらドタバタと物音が聞こえたかと思うと、ドアがゆっくりと開けられた。
「な、なんだ? 一体どうしたのだ?」
「どうしたのって……。舞こそどうしたのさ? 具合が悪いって聞いたから心配しちゃったよ」
 ぱっと見たところ、舞に特におかしなところはなさそうだった。髪の毛が濡れているのは、どうやらシャワーでも浴びていたらしい。
「すまぬ、き、昨日の用事が長引いてな、帰ってきたのがついさっきだったのだ。本田にも詳しく言うわけにはいかぬから、とりあえず体調不良ということにさせてもらったのだが……。そなたにも心配をかけたようだな」
 そう言いながら、舞の視線がちらりと速水の手元に移った。
心からすまなそうな表情を浮かべた彼女を見て、速水は小さく安堵の息をついた。
 ――思い過ごしか。
 用事の内容は結局分からずじまいではあるが、言えることならそのうち言ってくれるだろう――速水は、とりあえずそう信じることにした。
「まあ、僕の方はたいしたことじゃないし……。これ、せっかく買ってきたから、良かったら食べて。どうせならちょっと寄っていきたいところなんだけど……」
 ドアの影から中を覗きこみ、速水は思わず苦笑を浮かべた。傍らで舞が顔を赤くしているのが見ないでも分かった。
 おそらく、今の室内には速水が立つ場所すら確保することは難しかったに違いない。
「ま、いいや。今日はもう帰るよ。とりあえずゆっくり休んでね? また明日学校で」
「そ、そうか。すまぬな。ではまた明日……」
 いつかここの徹底的な清掃を行うことを誓いつつ、とりあえず今は帰ろうとドアを閉めかけた速水だったが、ふと、舞の腕に起きていた小さな異変に気がついた。
「舞? これどうしたのさ、この腕!」
「あっ……」
 どうする暇もない間に腕を取られ、舞は思わず絶句した。速水が掴んでいる彼女の左腕には、細いがはっきりとした切り傷が一〇センチ以上にわたってついていたのだ。
「な、なんだこれは? 気がつかなかったが……。お、恐らくどこかで引っ掛けたものだろうな」
 舞は極力なんでもないような口調を装うとしていたが、その目にはかすかに動揺が現れていた。速水は何か言おうと口を開きかけたが、何かを思い返したように首を振ると、舞の手を離した。
「それじゃ、今日はこれで。また明日ね」
「う、うむ。わざわざすまぬな」
 ドアが閉められ、速水がまだ玄関にいるというのに鍵がかけられるのを、速水は呆然とした表情で見つめていたが、やがてゆっくりと階段を降り始めた。
 ――舞、良く分からないけど何かを隠してる。……でも、一体何を?
 昨日の疑問が再び頭をもたげてくる。だが、なんとなくそれを問いただす気にはなれなかった。今あまりにもそういうことをするのは、舞を頑なにするだけのような気がしたのだ。
 とりあえず家路に向かうことにした速水だったが、先ほど晴れたはずの彼の心に、再び暗雲が立ち込めていた。

   ***

 それから、舞にいろいろと行動に不審な点が見られるようになっていった。
 とはいっても、学校にいる間にどうこう、というわけでもなかったのだが、二日から三日に一回ほどの割合で、ものすごい勢いで整備を片付けると、わき目も振らずに下校するようになり、このときばかりは速水の誘いもきっぱりと断り続けていた。
 これが一回や二回ならまだしも、一〇日ほども経つころになると、小隊の間でも彼女の行動は徐々に目立ち始めた。
 中でもこの行動にもっとも困惑していたのは、言うまでもなく速水であった。
普段は春風駘蕩、ぽややんとしているのが取り柄とまで思われていた彼の顔からは笑顔が消え、最近は苛立ちを抑えかねた表情をよく浮かべるようになっていた。
 速水を良く知る者たちは、これが危険な兆候であることを悟り、あえて何も触れないようにしてきたが、そうは思わない者も中にはいたようだ。
 数日を経ずして、周囲からはどこからともなく「ふたりは別れたのだ」とかなんとかいう噂がまことしやかに流れ始めたのだ。
 小隊内ではこれをまともに受け取る者はいなかったが、女子高の間ではずいぶんと広まった噂らしく、それが証拠に速水に何かとちょっかいをかける女子高生徒の数は、ここ数日で激増傾向にあった。
 これに対して速水は、普段の愛想よさと対極にあるような態度で彼女らを迎え、すげなく追い払っていったのだが、その間にも情報収集を行うことは怠りなかった。
 やがて、真相が判明した。どうも、速水をとられたと理解している、いわゆる「速水親衛隊」の仕業であったようだ。
「ふうん、そういうわけ……」
 速水はただそう呟いただけだったが、不思議なことにその噂はその日を境に消えうせた。
 同時に、親衛隊もいくつか解散となったようだが、速水は気にも留めなかった。

 この、公式には謎となっている「速水親衛隊解散事件」はたちまちのうちに小隊内に流布されたが、先にも述べたとおり、いまや小隊では「触らぬ速水に祟りなし」とまで言われるようになっていたので、あくまでひそやかにささやかれただけにとどめられていた。
当の速水は、例の表情のほかには特に変わった様子もなかったのだが、一部の者は、ひょっとして例の別れたという噂はまったく根拠のないものでもないのではないか、と疑っていた。
 根拠は、これだけの騒ぎであるにもかかわらず、舞がまったく何の行動も起こさなかったことであった。もし今までであれば、速水に対するこういったアプローチを見た瞬間に嵐が吹き荒れることはまず間違いなかったからである。それがなかったのは、もしかして本当に……、というわけである。
あくまで推測ではあったが、それは妥当性のある話として受け止められつつあった。
 そして、この噂にもっとも敏感に反応した、ある集団が存在した。

   ***

 夜の学校は、意外なほどに静かである。
出撃でもあれば話は別であるが、そうでなければ日付が変わってからも活動しているような物好きはそうは多くない。あたりは闇に包まれ、そこここに立つ常夜灯が、かろうじて光をあたりに投げかけているだけであった。
 プレハブ校舎から少し離れたところに、同じプレハブ造りではあるが、もっとこじんまりとした建物がひっそりと建っていた。
普段は小隊司令室と呼ばれているそこは、文字通り小隊運営の中心として活用されているが、この時間ともなればひっそりとたたずむだけの存在に成り果てているはずであった。
 確かにそれは部分的に正しかった。室内の明かりは消され、外から見る限りまったく動きがあるとは思えなかったからだ。
だが、窓から差し込む常夜灯の光の中で、ゆっくりと動く人影があった。それも複数。
「……まずいですね。このままでは小隊の運営にも影響が出かねません」
 静かな声が室内を流れる。影はいささか伸びた髭に手をやり、しばし考え込むポーズを見せた。
 そこに、今度は女性の声が割り込んだ。
「その影響はすでに出ているわ。ここ数日で三番機の損傷率が急激に増加しています。今のところは致命傷に程遠いからまだいいけど、このままいけば決して楽観視できない事態が訪れる可能性は無視できません」
「……困りましたね」
「困ってるだけじゃどうしようもないでしょう? 善行、何か対策は考えてないの?」
 髭面の男――善行は小さく苦笑を浮かべた。
「今のところは情報収集以外、特にこれといって対策は思い浮かびませんね。報告はどうなっています? 整備班長」
「今はその呼び名は合わないわね。……若宮くんが目標を順調に尾行中だから、もうすぐ何らかの報告が入るはずよ」
 整備班長――原は、軽く肩をすくめながら状況をあっさりと報告した。若宮というからには、スカウトの若宮戦士に間違いない。その彼が報告をよこしてくるというのは、一体どういうことであろうか?
 と、その時、ひっそりと静まり返った室内に無線機のコール音が響いた。
『タカノメ、タカノメ、こちらウノメ、目標を補足、オクレ』
 原はマイクを取り上げると、押し殺した声で話し始める。
「こちらタカノメ、ウノメ、現状を報告せよ、オクレ」
『こちらウノメ、目標は現在地点より移動せず。……画像を送ったほうが早そうです。受信、願います。オクレ』
「了解、直ちに送信開始せよ」
 予め用意されていたモニターに光が入り、それがたちまちのうちに画像へと切り替わっていく。善行たちは何が出てくるかとモニターを覗きこみ――そして、絶句した。

 彼らが事態を理解するのに、さして時間はいらなかった。
 善行はマイクを取り上げると、静かな声で話し始めた。
「ウノメ、こちらタカノメ。写真撮影は完了しましたか?」
『こちらウノメ、全て撮影完了。異常なし』
「よろしい、……では、作戦Bに移行しますわよ。よろしくて、若宮の奥様?」
『ええ、全てよろしくてよ、善行の奥様。では、私はこれより移動を開始しますわね』
「ええ、お気をつけて」
『では、ごきげんよう』
 やたらと野太い奥様言葉と同時に、無線機は静寂を取り戻した。ふたりはしばらく黙り込んでいたが、先に口を開いたのは原のほうだった。
「では、明日をもって作戦を開始することでよろしいですわね、善行の奥様?」
「ええ、よろしくてよ。……では、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 こちらも奥様言葉の挨拶を残し、ふたりはまるで影のように消え去った。
 彼らこそが、小隊内にカップルのあるところ、必ず現れるといわれている、通称「奥様戦隊」であった。
 彼らは今宵得た情報をもとに、ある一大作戦を決行しようとしていたのだ。

   ***

 翌日、昼休み。
 どんなに心が重かろうと、時が至れば腹はすく。
 さほど食べられはしないだろうと、速水はなんとなくぼんやり考えていた。舞がいないというのに、のんびりと食事をする気などには到底なれなかったのだ。
 そう、今日はまったく舞が授業に現れなかったのだ。
速水の心はまるでぬかるんだ雪のごとく、不安と不信が入り混じった状態に成り果てていた。
 それでも彼は、舞に直接問うことだけは避けようと思っていた。聞いてしまえば何か決定的な瞬間が訪れてしまうのではないか、そう思えたのだ。
 だから彼は何も行動を起こそうとしていなかったのだが、それをあっさりと破った者がいた。
「速水君」
 彼を呼び止める声に振り向けば、そこには善行が立っていた。眼鏡の奥に隠れた瞳は表情は分からないが、彼の放つ雰囲気に、速水はなんとなく足を止めた。
「なんですか、委員長?」
「あなたにひとつ、お知らせしたいことがあります。芝村さんのことで」
「舞のことで? なんですか?」
 怪訝な表情を浮かべた速水に、善行は黙って一枚の写真を差し出した。
 いろいろと考えすぎていたせいか、速水はまったく無警戒に写真を受け取ったが、それを一目見たとたん、彼の目は大きく見開かれ、全身が細かく震えだした。
 粒子の粗さから見て高感度カメラで撮影したとおぼしき写真には、一軒の家が映し出されていた。闇の中、二階の一角だけにかすかな光が入っていたが、そこには紛れもなく舞が写しだされていたのだ。だが、それよりも問題だったのは、彼女のすぐ隣に男性らしい人物の影が映し出されていたことだった。光の関係でシルエットになっているそれは、大人の男性のように見えた。
「こ、これは……!?」
「出所は明らかにできませんが、信頼できる筋から入手した写真です。ここに地図がありますが、必要ですか?」
 そういってから、善行は軽く目を見張った。速水はまったく無表情のまま彼を見つめていたのだ。だがそれは、ある感情を極めて雄弁に映し出した無表情であった。
 善行が黙って紙片を渡すと、速水はものも言わずにその場から駆け出した。
「作戦成功ですか。……ですが、こんなことは二度とやりたくはありませんね」
 善行は額に浮かんだ汗をぬぐいながら、小さく呟いた。
今の状況に比べれば、半島での撤退戦を一人でこなすほうがよほどましであった。

 速水は物も言わずに学校を早退すると、第六世代の体力を最大限に活用して、ただひたすらに駆け続けた。本来ならこの行動は脱走と間違えられても文句の言えないところであるが、それについてはなぜか通知が流れており、午後早退というだけにとどめられていた。
 速水の足は休むことなく地を蹴り続け、素晴らしいスピードで体を疾走させた。やがて市街地を外れると、徐々に崩れかけた建物が多く立ち並ぶ、見覚えのある地域に差し掛かってきた。
 彼自身も数日前に出撃した戦区だ。
 かろうじて残った建物のいくつかには大穴が開き、何かがぶつかったのか壁が無残にも崩されている。商店のひとつでは片付ける暇もなかったのか、商品が軒先に散乱していた。住居としての存在意義を奪われたそれら建造物の間を、速水は先ほどとはまったく逆に、一歩、また一歩とまるで猫のようなしなやかな動きですり抜けていった。
 歩いている間中、速水の胸中ではさまざまな思念が渦巻いていた。
 ――あの写真、あれが本物だったとして、僕はどうしようというんだ?
 話に行くのか、連れ帰るのか――それとも、諦めるのか。
 最後の選択肢だけは、絶対に承認できるものではなかったが、では他のはどうかといえば、これまたまったく自信はない。なにより、舞自身がどう考えているのか、さっぱり分からないのではどうしようもなかった。
「……ともかく、舞に会いにいくんだ。話は、それからだ」
 ――それから、どうするんだ?
 速水は、痛む胸をそっと押さえた。

 地図を頼りに歩いていると、やがて写真と同じ形をした一軒の家が現れたが、これはどう見ても廃屋といった方がいい建物であった。だが、形は確かに同じだし――何より二階には写真と同じ男性らしき姿も見える。
 そうこうしているうちに、ドアのあたりで小さな音がして、舞がひょっこりと顔を見せたではないか。その瞬間、速水は全てを押しとどめる努力を放棄して、彼女の前に姿を現した。
「舞! 一体ここで何をやっているの!?」
「あ、厚志!? そなた、なぜここへ?」
 まさかこんなところで顔をあわせるとは思っていなかったのであろう。舞はてきめんにうろたえた表情で速水を見つめていた。
 それが、速水をますます刺激する。彼は一歩前に出ると、鋭い声で言った。
「一体君はここで何をしているの? ここ数日おかしいとは思っていたけど、何でこんなところにいるの? それに……、上にいる男は誰?」
 ――まさか。
 速水の胸中を一瞬昏い予想がよぎったが、彼は慌てて頭を振った。この期に及んでもなお、彼はそんな事実を信じたくなかったのだ。
 速水の言葉に、舞ははっとしたように顔を上げると、のろのろと言った。
「そうか、そこまで見ているのならもう言うことはないな。……今は、そなたは何を言っても聞くまいな」
「……中を、見せてもらうよ」
「よかろう」
 舞はすっと身を避けると、ドアを大きく開けた。速水は土足のまま中に立ち入ると、二階へと上がっていく。
 心臓が、まるで割れ鐘のように大きく鳴っていた。耳鳴りがしてひどくうるさい。
 ――僕は……真実を知るのが、怖い。
自らにとっても意外なことだったが、それは紛れもない本心であった。
だが、そうは思っても既に足は止まらない。結論は全て二階にある。これ以上何も分からぬままでいることなど、まっぴらごめんであった。
やがて速水は二階に到着すると、男の姿が見えた室内に一挙に飛び込んだ。
 だが――
「はぁ?」
 間の抜けた声が、室内に響き渡った。

 男は確かにそこにいて、微動だにしなかった。いや、できなかった。
 作り物である彼が動くことは、まずありえなかった。
 背後で聞こえた物音に振り向けば、舞が顔を真っ赤にしながら立っているではないか。
「こ、これは一体……」
 そういいかけた速水の耳に、何か聞き慣れた声が聞こえてきた。慌てて振り向けば、部屋の隅に置かれた箱の中から、毛玉のようなものがころころと飛び出してくるではないか。
 毛玉――小さい子猫たちは、速水に甘えるように小さい声を上げながら、彼の足に顔をこすりつけていた。
「あ、あ……」
 なんと言ったらいいのか分からぬ様子の速水は、舞を見、猫を見、もう一回舞を見ると、その場にへたへたと座り込んでしまった。

 種を明かせば簡単なことであった。
 数日前の戦闘。そう、彼らがここで戦った戦闘の時に、舞は彼ら猫の姿を見つけたのだそうだ。
「こんな子猫が、どうして?」
「どうやら、親がいたらしいのだが、あの時に……」
 そこまで言ってから、舞は黙って外を指差した。かつては庭であった辺りに小さな土盛りが作られている。
 舞はともかく、近くにいた子猫を全て拾い上げるとこの家に隠し、そして、店からマネキンを引っ張り出してきて案山子代わりにおいたのだそうだ。
「で、でも、それなら僕に相談してくれれば……」
「そなたの家にはマイも、それに子猫がいたからな」
 舞はそのまま口をつぐんでしまった。速水も何といっていいか分からずに、ただ彼女を見つめるばかりである。
 やがて、舞が自嘲気味に小さく呟いた。
「とはいえ、自分では育てきる自信がないし、こんな時に芝村たることの力は何の役にも立たぬ。どうしたらいいのか、正直なところ途方にくれていたのだ……」
 今こそ速水は舞の腕にあった傷の正体を理解した。彼は舞を疑ったことを心の中で深く恥じつつ、仔猫たちを抱き上げて微笑みを浮かべる。
「厚志? ……その、怒っていないのか?」
「怒っていた、さっきまでは。今も少しは……いや、どっちかというと不安だった」
 速水はいったん言葉を切ると、恐る恐る付け加えた。
「舞が、その……、心変わりしたんじゃないかって」
 舞は何のことか分からずに一瞬あっけにとられた表情を浮かべ――理解した瞬間、怒りが浮かんだ。
「たわけ! わ、私がそのような変節漢のような真似をするとでも思っているのか!? わ、私のカダヤはそなただけで、それはこれからもずっと変わることなどない。そ、そんなことも分からぬのか!?」
「分かってるつもりだった。でもね、時々はどうしようもなく不安になることだってあるさ。ましてやこんなことがあったりすればね」
「あ……」
 今さらながらに己の行動を振り返り、舞は耳まで顔を赤くしてしまったのを、速水は優しげな瞳で見つめていた。
 速水の腕の中で、子猫が小さく鳴き声をあげる。彼は子猫を撫でながら言葉を継いだ。
「かわいい子達じゃない。多分マイも受け入れてくれるよ。……ねえ舞? 僕は君が思うほどには優しくないけど、でも、もう少しだけ優しくなってみようと思うんだ」
「厚志……」
「帰ろう、舞。……一緒に」
 舞は、一瞬ためらいを見せたものの、小さく頷くと速水の手をそっととった。
 いつの間にか外は夕焼けに包まれていた。茜と藍色のコントラストの中、気の早い星がひとつ、ふたつと輝き始めていた。明日はきっと、いい天気になるであろう。
 ふたりは、子猫の入ったかごを大事に持ちながら、家路へと足を向けた。

 それを、物陰から見守るは奥様戦隊であった。
 彼らは小隊内のカップルを標的にはするが、決して彼らの破局を望んでいるわけではなかった。
 ……そのほうがターゲットが増えて望ましい、という、これ以上ないほどの利己的な理由があったことも、また否めないのだが。

   ***

 だいぶ後のことになるが、速水たちが引越しをする時には、新居にはたいそう広い猫部屋が用意されたそうな。
(おわり)


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