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ある授業風景 〜善行の基礎講座〜(その1)


 およそ一日の始まりなどというものは、よほどの事がない限り大して変わりなどしない。
 ……終わりは、その限りではないが。

   ***

 熊本に、春がやって来た。
 四月に入ると、日差しはにわかにその勢いを強めてくるが、それでも冬の寒さに慣れた身体には心地よい、温もりと呼べるものを惜し気もなく降り注いでいた。
 小鳥が舞い、桜が咲き、世界は相変わらず戦いのさなかとはいえ、砲声も絶えたこの時ばかりは季節に似合った、のどかな風景が現出していた。

 きーん、こーん、かーん、こーん……。

 始業の予鈴が鳴りわたる、おなじみここは尚敬高校。
 そして、その裏手というか隅っこというか迷う辺りに間借りして建つ、これまたおなじみ五一二一小隊のホームベースであるプレハブ校舎には、わらわらといった表現が似合うスピードで小隊メンバーが集まってくる。
 勉学に関しては優等生ぞろいとはとても言えぬこの小隊だが、みんな極楽トンボ賞など欲しくはないから、このときばかりは結構必死だ。
「厚志、遅いぞ! グズグズするな!」
 そんな中、いままさに校門に駆け込もうとする人影があった。後ろ姿にポニーテールが揺れている。
 三番機ガンナーである芝村舞であった。
 その後ろ、やや遅れたところに同じく三番機パイロットである速水厚志の姿を見る事ができる。
 速水は息こそ切らしていないものの、いささか慌てた様子で前方に揺れるポニーテールを追いかけていた。
「ちょ、ちょっと舞、待ってよ!」
「ええいやかましい! 大体そなたがこの期に及んでサンドイッチを作ろうなどとするからいかんのだ! 反省せよ!」
 こちらも普段の訓練の成果か、舞は全力疾走しながらも声を乱すことなく叱責する。
「えーっ? そりゃないよ、舞〜。……そもそもの問題は、舞が目覚ましをかけ間違えたことにあると思うんだけど」
 その台詞はぼそりと呟かれただけのはずなのに、舞の足が大きく乱れる。振り向いた顔からは、先ほどまでの落ち着きなどどこかにすっ飛んでしまっていた。
「ななななな、なぬを、いや何を言うか! あれは時計の電池が切れていたのが悪いのだ!」
 その電池の交換が出来ない事実は遠い遠い棚に上げての断定に、速水は苦笑せざるを得ない。
「ま、いいけどさ。……おかげで可愛い寝ぼけ顔が見られたんだしねー」
 再び放たれた呟き声は、しっかり耳に届いたらしい。
 それでも足を止めることはなかったが、たちまち舞の顔がじゅわ〜っと赤くなってきて、声量も一層大きくなる。
「ばっ、莫迦者! そういうことは人前で言うなと何度言ったら分かる! 直ちに考えを検閲、いや、削除させろ!」
「ほらほら、そんなこと言ってると遅れちゃうよ〜?」
 ようやくペースを取り戻したのか、舞に並びかけた速水はけろりとした表情で彼方を指さしてみせる。
「……くっ、あ、あとで覚えておれよ!」
 まだ何か言いたげに唇を噛み締めはしたものの、どうやら現状を思い出すことには成功したらしい。一層素晴らしいスピードで舞は疾走を続けた。
 速水も遅れてはならじと追いかける。
 ……どうでもいいのだが、傍から聞いていると、どう好意的に解釈しても世間的には「バカップル」以外の何者でもないように思われるような気がしないでもない。
 この会話を聞く者がいなかったという事実は、彼らのために、そして世界平和のために幸いであった、そう言うべきであろう。

   ***

 どうにかこうにか時間内に教室に滑り込む事ができたふたりは、さすがに多少乱れた息を整えると無事それぞれの席へと向かう。見回してみれば、すでにほとんどのメンバーは揃っているようだ。
「おっす速水、なんだよ、今日は遅いじゃねーか?」
 速水が席につくと、滝川が声をかけてきた。いつもなら遅刻のチャンピオンとして不動の地位を占めて板彼であるが、今日はどういうわけだか早くに来られたせいか、その声はいつもより弾んでいるように思えた。
 彼なりに、立場が逆転したことが新鮮らしい。
「う、うん。……ちょっとサンドイッチ作ってたら遅くなっちゃってさ」
「かーっ、お前も相変わらずだなー」
 滝川の呆れたような声に、速水も頬を軽く掻きながら苦笑を浮かべた。
「おはようございます、芝村さん」
 一方、舞のほうには壬生屋が丁寧な挨拶をよこしていた。
 かつてふたりの仲が険悪だったことを知ってる者にはいささか信じがたいところがあるが、今はこれで結構仲が良い。
「未央か、相変わらず早いな」
「珍しく芝村さんが遅いんですよ」
「違いないな……。時計の電池が切れてしまってな、寝過ごしたてしまった。不覚だ」
「それは災難でしたね」
 決して嫌味ではない表情で壬生屋がころころと笑う。舞もそれにつられるかのようにうっすらと微笑んだ。
 ……ふたりが別々に言うと、理由としては至極まっとうに聞こえるのは、言葉のマジックとでもいうべきだろうか。
 だが、それでおさまるかに見えた場に、意外な人物が一石を投じた。
「ふえぇ、まいちゃん、またとけーのでんちがきれちゃったの? ののみ、かえにいってあげよーか?」
 ふいに傍らからかわいらしい声が響く。
 見ればののみがいつの間にかやってきて、その場にちょこなんと立って舞をじっと見つめているではないか。
「なっ! の、ののみっ! そ、そのことはこんなところで言うなと何度……」
 舞は再び頬に血を上らせるとがたりと立ち上がり、急いで辺りを見回した。
「ふええ?」
 みんなの様子に変わりはない。
 ――き、聞かれずに済んだか……。
 もちろん、そんなわきゃあないのである。
 速水も含めた全員が、さりげなく視線を逸らしながら笑いを噛み殺していた。舞が時計の電池を替えられず、ののみに交換してもらっている事なぞ全員とっくに承知している。
 知らぬは本人ばかりなり。
 ののみの無意識的石投げはさらに続く。
「あー、そうだったねえ。まいちゃん、いまはあっちゃんにでんちかえてもらってるんだよね。ごめんね」
「の、ののみっ!」「の、ののみちゃん……」
 今度は速水までが狼狽する番だった。
 ……子供ってホント容赦なし。
 下手に悪気がない分、よけい始末に負えないともいえる。
 周囲は相変わらずわれ関せずのふりをしているが、全員の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 その中でたったひとり、周囲と違う反応を示した者がいた。
「は、速水さん、芝村さんっ、それは一体どういうことなんですか!? ……ふ、不潔ですっ!」
 壬生屋が顔を赤らめつつ、眉をきりりと吊り上げふたりを問い詰める。なんだか手は腰のあたりに伸びて鬼しばきの柄に添えられており、ついでに親指は鯉口を切ろうかどうしようかとさまよっている。
 速水と舞は一瞬顔を見合わせた後、自分たちがどのような事態に陥っているのかを正確に理解した。
 ふたりの背中を冷たい汗がすっと落ちていく。なんだか周囲の気温まで下がったような気がした。
「え、ど、どういうったって、別に何も……ねえ舞?」
「うううううむ、そ、そうだ。何でもない、何でもないのだ、未央よ。だからその手はしばし待つがよい」
「ならば、その額の汗はなんですか!?」
 ――あーあ、また始まっちまったよ。あいつもどーして毎回毎回突っかかっていくのかねぇ……。
 近くの机にもたれかかりながら、瀬戸口はニヤニヤとその様子を眺めていた。でもあえて口出しはしない。
 そんなことをすれば、今度は自分に鬼しばきの切先が突きつけられるに決まっているからだ。
 この三人に関わる愚を過去の経験からいやというほど心得ている瀬戸口は、状況をほったらかしにしたままなにげに時間を確認した。
 九時二二分。
 ――珍しいな。
 彼の眉がわずかに寄せられる。もうとっくに始業時刻は過ぎていた。
 もっとも、朝の準備が忙しいのか、はたまた教官の癖かは分からないが、授業開始が多少遅れるのは良くある話だった。
 遅刻ラインギリギリの攻防戦では貴重な助けになることが多いので、敢えて文句をつける者もいなかったが、今日のそれはいくらなんでもその範疇を越えている。
 まあ、それでも極楽トンボすら気にもかけぬ瀬戸口にとってはそれこそどうでもいい話であったので、思考は段々とあらぬ方へと流れ始める。
 ――本当はあいつら遅刻だったんじゃないか? 運がいいと自分で言うだけあるか……。そういや、なんだか人数が足りないような気が……ありゃ、いいのかよ?
 そんなことを考えながらふと周りを見れば、ようやく事態に気がついたのか、さっきの騒ぎも収まっている。なんとなくお互い顔を見合わせたりもしていた。
 と、ちょうどその時、入り口に誰かが立つ気配があった。全員の目が一斉に集中し――何人かは怪訝な顔をした。
 そこには小隊司令にして委員長である善行が立っていたのだが、なぜか彼の手には出席簿が握られていたからだ。
「あれ? 委員長、今日は遅刻ッすか? よかったっすね。先生まだ来てませんよ」
 滝川がどことなく浮かれた声で問い掛ける。
 ……口調が何となく嬉しそうなのは、まあ、新たな仲間を発見したというところであろうか。
「違いますよ。ちょっと職員室にいたんです。……勝手に仲間にしないで下さい」
 善行の苦笑に、滝川が照れくさそうに頭を掻く。
 室内に失笑が広がった。
 それで雰囲気が少しほぐれたのを見計らったかのように教壇に立つと、おもむろに出席簿を開いた。
「……えー、全員席についてください。出席を取ります」
 実に言いにくそうではあるのだが、そこはそれ指揮官としての貫禄か、その姿は意外とさまになっていた。
 年齢とヒゲのせいだとは、あえて本人の名誉のために言わないほうがいいであろう。

 言ったけど。

 ともあれ、突然善行が意外なことを始めたせいで、皆あっけに取られてしまい、何人かは窓の外を覗いてみたりもした。
 もちろん、表は上天気である。
「どうしました? 出席を取りますよ」
 声にわずかに威厳を込めながら繰り返すと、その声でようやく我に帰った一組教室の面々は、大慌てで席についた。
 が、一体何がどうなっているのだかさっぱりわからない点については全く変わりなかったのだが。

   ***

「それで、あの、委員長? 今日は一体……。その、本田先生はどうしたんすか?」
 善行は一瞥を向けると、穏やかな口調で話し始めた。
「その疑問に答えようと思っていたところですが、滝川君の質問のほうがちょっと早かったようですね」
 中指で眼鏡を押し上げる。
「本日、教官は公務により外出されました。授業に関しては私と副委員長で臨時に講師を勤めるように、とのことです」
 教室内にざわめきが走る。こんなことは初めてだった。
「あのー、委員長? 普通こういう場合って自習になるんじゃないっすか?」
「そうだな。せっかく時間があるのなら、士魂号の整備に使いたいのだが……」
 滝川や舞の言葉に、他の者も賛同の呟きを漏らした。
 自習になること自体は決して珍しいことではない。戦況の悪化、あるいは部隊の損耗が激しい際には授業返上で全員が整備に取り組むのがむしろ当然であった。
 もっとも、ここのところ戦況は膠着状態といった感じで、一進一退の攻防が続けられている。五一二一小隊の整備状況は格別悪いわけではないが、よほど無茶をしない限りは整備と訓練はしすぎて悪いということはない。
 ――それに、あの話もあるしな。
 舞は口には出さずに呟いた。
 それはともかく、善行も予めその答えは予測していたのか、口々に述べられた意見に頷くと、よどみなく話し始めた。
「むろん、そういった対処法もあるのは承知していますが、今回は特別カリキュラムを設けてあるそうですので、それを行います」
 ――はあ、そうですか。
 全員の心情を素直に述べるなら、このようになろう。
 消極的賛成ではあったが、特に反論がないのを確認した上で、善行は言葉を続けた。
「とりあえず授業は午前中を座学、午後を戦闘訓練にあてる予定です。整備の方は……まあ、それは後で説明することにしましょう」
 わずかに言いよどんだ後、眼鏡の位置を直しながら善行が答えた。皆は一応納得したのか頷く顔も見える。
「さて、それでは始めましょうか」
 かくして、小隊としても前代未聞の委員長と副委員長による「授業」はこのようにして開始されたのであった。

   ***

 授業が始まって、みんなはより一層困惑の度合いを深めることになった。講師も異例なら内容は異例どころの騒ぎではなかったのだ。
 今、黒板には九州全土の地図が張られている。
 簡略な地形と都市の位置、交通機関が書き込まれたそれには、四角い枠の中にさまざまな記号が描かれたマークがあちこちに貼り付けられていた。
「まずはこれを見てください。これは先日時点での我が軍の戦力配置です。諸君らも知っての通り、先年の八代平原攻防戦を始めとした一連の戦闘により、我が軍は大打撃をこうむっており、いまだその損害から回復したとは言いがたい状況が続いています……」
 話が一体どこに流れていくのかつかめず、誰もがとりあえず地図を見つめていた。
「現在、数量的には我々、つまり学兵が最大勢力と言っていいでしょうが、戦力評価という意味ではさほど優秀とは言いがたい状況にあります。実際にはいまだ自衛軍が、戦力としてかなりの割合を占めていると言っていいでしょう」
 善行のもつ指し棒がぽん、ぽんと地図の上を踊っていく。そこには「4D」「6D」「8D」の文字があった。
「現在九州の陸自は第四師団と第六師団、それに第八師団の三個師団が配備されています。どの師団も損耗激しく現在の戦力は定数の半分以下というところだそうですが。とりあえず諸君はわれわれの親師団でもある第六師団の編成ぐらいは覚えておいてください……滝川君、どうしました?」
「あのー、親師団ってなんですか?」
 善行は一瞬言葉に詰まったあと、中指で眼鏡を押し上げた。
「まさかとは思ったんですが……。もしかして、そこから説明しなければいけませんでしたか? 最近のカリキュラムは、そこまで簡略化されてるんですか……」
 一瞬訪れた沈黙を、冷静な声が打ち破った。
「委員長、我らは速成もいいところの教育しか受けていない。それに各地からの転属組も多いのだ。このあたりの兵力配置に必ずしも習熟しているものでもないと思うが、どうか?」
 舞の放った声に、善行は思い出したような表情を浮かべる。
「ああ、言われてみればその通りですね。……では、こちらをちょっと見てください」
 新たに張り出されたのは陸上自衛軍第六師団の編成図であった。正規軍の編成のさらに下にも組織図があり、そこには五一二一小隊の名前も見ることができた。
「我が五一二一小隊は生徒会連合第二師団の所属ですが、これはあくまで生徒会連合としての名称であり、組織上は現在福岡にいる陸上自衛軍第六師団を母体として編成された、第一〇六乙師団となります。ここで言う乙師団とは自衛軍では本来編成規模の小さい師団を指しますが、三桁ナンバーの場合には正規師団の後釜として後方支援・治安維持を行うことを目的として編成されたことを示します。……まあ、実際どのように扱われているかは、これはもう諸君もよく知っている通りですがね」
 よどみなく流れる説明の最後で善行が肩をすくめて見せると、周囲から控えめな笑いがこぼれる。
 それを見て、舞は小さく苦笑した。
 ――善行め、最初からそのつもりだったか。
 善行は舞の表情に気がつくと小さな笑みを浮かべ、編成について事細かに紹介し始めた。
「速水君、自衛軍の――我々のでもいいですが――編成で、組織の大きいものから順に言ってみてください」
「え? ええっと……。師団、連隊、大隊、中隊、小隊、でいいですか?」
「その通りです。実際には師団と連隊の中間規模の存在としての旅団、大隊を増強して単独戦闘を可能とした戦闘団などがありますが、これらはむしろ独立部隊として認識していたほうがいいでしょう。九州にもいくつか独立部隊が存在しており、たとえば……」
 話は戦闘部隊から、徐々にその周辺へと話を広げていく。
「部隊を維持するために必要なものに兵站活動があります。これは軍事行動の根幹をなすものと言ってよく……」
「九州に展開している生徒会連合軍は陸軍が主ですが、海空にその役割を持っていないわけではありません。例えば空中指揮管制機などは……」
 次々と実施される、極めて実際的な授業――いや、これも一種の訓練に他ならなかった――に何人かは疑問を持つものの、それが具体的に口に上ることはなかった。
 誰もがまるで奔流のように押し寄せる軍事知識(考えようによっては基礎の基礎、程度のものであったが)を何とか咀嚼しようとするだけで精一杯であり、余計な事を考える暇がなかったせいでもある。
 殊に、ののみあたりなどはとうの昔についていってなかったが、それについては善行は何も言わない。
 代わりに彼女の手には何やらカードの束が手渡されており、そこには兵器のシルエットらしきものとその名前が記されていた。ののみはそれを一枚一枚じっと眺め、ときおり小声で呟いていた。
 そんな様子を視界の隅に収めながら、舞はじっと善行を見つめていた。
 ――これは一体、何を意味している?
 彼女は一瞬何かを言いかけたが、思い直したように口を閉じ、そのあとは授業に集中することにした。
 この授業に何か目的がある以上、それは必ず明らかにされるであろう、そう思ったからだ。


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