前のページ | *
[目次へ戻る]

暑気あたり(その2)


 通常、戦略なき戦術は途中で崩壊するものと相場が決まっているのだが、今回は怒りが動力源になっていたせいか、奇跡的にも最後まで作戦を完遂することに成功した。
 舞は肩で大きく息をしながらも、額を流れる汗を拭おうともせずにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「はあ、はあ、はあっ……。ど、どうだっ。わ、私とてやればこのくらいはできるのだ!」
 汗のせいもあって全身埃だらけの顔はすすだらけ、おまけにどういうわけだかあちらこちらに傷をわんさかこしらえた姿ながら、舞は何事かをやり遂げた漢――もとい、女の顔で室内を見回すのであった。
 確かに室内は目覚しいほどの変化を見せていた。
 なにしろ床の大半が見える。
 ……それが達成の証というあたり、何かが間違っているような気がしなくもないのだが、進展には違いない。
「こ、これだけ片付ければきっと変化があろう……」
 舞は何かを期待する表情でどっかりと部屋の中央に座り込むと、じっと窓を――正確には風鈴を――見た。
 ――さあ、涼風よ、我がもとに遠慮なく流れ込め!
 放っておいたら大きく手でも広げて風を迎え入れんばかりの表情で、舞は待つ。
 二分、三分、五分――。
 時計の針が無情に回っていく。
 ついに十分が経過した時、舞の表情に再び翳りが生まれた。
 風鈴は、ぴくとも動かなかったのだ。
「……」
 またもや全身を汗がだらだらと伝い落ちるのを感じながらそれでも舞は待ったが、ついにその希望が報われることはなかった。
「くっ……へ、部屋の中は関係なかったのか」
 いや、本当は多少の意味はあったのだ。
 部屋の容積が増大したために気温の変化はわずかながら鈍りを見せていた。
 惜しむらくは、それが舞が体感できるほど急激なものではなかった、ということであるのだが。
 がくりと膝をついた彼女はしばらくそのまま動かなかったが、やがてのろのろと立ち上がる。
「……シャワーでも浴びるか」
 その声には紛れもない敗北感が含まれていた。

   ***

 シャワーから勢い良く噴出す水は生ぬるく、決して満足のいくものでもなかったが、今の状況では何よりも貴重な涼を提供してくれていた。舞はシャワー口から吹き出るそれを頭からかぶる。
 皮膚の表面が一挙に冷やされる感覚に、舞は己の体がいかに熱をもっていたかをようやく理解していた。舞は口をあけると水流の一部を口で受け止める。
 水が喉からそのまま体内にしみこんでいくような感覚があって、自らがそれほどまでに水分を欲していたのかと、少々の驚きと共に水を飲み込んでいった。
「ふう……」
 スポンジ顔負けの勢いで水を吸収した舞は満足げな吐息をもらし、シャワーを止める。体温が下がったせいかあるいは水分のせいか、だいぶ意識がはっきりしてきたようだ。
「これでは、ののみのことを笑えんな」
 苦笑を浮かべつつ舞は外に出て――再び熱地獄に両足を突っ込んでいた。
「ぐむ……」
 舞は苦しげなうめきを漏らした。
 同時に全身からぶわっと音を立てて汗が吹き出ていく。
 せっかく冷えた肌は、あっという間に生ぬるくなり、汗が再び肌の侵食を開始する。いっとき涼を得ることが出来ただけに、再び感じる暑さは倍増といったところであった。
 ――う、うう……。な、何とかならんのかこの暑さはっ!
 舞は再び熱で焼け焦げそうな脳みそを全力回転させて――やがて、ひとつの回答を得た。
 少なくとも、この時はそう信じたのである。
「そうか!」
 曙光を掴んだ者特有の表情を浮かべながら、舞は再び風呂場へと飛び込んでいった。
 ……それにしても、その間ずっと一糸まとわぬ姿で沈思黙考していたという事実には、ついぞ気がつかなかったようである。

 数十分後、風呂場の様相は一変していた。
 浴槽にはなみなみと湯が張られ、周囲の熱気に負けず、ほかほかと湯気を上げていた。
「ふ、ふ、ふふふ……」
 浴槽の前に立ちながら、舞は会心の笑みを浮かべていたが、見る者が見たら、ひょっとしたらその中に隠された刃を見つけ出していたかも知れぬ。
 舞は考えたのだ。
 いくら身体を冷やしても、やがては熱気に負けてしまう。ならば、最初から身体を熱くしておけば後は徐々に温度が下がっていくことで涼を得られるのではないか、と。
 ……やはり、なんというかどこかのネジが外れかけているのかもしれない。
「古来から言うではないか、暑い時には熱い物をと! なぜもっと早く気がつかなかったのであろうな?」
 いっそさわやかといっていい笑みを浮かべたまま、舞は浴槽にそっと足を差し入れた。
 熱い。
 別に煮えたぎっているわけではないが、この暑さの中、さらに熱気の中に身を投じようというのであるから当然の反応であった。
「む、むむ、むむむ……」
 顔を真っ赤にしながら、それでも舞はそろそろと身を沈め、ついには肩までつかることに成功した。
 全身のあちこちを熱気がつつき、体中に熱が染みとおっていくのが実感できる。だが、それも後の涼を得るためだと思えば我慢もできた。
「し、しかし、どのくらい入っていればよいのだ……?」
 はたと気がつきはしたものの、そんなものは分かるわけがない。とりあえず我慢できるだけは入っていることにした。
 ――暑い時には熱い物、暑い時には熱い物……。
 まるで呪文のように繰り返し言葉を唱えつつ、舞はただひたすらこの灼熱地獄を耐えた。
 だが、彼女は気がついているだろうか?
 この言葉が有効なのは、熱い物のせいでかいた汗が蒸発できるだけの環境があってこそ初めて有効であるということに。

   ***

 どんな物事でも終わりはある。
 すっかりゆでたこ状態になった舞にも、それは間もなく訪れようとしていた。彼女はすっかり荒い息をつきながら、ぼんやりとした思考をめぐらせていた。
「も、もういいだろう……。さすがに限界だ」
 舞は渾身の力をこめて身体を浴槽から引き上げ、一歩一歩ふらつく足を何とか踏みしめる。まだいささかおぼつかない足取りながら、そのまま戸をがらりと引き開けた。
 一瞬吹き込んだ風が、ふい、と身体を撫でていく。それは確かにいくばくかの涼気を含んでいた。
 ――効いた!
 さすがにまだ理性は残っていたのか、舞は急ぎ服を着ると窓辺に駆け寄り、引き開けた。
「さあ、今度こそ涼風を!」
 風は、なかった。
「……」
 舞は瞬間その格好のまま固まっていたが、やがてがっくりと膝を折ると、のろのろと窓を閉めた。
「外気の入ってこない窓など、開けている意味はない……」
 最後の気力が抜けていく音を、舞は確かに聞いた。

 だが、きわめて好意的に解釈するならば、風呂にも一定の効能があったといってもよかったかも知れぬ。
 舞は部屋の中央に寝転がりながら、扇風機が吹き付ける風に身を任せていた。風自体はまったくの熱風に他ならないのだが、すっかりゆであがった舞の身体にはそれでも高原のそよ風に等しかった。
「う〜……」
 力なくうめく彼女の額には、飲み物を求めて冷蔵庫中を引っ掻き回した時、奇跡的に発見した保冷材が当てられていた。
 手のひらにも満たないような小さなものではあったが、今の舞には砂漠のオアシスよりも貴重であった。
 かろうじて水は飲めたものの、それはたちまち汗となって全身を流れ落ちていく。だが、今の彼女にはもうそれはどうでもよくなっていた。
 風呂での難行は、それだけ彼女から体力を奪い去っていたのだ。
「い、いい湯だったのだ、あれは。絶対に、いい湯だった。間違いはない……」
 すでにうわごとの領域に突入しつつある呟きを漏らしながら、舞は熱気の中にいるにもかかわらず、安らかな寝息を立て始めた。
 そのため、窓外で発生していたささやかな変化に彼女が気がつくことはなかった。

   ***

 話はいささかさかのぼるが、ちょうど舞が風呂の中での難行を決意した頃、速水はなにやら台所に立ち、鍋の中をのぞきこんでいた。
 中ではスープらしきものがことことと小気味よい音をたてている。知らぬ者が見ても、それは実にうまそうに見えた。
 速水は軽く味見をし、満足そうに頷いた。
「ん、上出来かな。あとはこれを冷やして、っと」
 速水は鍋を火から下ろすと、いくばくかの時間を置いてから冷蔵庫へとしまいこむ。鍋の横にはラップに包まれたサンドイッチが置かれていた。
「さて、これで準備よし、っと。……あ、そうだ。舞にちょっと連絡でも入れておこうかな」
 速水は多目的結晶からメールを差し出したが、返事はなかった。
「あれ? 舞、寝てるのかな? ……無理もないよね、ここのところ忙しかったし」
 せっかく夢の国に出かけている彼女を起こすのも忍びなく、速水はくすりと笑いながら通信を打ち切った。
「いきなり行って驚かせたりしないかな……、ま、いいや」
 実際には、ちょうどその頃舞は難行の真っ最中でメールになど気がつく余裕がなかったのだが。

 しばしの時間ののち、速水は冷蔵庫で程よく冷えた鍋やサンドイッチを取り出すと、それぞれ容器に詰めなおして保冷箱に詰め込んだ。もう少し冷やした方がいいのだが、続きは舞の家でやろうと決めたらしい。
 全ての荷物を持ちドアを開けた彼は、ふと空を見上げた。
「へえ、こりゃちょうどいいや」
 呟きと共にクーラーを切ると、彼は軽快に足を踏み出した。

 ちなみに、猫たちが文句を言うことはなかったそうな。

   ***

 足取りも軽く舞の家までやってきた速水は、そこで軽い違和感を感じた。舞の部屋の窓は締め切られ、おまけにカーテンまで引かれているではないか。
「あれ……? まさか舞、どっかに出かけちゃったのかな?」
 速水は心の中で喜びの翼がいささかたたまれるのを感じたが、それならそれで帰りを待てばよいと思い直し、いつもながらスリルを味わわせてくれる階段をゆっくりと上っていく。
 ドアの前に立った速水はポケットから合鍵を出し――それでも念のため、ドアを開ける前にノックしてみる。
「舞〜、差し入れ持ってきたんだけど、いるかな……?」
しばし待つも、返事はない。
――やっぱり、出かけちゃったのかな?
速水は小さなため息をつくと、再び合鍵を取り出した。

「……ん?」
 部屋の中央で大の字になっていた舞は、何か物音がしたような気がしてうっすらと目を開けたが、全身汗みずくになったまま、またすぐに眠りの世界へと戻ってしまう。
 それほどまでに先ほどの疲れは大きかったのだが、もしかしたらここで起きていればこの直後の出来事は回避できていたのかもしれなかった。

 ドアノブを回しドアを開いたとたん、中からむっとした熱気が流れ出して速水を驚かせた。
「うわっ、何これ!? ……ずいぶん空けてたんだなあ。ともかく冷蔵庫だけ借りちゃって、と」
 そのまま勝手知ったるなんとやらでやたらと空いてる冷蔵庫に持ってきた荷物を入れたところで、速水は再び違和感を感じた。
「ん……?」
 あたりに荷物が――更にありていに言うならゴミが――すっかり見当たらなくなっていたのだ。
「なんだか、ずいぶんきれいになっちゃってるけど、舞ったら一体何を――」
 何気に奥の部屋を振り向き、同時に速水の動きが止まる。ものすごい熱気の中だというのに、まるで氷柱を背中に押し当てられたような悪寒が全身を走った。
 やけにさっぱりとした部屋の中央で、舞がなにやら保冷剤らしきものを頭に当てて倒れている――少なくとも彼にはそう見えたのだ。
「ま、舞……」
 おそるおそる速水は舞に近づいていく。喉元まで不安がこみ上げてきて息が詰まりそうだ。
「舞っ!!」
 気がついたときには速水は舞に駆け寄り、いささか乱暴に抱き起こしていた。
 だが、すでにご承知の通り彼女は湯あたり(何をどう言いつくろうとも、現実はそれである)から寝こけていただけであり、そこをいきなりたたき起こされてしまってはたまったものではなかった。
「なっ、何事だ!? ……厚志!?」
 普段なら最初につかまれた時に瞬時に飛び出していたろうが、やはり疲労があったものらしい。気がついたときには目の前一杯に速水の泣きそうな顔があった。
「舞っ、どうしたの、どこか具合悪いの!? こんな格好……その、格好……」
 そこで初めて速水は舞の姿に気がつき――見る見る顔が赤くなっていった。
「え……?」
 彼の視線の指し示すままに舞も己の姿を見下ろし――こちらは一挙に青ざめる。
 何しろ先ほどのシャツに短パンはともかく、全身汗みずくのその姿はシャツをじっとりと濡らし、しかもご丁寧に「発汗物質」は着けていないのだから……。
「あー、その……」
「な……」
 舞の全身が細かく震えだす。速水がまずい、と思ったときにはもう遅かった。
「何を見ているかァッ!?」
「はぶわぁっ!?」
 室内に鈍い音が響き、哀れ事情を知らない速水は部屋の隅まで吹っ飛んだ。
「な、何するのさっ!?」
「やかましいっ!! だだ大体そなたこそ何を勝手に上がりこんで来ている? ノックするなり声をかけるなりぐらいはせんか!」
「ノックもしたし、声もかけたよ! それにメールだって送ったのに……届いてないの?」
「何だと? あ……」
 言われてみて初めて、舞は多目的結晶が着信サインを発信していることに気がついた。内容は……言うまでもない。
 舞は己の失策に耳先まで顔を朱に染めながら、それでもなお抵抗を試みようとしたが、それは速水に機先を制されることとなった。
「だいたい、何でこんな暑い部屋で締め切ったりしているの!? おまけにクーラーもつけないで、体悪くしちゃうよ!」
「うっ……。し、仕方なかろう! クーラーは故障してるし、窓を開けておいても風は入らぬし、直射日光しか入ってこないぐらいなら締め切っても同じことではないか……ん、どうしたのだ?」
 速水がきょとんとした表情を浮かべるのを見て、舞は思わず訊ね返していた。
「え、だって……。外、涼しいよ?」
「へ?」
 舞らしからぬ間抜けな返事に苦笑しつつ、速水は窓を実際にあけて見せた。
 見れば表はいつの間にかどんよりと曇り、水分を含んだ涼しい風がたちまちにさあっと吹き込んできた。
「……」
「こんなに涼しいのに締め切ってれば、そりゃ一体何があったかと思うでしょ? ……って、舞?」
「そうか、外は涼しいのか……」
 舞は目を細めながらやたらと静かな声で言った。
 静か過ぎた。
「……ふっ」
 吐き出す息と共にこぼれ出た言葉を最後に、舞はその場にひっくりこけた。
「わあっ、舞!? しっかりしてーっ!!」
 速水の絶叫を遠くに聞きながら、舞の意識はあっさりと暗黒の中に飲み込まれた。

   ***

「はい、よく冷えてるよ」
「うむ、すまぬ」
 すっかり涼しくなった夜。前回にした窓からは夜気を含んだ涼風が遠慮なしに流れこんできた。舞は速水が用意したサンドイッチとヴィシソワーズ(冷たいポタージュ)を受け取りながら彼の顔を見る。
 さすがにほとんど目立たなくなったが、まだ少し速水の右頬が赤くなっているのをみて、舞はわずかに俯いた。
「……どうしたの?」
「その、なんだ……。すまぬ」
 速水はしばし考えて舞の言葉の理由に思い当たり、右頬を軽く撫でながらにやりと笑って見せた。
「まあ、いきなり驚かしたのは確かだし、気にしないで。さ、せっかくだから冷たいうちに食べちゃってよ」
「う、うむ」
 舞はその一言に安心したのか、ヴィシソワーズを口に含む。つい先ほどまで冷やされていたスープは、こくのある味わいと涼味とともに流れ込んでいった。
 考えてみれば舞は今日の騒ぎで何も食べていなかったので、そのうまさはひとしお胃にしみた。
 ものも言わず黙々と食べつづける舞を見て、速水は、
 ――まるで小動物みたいだね。
 という感想を思い浮かべたが、懸命にも口にすることは思いとどまった。
 今日受ける傷は、ひとつでたくさんである。

 一通り食事が済んだところで、速水は手にしていたリモコンを舞に差し出した。
「それとこれ、もう使えるよ」
「む、すまぬ。修理してくれたのか?」
「修理……っていうかさ、リモコンの電池が切れていただけなんだけど……」
「え……」
 舞の背中を嫌な汗が流れた。もともと彼女は電子情報を操作することに関しては他を懸絶する能力を持ちながら、同時に時計の電池を換えるのにも難儀するというややこしい技能の持ち主であり、どうやら今回もその能力が遺憾なく発揮されたらしい。
 彼女は、リモコンに電池が使われているなどまったく思いつかなかったようだ。
「す、すると……」
「電池さえ換えれば、すぐ使えたのに……ほら」
 速水がリモコンを操作すると、クーラーは従順に執事にも似た態度ですぐさま冷風を噴き出し始めた。
 ――す、すると、すると私が昼間やっていた努力は……?
 あれを努力と呼ぶかどうかは諸説あろうが、少なくともそれがまったくあさっての方向を向いたものであったことを、舞は唐突に理解した。
「ふっ……」
「わぁっ! ま、舞ったらまたっ!? しっかりしてーっ!?」
 速水の絶叫を遠くに聞きながら、舞の意識は再び暗黒の中へと落込んでいった。

 そんな二人の騒ぎを知らぬげに、クーラーは己の義務を果たしつづけていた。

   ***

 その翌日。
 今日も外は朝からかなりの温度になっていたが、クーラーはかなりの効果を発揮してくれた。
 それが証拠に今日の彼女の服装は、いつものシャツにGパンという格好である。
 ……微妙に昨日のほうが色気があった、などといったら言い過ぎであろうか?

「まいちゃーん、あそびにきたのよー」
「おお、ののみか。上がるがよい」
「おじゃましまーす」
「よく来たな。外は暑かったであろう?」
 なんか微妙に機嫌のよい声である。
「うん、ののみいっぱいあせかいちゃったのよ」
「そうか、ならばここで涼むがよい」
 舞は自らが占拠していた場所を明渡すと、ののみをクーラーの前に座らせた。
「わあ、すずしーい! まいちゃんありがとう!」
 手放しで喜ぶののみに、舞は小さく微笑んだ。
「待っていろ、今ジュースでも……ん?」
 冷蔵庫を開けた舞の眉が少し寄せられた。先日の騒ぎで冷えたジュースなどとっくに飲みきっていたらしい。
「すまぬ、ジュースが切れているようだ。ちとそこまで買い物に出てくるので留守番を頼めるか?」
「うんっ、いってらっしゃーい」
 ジュースがやって来るとわかったせいか、それとも今日は猛暑の中で待機しなくてもいいと分かったせいか、ののみは元気な声で手をぶんぶか振り回している。
「では、すぐ戻る」
 そういって舞は出て行った。

 少しして、玄関のドアがかちゃりとあけられた。
「あ、まいちゃんおかえりなさーい……ふええ?」
 ののみの目が、驚きに見開かれた。

「うう、あ、暑い……。なんだこの暑さは、昨日よりひどいのではないか?」
 手にペットボトルの入ったビニール袋を提げたまま、舞は容赦なく照りつける陽光の中をよたこらと歩いていた。やけにくっきりと浮かび上がった影さえもなんだか疲れているように見える。
 足元のアスファルトは、踏みしめるたびにまるで足にまとわりつくような感触を見せ、余計な労力を強いていた。
 シャツの背中はとっくに汗染みに占拠され、下手をすれば下着まで同じ運命をたどるのではなかろうかと思われた。
 事実、今日の気温は昨日を二度ほど上回っているそうだから舞の予想はまったく正しかったことになる。
 ……何の気休めにもならないが。
 こうなってみると、速水のクーラーがいかに強力であったかということをまざまざと思い知らせられた舞であった。
「と、ともかく家に着けば……涼める……」
 その一念だけで、沈み込みそうな足を一歩、また一歩と引き剥がし、家路を急ぐのであった。

「い、今戻ったぞ……」
「あ、まいちゃんおかえりなさーい。あのね……」
「すまぬがののみ、話は少し待ってくれ」
 そういうが早いか、舞はビニール袋をののみに手渡すとクーラーの前に駆け込んで、おもむろに服を脱ぎ始めた。
 ――いささかはしたないが……。いるのはののみだけだ、構うまい。
「ふえぇ? ま、まいちゃん?」
「だから、話はあとで頼む。それにしてもこの暑さは異常だな。こんな陽気の中に長時間出ていたらおかしくなってしまいそうだ……」
 いや、少しすでに熱でやられているのかもしれない。なぜなら舞には部屋の中のある光景にまったく気がついていなかったからだ。
 シャツを脱ぎ捨て、ベルトを外し、ズボンも全て下ろしかけたところで舞はようやく違和感に気がついた。
「……?」
 ふと振り向いたところで、青い瞳と視線がかち合う。瞳の持ち主は困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「や、やあ舞。こんにちは……あはは」

 ぴきっ。

 やたらはっきりした音と共に舞が硬直すると、ののみが仕方なさそうに、
「もー、だからいおうとおもったのに。あっちゃんがきてるよって……」
「い、い、いいいつからいたっ!?」
「いつからも何も、舞が駆け込んできた最初からだけど」
「!! な、な、ななな……」
「……まあでも、なんだかいいものがみられちゃったなあ……あははっ」

 ぷっちん。
 
 舞の中で、何かが確かにはじけとんだ。

「わっ、ま、舞! お願いだからグーで殴るのはなしにして!」
「やかましいっ! な、何を抜けぬけと!」
「勝手に服脱いだのは自分じゃないかぁーっ!」
「だ、黙れーっ!!」
「ふえぇ、けんかはめーなのよー!」
 この騒乱は、当分の間収まることがなかったそうな。

 夏は、男女を狂わせる。


 ……たぶん、別の意味で。
(おわり)


名前:

コメント:

編集・削除用パス:

管理人だけに表示する


表示された数字:



前のページ | *
[目次へ戻る]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -